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摩訶不思議食堂のほっこり飯  作者: 修羅観音


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第5話:市川幸裕の本気のほっこり飯

どこからか、微かに水の流れる音が聞こえていた。

ザザ……ザザ……と、砂利をなめるような湿った音。

40代後半の市川幸裕は、はっと意識を浮上させた。


「……ん? あれ、俺、何でこんなとこにおるんやろ」


幸裕は、無意識に作業着の襟元を正した。彼は京都の建設工事会社で現場リーダーを務める、叩き上げの男だ。

ついさっきまで現場で部下たちに指示を飛ばしていたような、あるいは自宅で中学2年生になる息子と他愛もない話をしていたような……そんな記憶が、霧のようにぼやけている。


辺りを見渡すと、そこは薄暗い河原だった。

街灯の光も届かない、不気味なほど静かな空間。


「ここは……四条河原か? いや、それにしては静かすぎるな。えっと……」


とりあえず、現在地を確認しようと幸裕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。

いつもならそこには愛用のスマートフォンがあるはずだった。

しかし、指先に触れたのは、冷たくて硬い、ざらついた感触。


「……何やねん、これ。小銭?」


取り出してみると、それは現代の硬貨ではなかった。

真ん中に四角い穴の開いた、古銭のような形の小銭。それがちょうど 6枚。


「いつの間にこんなもん……。あかん、スマートフォンがあらへんわ。家に忘れてきてしもたかなあ」


幸裕は困惑して頭をかいた。

家族との平穏な日常、現場での責任ある立場。

順風満帆だったはずの自分の人生から、ぽっかりと足場が抜けてしまったような不安が、冷たい夜風と共に足元から這い上がってくる。


その時だった。

幸裕の視線の先に、一つの影が立っていた。


黒いベレー帽に、黒いズボンタイプのセーラー服。

その少女は、まん丸な目を見開き、こちらをじーっと凝視している。

口は台形の形に開いたままで、可愛らしいが、どこかこの世のものとは思えない不思議な雰囲気を纏っていた。


「……なあ、御嬢ちゃん。ここってどこや? 迷てしもてな」


幸裕が努めて明るい声で問いかけると、少女は瞬きもせずに一言だけ放った。


「えらいこっちゃ」


「え? ……何がや?」


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。えらいこっちゃ」


幸裕は思わず首をかしげた。

えらいこっちゃ嬢、妙な名前だ。


「そっか。で、えらいこっちゃん、ここがどこかわかるか? タクシー拾える場所とか、近くにらへんかなあ。財布もスマートフォンもあらへんくて、参ってるんやわ」


幸裕が苦笑いしながら言うと、えらいこっちゃ嬢の瞳が、さらに丸くなったように見えた。


「おっちゃんは迷子。えらいこっちゃ」


「そやねん、おっちゃん迷子になってしもてん。自分でも情けないわあ」

幸裕が自嘲気味に笑った、その瞬間。


「えらいこっちゃーーーーーーー!!!」


えらいこっちゃ嬢が、小柄な体からは想像もつかないほどの凄まじい声を張り上げた。

その声は夜の闇を裂き、遥か遠くまで響き渡る。


「うわっ!! 何や、この子、めっちゃごっつい声出よる!」


幸裕は耳の奥に「キーン」という鋭い耳鳴りを感じ、たまらず両手で耳をふさいだ。

鼓膜が震え、周囲の景色がぐにゃりと歪むような錯覚に陥る。


やがて、叫び声が止んだ。


しん、と静まり返った河原の向こう側。

すると、何もないはずの暗闇の奥から、ぼんやりとした、けれど確かな光が見え始めた。


---


闇の向こうから近づいてきた光の正体に、幸裕は思わず息を呑んだ。


それは、轟々と燃え盛る炎に包まれた巨大な車輪を片方だけ持った、異様な姿の牛車だった。

車輪が砂利を噛む音に混じって、パチパチと火の粉が夜の闇に散る。


その牛車が、えらいこっちゃ嬢の目の前で静かに停泊した。

運転席に座っているのは、長い髪を後ろで一つに束ね、小粋にベレー帽をかぶった着物姿の美女だ。


「うお!? な、何やこれ!? 燃えてるやんけ! 特撮か何かの撮影か?」

幸裕が腰を抜かしそうになりながら叫ぶと、えらいこっちゃ嬢は慣れた様子で言い放った。


片輪車かたわぐるまねえちゃん、えらいこっちゃな迷子のおっちゃん御一名! 行先は摩訶不思議食堂!」

えらいこっちゃ嬢は、呆然とする幸裕のゴツゴツとした手を力強く掴むと、そのまま炎の揺らめく車内へと引きずり込んだ。


片輪車と呼ばれた美女は、バックミラー越しに幸裕をチラリと見て、不敵に微笑んだ。

「あいよー」


すると、車の前方から、まるで生き物のように「にゅーっ」と白い手が一本伸びてきた。

「うわっ、手が出てきた! な、なんや、これ……。あ、えっと、運賃か? 前払いなんか?」


幸裕は慌てて作業着のポケットを探った。先程見つけた6枚の硬貨とは反対側のポケットに手を入れると、そこにはジャラリと同じ形の硬貨が10枚ほど入っていた。

それを差し出すと、伸びてきた手は器用に硬貨を受け取り、闇へと消えた。


「毎度ー。ほな、出発やね」

美女がそう言ったかと思うと、片方の車輪が猛烈に回転し始め、牛車は重力を無視したような滑らかさで走り出した。


「車でらくちん、えらいこっちゃ。えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢は、揺れる車内で楽しげに短い脚をぶらぶらさせている。

幸裕は必死に手すりにしがみつき、窓の外で流れる火の粉を見つめていた。


「な、なんやねんこの車!?片輪しかあらへんのに、なんでこんなにちゃんと動くんや。物理法則どないなっとんねん!?」


驚きを隠せない幸裕に対し、運転席の片輪車は事も無げにハンドル――あるいはそれに類する何か――を切りながら言った。


「兄さん、心配せんでもこの子は優秀や。ドリフトも出来まっせ。……どない? 一発派手にドリフトかましましょか?」


「あ、遠慮しときます! そのまま安全運転で頼みますわ!」

幸裕は顔を引きつらせ、全力で断った。


工事現場で数々の修羅場をくぐってきた幸裕だったが、炎に包まれた片輪の車に揺られ、美女と不思議な少女に連れられていくこの状況だけは、どうしても「順風満帆な人生」の延長線上には思えなかった。


---


炎の車輪を回転させ、夜を切り裂くように走ることおよそ15分。

片輪車は「摩訶不思議食堂」と記された、木造の美しくもどこか幻想的な佇まいの店の前でぴたりと止まった。


えらいこっちゃ嬢は幸裕の手を引いて車から降りると、運転席の美女へ向かって元気に手を振った。

「片輪車ねえちゃん、ありがとちゃん。えらいこっちゃな速さ!」


「毎度ありー。ほな、またね」

片輪車は不敵な笑みを残し、炎の軌跡を闇に引きながら、あっという間に走り去っていった。


幸裕は呆然と立ち尽くしていたが、えらいこっちゃ嬢に促されるまま、誘われるように店の扉を潜った。

「ガラガラ……」と引き戸を開けて中に入ると、木の温もりに包まれた清潔な空間が広がっている。


カウンター席の奥から、ひょっこりとお地蔵さんが顔を出した。

「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。そして御新規様、いらっしゃいまし。」

お地蔵さんは、拝みたくなるような慈愛に満ちた笑顔で挨拶をした。


「ただいま! えらいこっちゃな迷子のおっちゃん御一名!」

えらいこっちゃ嬢はそう言い残すと、パタパタと店の奥へ引っ込んでいった。


「なんやここ、小綺麗な和食の店かいな。……まあ、確かに腹減ってるような気もするし、丁度ええけど」

幸裕は狐につままれたような心持ちで、勧められるままにカウンター席へ腰を下ろした。


「ようこそお越しくださいました。私は当店の店長をしております。皆さんからは、地蔵店長と呼んで頂いております」


「あ、ども、俺……私は市川幸裕と言います」


丁寧な挨拶を受け、幸裕は反射的に名刺を出そうとポケットに手を入れた。だが、そこにあるのは例の古銭だけだ。

「あ、そうやった……。名刺入れもあらへんかったんや。失礼しました」


苦笑いする幸裕に対し、地蔵店長はどこまでも穏やかなお地蔵さん笑顔で言葉を返した。

「ここでは、肩書きやポストと言ったものは一旦脇へ置いて。幸裕さんの食べたいものを、教えて頂けませんか?」


「食べたいもの、ねえ……。そうですね、じゃあ、がっつり唐揚げって出来ます? 俺、工事現場で働いてるから肉類が大好きで。肉体労働やから、よう食べるんですわ。ガツンと元気が出るやつ、お願いします」


「畏まりました」


地蔵店長が頷くと、いつの間にか黒い作務衣に割烹着を重ねた姿に着替えたえらいこっちゃ嬢が戻ってきて、スッと一冊のメニューを差し出した。

幸裕がそれを受け取って目を落とすと、そこには妙な名前の料理が記されていた。


「なんやこれ? 『本気の唐揚げと本気じゃない唐揚げのセット』って? 唐揚げに本気も本気やないも、あるんかいな」


「本気か本気やないか、食べてみたらわかる。えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢が横から口を挟む。


「……なんか面白そうやから、この唐揚げセット、貰えます?」


「畏まりました」

地蔵店長は深く頷くと、厨房の方を向いた。

「ラビさん、お願いしますね」


すると、厨房から「はい、ただいま」という軽やかな返事が返ってきた。

赤い着物に白い割烹着を纏い、糸のように細い目で絶えず笑顔を浮かべているのは、なんと一羽の大きな兎だった。

兎のラビさんは、慣れた手つきで鶏肉に粉をまぶし、ジュワッという快音と共に油の中に投入し始める。


「うお!? 今度は本物の兎が唐揚げ揚げてる!? 兎が料理しとるで!」

幸裕は椅子から浮き上がるほど驚いて声を上げた。


えらいこっちゃ嬢は、そんな幸裕の驚きをどこ吹く風で、鼻を高くして言った。

「ラビさんの唐揚げは、えらいこっちゃな逸品! びっくりしてもしらんよ、えらいこっちゃ!」


香ばしい揚げ物の匂いが、店内に立ち込め始めた。


---


二皿の唐揚げが、カウンターの上に並べられた。

どちらも食欲をそそる黄金色に輝いており、ふわりと香ばしいニンニクと醤油の香りが鼻腔をくすぐる。


ラビさんが肉球の可愛らしい掌を白い皿に添えて、鈴の鳴るような声で言った。

「こちらが本気の唐揚げで御座いますねえ」


間髪入れず、えらいこっちゃ嬢が黒い皿をコトリと置く。

「こっちはえらいこっちゃな本気やない唐揚げ。えらいこっちゃ」


「どっちも美味そうやな。ほな、頂きますで」

幸裕はまず、白い皿の「本気の唐揚げ」を割り箸で掴み、豪快に口へ放り込んだ。


サクッ……。


「……ッ! 美味い!」

外側の衣は驚くほどサクサクで、歯を立てれば中から熱々の肉汁がジュワリと溢れ出す。塩加減も絶妙で、鶏肉本来の旨味が暴力的なまでに引き出されていた。幸裕はあまりの旨さに、無言のまま二つ目も一気に平らげた。


「美味い! 俺のかみさんの唐揚げも相当やけど、やっぱり本格料理屋の唐揚げは一味違うな。こりゃたまらんわ!」

満面の笑みを浮かべた幸裕は、口直しに水を一口飲み、次に黒い皿の「本気じゃない唐揚げ」を口にした。


……。

咀嚼する幸裕の眉が、見る間に顰められていく。


「ん……? これ、不味くはないし、食べられはするけど。何やこれ、サクサク感はまるでないし、中は一応火が通ってるけどジューシーさが全くあらへん。パサパサやないか」

幸裕は困惑したように皿を見つめた。


「確かにこれは、本気で作ったとは思えへんな。手抜きもええとこや。あ、もしかして本気の唐揚げの美味さを引き立てるための前座か何かか?」

幸裕が笑い飛ばそうとした、その時だった。


「お世話になりますー」


地鳴りのような太い声と共に、引き戸が開いた。

入ってきたのは、頭に二本の角が生えた真っ赤な肌の男。身長は2メートル50センチを超え、赤いシャツにロングカーゴパンツ、その上に黒い革ジャンを羽織った、どう見ても「鬼」そのものの風体だった。


「うお!? 今度は鬼みたいなおっちゃんや!」


幸裕が椅子から転げ落ちそうになるのをよそに、えらいこっちゃ嬢が跳ねる。

「赤鬼おっちゃん、久々の御来店や、久々過ぎてえらいこっちゃ!」


赤鬼は幸裕の隣にどっかと座り、革ジャンを脱ぎながら豪快に笑った。

「いやあ、今年初めて節分で関西方面の鬼たちの統括担当になって、めっちゃ忙しくてな。やっと店に来られる時間が取れたんよ」

赤鬼は地蔵店長に向かって近況を語り出す。


「そんでな、こないだ節分終わったばっかりやのに、もう来年の節分の計画どないしよとか、真面目な鬼たちが言い始めてなあ。来年の事言うたら鬼が笑うって言うやろ? あれほんまやで。みんなで来年の事言うてしもたさかい、『あ、笑っとかな』って言うて、みんなでワハハと大笑いしとったんよ」


話の途中で、赤鬼は幸裕の前の皿に目を留めた。

「お、こっちのあんちゃん、ラビさんの唐揚げかいな。初めての来店でラビさんの唐揚げに目を付けるとは、御目が高いやんけ。よっしゃ、地蔵店長さん、ラビさん、儂もあんちゃんと同じ唐揚げ下さいや!」


「唐揚げセットもう一丁、えらいこっちゃな大人気!」

えらいこっちゃ嬢がおしぼりを差し出すと、赤鬼は「有難うなあ」と受け取り、首を回した。

「あ、そや。ここまで片輪車のねえちゃんに送ってもろてん。相変わらず飛ばしよるなあ、あの子」


幸裕は、隣に座る巨大な赤鬼と、唐揚げを揚げる兎、そして微笑むお地蔵さんを交互に見つめ、乾いた笑いを漏らすしかなかった。

「な、なんやねん……この店……。俺、ほんまにどこに来てしもたんや……」


工事現場の荒っぽい連中にも慣れている幸裕だったが、この異次元すぎる賑わいには、ただただ圧倒されるばかりだった。


---


赤鬼は運ばれてきた唐揚げセットを前に、大きな掌を合わせて「頂きます」と丁寧に合掌してから、一つ一つ愛おしそうに食べ始めた。


「うん! やっぱり、ラビさんの揚げ物は最高やね!」

赤鬼は実に御満悦な様子で、本気の唐揚げを頬張る。さらに、幸裕がパサついて微妙だと言った「本気じゃない唐揚げ」までも、何食わぬ顔で美味そうに次々と口に運んでいた。


「……こっちは不味くはないけど相当微妙やのに、なんでそんな美味そうに食べてるんや、この鬼……」


幸裕が呆れたように呟くと、赤鬼は豪快に笑い飛ばした。

「ガハハ! こっちはこっちで、ええ味しとるもんやで」


「いや、好みは人それぞれやけど……。そもそも、何やねん『本気じゃない唐揚げ』って。そんなん出す意味あるんか?」


幸裕の疑問に、調理場からラビさんが糸のような目をさらに細めて、ニコニコと答えた。

「御客さんをじっくり見させてもろたところ、本気じゃない振る舞いがお好きかと思いましてねえ」


「え……?」

幸裕が面食らっていると、横からえらいこっちゃ嬢が割って入った。


「本気じゃなかったら、えらいこっちゃしてもええんやろが!えらいこっちゃ」


彼女がパチンと指を鳴らした瞬間、幸裕の鼻先で「ボカン!」と小さな爆発が起こった。


「うおっ!? 熱っ! 何や、今度は爆発か!?」


幸裕が椅子から転げ落ちそうになって驚くと、えらいこっちゃ嬢は無表情に言い放った。

「今ので1パーセントも本気出してない。本気じゃないえらいこっちゃ。本気やないから、問題なし。えらいこっちゃ」


すると隣の赤鬼が、丸太のような太すぎる筋肉質な腕っぷしを幸裕の目の前に突き出し、豪快に笑った。

「俺やったら、あんちゃんの事、何割の力でひねれるやろうな。二割もいらんかなあ」


「いや、冗談やめろや! そんな太い腕で殴られたら、一割の力でも骨折どころか死んでまうわ!」


幸裕が青ざめて身を引くと、えらいこっちゃ嬢が手をぶんぶんと上下に振って囃し立てる。

「本気やなかったら、殴って良し! 本気やないからセーフ! えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」


「いや、本気やのうても人を殴ったらあかんやろ! 常識やろが!」


幸裕が必死に叫ぶと、赤鬼の笑い声がピタリと止まった。

赤鬼は鋭い眼光を幸裕に向け、低く、地響きのような声で言い放った。


「ほな、あんちゃんは……人、殴った事ないんけ? 人の事殴っといて、『本気でやってへんやろ!』とか、あほな事抜かしてへんかったけ?」


その言葉が投げかけられた瞬間、幸裕の頭の中が真っ白になった。

「……そんな事、何で俺が……」


言い返そうとした唇が、何故か震えて動かない。

幸裕の時は、そこで不自然に停止した。


(俺が……人を? 本気やないから……?)


パチパチと弾ける油の音や、赤鬼の鼻息、えらいこっちゃ嬢の無機質な視線。

それらすべてが遠のき、幸裕は深い心の底へと沈んでいく。


自分が何故ここにいるのか。

あの河原に立つ直前、自分は何をしていたのか。


順風満帆だと思い込んでいた人生の、その裏側にあったはずの「ある光景」が、厚い霧の向こう側から、ゆっくりと、けれど確実に形を成そうとしていた。


幸裕は、止まった時の中で、失われた記憶の糸を必死に手繰り寄せようとしていた。


---


幸裕の意識は、唐揚げの匂いを残したまま、深い霧の中へと引き戻されていった。

止まっていた時計の針が、重苦しい音を立てて逆回転を始める。

順風満帆だと思い込んでいた日常の、その「綻び」が見え始めたあの日。


確か、一週間ほど前のことだった。


その日は珍しく現場が早く終わり、幸裕は中学2年生の息子・雅之よりも先に帰宅していた。

「雅之は、まだラグビー部の練習やっとんのかいな。中学のラグビー部か、俺も中学のラグビー部やった昔を思い出すなあ……」


そんなことを思いながらリビングでくつろいでいた時、玄関の扉が「バタン!」と乱暴に開く音がした。

リビングにやって来た雅之の姿を見て、幸裕は言葉を失った。


「……雅之!? どないしてん、その顔!」

雅之の顔面は、痛々しく紫色に腫れ上がっていた。両方の鼻の穴には、血を止めるための脱脂綿が不格好に詰め込まれている。


「……ボクシングしてきた」

雅之は視線を合わせず、消え入りそうな声で答えた。


「ボクシングって、お前、いつの間に……。いや、スポーツするんは止めへんけど、いつから習いに行ってたんや? お父さん、全然知らんかったで」


「……今日、初めて」


「今日初めて行ったのに、そんなボコボコにされたんけ!? 初日やったら素人同然やろが! そのジム、一体何考えとんねん!」

幸裕の腹の底から、激しい怒りが噴き出した。大事な息子が、右も左もわからぬまま一方的に痛めつけられた。親として黙っていられるはずがなかった。


「よっしゃ、明日土曜日やんな。朝からお父さんが抗議しにいったるさかいな! 何処のどいつか知らんけど、覚悟しとけ!」


---


翌日の土曜日。

幸裕は恐怖で足のすくむ雅之を引きずるようにして、そのボクシングジムへと乗り込んだ。


「ちょっと、ここの会長はどこや! 俺の息子がこんな目にあわされとんねん! 責任者出せ!」

静かなジム内に、幸裕の怒号が響き渡った。


練習をしていた練習生たちの手が止まる。

その中から、雅之と同じくらいの年格好の少年が、シャドーボクシングを切り上げて幸裕たちの前までやって来た。

雅之は少年の姿を見るなり、びくっと体を震わせて顔を背けた。


「お前か! お前がうちの子をこんな怪我させよったんけ!」

幸裕が少年を鋭く睨みつけると、少年は臆することなく幸裕の目を見返した。


「……正樹って言います。雅之君のお父さん、雅之君からどこまで聞いてます?」


「なんやと?」


「喧嘩を売ってきたんは、僕の方やない。雅之君の方なんです。そんで僕に対して『お前なんて 1分でボコったるわ』って啖呵切って、無理やりスパーリングさせよったんですよ、雅之君が」


「……何?」

幸裕が絶句していると、正樹を指導していた164cmくらいのやや小柄なトレーナーがゆっくりと近づいてきた。


「真実ですよ、市川君。正樹君の言う通り、市川君のお子さん……雅之君でしたね、その子が正樹君に一方的に喧嘩を売ったんです。こっちは『絶対やめとき』って何度も注意したんですよ。でも、雅之君がどうしてもって強行したんです。それで、しゃーないから、ヘッドギアもファールカップもつけさせて、安全に安全を考慮した上で、 1ラウンドだけスパーをさせたんです」


トレーナーの言葉に、幸裕の背中に冷たい汗が流れた。

息子の顔の傷は、ジムの不手際などではなく、息子自身の無謀な「本気ではない振る舞い」の結果だったのか。


---


幸裕は目の前のトレーナーを指差し、ドスの利いた声で詰め寄った。


「あんたがトレーナーか。どないな教育しとんねん。子供らに暴力振るうように教えとるんけ? 責任取れや!」


小柄なトレーナー、権哉は怯む様子もなく、静かに、けれど鋼のような強さを持って明言した。

「逆ですよ。絶対にボクシングを暴力に使うなと教えています。ボクシングは己を律するためのものですから」


「そやったらなんで息子がこんな事になっとんねん! 言うてる事とやってる事が無茶苦茶やろが!」

幸裕が怒りに任せて怒鳴り散らすと、権哉は深く、深くため息をついた。その視線には、怒りよりも深い悲しみが混じっている。


「……二人は親子なんですね、ほんまに」


「あ? どういうことじゃ! 舐めとんのか!」


幸裕がさらにすごむと、権哉はまっすぐに幸裕の目を見据えて言い放った。

「君がかつて、私にやった事を……雅之君が正樹君にやったんですよ」


「……なん、やて?」

幸裕は目を見開いた。耳の奥で嫌な音がした。


横にいた少年、正樹が口を開く。その声には冷ややかな怒りが宿っていた。

「雅之君はいっつも、僕に暴力を振るってきて……そのたびに『本気でやってへんやろ!』って言うんです。本気じゃなかったら人を殴ってもええ、みたいな事を。僕は最初こそ相手にしてへんかったけど……」


正樹は雅之の体格を一度見やり、淡々と続けた。

「雅之君、ラグビーやってて体格もええし、小柄な僕なら簡単に勝てると思われてて。2年で同じクラスになってから、ずっとそんな感じでした。そんで……」


正樹は一歩、幸裕の前に踏み出す。

「本気やなかったら僕も反撃してもええんかって聞いたら、『出来んくせに、やれるもんならやってみろや』と言うから。じゃあボクシングジムにおいでって言って、それでスパーをする流れになったんです。……やり過ぎとは思ってませんし、悪いとも思ってません。雅之君が、絶対にやるって言うて聞かへんかったし……」


正樹の瞳が、嘲笑うように細められた。

「それに何より、僕は半分も本気出してませんもん。本気やなかったら、殴ってもええんですよね? 」


雅之は顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうな顔で俯いている。

幸裕は喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。


「……経緯はわかった。そんで……あんたは、誰や? 俺の事知ってるって事は、前に会った事あるんけ?」


権哉は少しだけ目を伏せ、それから静かに名乗った。

「……私は、根岸権哉ねぎし けんや。君の中学2年生の頃の同級生です」


「ねぎし、けんや……?」

幸裕は記憶の底をかき回した。けれど、何も出てこない。どこにでもいる、目立たない存在だったような……。


「やはり覚えてませんか、僕のような雑魚は。本気やなかったらどれだけ殴ってもいい程度の雑魚の事は」

権哉の言葉が、鋭い刃物のように幸裕の胸を切り裂いた。


「……何となく、覚えてはいる。そんな奴がいたような気がするわ……」

幸裕が絞り出すように言うと、正樹が誇らしげに、けれど冷徹に告げた。


「権哉さんは雑魚やないですよ。世界バンタム級王者になって、3回防衛に成功してはるし。ボクシング界のレジェンドですよ」


「せ、世界王者……?」

幸裕は息を呑んだ。全身の血が引いていくような感覚。


自分が見下し、名前すら忘れていた「雑魚」だと思っていた男。本気じゃないからと、かつて自分が無意識に傷つけ、踏み台にしていたかもしれない男は、幸裕の想像も及ばない高みに到達していた。


権哉の鋭い、けれどすべてを見通すような静かな瞳。

それに対し、自分は工事現場で威勢を張るだけの、傲慢で愚かな「おっさん」に過ぎないのではないか。


その事実に、幸裕は肺の中の空気がすべて抜け出たように、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


---


幸裕の頭に、再び熱い怒りが上り詰めた。その怒りは、自分自身の過去や無力さを覆い隠すための、浅ましくも強固な盾だった。


「は! でも今は引退したただのおっさんやろが! 偉そうに能書き垂れくさって。……おい、根岸。リングに上がれや」

幸裕は土足のまま、神聖なリングのロープを潜り抜けた。ジムの中に「おい、土足だぞ!」という野次が飛ぶが、今の幸裕の耳には何も届かない。


「お父さん……」

雅之は、ただ情けなさと恐怖の混じった声で呟くことしかできなかった。


権哉はリングの下から見上げ、深くため息をついた。

「どういうおつもりで?」


「やられっぱなしは気に入らん。雅之の仇を、俺が取ったるわ!」


幸裕が凄むと、権哉は悲しげに首を振った。

「……まんま、中学生のままやないですか。少しも変わっていない」


「なんやと? 怖いんけ、元世界王者さんよぉ!」

挑発的に笑う幸裕に対し、権哉はまっすぐに彼を見つめた。


「怖いですよ。……無知な暴力ほど、恐ろしいものはありませんから」


「あはは! なんや、世界王者言うても大した事ないやんけ! ビビり倒しとるわ!」


幸裕がゲラゲラと下品に笑い転げていると、外出先からの用事を終えて帰って来た会長や他のトレーナー達が割って入った。経緯を聞いた会長は、冷ややかな目で幸裕を見据え、諦めたように告げた。

「じゃあ、危ないから 1ラウンドだけ。ちゃんとヘッドギアと防具を付ける事。それでええですか? 気が済んだら、市川さんもさっさと帰って下さいね」


そうして、ヘッドギアと大きなグローブを付けられ、幸裕と権哉はリングの中央で対峙した。

そして、スパーリング開始のブザーが鳴り響く。


幸裕が腕を振り回そうとした、その刹那だった。


ドシュッ!!


鈍い衝撃と共に、幸裕の視界から権哉の姿が消えた。

気づいた時には、幸裕の体は空中に浮き、リングのマットの上を無様に転がっていた。権哉の放った、最短距離を撃ち抜く鋭いボディストレート一発。


「ガハッ……! ゲホッ!」

肺の中の空気が全て押し出され、幸裕はのたうち回った。何とか、意地だけで立ち上がる。だが、目の前に立つ権哉は、冷ややかに、ぞくりとするような眼差しで幸裕を見下ろしていた。


「……私、まだ 1割も本気出してませんよ?」

その一言に、幸裕の背筋が凍りついた。


そこからは、地獄だった。

避けることも、防ぐこともできない。権哉の拳が、幸裕の顔面と腹部を正確に捉え続ける。幸裕はコーナーに張り付けにされ、サンドバッグのように打ちのめされた。


「やめ……て……」

雅之の叫び声が遠くで聞こえた気がした。


視界が真っ赤に染まり、膝が崩れそうになったその瞬間。

意識が途切れる直前の、深い闇の中から、権哉の声がはっきりと聞こえた。


『本気じゃなかったら、人を殴ってもいいし、傷つけてもいいんでしょ?』


その声は、かつて自分が権哉に、そして自分の息子が正樹に投げつけ続けてきた、傲慢な刃そのものだった。


---


摩訶不思議食堂のカウンター席で、幸裕はただただ黙って両手で顔を覆い、ガタガタと震えていた。

指の隙間から漏れる吐息は、熱く、そしてひどく頼りない。


「……俺、死んだんか?」


絞り出すような幸裕の問いに、隣でどっかと座る赤鬼が、太い声で答えた。

「まだ死んではおらんでな。命の灯火がチロチロと、消えそうで消えん位置におるだけや」


すると、えらいこっちゃ嬢が大きな盃を両手で掲げて持って来た。彼女はそれを幸裕の目の前に置くと、無言で彼の手を取り、盃をしっかりと持たせる。

幸裕がなさるがままに盃を捧げ持っていると、彼女は瓶からトクトクと、透明な炭酸水を注ぎ入れた。


シュワシュワと弾ける気泡の音が、耳元でやけに大きく響く。

「これは、酒か?」

幸裕が、揺れる水面をじっと見つめると――。


そこには、食堂の天井ではなく、無機質な医療施設の天井が映っていた。

白いベッドに横たわり、いくつもの管に繋がれ、人工呼吸器の音だけが虚しく響く場所。そこには、顔を無残に腫らして昏睡状態に陥っている、自分自身の姿があった。


「なんや、これ……。これが、俺なんか……」


「死にかけとって、えらいこっちゃ。えらいこっちゃ」

えらいこっちゃ嬢が、盃の中の光景を指差して淡々と言い放つ。


幸裕は、持っていた盃が砕けそうなほど強く握りしめ、愕然とした。

「……つまり俺は、あいつに、権哉にボコボコにされて、死にかけたってことか。……俺、中学の頃はラグビーもやって、あいつよりはるかに体格も良くてな。だからどこかで見下して、自分より喧嘩が弱そうなやつを狙って、偉そうに威張り散らして。本気やないからええやろ、なんて……。大人になって、このざまかよ」


情けなさと、取り返しのつかない後悔が、涙となって盃の水面を乱した。

「……俺、このまま死ぬんかな。これは、死ぬ前の最後の灯火ってやつか?」


幸裕が力なく項垂れると、赤鬼がその大きな掌で、ポンポンと優しく、けれど重みのある手つきで幸裕の頭を叩いた。

「気が早いやっちゃな。まだ死んでへんっちゅうねん」


赤鬼は、ニヤリと牙を覗かせて笑う。

「ま、あんちゃんがどうしても死を選ぶっちゅうなら、儂がこのまま連れてったるけどな。丁度、三途の川を渡る運賃も持っとるみたいやし」


「え……?」

六文銭ろくもんせん、持っとるやろ?」


幸裕は弾かれたようにポケットをまさぐった。

指先に触れる、冷たくて硬い六枚の感触。それを取り出し、掌に乗せる。

真ん中に四角い穴の開いた、あの古めかしい六枚の硬貨。


「これが……三途の川の渡し賃。俺が今持ってるのは、生きるか死ぬかの、分かれ目やったんか……」


幸裕は掌の上の重みをじっと見つめた。

他人を「本気じゃない」という言葉で傷つけ、蔑んできた報いが、今この六枚の硬貨となって自分の手の中にある。


それは、彼が今まで積み上げてきた「慢心の重さ」そのものだった。


---


幸裕は、掌の上にある6枚の硬貨を、震える指先で見つめ続けた。

「俺は……地獄行き決定やろな。あんな酷いことして、自分は本気やなかったなんて抜かして……」


隣で唐揚げを平らげていた赤鬼が、ふんと鼻を鳴らした。

「ほんま、気が早いやっちゃな、あんちゃんは。まだここにおるっちゅうのに、もう死ぬつもりかいな。地獄の釜も、まだ温まっとらんよ」


「……そりゃ、生きていたいよ。生きていたいし……雅之……」

幸裕の口から、最愛の息子の名前が漏れた。


「雅之は、自分で喧嘩売って負けてしもて、深く傷ついてるやろな。それやのに、助けに来たはずの父親があんな無様な姿さらして……。あいつ、どんな顔して俺のこと見てたんやろうな」


沈痛な面持ちで俯く幸裕に、カウンターの向こう側から地蔵店長の穏やかな声が届いた。

「その事に気づかれた今の幸裕さんならば、子を導ける善き父親になれると思いますよ」


幸裕が顔を上げると、地蔵店長はいつものようにお地蔵さん笑顔で彼を見守っていた。

「お子さんを導かれる父親……その可能性をここで捨て去り、六文銭を使って三途の川を渡られるのも。あるいは、その手にあるものを置いて現世に引き返されるのも。私達が決めることは出来ません。全ては、幸裕さんにしか決めることは出来ません」


地蔵店長は、細められた瞳で幸裕の心の奥底を覗き込むように続けた。

「そして、結論はもう、幸裕さんの中で確定されている……そんな気が致しますがねえ。いかがですか?」


「……俺は、俺自身の希望で生きたいけど……それ以上に、やっぱり、子供が出来てから、雅之が生まれてから……こんな時でも、自分のことより雅之のことを考えてしまうんですわ……」

幸裕の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。頬を伝い、作業着の胸元を濡らしていく。


「それに……ちゃんと、権哉にも謝らないと。あいつ、あんなに強くなって、立派になってたのに……俺、覚えてすらいなかったなんて……。あいつの人生、俺がどれだけ汚してしもたんやろ」


その時、えらいこっちゃ嬢が盃を置いて、無表情ながらもどこか鋭い一言を放った。

「やった方はすぐ忘れて、やられた方は一生傷。えらいこっちゃ」


「……そうやな。ほんま、えらいこっちゃな事、してしもた。謝って済む話やないかもしれんけど、それでも俺、あいつに頭下げなあかんわ」

幸裕が鼻をすすりながら、絞り出すように言うと。


「気付いて反省したなら、えらいやっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢がひょいっと椅子に飛び乗り、幸裕のゴツゴツとした大きな頭を、小さな手で「よしよし」と優しく撫で始めた。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ。」


「……あは、は……。有難うなあ、えらいこっちゃん」

幸裕は涙を拭い、照れくさそうに、けれど憑き物が落ちたような清々しい笑顔を見せた。


建設現場で荒っぽく生きてきた幸裕にとって、これほどまでに自分の弱さを認め、他人に頭を撫でられることなど、生まれて初めての経験だった。けれど、その温もりは、冷え切っていた彼の命の芯を、じわりと熱く灯し始めていた。


---


地蔵店長はカウンター越しに優しく幸裕を見つめ、静かに口を開いた。


「幸裕さん、法句経ほっくきょう、ダンマパダという経典に、このような一節が御座います」


地蔵店長は、穏やかながらも重みのある声で、古の教えを伝えた。


『全ての生命は暴力におびえている。自分も殺されることを恐れるのであれば、他の生命も殺されることを恐れている。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ』


地蔵店長はニコニコとお地蔵さん笑顔を浮かべ、問いかけるように言葉を継いだ。


「幸裕さんは、たとえ相手が本気では無かったとしても、暴力を振るわれたり、あるいは、お子さんが暴力を振るわれたら、どのように感じられるでしょうか? また、そのような事を、恐れたりされますかな?」


その問いに、幸裕は深く息を吐き出し、自らの内面を見つめ直した。


「……はい。俺自身も嫌やし、雅之がそんな目にあわされたらと思うと、恐ろしくて仕方ありません」


かつて自分が放った「本気じゃない」という言葉が、いかに浅はかな言い逃れだったか。

自分や大切な人が対象になった瞬間に湧き上がる恐怖こそが、暴力の真実だった。


「……自分がされて嫌な事を、自分の大切な人がされて嫌な事を、俺は……」


幸裕の絞り出すような言葉に、地蔵店長は満足そうに微笑み、静かに手を合わせた。

「その事に気づかれたなら、もう、大丈夫そうですねえ」


「……有難う、御座います」


幸裕は深く頭を下げ、残っていた唐揚げを一つずつ、慈しむように完食した。肉の旨味と共に、今の言葉が血肉となっていくような感覚があった。


「御馳走様でした。その、お勘定は、これしかありませんけど、これで」


幸裕はポケットから取り出した六文銭を、えらいこっちゃ嬢の手のひらにそっと乗せた。

それは死出の旅路の運賃ではなく、新たな人生を始めるための「本気」の勘定だった。


「毎度あり! ええ顔になって、えらいやっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢は元気に言い放つと、六文銭を大切そうに抱えてレジへと向かった。


隣にいた赤鬼が、豪快に笑いながら幸裕の肩をポンポンと叩いた。

「タクシー呼んであるし、料金も払い済みやから、しっかりと帰りや。これからは前を見て歩くことやな」


「タクシーって……ああ。あのお姉さんか」

幸裕は苦笑いしながら立ち上がった。ここに来る前のような、行き場のない不安はもう消えていた。


「皆さん、有難う御座います。俺、ちゃんとやるべきことをやり遂げます。雅之とも、権哉とも、本気で向き合ってきますわ」

幸裕は力強く言い切り、店内の全員に向かって深くお辞儀をしてから、店の扉を開けた。


「御来店、誠に有難う御座います。お大事にして下さいまし」

地蔵店長の穏やかな声と合掌、そして笑顔でのお辞儀に見送られ、市川幸裕は摩訶不思議食堂を後にした。


---


外に出ると、ベレー帽に着物姿のロングヘアを後ろで束ねた美人さんが、燃え盛る車輪の牛車の運転席に乗って待っていた。その火の粉は夜の闇を鮮やかに染め上げている。


「またお世話になります、方輪車さん」


幸裕がそう言って乗り込むと、彼女は不敵な笑みを浮かべてハンドルを握り直した。

「はいよー。ふふ、ドリフトしましょか?」


「はい。派手にぶちかましたって下さい!」

幸裕が豪快に笑うと、方輪車の瞳が爛々と輝いた。


「ほな、行きまっせ!」

アクセル全開で突っ走り、炎の車輪が激しく火花を散らす。急カーブのたびに牛車は猛烈なドリフトを何発も決め、幸裕の意識を激しく揺さぶった。現世と冥界の境界線を、光の速度で駆け抜けていく。


「現世への片道乗車、誠に有難う御座います」


方輪車が最後に優しく微笑んだ瞬間、幸裕の視界は眩いばかりの光に包まれた。その微笑みを見届けた次の瞬間、彼の意識は深い光の中へと消えていった。


---


### 白い天井と、残された痛み


次に気が付いた時、幸裕の目に飛び込んできたのは、無機質な病院の白い天井だった。鼻を突く消毒液の匂いと、規則的に鳴り響く医療機器の電子音。


「……ここ、は」

掠れた声で呟くと、丁度見回りに来た2人の看護師が顔を見合わせた。


「あ、意識戻った! 先生呼ばんと!」

一人が慌てて部屋を飛び出し、すぐにもう一人の看護師と年配の男性医師が駆け込んできた。


「市川さん! わかりますか!?」

医師が顔を覗き込み、ライトで瞳孔を確認する。幸裕は重い瞼を動かし、ゆっくりと頷いた。


「……はい。何が起きたかも、ちゃんとわかってます。何日眠ってたんか知りませんけど……」

幸裕の記憶は、あのボクシングジムでの惨敗から、摩訶不思議食堂での出来事まで、驚くほど鮮明に繋がっていた。


「家族に……雅之たちに、ちゃんと目が覚めて無事やって、伝えてくれませんか。心配、かけてしもたから」

「意識ははっきりしていますね。良かった。本当に、一時はどうなることかと……」

医師が安堵の息を漏らす。


幸裕は体を動かそうとしたが、全身に走る激痛に顔を歪めた。骨まで響くような鈍い痛みが、あの1割の力すら出していなかった世界王者の拳の凄まじさを物語っている。


「……全身、痛いなあ。……ほんま、えらい、こっちゃ」


幸裕は小さく笑い、再び天井を見つめた。

その痛みは、彼が「本気」で生き直すために、現世へと持ち帰った確かな勲章だった。


---


家族に連絡が届くと、妻と雅之がドタドタと音を立てて病室へ駆け込んできた。

二人はベッドに横たわる幸裕の姿を見るなり、涙を流して意識が戻ったことを心から喜んだ。


幸裕は、ギシギシと軋むベッドの上で体を起こし、雅之の目をじっと見据えた。

「雅之。俺はな、権哉に謝りに行かなあかん。昔やってしもたことに、ちゃんとけじめつけなあかんのや。……お父さんがけじめをつけるところ、お前も見届けてくれるか?」

幸裕の言葉には、迷いのない「本気」が宿っていた。


「そんで、雅之もや。正樹君にやってしもたこと、自分なりにけじめつけなあかん。お父さんと一緒に、謝りに行こうな」


雅之は一瞬、父の顔を見て驚いた表情を見せたが、やがて力強く頷いた。

「……うん。わかった」


---


右腕を吊るした状態の幸裕に対し、職場の社長からも「完全に回復するまではしっかり休め。現場のことは心配せんでええ」と、温かい指示が飛んだ。

1週間後。通院は必要だったが、幸裕はようやく退院の日を迎え、一度自宅へと戻った。


そして、次の週の土曜日。

幸裕は事前に権哉と正樹がいるボクシングジムへ、アポイントメントを取っていた。


約束の時間の少し前、幸裕と雅之はギュッ、ギュッと靴底を鳴らしながらジムの中へと足を踏み入れた。

中では、権哉と正樹が静かに二人を出迎えた。

会長も同席していたが、権哉が「後は私達だけで大丈夫です」と告げると、会長は小さく頷き、4人を残して席を外した。


ジム内は練習の喧騒も消え、しんと静まり返った。


幸裕は、不自由な体で一歩前に出た。

「根岸権哉さん……。30年以上も前のこと、そのまま今日までほったらかしにしてしもうて。あの時は、あんたの一人の人間としての尊厳や人権を損害するような事をしてしまって……誠に申し訳ありませんでした」

幸裕は、痛む体を厭わず、直角になるほど深く頭を下げた。


雅之はその父の背中を、言葉を失って見つめていた。威厳のあった父が、かつての「弱者」と決めつけていた相手に対して、これほどまでに真っ直ぐに、泥臭く頭を下げる姿。


「正樹……。ほんまに、ごめん。あほな事してもうた。自分勝手な理屈で殴ったりして、すみませんでした」

雅之もまた、父の隣で正樹の目を見つめ、深く、深く頭を下げた。


正樹は、頭を下げたままの雅之に対し、自分も静かに頭を下げた。

「僕も、合意の上のスパーとはいえ、大人げなかった。ごめん」


「……いや。俺がやるって無理矢理言い出した事やし、俺が悪いんや」

雅之が消え入りそうな声で返すと、正樹は顔を上げ、少しだけ微笑んだ。


「本気やろうが本気やなかろうが、暴力は暴力なんやからな。これからはお互い、暴力を振るわん人間にならなあかんな」

「……うん」

雅之は深く頷いた。若者たちの間で、一つの「けじめ」がつけられた瞬間だった。


その様子を見守っていた権哉が、幸裕に向き直った。

「私も、1割の力しか出してへんって言いましたけど……気持ちの面では、実は本気でした。大人げない事をしてしまいました。申し訳ない」

権哉が深々と頭を下げると、幸裕は戸惑いながら問いかけた。


「気持ちの面って……? 俺を本気で叩きのめそうとしたって事か?」


「ええ……そもそも、私がボクシングを始めたのは……私、いじめられっ子でしてね。そんで、いじめた奴らを全員撲殺するために始めたんですわ」

権哉の口から漏れた衝撃的な告白に、ジムの空気が一気に凍り付いた。


「それが、段々と強い人らと試合していくうちに「もっと強い人と闘いたい」って気持ちの方が強くなって……。気が付けば、引退する頃には、そんな復讐心は忘れてました。ところが、完全に忘却の彼方やと思うてましたけど……あなたという『当事者』に出会ったら、一気に復活するもんですね。当時の殺意も、消えない傷口も。そやから、叩きのめすこと・・・あのまま殺害したろうという思いそのものは100%、本気の本気でした。」


幸裕の脳裏に、あの摩訶不思議食堂でえらいこっちゃ嬢が放った言葉が鮮烈に蘇った。


『やった方はすぐ忘れて、やられた方は一生傷、えらいこっちゃ』


あの時はただの不思議な言葉だと思っていたが、目の前の「元世界王者」の重みのある言葉として突きつけられ、その真実と残酷さを思い知らされる。


「……やった方はすぐ忘れて、やられた方は一生傷……。ほんまや……。権哉はずっと傷が残ってたのに、俺は…あんたの名前すら忘れてた……」

幸裕は自分の浅ましさに、ただただうなだれるしかなかった。


「全くもって、その通りですな。ただ……そのような体験、この傷があるからこそ、いじめられっ子やったからこそ、私はボクサーになれたのかもしれません。現役時代は『あの地獄の暴力振るわれ続けた時代に比べたら、レフェリーもいてくれるし、ルールもある。全然怖くない』って思えたものです」


権哉はそう言って、穏やかに微笑んだ。過去の怨嗟すらも自分の糧に変えてしまった男の器に、幸裕は圧倒された。


「俺は、こんな器のでかい男を……。ほんまに、申し訳ありませんでした」

幸裕は再び、深く頭を下げた。


「お互い、胸張れる人間になっていきましょう。40超えても、まだまだ小僧ですよ、人間と言う生き物は」

権哉はそう言って、大きな左手を差し出した。


幸裕は、右腕を吊るした状態のまま、自由な左手でその手をしっかりと握りしめた。ゴツゴツとした世界王者の拳の感触が、幸裕の冷え切っていた芯を本気で熱くさせた。


---


握り合った手の温度から、幸裕の心境の変化を感じ取ったのか、権哉がふっと表情を和らげた。


「変わりましたね、市川君。このたった少しの間に、別人のようですわ」


「……ああそれは…。ある食堂のお地蔵さんと、おもろい人達……いや、あれは人やなかったと思うけど、色々と教わったんよ」


幸裕は、あの摩訶不思議食堂で聞いた言葉を、噛みしめるように口にした。


「『全ての生命は暴力におびえている。自分も殺されることを恐れるのであれば、他の生命も殺されることを恐れている。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。』……そう教わった。自分がやられたら嫌やったり、怖いって思う事は、人にしたらあかん。そんな小学生でもわかる当たり前の事を、俺は『本気やない』なんて言い訳して、ずっとやらかしてたんやなって、気付かされてな」


その言葉を聞いた瞬間、権哉の目が驚きに大きく見開かれた。

「ダンマパダ、ですか」


「え? 知ってるんか?」


「ええ。私は仏教の大学に行ってから、今も仏教を学び続けてますからね。その一節は有名です。『すべての者は鞭に怯え、すべての者は死に怯える。自分のことに引きあてて打ちつけてはならぬ、打ちつけさせてはならぬ』とも訳されます。確か第129だったかな」


権哉は感銘を受けたように何度も頷いた。


「なるほど、仏さまの教えに触れられたんですね。それは素晴らしいご縁、仏縁ですな」


「お地蔵さんに、仏さまの教えを貰ったんよ。後は、えらいこっちゃえらいこっちゃ言うてる、おもろい女の子からも、色々教わったんや。……あの子、俺の頭をよしよししてくれてな」


幸裕が照れくさそうに笑うと、権哉も声を立てて笑った。


「そうですか。お互い、えらいこっちゃな事を他人様にしでかさんように、心がけたいもんですな」

「全くや。もう二度と、あんな卑怯な真似はせんよ」


---


ジムを出た幸裕と雅之の親子は、夕暮れ時の街路を並んで歩き始めた。西の空は茜色に染まり、家々から夕食の香りが漂い始めている。


幸裕の右腕はまだ吊られたままだが、その足取りは以前よりもずっと軽く、そして地に足がついている。


「ダンマパダ、か……。今まで俺には全く関係ない世界のことやと思ってたけど、仏教の勉強、ちょっと始めてみよかな。本屋寄って、初心者向けの本でも探してみるか」


幸裕が独り言のように呟くと、隣を歩く雅之が少しだけ顔を上げて、父の横顔を見た。


「……お父さん、それ、本気?」

「ああ。今度は、本気やぞ」


幸裕は豪快に笑い、雅之の肩を空いている方の手でポンと叩いた。

自分自身の傲慢さと向き合い、過去の傷を認め、そして赦された。

市川幸裕の新しい人生は、まだ始まったばかりだ。


---


幸裕が、仏さまの教えに興味を示していた頃。

彼を担当した男性医師は、レントゲン写真を手元に、怪訝な顔を隠せずにいた。


「先生、まだ気になってはるんですか?」

通りがかった看護師が、少しからかうように笑った。


「そりゃあ、気になるわな。だってなあ……」

医師は腕組みをしながら、解せないといった様子で首をひねった。

「市川さん、目を覚ますまでずっとベッドの上やったやろ? もちろん、モノ食べる事なんてできるわけあらへんやろ?」


「そうですね、ずっと昏睡状態で点滴だけでしたから」


「そやのに、何でか知らんけど……胃の中で、唐揚げが消化されてたんは、何でやろなあ……」


医師の言葉に、看護師は一瞬きょとんとしたが、冗談めかして笑った。

「不思議な事もあるもんですねえ。まさか、幽体離脱してどっかへ食べに行かはったとか?」


「まさか! 幽体って、もの食べられるんかいな。科学的にありえへんわ」

医師は苦笑いしながらも、再び未解決のカルテに目を落とした。現実には起こり得ないはずの、けれど確かにそこに存在した「本気の唐揚げ」の残滓。


「ほんま、どないなっとんねん。……えらいこっちゃ」

医師が思わず漏らしたその呟きは、幸裕が立ち寄った、あの不思議な食堂の合言葉と同じだった。


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