第16話:中田春樹の無自覚過ぎたほっこり飯
土曜日の朝、京都の空気は針を刺すように冷たく、しかし清浄に澄み渡っていた。
京都駅周辺の喧騒から少し離れた路地裏、歴史の重みを静かに湛える古い浄土宗の寺院。
住職を務めるのは、見る者を一瞬で平伏させるような、超絶美少女と見紛う美貌を持つ若き女性である。
しかし、その澄んだ瞳の奥には数多の魂を救ってきた超一流の僧侶としての風格が宿っていた。
朝の勤行を終えたばかりの住職は、山門の入り口に落ちていた「それ」に目を留め、静かに足を止めた。
「これは……」
彼女の視線の先には、禍々しい気を放つ藁人形が、ゴミのように無造作に捨てられていた。
一見すればただの玩具に見えるかもしれないが、彼女ほどの凄腕であれば、そこに込められた並々ならぬ執念と、既に「事」が成された後の虚無的な残滓を見抜くのは容易だった。
そこへ、一人の男性が通りかかる。
40代半ばから後半と思われる、仕立ての良い黒いコートを纏った男性。
彼は朝の散歩を楽しむかのような足取りで、寺院の前へと歩み寄ってきた。
「あ、呪術師さん、お早う御座います」
住職は、春の陽だまりのような菩薩の笑顔を浮かべて挨拶をした。
「御住職、お早う御座います」
呪術師と呼ばれた男性は足を止め、住職の視線を追って地面に転がる藁人形に目を向けた。
「藁人形ですか。神社にあるもんかと思いきや、お寺さんに持って来はる人がおるんですな」
「恐らく、用済みになって無造作に捨てて行かれたので御座いましょう。本来、これほどまでの呪物を置く場所ではありませんが、これも何かの導きかもしれません」
呪術師は「ちょいと失礼、お借りして宜しゅおすか?」と断りを入れると、無造作に手を伸ばしてその藁人形を拾い上げた。
手元で観察すると、その異様さはさらに際立った。
人形の胸元には「中田春樹」と書かれた御札が、剥がれぬように固く貼り付けられている。
本体は執拗なまでに痛めつけられており、何本もの五寸釘が打ち込まれた跡が、深い傷穴となって幾つも残っていた。
呪術師は無表情のまま御札を少し捲り、その裏側を覗き込む。
そこには、怨念が滲み出たような歪な文字で「滅茶苦茶に苦しんで絶命」と記されていた。
「これ、僕の先輩の名前ですわ。なんとまあ、興味深い御縁です。まあ、恨まれててもおかしくない御仁やったから、藁人形作って呪う人がいても、おかしくありませんな」
感情の起伏を一切感じさせない、淡々とした声。
呪術師は呪詛の塊を手にしながら、まるで道端の石ころでも眺めるかのような冷徹な眼差しで、かつての「先輩」に想いを馳せていた。
不穏な朝の光の中で、新たな物語の幕が静かに上がろうとしていた。
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## 怨念の重層と「二つの穴」
住職は、地面に落ちた藁人形から立ち昇るどす黒い気配を、一点の曇りもない瞳で見据えていた。
「複数人……恐らく、3人の怨念が宿っておりますね。それも、長い年月をかけて澱のように積み重なった、粘りつくような情念です」
彼女の透徹した鑑定に、呪術師は深く、しかしどこか冷ややかな同意を示すように頷いた。
「そのようですな。これ、経過7年前後と言ったところですかね。何の知識も修行も無いまま、藁人形を買うかなんかして用意して、それを無造作に使ったってところでしょうなあ。型通りに釘は打ってありますけど、力の流し方が無茶苦茶やさかい、素人の仕業と一目でわかりますわ。」
呪術師は人形を弄ぶように眺め、鼻で笑った。
「何らかの理由……恐らくは、用済みになっ後で何らかの不具合が出て、かと言うて捨てるに捨てられへんで、お寺さんやったら何とかしてくれると思うて、ここに置き去りにしはったんでしょう。」
呪術師は深いため息をついた。
「正式な解呪手続きもせんと、はた迷惑な身勝手極まりない話です。藁人形に五寸釘打たはった人らも、今頃えらいことになってますやろな。呪いっていうのは、相手に届く前に自分を削るもんですから」
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### 縁の引き受け
呪術師は、人形に貼られた「中田春樹」の名を指でなぞった。
「御住職なら簡単に解呪出来はるでしょうけど、こうして昔の知人の名前が書かれた藁人形と出会うたのも何かの御縁。僕の方で処理しときますわ。この藁人形、一旦僕に任せてもろて宜しゅうおすか?」
「ええ、助かります。有難う御座います」
住職は菩薩のような柔和な微笑みを浮かべ、静かに合掌してお辞儀をした。
呪術師はそれに応えるように、今後の段取りを淡々と語る。
「ほな、解呪した後は、またこちらに持ってきます。その時に、お焚き上げのお手数おかけしますが、宜しゅうおたの申します。お焚き上げ料は、藁人形使った当人達から徴収してもろたらええかと思います。彼らも、それで少しは業が軽くなるような錯覚によって、気持ちだけでも楽にはなるでしょうし」
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### 封印と旅立ち
呪術師が懐から一枚の御札を取り出し、藁人形の胸元にピタリと貼り付けた。
刹那、御札が生き物のように脈打ち、瞬く間に布のような質感へと変化して人形を包み込んでいく。
それはまるで、最初からそうであったかのように「袋」の形を成し、禍々しい藁人形をその内側にすっぽりと収めてしまった。
「では、それまでは呪術師さんにお任せ致します」
住職が合掌してお辞儀をすると、呪術師はその袋を手に取り、住職に向かって最後のお辞儀をする。
「任されました。ほな、また宜しゅうに」
呪術師は軽く手を上げ、寺院を後にした。
そして、朝の光が差し込み始めた京都の街を歩きながら、彼は手の中の「袋」をわずかに揺らした。
「『人を呪わば穴二つ』か。この言葉の本当の恐ろしさも知らんと、呪わはったんでしょうなあ」
どこか呆れたような、しかし深い哀れみを含んだ溜息が、朝の冷たい空気の中に白く消えていった。
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## 蝶の導きと藁の社
呪術師は歩みを止め、手に持った袋の口をわずかに緩めた。
中から、無数の釘跡が刻まれた藁人形の頭部が、不気味に覗く。
彼は懐から別の御札を取り出すと、それを一度人形の額にピタリと貼り付け、怨念の残り香を吸わせた。
「探し物は得意ですやろ。頼みましたえ」
指先で御札を弾き、パッと宙へ投げ飛ばす。
刹那、薄黄色の紙片は命を宿したかのように羽ばたき、一羽の蝶へと姿を変えた。
蝶はひらひらと、重力に逆らうような不自然な軌道を描きながら、京都の入り組んだ路地を抜けていく。
呪術師はその後に従い、黙々と歩みを続けた。
やがて蝶が辿り着いたのは、地図にも載っていないような、名もなき小さな神社だった。
住宅街の隙間に押し込められたその境内は、手入れこそされているものの、どこか忘れ去られたような静寂が漂っている。
蝶を追って鳥居をくぐり、境内の奥へと歩を進めると、一本の目立たない樹木の前で蝶が動きを止めた。
呪術師がその幹を凝視すれば、そこには風化して目立たなくなってはいるものの、鋭い釘が幾度も打ち込まれた「穿たれた傷跡」が確かに残っていた。
周囲を見渡すが、管理人の姿はどこにもない。
呪術師は神社に隣接する古い木造住宅の門を叩いた。
出てきたのは、白髪を上品に整えた、この神社の神主を務める老人だった。
「おや、参拝の方ですかな。うちはこじんまりと『藁の付喪神』をお祀りしておりまして。古くから農具や藁細工に宿る神様を鎮める、珍しい社なんですわ」
神主の話によれば、ここは藁人形を「魔除け」や「土産用」として、少量ではあるが販売もしているという。
呪術師が過去の購入者について尋ねると、老人は眉根を寄せて記憶を辿り始めた。
「そう言えば、6年か7年か……それくらい前ですかな。妙に思い詰めたような顔をした人が、お守り代わりにと言って買っていかはった気がします。それこそ、読んで字の如く、藁にも縋る思いやったのかも知れまへんが……」
呪術師は静かに事情を切り出し、浄土宗の寺院で回収した例の藁人形を神主に見せた。
そして、本来は神聖であるはずのこの場所が、陰湿で歪んだ呪術の儀場として利用されたことを淡々と説明した。
神主は人形を観て、絶句した。
「それはそれは……ご丁寧に報告していただき、有難う御座います。それにしても、神様の御前でこんなことを平気でしはるとは。なんとまあ、えらいこっちゃ。藁の神様も、さぞお悲しみでしょうに」
神主は深く嘆き、自らお祓いをかって出た。
「このままにはしておけません。神様へのお詫びと、この地に残った穢れを祓わんと」
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正装である狩衣に着替えた神主は、手に大幣を持ち、毅然とした表情で呪術師と共にあの樹木の前に立った。
頭上では、先程の蝶が役目を終えたかのように御札の姿に戻り、ハラハラと落ち始め、呪術師が「パチン」と指を鳴らすと、呪術師の手元に戻る。
湿った土の匂いと、木々のざわめき。
かつて復讐の炎に焼かれた人間が、夜の帳に紛れて釘を打ち込んだその場所で、今、真実を解き明かすための静かな神事が始まろうとしていた。
呪術師は、袋から取り出した藁人形を樹木の根元に据え置き、無機質な眼差しで神主の祝詞を待った。
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## 解呪の祝詞と「呪縁」の導き
神主による厳かなお祓いが滞りなく執り行われ、境内を支配していた陰鬱な空気は、潮が引くように清められていった。
だが、木々の幹に深く刻まれた怨念の「根」は未だに残り、かつての悪意を証明するように黒ずんでいる。
呪術師は懐から、鈍い光沢を放つ特製の解呪符を取り出すと、それを迷いのない手つきで樹木と藁人形の双方にぴたりと張り付けた。
「……急急如律令」
彼が低く、しかし芯の通った声で祝詞を称え始めると、張り付けられた御札が生き物のように脈打ち、周囲の空気を震わせた。
刹那、御札から放たれた白銀の光が藁人形を包み込み、奥深くに沈殿していたどす黒い執念を根こそぎ吸い上げていく。
パチン、と乾いた音が響き、御札が役目を終えて灰へと変わった時、そこにはもう、人を呪い殺さんとするような禍々しい気配は微塵も残っていなかった。
「有難う御座います。これで無事、お焚き上げ出来そうです」
呪術師は、憑き物が落ちたようにただの藁の束に戻った人形を拾い上げ、淡々とした口調で礼を述べた。
一方、その一部始終を傍らで見届けていた神主は、驚愕のあまり言葉を失い、呆然と立ち尽くしていた。
「こちらこそ、わざわざ有難う御座います。……あの、失礼ですが、貴方様はどこか御高名な神職の御方ですか? それとも仏教系列、お坊さんでしょうか。あるいは、いにしえの智慧を受け継ぐ陰陽師か、呪術師かと御見受け致しますが。これほど厄介な、しかも経緯も風化しかけている何年も前の呪術を、これほどあっさり解呪できるなんて……。凡庸な修行者では、到底成し得ぬ業に御座います」
神主の問いには、純粋な敬意と、底知れぬ実力に対する微かな畏怖が混じっていた。
呪術師は表情を一つも変えることなく、さらりと、どこか他人事のように答えた。
「僕は平凡な隠れ呪術師です。強いて言うなら、御仏の教えを授かってる身ゆえ、仏教寄りの者ですかな。僕はそんな大層なもんやありませんよ。解呪を手伝って下さいまして、誠に有難う御座います。後はこっちでやりますさかい、お手数おかけ致しました」
彼は丁寧にお辞儀をすると、未だに信じられないといった顔で自分を見送る神主を背に、静かに神社の鳥居をくぐり抜けた。
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鳥居を一歩外へ出ると、そこには京都の日常の喧騒が広がっていたが、呪術師の周囲だけは依然として異質な静寂が漂っている。
彼は歩みを止め、手に持った「袋」の中の人形に視線を落とした。
「後は、お焚き上げの現場に、呪いを使った本人達を集めんとですな。……ほな、『呪縁』を辿ってくれなはれ。まずは1人目」
呪術師は懐から、先程とは異なる妖しい文様が刻まれた別の呪符を1枚取り出した。
それを藁人形の額に一度強く押し当て、怨念の残り香を吸わせてから剥がすと、宙へ向けてふわりと投げ飛ばす。
御札は空中で青白い炎に包まれるかと思いきや、瞬く間に四散して形を変え、1羽の幻想的な蝶へと羽化した。
蝶は冬の残る冷たい風に逆らうように力強く羽ばたき、ある特定の方向を目指してひらひらと舞い始める。
呪術師はその淡い光を放つ蝶の跡を、迷いのない、それでいて確実な足取りで追い始めた。
その蝶が導く先には、かつて中田春樹を呪うために五寸釘を握りしめた、1人目の「加害者」が潜んでいるはずであった。
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数日後、浄土宗寺院の境内には、神聖なる澄んだ空気が満ちていた。
屋外に設けられた儀式の場では、今まさにお焚き上げの火が焚かれようとしていた。
超絶美少女と見紛う若き女性住職は、一切の迷いがない流麗な所作で、円筒形の器に納められた例の藁人形に火を放った。
立ち上る炎は、当初こそ澱んだ執念を吸い込んだかのように黒ずんでいたが、住職の読経が響き渡ると、次第に清らかな黄金色へと変わっていく。
彼女は立ったまま、手に持った立奏用の木魚を一定の刻みで叩き始めた。
ポク、ポク、ポク……。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
朗々とした、しかしどこか慈悲深い響きを帯びた念仏が、境内の静寂に溶け込んでいく。
その光景を、呪術師より1歳年上の、2人の男性と1人の女性が、魂を抜かれたかのような厳かな表情で見つめていた。
彼らこそが、かつて中田春樹を呪い、五寸釘を打ち込んだ当人たちだった。
呪術師は彼らの傍らで、一切の感情を排した無機質な眼差しで、燃えゆく藁人形をただ黙って見守っていた。
やがて藁人形が形を失い、跡形もなく燃え尽きようとする頃、住職の声がひときわ高く響く。
「請仏随縁還本国、普散香華心送仏、願仏慈心遥護念、同生相勧尽須来」
それは、仏を還し、縁を調えるための重厚な唱え言葉だった。
最後に、心を一つにするように「十念」を唱え、儀式は厳かに締めくくられた。
その後、住職は火の消えた器を前に、静かに彼らへと向き直った。
「……『人を呪わば穴二つ』という理が御座います」
彼女は菩薩のような笑顔を絶やすことなく、しかしその瞳には、嘘や誤魔化しを一切許さない厳格な光を宿していた。
「他者を滅ぼさんと願う心は、必ずや御自身の魂をも等しく削り、奈落へと引きずり込みます。呪いの報いとして、皆様がこの数年間に味わってこられた苦しみは、まさに皆様が掘られた『自身を落とす穴』に他ならないのです」
呪術師も、隣で淡々と、しかし重みのある言葉を添えた。
「藁人形に釘を打つたびに、一番深く傷ついていたのは、他ならぬ自分たちだったはずです。この火と共に、その鎖も焼き捨てなはれ。二度と同じ過ちで己を汚してはいけません」
女性住職の優しくも峻烈な慈悲の教えに、3人は言葉もなく涙を流した。
彼らは自分たちが抱え続けてきた毒の正体をようやく理解したかのように、何度も、何度も丁寧にお礼を言い、震える足取りで寺院を後にしていった。
静寂が戻った境内に、住職と呪術師の2人だけが残された。
女性住職は、遠く去りゆく彼らの背中を見つめながら、にっこりと微笑んだ。
「女鬼さん達にも、無事に届きましたでしょう。あちらに『御客様』が向かわれる準備も調いましたでしょうから、後はお任せ致しましょうか」
「そうですな。超絶仕事が出来る女鬼さんや、えらいこっちゃん達が、上手いことおさめて下さるでしょう。あの中田さんも、今頃は招待状を受け取っているはずですから」
呪術師は、懐の袋が軽くなったのを確かめるように触れると、それを取り出して宙に掘折投げて、「パチン」と指を鳴らすと、跡形もなく一瞬で燃え尽きる。
そして呪術師は、丁寧にお辞儀をした。
「ほな、僕はこれで。お焚き上げのお手数、有難う御座いました」
「こちらこそ、善き御縁を繋いで頂きまして感謝致します。どうぞお気をつけて」
呪術師はもう一度深くお辞儀をすると、夕暮れに染まり始めた京都の街へと、音もなく消えていった。
中田春樹という男がこれから直面する、嘘のつけない「晩餐」が、すぐそこまで迫っていた。
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## 闇の社と銀髪の案内人
40代の男、中田春樹は、京都の静寂に包まれた神社の境内に足を踏み入れていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った境内には、湿った土の匂いと、古い木材が放つ独特の香りが漂っている。
春樹は目的のお守りを探して、暗がりに浮かび上がるお守り販売所へと向かったが、そこには期待していた灯火も、人の気配もなかった。
「あれ、巫女さんとか誰もおらんやんけ。夜やから店じまいなんやろか。せっかくここまで来たのに、えらい不親切なこっちゃな」
春樹は不満げに独り言をこぼしながら、一通り境内を歩き回ってみた。
しかし、本殿の奥も、末社の影も、どこを見渡しても人っ子一人いない。
風に揺れる木々の葉音が、しきりにザワザワと耳を打つばかりだった。
「やっぱり昼に来なあかんな。もう神社の人らも参拝客もおらんわ。しゃあない、今日は帰ってまた出直すとすっか」
春樹は早々に諦めて出口へと向かおうとしたが、ふと足を止めた。
入ってきたはずの鳥居が、どこを探しても見当たらないのだ。
右を向いても左を向いても、似たような石灯籠と樹木が並び、影が長く伸びて視界を惑わせる。
「あれ、出口ってどこやったっけ? 迷ってもうたがな。そんなでかい神社やないんちゃうんけ、ここ。道一本間違えたんかいな……」
春樹は自嘲気味に笑いながら、記憶を頼りに闇の中を彷徨った。
だが、歩けば歩くほど、自分が境内の深みに嵌まっていくような奇妙な感覚に襲われる。
その時だった。
朱塗りの鳥居がぼんやりと浮かび上がる辺りに、一人の小柄な女の子が立っているのが見えた。
彼女はこちらを向いたまま、微動だにせず、ただジーっと春樹を見つめている。
月光に照らされたその姿は、あまりにも独特だった。
背中まで届く長い銀髪は夜の闇に白く輝き、まん丸とした大きな瞳が印象的だ。
特筆すべきは、台形の形をした独特な口の開き方で、どことなく無機質でありながら強烈な存在感を放っている。
ベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服を着用したその風貌は、この古い神社の中では異彩を放っていた。
「お、なんや、御嬢ちゃんも御参りしにきたんけ? こんな夜更けに一人で、感心なこっちゃな」
春樹は緊張を解くように、気さくな口調で笑いかけた。
すると、女の子は表情一つ変えず、ただ一言、深く重い響きを伴って口を開いた。
「えらいこっちゃ」
「え?」
春樹は思わず首をかしげた。
聞き間違いかと思ったが、女の子は淡々と、しかし毅然とした態度で自己紹介を始めた。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」
「ああ、そうなんけ? 変わった名前やな。じゃあ、えらいこっちゃん。お参りしに来たんやったら、出口教えてや。おっちゃん、ちょっと迷子になってしもうたんやわ」
春樹は場を和ませるように軽口を叩いたが、えらいこっちゃ嬢の視線は依然として鋭く、彼の本質を見透かすように突き刺さっている。
「迷子のおっちゃん、えらいこっちゃ」
彼女は小さな人差し指をびしっと春樹に向けて言い放った。
「そやねん。そんなでかい神社やないって思うてたんやけどな。狐にでも摘まれた気分やわ」
春樹が頭をかいて笑うと、えらいこっちゃ嬢はさらに深い、謎めいた言葉を重ねた。
「呪術師おっちゃんと超絶美人住職の御蔭で、やっと魂迷子から解放されよった。えらいこっちゃ」
「え?」
春樹は再び、怪訝そうに首をかしげた。
「呪術師」という物騒な単語と、「魂迷子」という聞き慣れない言葉。
それらが何を意味しているのか、この時の春樹にはまだ、理解する術もなかった。
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## 焼肉の誘いと「畜生おっちゃん」の引導
「晩御飯食べな、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢は、それまでの無機質な視線をふっと和らげ、唐突にそんなことを言い出した。
その言葉は、迷宮のような闇の中にいた春樹にとって、あまりにも日常的で拍子抜けするような響きを持っていた。
「え? 晩御飯って……ああ、確かにそう言えばまだ晩飯食ってへんかったな。出口探すのに必死で忘れとったわ。なんや、御嬢ちゃん、こんな時間に開いてるええ店でも紹介してくれんのけ?」
春樹は緊張が解けたのか、腹をさすりながら豪快に笑った。
出口が見つからない不安よりも、食欲という本能が勝りはじめる。
そんな彼の現金な様子を見て、えらいこっちゃ嬢は淡々と答えた。
「えらいこっちゃな絶品料理の店」
「お、マジか。そりゃええわ、この辺り店なんか一軒もないと思うてたけど。なあ、そこ肉食えるけ? 肉。俺、今は土方で力仕事しとるし、中学高校とずっとラグビー部やってん。その時から肉がもう大好物でな! 特に焼肉はめっちゃ好きで、今でもよう食べ放題とか行くねん。腹いっぱい肉食わな、明日への活力が出ぇへんからな!」
春樹はかつてのラガーマンらしい太い声を張り上げ、自分の肉に対する情熱をまくしたてた。
自分が過去にその強靭な肉体を使って何をしてきたか、その「活力」が誰の犠牲の上に成り立っていたかなど、微塵も考えていない能天気な笑顔だった。
「一人焼肉セット。えらいこっちゃな絶品カルビと絶品ロース」
えらいこっちゃ嬢は、小さな手をぶんぶんと振ってメニューを提示した。
その仕草はどこか機械的でありながら、獲物を誘い込むような不思議なリズムがあった。
「カルビとロースか! 分かってるやんけ、えらいこっちゃん! めっちゃ好きや、その組み合わせ! ラグビーやってた現役の時から、どんだけ食うてきたか数えきれへんわ! なんや、その美味い焼肉の店に今から連れて行ってくれんのけ?」
春樹が期待に目を輝かせると、えらいこっちゃ嬢は音もなく彼に歩み寄り、その分厚い手を小さな指先でギュッと掴んだ。
その握力は見た目からは想像もつかないほど強く、春樹は一瞬、万力に締め付けられたような錯覚を覚えた。
「畜生おっちゃん、御一名!」
えらいこっちゃ嬢は、春樹の返事も待たずに、小さな体でぐいぐいと彼を引っ張り、夜の闇の奥へと歩き出した。
「ちょ、待ってくれや、そんな急がんでも逃げへんて! それに、なんやその『畜生おっちゃん』って。ひっどい呼び方やな! 俺は今、焼肉食える思うて最高にハッピーやぞ? ちくしょーなんて微塵も思てへんわ!」
春樹は笑いながら、されるがままに彼女に引かれていく。
自分がこれから案内される場所が、ただの「美味い焼肉屋」などではないことも、そして、その「畜生」という言葉が、自らの魂に刻まれた「業」そのものを指していることにも、彼はまだ気づいていなかった。
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## 第16話:摩訶不思議な「畜生」の晩餐
えらいこっちゃ嬢の、見た目からは想像もつかない強靭な力に引かれ、夜の闇を暫く歩き続ける。
やがて、京都の路地裏には似つかわしくないほどに手入れの行き届いた、美しい木造の建物が春樹の目の前に姿を現した。
軒先には暖かな光を放つ提灯が揺れ、見上げてみれば「摩訶不思議食堂」と揮毫された看板が、静かな威厳を放っている。
えらいこっちゃ嬢は躊躇することなく、その重厚な扉を勢いよく開けて中へと入っていく。
「畜生おっちゃん御一名! 肉ばっかり食いたがっとる、えらいこっちゃ!」
彼女は威勢のいい声を張り上げると、戸惑う春樹を促してカウンター席へと強引に座らせた。
そのまま、「えらいこっちゃ」と独り言を漏らしながら、彼女は素早い動きで店の奥へと姿を消していく。
「ちょ、待てや。そりゃ肉メインで食うけどな、俺かってバランスは考えとるで。ちゃんと野菜も食うがな」
春樹は苦笑いしながら、誰もいなくなった奥に向かって声をかけた。
だが、その言葉が消えぬうちに、カウンターの奥から「ぬっ」と、まるで地面から湧き出るように一体のお地蔵様のような人物が顔を出した。
その人物は、見る者の心を洗うような穏やかなニコニコ笑顔を湛えている。
「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。御客様の御迎え、有難う御座います。そして、御客様、いらっしゃいまし」
彼は静かに両の手を合わせ、深い慈悲を感じさせる所作で合掌してお辞儀をした。
「私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます」
そのあまりにも浮世離れした、それでいて圧倒的な安心感を与える風貌に、春樹は思わず居住まいを正した。
「あ、はあ……初めまして。俺は中田春樹って言います。土方の仕事やっとるもんです」
春樹は店内の様子をぐるりと見渡した。
木の温もりが感じられる清潔な和食の店、といった風情だ。
「ここって、見たところ上品な和食の店みたいやけど……さっき、えらいこっちゃんが焼肉食わしてくれるって言うたんでね。ほんまに焼肉もやってるんですか?」
地蔵店長は、そのお地蔵様のような笑顔を崩すことなく、穏やかに答えた。
「はい、御用意させて頂きます。それでは、一人用焼き肉セットを御所望と言う事で宜しいでしょうか?」
「おお、マジであるんや! 良かったわ、口の中がもう焼肉の準備万端やったんや」
春樹は相好を崩し、膝を叩いて喜んだ。
「そんじゃ、それお願いします! カルビとロース、脂の乗ったところを思いっきり食わせて下さい! 今日は精をつけなあかんのですわ!」
春樹の屈託のない、しかし自らの欲求に忠実な声が店内に響き渡る。
地蔵店長は静かに頷き、その奥に潜む「業」をすべて見通しているかのような深い眼差しで、調理場へと向かった。
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## 六文銭と猫耳料理人の焼肉膳
カウンターに座った春樹が、これから運ばれてくるであろう肉の山を想像して鼻息を荒くしていると、いつの間にかベレー帽姿はそのままに、黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を羽織ったえらいこっちゃ嬢が、音もなく横に立っていた。
「無銭飲食は、えらいこっちゃ。財布の中身を確認しとかんと、えらいこっちゃなフラグが立ちよる」
彼女の淡々とした、しかし有無を言わせぬ警告に、春樹は「へ?」と面食らったような声を漏らした。
「え? いやいや、御嬢ちゃん、ちゃんと金なら払うがな。こう見えても稼ぎはあるんやで」
春樹はガサゴソとズボンのポケットを探り、革の財布を取り出した。
中を確認すると、1万円札が2枚と、5千円札が1枚。
合計2万5000円という、一晩の飲み代としては十分すぎる額が入っている。
だが、反対側のポケットに手を突っ込んだ時、指先に冷たくて硬い、妙な感触が当たった。
取り出してみると、そこには歴史の教科書でしか見たことがないような、古びた穴あき硬貨が6枚入っていた。
「ああ、そうか……。俺、今日は同窓会帰りやったっけ? タクシー代やら二次会用に、多めに金を入れてたんやったな。そんで、神社にお守りでも買わなあかんと思って立ち寄ったはずやけど……」
春樹は、手のひらの上に並んだ6枚の奇妙な硬貨を凝視し、首をかしげた。
「この昔の金みたいなんは、一体なんや? 記憶にないなあ。神社の販売所で、お土産にでも買ったんやったかな」
三途の川の渡し賃である「六文銭」を彷彿とさせるその硬貨の不気味さに、今の春樹は全く気づいていない。
「まあええわ、こういうのは神社でよく売ってる縁起もんやろ。知らん間に買ったんやろな。それより肉や、肉! 早く焼かせてくれや!」
豪快に笑い飛ばす春樹を見て、えらいこっちゃ嬢は「えらいこっちゃ」と呟きながら厨房へと戻った。
間もなく彼女は、旅館の夕食で見かけるような一人用の和風コンロと、円形の一人用焼き肉プレートを抱えて戻ってくると、手際よくカウンターにセットした。
「じゅうじゅう焼くのは、えらいこっちゃな準備」
そして、えらいこっちゃ嬢が指を「パチン」と小気味よく鳴らした。
ボォッ!
コンロの奥から勢いのある炎が上がり、焼き肉プレートを一気に熱していく。
彼女が一度厨房へ戻ると、今度は猫耳を生やした、穏やかな笑顔の女性が大きな皿を抱えてやってきた。
赤色の着物に真っ白な割烹着、そして猫耳が突き出すように工夫された三角巾を付けたその姿に、春樹は思わず目を剥いた。
「うわ、猫が……猫が着物と割烹着着てるし……!」
「猫子と申します。宜しくお願いします。ほな、まずは牛脂をひかせて貰いますえ」
猫子は驚く春樹を気にする様子もなく、はんなりとした京言葉で挨拶をすると、熱を帯び始めたプレートに白い牛脂を滑らせた。
続いて、見事にサシの入ったカルビとロースが盛られた大皿と、瑞々しい野菜のセットが目の前に置かれる。
猫子は一旦厨房へ戻り、今度は炊きたての香りが漂う御櫃と茶碗をお盆に乗せて運んできた。
「御飯もおかわりして頂けますえ。ほな、ご自由に焼いて下さいまし」
猫子が再び厨房へ消えると、春樹は「よっしゃ、ほな肉焼くで!」と意気揚々とトングを握った。
煙が立ち上がろうとした瞬間、えらいこっちゃ嬢が不思議な空気吸引装置をカウンターの脇に置く。
煙は魔法のようにその装置へ吸い込まれ、店内の空気が汚れることはない。
さあ、いよいよ肉を網に乗せようとしたその時、えらいこっちゃ嬢が腰に手を当てて「びしっ」と春樹を指差した。
「合掌頂きますせんやっちゃは、給食の時間からやり直し、えらいこっちゃ」
「あ、ああ、そうやな。行儀が悪かったわ。……頂きます!」
春樹が渋々ながらも両手を合わせて「頂きます」をすると、えらいこっちゃ嬢はようやく満足げに頷き、静かに厨房へと戻っていった。
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## 至高の一人焼肉と、心の綻び
じゅう、と小気味よい音を立てて肉が躍る。
春樹は、焼き加減を見極めて黄金色の脂が浮き出た肉を一口、口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、濃厚な肉汁が溢れ出し、上質な脂の甘みが舌の上でとろけるように広がっていく。
「……っ! なんやこの肉、めっちゃ上等な肉使ってるんちゃうん! 旨味が濃いのに、後味はさらっとしてて、これやったら何枚でも無限に食えるで!」
春樹の顔は思わず綻び、心の底から「ほっこり」とした温かさが込み上げてくる。
続いて網の上でじっくりと焼かれた南瓜と玉ねぎに箸を伸ばした。
南瓜はホクホクとして栗のような甘みを湛え、玉ねぎは加熱されることで引き出された、果実のような独特の自然な甘みが際立っている。
「肉も野菜も、焼肉のタレが無くても十分美味いし……このタレはタレで、また肉の味を引き立てよる。そして何より、この御飯がめちゃくちゃ美味いやんけ!」
歓喜に沸く春樹の声に、厨房の奥から猫子の穏やかな声が響く。
「御飯は土鍋で、一粒一粒が立つように炊き上げてますさかい。お口に合って何よりですえ」
「御飯も本格的やな。素材から火入れまで、全部が完璧や。最高の一人焼肉やわ!」
春樹は、大好きな肉を思う存分に頬張り、炊きたての銀シャリで追いかける幸福感に浸った。
ラグビー部時代に食らいついた、がむしゃらな食事とは違う。
一つ一つの素材の命を頂いているような、深い満足感が彼を包み込んでいく。
やがて、大皿に乗っていた肉も野菜も、御櫃の中の御飯も、すべてが綺麗に平らげられた。
春樹は、お腹も心も満たされた、文字通りの「ほっこり」した笑顔で、満足げな溜息を吐いた。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの端でえらいこっちゃ嬢が、微動だにせず彼をジーっと見つめていた。
その「台形の口」が、何かを促しているように見える。
「あ、そっか。……御馳走様でした」
春樹は自然に両手を合わせ、深々とお辞儀をした。
「いただきます」から「御馳走様」まで、これほどまでに一食を慈しんだのは、彼の人生で初めてのことかもしれない。
えらいこっちゃ嬢は、彼の「御馳走様」を聞くと、満足したように小さく一度だけ頷いた。
彼女は一旦厨房へ戻ると、今度は湯気を立てる食後の御茶を運んできて、春樹の前に静かに置いた。
「食後の一服、えらいこっちゃな休息」
「有難うなあ。……こんなに美味い焼肉を出してくれる和食の店があるなんてな。今日はほんまに、ここに来て良かったわ」
春樹は熱い茶を啜り、胃の腑に落ちる温もりを楽しみながら、至福の余韻に浸っていた。
自分の犯してきた過去も、背負っている「呪い」の正体も知らぬまま、彼はただ、差し出された慈悲の味に心を解かされていたのである。
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## 共食いのミートパイと招かれざる客
春樹が脂の乗った肉と土鍋御飯を平らげ、満足感に浸りながらほっこりとした笑顔を浮かべていると。
えらいこっちゃ嬢がどこからともなくメニュー表らしき冊子を持って現れ、無言でスッと春樹の前に差し出した。
受け取った春樹が何気なく中を開いてみると、そこにはおよそデザートとは思えない不穏な文字列が並んでいた。
「なんやこれ? デザートの『共食い畜生藁人形ミートパイ』? 名前、えらい物騒やな」
春樹が首をかしげると、地蔵店長は、柔和なニコニコお地蔵さん笑顔を崩さぬまま、静かに合掌してお辞儀をした。
「肉を使ったデザートに御座います。焼肉を十分に堪能された後であることを考慮致しまして、サイズは小ぶりなものに仕上げておりますが」
「なんや、デザートもセットになっとるんけ? サービス満点やな、豪華なこっちゃ。まあ名前は意味不明やけど、ミートパイってことは要するに中に肉が入っとるパイなんやろ? ほな、それ出してえな。肉好きの俺には最高の締めやわ」
春樹は豪快に笑い、期待を込めて注文した。
えらいこっちゃ嬢はメニュー表を受け取ると、音もなく厨房へと消えていった。
そしてすぐさま、手際よく調理された「それ」を、静かに丁寧に春樹の前へと置いた。
それは、精巧に編み込まれた藁人形の形を模した、香ばしい焼き色のミートパイであった。
春樹は早速フォークを手に取り、躊躇なくその人形の胴体を切り分けた。
サクッ!
小気味よい音と共に、中からは溢れんばかりの肉汁を蓄えたジューシーなミンチ肉が顔を出す。
一口運べば、パイ生地のほのかな甘みと肉の力強い旨味が絶妙に絡み合い、春樹は再び「ほっこり」とした幸福感に包まれた。
「デザートも一級品、いや、それ以上やんけ。御嬢ちゃん、俺、ここ気に入ったで。常連になるわ」
春樹はあっという間にミートパイを平らげ、皿を綺麗に空にした。
「これ、形はあれやけど、お土産にも持って帰りたいくらいや。明日の朝飯用にお持ち帰りってできるんけ?」
春樹が満足げに尋ねると、えらいこっちゃ嬢は感情の読めない瞳で彼を射抜いた。
「お持ち帰りは出来ひん。えらいこっちゃ」
「なんや、お持ち帰りサービスあらへんのかいな。勿体ないなあ。これ売り出したら絶対儲かるで」
春樹が笑い飛ばした、その瞬間。
えらいこっちゃ嬢は、突き放すような冷ややかな声音で言い放った。
「あっさり共食いしてしまいよった。えらいこっちゃ」
「え?」
春樹はフォークを握ったまま固まった。
言葉の意味が分からず、ただ戸惑いの表情を浮かべて彼女を見上げる。
その時。
店の静寂を破るように、入り口の扉が重々しく開いた。
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## 金髪の超絶美少女な鬼と「畜生」の呼び名
乾いた音を立てて店の扉が開いた。
夜の冷気が足元をかすめ、春樹が思わず音の方を振り返ると。
そこには、この世のものとは思えないほど鮮烈な色彩を纏った少女が立っていた。
春樹は一瞬で、その美しさに目を奪われ、見惚れてしまった。
少女の髪は夜の闇を黄金に染めるような眩い金髪で、それをシュシュで左側にまとめ、サイドテールにしている。
その頭上には、漆黒の輝きを放つ二本の鎌状の角が左右に生えており、金色の瞳は宝石のような鋭さと妖艶さを同時に湛えていた。
彼女が身に纏っているのは、黒地に金色の花の刺繍が贅沢にあつらえられた美しい着物。
その佇まいはまさに絶世の着物美人でありながら、どこか現代の「ギャル」のような奔放な雰囲気も醸し出している。
春樹は、これまで出会ったどんな女性よりも美しく、そして危ういその姿に釘付けになった。
「女鬼ねえちゃん、流石のグッドタイミング! えらいこっちゃな呪われ畜生おっちゃんは準備完了、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢が、椅子の上で手をぶんぶんと振って賑やかに挨拶をする。
地蔵店長もまた、カウンターの奥から深く静かに合掌した。
「女鬼さん、いらっしゃいまし。丁度良い頃合いで御座います」
「おつー♪ ばっちり準備ありがとねー♪ 今回は呪術師さんと住職ちゃんのおかげで仕事が楽で助かったし♪ あの二人、マジシゴデキじゃん♪」
女鬼と呼ばれた少女は、茶目っ気たっぷりにウインクをして見せた。
彼女の手には、何やら重みのありそうな風呂敷包みが握られている。
その言葉遣いやノリは完全に現代の若者、いわゆるギャルのそれであったが彼女が店の中を歩むその所作は、一分の隙も無く、荘厳な美しさを纏っている。
優雅でありながら、踏みしめる一歩一歩が空間を支配していくようなその歩みに、春樹は思わず息を呑んだ。
女鬼は春樹の目の前、カウンターの定位置までやって来ると、凛とした動作で立ち止まった。
「そんじゃ、畜生おっちゃん、よろー♪」
再び放たれた完璧な美貌によるウインクに、春樹は不覚にもときめき、胸を高鳴らせた。
しかし、同時にその頭上の「角」のあまりのリアルさに、驚きを隠せない。
「お、おう……。えっと、お姉ちゃん、その角みたいなんは、あれか? カチューシャか何かでつけとんのけ? めっちゃ出来ええな、本物みたいやん」
春樹が照れ隠しに笑いながら尋ねると、女鬼はクスクスと鈴の鳴るような声で笑い、自分の角を指先で軽く叩いた。
「これ? モノホンの鬼の角だし。あーしは本物の鬼だかんね♪」
こともなげに、そして当たり前の事実として告げられたその言葉。
冗談とは思えないほどの重みと、彼女から溢れ出す異形の威圧感。
春樹の背中に、じっとりとした冷や汗が伝った。
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## 忘却の獣と鬼の断罪
「本物の鬼って……。いや、でも猫子ちゃん言うたんかな、さっきの料理人も猫やったし、店長はお地蔵さんやし……。え、俺、今更やけど、とんでもなくやばい店に来てもうたんけ?」
春樹の背中を、氷のような冷たい戦慄が駆け抜けた。
今まで「ほっこり」と温まっていた胃の腑が、一瞬にして凍りつくような感覚。
ラグビーで鍛えたその分厚い体が、目に見えてぶるぶると震え始める。
「んー、この店自体はやばくはないかなー。やばいのは、畜生おっちゃんの行いと、それに気づかない鈍感さってか、愚かさ?」
女鬼は首をかしげ、まるで今日の献立でも選ぶかのような気軽さで、致命的な言葉を投げかけた。
その金色の瞳には、春樹を「人間」としてではなく、もっと価値の低い「何か」として見下ろすような光が宿っている。
「え……?」
「あれだけ肉喰らいまくっても、共食いに全く気付かん。えらいこっちゃな畜生道まっしぐら。えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢がカウンターの上で手をぶんぶんとなびかせ、追い打ちをかけるように言い放つ。
その無機質な声が、春樹の混乱をさらに深いものへと突き落としていく。
「いや、何を……。そういえば、会った時からえらいこっちゃんは畜生畜生って言いよるし。初対面でいきなり俺のことを『畜生おっちゃん』って! 女鬼ちゃん言うたよな、俺、君とはほんまに初対面やろ?」
春樹の困惑は、次第に腹立たしさへと変わっていった。
自分は客だ。そして、相手は年若く見える少女。
いくら「鬼」だと自称していても、その無礼な物言いを許せるほど、春樹の器は広くはない。
「そ、今初めて会ったよ」
女鬼はあっけらかんと答えた。
「やったら、初対面の相手に向かって、畜生呼ばわりは失礼過ぎるやろ! こっちは金払って飯食っとる客やぞ!」
春樹が声を荒らげると、女鬼はさらに深く、小馬鹿にするように首をかしげた。
「そうなん? 初対面の相手に対して、相手は畜生おっちゃんを視界にすら入れてない下級生に対して、『今睨んだやろ!』って因縁つけて脅すんは、失礼じゃないっての?」
ドクン、と。
春樹の心臓が大きく跳ねた。
「え……?」
脳裏に、すっかり埃を被って忘却の彼方に追いやられていた、薄暗い校舎、走り回った運動場の光景がフラッシュバックする。
怯える少年の顔。自分が振り下ろそうとしていた拳。
「ほら、やっぱ畜生じゃん。自分のやった事を都合よく忘れちゃってるし。娑婆の諺だと『鶏は3歩歩いたら忘れる』って言うけどさ。鶏ってまだ可愛げあるけど、畜生おっちゃんは可愛げの欠片も無いから、タチ悪いよね」
女鬼の言葉は、鋭い刃となって春樹の自尊心を切り裂いた。
彼女の口から語られるのは、春樹が「大したことではない」と、あるいは「取るに足らない事」として覚える事無くすぐに消し去った、醜悪な加害の記憶だった。
「な、お前……! 調子に乗りやがって!」
カッとなり、頭に血が上る。
春樹は怒りに任せて、座っていた椅子を激しく後ろへ蹴り飛ばしながら立ち上がった。
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## 絶対強者の腕と、畜生の身の程
「俺は学生時代はラグビーやってるし、今は肉体労働してて、俺に逆らえる奴はガキの頃から誰もおらんかったんやぞ? 喧嘩は負け知らずや! お前がいくら可愛い女の子でも、喧嘩売っとんなら買ったるぞコラ!」
春樹は自らの分厚い胸板を叩き、威嚇するように吠えた。
体格のいい体を揺らし、丸太のような腕を振り回すその姿は、凡百の人間であれば縮み上がるほどの威圧感がある。
彼は怒りに任せて、女鬼の胸倉を掴みかかろうと、太い腕を猛然と突き出した。
しかし、その指先が女鬼の着物に触れることはなかった。
「おっと。危ないなー」
女鬼は、瞬きする間もない速度で春樹の手首を軽々と掴み取った。
彼女は全く力を入れているようには見えず、ただ、飛んできた羽虫を止めるようにそっと指を添えただけに過ぎない。
だが、その瞬間に春樹を襲ったのは、これまでの人生で一度も味わったことのない、魂を直接凍りつかせるような根源的な恐怖だった。
「『可愛い女の子でも』か。可愛いって思ってくれてんだね、ありがと♪」
女鬼は余裕の笑みを浮かべていたが、次の瞬間、その黄金の瞳から一切の温度が消え失せた。
「自分より小柄で勝てそうだって錯覚した相手には強気に出られて、自分より強い奴だって認識した相手にはへこへこする。あんたの言う『ガキの頃』から、中身が全く成長してないんだねー」
彼女が笑顔を解き、冷めた目で射抜いただけで、春樹は金縛りに遭ったかのように一歩も動けなくなった。
反射的に抗おうとした春樹の視界に、女鬼の着物の裾からわずかに覗いた「腕」が飛び込んでくる。
それは、着物の上からでは想像もつかなかった、凄まじく鍛え抜かれた筋肉質の腕だった。
単に見せびらかすための肥大した肉の塊ではない。
無駄な脂肪は1gたりとも存在せず、相手を確実に、効率的に破壊することだけに最適化された、肉弾戦のための究極の武具。
芸術的なまでに極限まで引き締まり、美しくも禍々しいまでの威圧感を放つその腕を目の当たりにした瞬間、春樹の脳内にある「喧嘩の常識」は粉々に砕け散った。
絶対に敵わない。
喧嘩を売ってはいけない相手を、彼は本能で理解してしまったのだ。
「どしたん? あんたより小柄で華奢な女の子だったら、勝てると思ったんじゃないの? あーしに勝ってみなよ。喧嘩じゃ負け知らずなんだよね?」
女鬼は表情一つ変えず、春樹の魂の奥底までを見透かすように問いかける。
春樹は声を発することさえできず、ただガチガチと歯を鳴らして硬直するしかなかった。
「女鬼ねえちゃんは、閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も頭が上がらん、細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼! 超絶シゴデキ鬼のギャル美少女! 素人畜生がかなうわけない、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢がカウンターの上で手をぶんぶんと振り、誇らしげにまくしたてる。
春樹のプライドは、この摩訶不思議な食堂の静寂の中で、完膚なきまでに叩き潰されていた。
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## 水面に揺れる「恐怖」の記憶
「わ、悪かった……! いきなり掴みかかろうとしたのは謝る。せやから、その……手を放してくれ、頼むわ……っ」
先程までの凄みはどこへやら、春樹は喉を震わせ、無様に懇願した。
強靭な肉体を誇り、喧嘩では負け知らずを自称していた男が、自分より遥かに小柄な少女の前で、ただの怯える獲物へと成り下がっていた。
「ん」
女鬼は実にあっさりと、パッと指の力を抜いた。
支えを失った春樹の巨体は、重力に従ってカウンターの椅子へとドサリと崩れ落ちる。
解放された手首を確認すれば、そこには指の形に沿ってどす黒く腫れ上がった痣が浮き上がっていた。
ただ「そっと」掴まれただけのはずが、その内側では骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げている。
人間とは根本的に「作り」が違う――その絶望的な事実をまざまざと思い知らされ、春樹の全身を止めどない震えが襲った。
「あーしってさー、畜生おっちゃんからすると、喧嘩じゃ絶対にかなわない相手だから『やっさん』側に分類されて、逆らわない対象になったってことでOK?」
女鬼は、面倒な事務作業でも片付けるような調子でため息をついた。
その瞬間、春樹の心臓が爆ぜたかのように大きく跳ね上がる。
「……っ!? な、なんで、その名前を……」
『やっさん』。
それは、かつて春樹が小学・中学時代、その圧倒的な喧嘩の強さに本能で「勝てない」と察し、媚を売るように呼んでいた安田という人物へのあだ名だった。
どれほど理不尽なことをされても、多少の無茶を言われても、決して逆らうことなどできなかった絶対的な捕食者。
30年以上、一度も口にすることなく、脳の奥底の掃き溜めに捨て去ったはずの呼称を、今日初めて会ったはずの鬼の少女が、事も無げに口にしたのだ。
「懐かしい名前や……。でも、なんで君がそれを知っとるんや……。誰から聞いたんや……っ!」
ガチガチと歯の根が合わないまま、春樹は震える声で問いかけた。
自分より強い者を見極め、即座に服従することで身を守ってきた卑屈な生存本能が、女鬼の中にあの「安田」と同じ、抗いようのない暴力を認めていた。
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### 鏡となる水面
沈黙を破るように、厨房からえらいこっちゃ嬢が戻ってきた。
その小さな両手には、儀式にでも使うような巨大な平盃と、透明な炭酸水が入った瓶が握られている。
彼女は座り込む春樹の膝の上に、その盃をズイっと無理やり押し付けた。
「えらいこっちゃな御神酒代わりのシュワシュワ。こぼしたら、えらいこっちゃ」
春樹は反射的に盃を両手で支える。
えらいこっちゃ嬢は炭酸水の瓶を女鬼へと手渡すと、女鬼は「ありがと♪」と笑顔でその銀髪を優しく撫でた。
次の瞬間、女鬼の纏う空気が一変した。
ギャル特有の軽薄さは影を潜め、太古から続く高貴な血統を感じさせる、荘厳で優雅な所作へと移行する。
彼女は作法に則った無駄のない動きで、春樹が持つ盃へと炭酸水を注ぎ始めた。
トトト……と、清涼な音を立てて無色の液体が満ちていく。
注ぎ終わると、女鬼は流れるような動作で指を「パチン」と鳴らした。
刹那、盃の中の炭酸水が激しく泡立ち、水面が複雑な波紋を描いて揺れ動く。
春樹は、吸い込まれるようにその水面を凝視した。
弾ける気泡の合間に、色が、形が、そして「記憶」が像を結んでいく。
「これは……」
水面に映し出されたのは、現在の春樹ではない。
泥にまみれた体操服、狂気を宿した爛々と輝く瞳、そして自分より弱い者を見つけてはいたぶることに悦びを感じていた頃の、若き日の自分だった。
「ガキの頃の……俺や……」
春樹の呟きが、静まり返った店内に虚しく響いた。
その映像の中の自分は、自分より弱そうな相手を見つけ出し、今まさに因縁をつけようと歩み寄っていた。
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## 水面に映る「暴君」の残像
盃の中の炭酸水は、春樹の震える手に応じて激しく波打ち、やがて鮮明な色彩を帯びた映像へと変貌を遂げた。
映し出されたのは、今から30年以上も前、春樹が小学校の5年生か6年生だった頃の、ある放課後の光景である。
画面の中の幼い春樹は、既に周囲の児童よりも一回り体が大きく、不遜な笑みを浮かべて運動場を我が物顔で歩いていた。
すると、前方を歩いていた1学年下の、気弱そうな少年が視界に入る。
少年はただ、俯き加減に前を向いて歩いていただけだった。
春樹を視界に入れてさえいなかった。
だが、映像の中の春樹は、獲物を見つけた獣のような目つきで少年に歩み寄ると、その胸ぐらを乱暴に掴み上げ、耳を刺すような怒声を浴びせた。
「……おい、今睨んだやろ! ああん!?」
「え……? 睨んでません、そんなこと……」
少年は恐怖に顔を歪ませ、細い声を震わせた。
だが、春樹はその弁明を鼻で笑い、散々に因縁をつけて少年の心を完膚なきまでにへし折ってから、ゴミでも捨てるかのように突き放した。
全くの無実。
目が合うどころか視界にすら入れておらず、存在すら認識していなかった年下の少年に対し、春樹は「自分が強いことを誇示するためだけ」の、身勝手極まりない言いがかりをつけたのである。
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場面は切り替わり、今度は校舎の廊下の光景が映し出された。
再びあの少年を見つけた春樹は、挨拶代わりとばかりに少年の背後から飛びつき、その太い腕で強引にヘッドロックをかけた。
「痛い、放して……っ!」と悶える少年の体を引きずり回し、まるで玩具でも扱うかのようにぶんぶんと振り回す。
執拗な暴力。
逃げ場のない廊下で繰り返される、一方的な蹂躙。
ついに少年は耐えきれず、声を押し殺してボロボロと涙を流し始めた。
その痛ましい様子を近くで見ていた同級生の女の子が、たまらず割って入る。
「ちょっと、春樹! 何やってんの! 可哀そうやん、やめてあげえや!」
正論をぶつけられた瞬間、春樹の矛先は一瞬にして彼女へと向いた。
「なんや、お前に関係ないやろ!」と、今度はその少女を大声で威嚇し、彼女を面白がって校舎の隅まで追いかけ回した。
「ねえ、この女の子のこと、好きだったん? 好きな女の子にちょっかいかけちゃう、哀れな小学生男子あるあるってこと?」
女鬼が、頬杖をつきながら冷ややかな声を投げかける。
その金色の瞳には、春樹の浅ましい精神構造を解剖するような鋭い光が宿っていた。
「い、いや、そういうわけやない……」
春樹は、掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。
自分の内側にあったのは、好意などという高尚な感情ではない。
ただ、「自分に意見する不届き者を黙らせたい」という、純粋で醜悪な支配欲だった。
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水面の映像は止まらない。
先生がいない隙を見計らっては、掃除用具入れに誰かを閉じ込める。
自分より足が遅い奴にわざと足を引っかけ、転んだ姿を嘲笑う。
給食の残り物を無理やり口に押し込む。
水面に次々と映し出されるのは、自分より弱そうに見える相手だけを選び、平気で暴力や悪意を振り撒き続ける「畜生」そのものの姿であった。
春樹は、これまで自分の人生を「ラグビー部で鍛えた豪快な男」のストーリーとして書き換えてきた。
だが、初めて客観的な視点で見せつけられた自分の本性は、強者への媚びと弱者への虐待で塗り固められた、見るに堪えない汚泥の塊だった。
春樹は震える手で盃を支え、あまりの嫌悪感と恐ろしさに、声を出すこともできずにただ硬直していた。
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## 間上鳥羽公園の泥濘と、虎の威を借る狐の末路
盃の中の炭酸水は、春樹の激しい動揺を映し出すかのように、不気味な泡を立てながらさらにドロリとした色に染まっていく。
そこに映し出されたのは、今から30年以上も昔、小学6年生の頃の忌まわしい記憶の断片であった。
場所は間上鳥羽公園。
夕暮れ時の砂埃が舞う中、ソフトボール大会に向けた練習が佳境を迎えていた。
カキーン、という乾いた金属音が響く中、当時の春樹は、学校一のガキ大将として君臨していた安田――通称「やっさん」の影に、金魚の糞のようにぴたりと張り付いていた。
「やっさん、今のバッティング、マジでプロ級やったな! さすがやっさんや、誰もかなわへんで!」
水面に映る幼き日の春樹は、安田の機嫌を損ねぬよう卑屈なまでにへこへこし、揉み手でもせんばかりの勢いで媚びた笑いを振りまいている。
安田という圧倒的な強者の庇護を受けることで、春樹はチーム内で盤石の「ナンバー2」という立ち位置を手に入れていた。
安田の不興を買えば即座に暴力が飛んでくることを誰よりも理解していた春樹は、自らが標的にならないよう、安田の悪行に加担し、さらにはそれを助長させることで自らの地位を守り続けていた。
安田が虫の居所が悪ければ即座に誰かを怒鳴りつけ、時には平手打ちを食らわせる。
春樹もまた、それがさも正当な儀式であるかのように追従し、自分より立場の弱い下級生たちに対して、安田以上に執拗な恫喝を繰り返していた。
その蹂躙される側の中には、あの例の気弱な少年の姿も混じっていた。
ある日の練習、少年には何一つ落ち度はなかった。
ただ指示通りに守備に就き、懸命にボールを追っていただけである。
それなのに、安田はいきなり「動きがトロいんじゃボケッ!」と意味不明な怒声を上げ、少年に向かって硬いボールを至近距離で力任せに投げつけた後、いきなり殴って暴力を振るい始める。
少年が恐怖で後ずさり、必死に許しを請うような視線を向けると、安田はさらに激昂して少年の肩を突き飛ばした。
春樹はその光景を止めるどころか、獲物を見つけたハイエナのような歪んだ笑みを浮かべ、少年の耳元でさらに追い打ちをかけるような罵声を浴びせた。
「おいコラ! やっさんがせっかく指導してくれとるのに、なんやその態度は! ちゃんと誠意見せんかい、このグズがッ!」
春樹の声は、安田への忠誠心を見せつけるためのパフォーマンスであり、同時に自分より弱い存在を徹底的に叩くことで得られる、安っぽく醜悪な優越感に満ちていた。
練習が終わっても、彼らの暴挙は止まらない。
本来、重いネットやバットの束、ベースなどの道具は、公平を期すためにじゃんけんなどで持ち帰る当番を決めるのがチームの決まりだった。
しかしその日は、安田の一言で全ての道具がその少年に押し付けられた。
春樹は嘲笑いながら、少年の細い肩に無理やり重いバッグのストラップを食い込ませ、わざとバランスを崩すように背中を蹴飛ばした。
「おい、しっかり持てよ。一つでも無くしたら、明日どうなるか分かっとるな?」
夕闇が迫る公園の入り口、少年は一人だけ、自分の体よりも大きな荷物を背負わされ、涙を堪えながらとぼとぼと歩き出す。
重みで膝が震え、今にも折れそうな足取りで家路を急ぐ少年の背後から、春樹と安田はゲラゲラと下卑た笑い声を上げながら、手ぶらで悠々と去っていく。
その光景が、残酷なまでに鮮明に、音と共に盃の中に再生され続けていた。
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### 鬼の叱咤と、崩れ落ちる言い訳
「えげつないよねー。世の中には『弱きを助け強きをくじく』なんて立派な言葉があるけどさー。あんたがやってたことって、まさに真逆の『強きに屈して弱きをくじく』じゃん。典型的な虎の威を借る狐ってやつ? ねえ、こんな最低なこと平気でやりまくって、当時はさぞかし楽しかったんでしょ?」
女鬼は、肘を突きながら、冷え切った金色の瞳で春樹を射抜いた。
その声には、単なる軽蔑を超えた、魂の底を直接抉るような鋭い殺気が込められている。
春樹は、あまりの圧に全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、盃を持つ手がガチガチと音を立てて震え始めた。
「そんな……でも、俺だけやないやん! やっさんだってやってたし、俺はやっさんに逆らえんかっただけで……」
耐えきれなくなった春樹は、自らの醜さを安田という「盾」の裏に隠して逃げようと、盃から視線を逸らそうとした。
己の罪を、環境のせいに、他人のせいにしようとするその卑怯な本性が、土壇場で顔を出した。
「言い訳にならない言い訳して、自分の悪行から目を逸らしてんじゃないよッ!」
女鬼の一喝が、店内の空気を一瞬にして爆ぜさせた。
その怒号は、地鳴りのように床を揺らし、春樹の脳内に直接叩きつけられる。
春樹は「ひっ、あ、あああぁぁぁ!」と短い悲鳴を上げ、反射的に盃を抱え込むようにして再びカウンターにへたり込んだ。
女鬼から放たれる凄まじい威圧感に縛り付けられ、もはや目を閉じることさえ、顔を背けることさえ許されない。
「あんたは自分の意志で笑ってた。安田がやってない時だって、あんたは進んでその子を傷つけ、その子以外の子達も傷つけてた。安田に媚びるために、自分より弱い奴を差し出した。それが『畜生』じゃなくて、なんだっての?」
女鬼の冷徹な言葉が、逃げ場を失った春樹の耳に突き刺さる。
震える視線の先、盃の水面では、荷物の重さに耐えかねて転倒し、泥だらけになって泣いている少年の姿と、それを遠くから指差して腹を抱えて笑っている、若き日の自分自身の醜悪な顔が、いつまでも、いつまでも繰り返し映し出されていた。
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## 泥濘のラグビーと、鬼の審判
盃の中の炭酸水が再び激しく泡立ち、泥を溶かしたような濁った色に染まっていく。
映し出されたのは、春樹が中学に進学し、ラグビー部に所属していた頃の光景だった。
場所は、あの忌まわしい間上鳥羽公園。
春樹は右手にラグビーボールを抱え、嫌がる同級生や下級生を半ば強制的に集めていた。
「おい、練習やぞ! ラグビーは魂のぶつかり合いや、気合入れんかい!」
春樹がそういうと、一方的な暴力が始まる。
それは、練習という名目を隠れ蓑にした、ただの「暴力の隠れ場所」に過ぎなかった。
ルールも知らない、ラグビーをやったこともない同級生たちを無理矢理走らせると、ボールを持った相手に対して、春樹は加減を知らないタックルを浴びせる。
ドサッという鈍い衝撃音と共に、土煙の中に叩きつけられる少年たち。
それだけにとどまらず、春樹はボールを持った相手の腹や足を、あろうことかスパイクを履いた足で思い切り蹴り飛ばした。
蹴られた下級生たちが驚愕と痛みに顔を歪める中、ついにその中の一人、金田が声を上げた。
「やめえや春樹! これは練習ちゃうやろ、ただの暴行やんけ!」
「ああ!? なんや、文句あんのかコラ! ラグビーはこれくらい普通やぞ!」
春樹は食ってかかる金田に対し、謝罪どころかさらに激昂してその胸元を激しく蹴りつけた。
「痛っ……! だから、そういうのやめろ言うてんねん!」
金田は痛みに耐えながらも、春樹の胸をドンと突き返す。
しかし、体格に勝る春樹の暴走は止まらない。
執拗に暴力を振るい続ける春樹に対し、周囲の生徒たちもついに「ちょ、やめいや!」と数の力で割って入る。
同じく蹴られていた同級生の星田が中心となり、取っ組み合いになる二人を必死に引き剥がした。
下級生たちは怯え、今すぐにでも逃げ出したいという表情で震えている。
結局、その日の「練習」は最悪の空気のまま解散となったが、金田と星田、そして春樹の間の溝は、その後も修復不可能なほどにぎくしゃくしたまま残された。
高校、そして大人になるにつれ、春樹の横暴さは鳴りを潜めたかに見えたが、それは単に「社会のルール」という重しに抑えられていただけに過ぎなず、中身は全く変わっていなかった。
先程、女鬼に対して反射的に掴みかかろうとした短慮さが、彼の本質が1ミリも改善されていないことを雄弁に物語っていた。
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### 鬼の形相と、沈黙の「畜生」
「ねえ、完全に思い出せるようにさー、今から畜生あんちゃんの体で、あの時のタックルとか蹴り、再現してもいい?」
女鬼は、盃から目を離せない春樹に向かって、吐き捨てるように言い放った。
その声は、春樹の骨の髄まで響くほどに冷淡で、慈悲の欠片もない。
「い、いや……それは……勘弁してくれ……」
春樹は、震える唇からようやくそれだけの言葉を絞り出した。
あまりの恐怖に耐えかね、縋るような思いで女鬼の顔を見上げた、その瞬間。
「ひっ……あああ……っ!」
春樹は、人間が発せる限界を超えた情けない悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになった。
そこには、先程までの「美しいギャル」の面影は微塵もなかった。
女鬼の白い額には血管が青筋となって浮き出し、激しい怒りと憎悪を湛えている。
そして、開いた口元からは、獲物を引き裂くための鋭く白い牙が、禍々しい存在感を放って覗いていた。
まさに、伝承に語られる「鬼の形相」そのものが、至近距離で春樹を睨みつけていた。
「えらいこっちゃ、女鬼ねえちゃんの御叱りモード。ここまで激おこ案件なんは、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢の無機質な声が遠くで響くが、今の春樹にはそれを受け止める余裕すらない。
女鬼はただ、無言で春樹をジーっと見据えているだけだ。
しかし、その視線は巨大な鉄槌となって春樹の全身を縛り付け、指先一つ動かすことさえ許さない。
「ねえ。あーしは今、盃に映ってたあの時の少年と違ってさー、畜生あんちゃんに文句ありまくりで、殺る気満々で睨んでるわけだけど」
女鬼は牙を剥き出しにし、一文字ずつ噛みしめるように、地獄の底から響くような声で問いかけた。
「『今睨んだやろ』って、あーしには言わないん?」
春樹は、ガチガチと歯の根が合わないほどに震え上がり、返答することさえできなかった。
かつて自分が弱者に対して放った、あの傲慢で理不尽な言葉。
それが、自分より圧倒的に強く、逃げ場のない存在から鏡のように跳ね返ってきたのだ。
春樹はただ、己の卑小さを呪いながら、鬼の眼光に射抜かれたまま石のように固まっているしかなかった。
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## 外道の鏡と、修羅畜生の断罪
「……さ、さっきは、掴みかかろうとしてしもて、ほんまに悪かった。すみませんでした。そやから、勘弁して下さい……。この通りや……っ」
春樹はカウンターに額を擦り付けるようにして、必死に許しを請うた。
先程までの威勢の良さは欠片も残っていない。
鬼の牙、地獄の威圧感、そして自分の手首に刻まれたどす黒い痣が、彼から「反抗」という選択肢を完全に奪い去っていた。
「ま、あーしは畜生あんちゃんを、今すぐ食いちぎりに来たわけじゃないかんねー」
女鬼がふっと息を吐くと、その禍々しい気配が霧散し、元の超絶美少女ギャルの表情に戻った。
しかし、その声に宿る冷徹な響きは変わらない。
彼女は自分の長い金髪を指で弄りながら、憐れむような、あるいは心底呆れたような目線で春樹を見下ろした。
「争いに強い相手には速攻で媚びへつらってさー。逆に、肉体的に弱そうで喧嘩で勝てそうだと見定めた相手にだけ、これ見よがしに強く出る。典型的な『クソ雑魚小物ムーブ』決めちゃって。ほんと、今も昔も『畜生道』に加えて『修羅道』もぶっちぎりで爆走中とか、ここまで一貫してると、ある意味芸術的ですらあるかもよ?」
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### 修羅の道、畜生の業
女鬼の言葉は、鋭い毒針となって春樹の自尊心を刺し貫いていく。
春樹はガタガタと震えながら、絞り出すような声で聞き返した。
「な、何を言うてんのや。修羅道とか、畜生道って……。俺はただ、学生時代にちょっと……人より血気盛んやっただけで……」
「あー、まだそんなこと言ってんだ。マジ笑えねー」
女鬼は深いため息をつき、カウンターを指先でトントンと叩いた。
「自分は強いんだって勘違いして、争いの中にしか居場所を見つけられない『修羅道』。それから、ただ強弱の理屈だけで動いて、理性を捨てて弱者を食い物にする『畜生道』。あんたはその2つの道を、ガキの頃からフルスロットルで突っ走っちゃってたわけ」
春樹の脳裏に、先程水面に映し出された少年の泣き顔が、こびり付いて離れない。
ラグビーボールを持って暴力を振るうだけの悪行を「練習」だのと自分を正当化してきた言葉が、女鬼の言葉によって次々と剥がされていく。
「はっきり言うとさ、畜生あんちゃん……いや、『修羅畜生あんちゃん』はさー。ガキの頃から既に、人の道を外れちゃってたわけ。ねえ、今こうして過去の行いを観ても、自分をまだ『まともな人間』だって思えちゃうわけ? あんなの、まともな人間がすることじゃないよね?」
ぴしゃりと言い放たれた言葉が、春樹の胸に重くのしかかる。
「まさに、人の道を外れし者……『外道』としか言いようがないじゃん」
女鬼は吐き捨てるようにそう結んだ。
春樹は、何も言い返せなかった。
言い返そうと口を開きかけても、そのたびに盃の水面から、自分が踏みにじってきた者たちの怨嗟の声が聞こえてくるような気がして、言葉が喉の奥で詰まってしまう。
自分が信じてきた「自分」が、いかに歪で、醜く、他者の痛みの上に胡坐をかいていたか。
その事実をこれでもかと突きつけられ、春樹はただ、絶望的な沈黙の中で自分の震える膝を見つめ続けるしかなかった。
店の奥では、地蔵店長が何も言わず、ただ静かに微笑みながら彼らを見守っている。
えらいこっちゃ嬢も、台形の口を真一文字に結び、春樹の「精算」をじっと待っていた。
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## 六道の鏡と、修羅畜生の断罪
春樹は、重く冷たい盃を両手で支えたまま、深いうなだれを見せた。
水面に映し出された自らの醜悪な過去は、どんな言い訳も、どんな虚勢も通用しない絶対的な真実として、彼の心根を真っ向から叩き潰していた。
「俺は……人の道を外れてしもてた。子供の頃から、ずっと……」
掠れた声が、静まり返った店内に虚しく響く。
先程までの怒りや困惑は、今や深い自己嫌悪と、逃れようのない罪悪感へと変じている。
その様子を隣で見ていた女鬼とえらいこっちゃ嬢は、それまでの冷ややかな態度とは一転し、どこか悲しげで、やりきれないような複雑な表情を浮かべた。
二人は申し合わせたように、カウンターの奥で静かに佇む地蔵店長を、救いを求めるかのような目で見上げた。
春樹もまた、二人の視線に導かれるようにして、弱り切った瞳で地蔵店長を見上げた。
地蔵店長は、慈愛に満ちたお地蔵さんのような笑顔を絶やすことなく、静かに合掌した。
そして、まるで迷える子羊を導く聖者のように、ゆっくりと丁寧にお辞儀をした。
「春樹さんは、六道、あるいは『六道輪廻』という言葉を御存じでしょうか?」
「え? い、いや……。聞いたことはあるような気もしますけど、よう分からんです……」
春樹は困惑しながらも、地蔵店長から放たれる圧倒的な穏やかさに、縋るようにして答えた。
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### 迷いの世界、六道
地蔵店長は、教えを説く僧侶のように、穏やかな口調で語り始めた。
「六道とは、仏教において衆生が迷い、彷徨い続ける六つの世界のことで御座います。六道輪廻とは、生きとし生けるものが生前の業――つまり自らの行いによって、来世ではこの六つの世界のどこかに生まれ変わり、死と生を繰り返すことを指します。宗派や教えによって、この輪廻の解釈については様々な議論がありましょうが、今はただ、そのような道理があると知って頂ければ宜しいでしょう」
地蔵店長は一度言葉を切り、春樹の反応を確かめるように優しく見据えた。
「その六道の中に、『畜生道』という世界が御座います。ここは、動物の如く知恵が浅く、ただ本能のままに生きる者たちの世界です。自立した心がなく、強者に使役され、常に弱肉強食の恐怖と飢えという本能に依存して生きる、救いの少ない苦しみの世界です」
「動物のように……本能のままに……」
春樹は、地蔵店長の言葉を一つ一つ反芻するように呟いた。
その耳に、地蔵店長の静かな声が、さらに重い意味を持って響く。
「次に、『修羅道』。ここは、常に他者への疑いである猜疑心や、嫉妬、そして激しい怒りに支配され、どこまでも醜い戦いを繰り返す世界です。常に争いを好み、他者との比較の中でしか自分の価値を見出せない。そのため、その心に真の安らぎが訪れることは、決して御座いません」
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### 修羅と畜生の交差点
地蔵店長の笑顔は変わらないが、その言葉には、春樹の魂を直接断罪するような鋭い響きが宿り始めた。
「強きに媚び、弱きを挫く。権力者や自分より強いと感じた者には卑屈なまでに媚びへつらい、その一方で自分より弱いと感じた者に対しては、鬱憤を晴らすかのように徹底的に攻撃的になる。そのような性質もまた、この修羅道が持つ歪んだ本性と言えましょう。春樹さん、女鬼さんが指摘なさった貴方の性質は、まさにこの『畜生道』と『修羅道』が混ざり合った姿であるとは言えませんか?」
春樹の背中に、じっとりとした冷や汗が流れた。
地蔵店長の声は優しく、慈悲深い。
しかし、その内容は、春樹がこれまで無意識に目を逸らしてきた自らの本質を、最も残酷な形で暴き立てるものだった。
「自分より強いと感じた者には、安田さんの時のように大人しく従い、顔色を窺う。しかし、自分より弱いと感じた者、抵抗しないと感じた者には、獣の如く容赦なく牙を剥き、その痛みを顧みない。盃を通して御自身を客観視されて、そこに映っていたのは、まさにその通りの姿であったかと存じますが、如何でありましょうか」
地蔵店長は、逃げ場のない問いを、春樹の瞳の奥深くへと投げかけた。
春樹は、震える盃を見つめたまま、奥歯を噛み締めた。
運動場で泣いていた少年。
重い荷物を背負わされて歩く少年の背中。
それを見て笑っていた自分。
地蔵店長の言葉は、その一つ一つの記憶と完全に一致していた。
「……はい。その通りです。俺は、ずっとそうやって生きてきました」
春樹は、絞り出すような声でそれだけを言うと、ただただ深く、深く頷くことしか出来なかった。
豪華な焼肉の幸福感は霧散し、後に残ったのは、自らの業が作り出した修羅畜生の暗い影だけだった。
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## 忘却の境界線と、霧に消えた参拝理由
春樹は、何も映さなくなった盃の底を、ただ呆然と見つめ続けていた。
先ほどまで水面に広がっていた、泥に塗れた小学生時代の自分、そして暴虐の限りを尽くした中学生時代の自分の残像は消え去ったが、その光景は網膜の奥に焦げ付いたように離れない。
自らの人生を「力強いラガーマンの武勇伝」として、都合よく美化し続けてきた薄っぺらなメッキは、今や完膚なきまでに剥がれ落ちていた。
「俺は……何も考えんと、それこそ、キャンキャン吠えるだけの弱い犬みたいに。自分よりでかい奴には尻尾振って大人しくして、弱そうやって、喧嘩で勝てそうやって踏んだ相手にだけ、取り返しのつかへん痛い思いをさせてきたんやな……」
春樹の絞り出すような声は、後悔と自己嫌悪に震えていた。
「あの時、金田の奴が喧嘩を売ってきたんやと思うてたけど、違ったんやな。喧嘩を売り続けてたんは俺の方で、あいつはただ、俺の横暴を止めようとしてくれた……。あんなガキの頃に、あいつは一人で俺に立ち向かう勇気を持ってたんやな。こうやって外側から見せつけられて、初めてそのことに気づかされたわ」
30年以上、一度も向き合うことのなかった罪の重さが、鉛のように胃の腑に沈み込む。
「後輩たちにも……ほんまに、取り返しのつかへん悪いことをしてもうた。もう名前も顔も思い出せへんけど、ほんまに、あかんことばっかりしてきた。あれから20年も30年も経って、今更謝ったところで何が変わるわけでもないけど。……それでも、謝らんと、この胸のつかえは一生取れへん気がするわ」
春樹の独白を聞きながら、女鬼とえらいこっちゃ嬢は、それまでの冷ややかな眼差しを微かに和らげた。
しかし、その表情には、赦しとはまた異なる、どこか深い哀れみとやるせなさが混じっていた。
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### 畜生の自嘲
春樹はふらつく手で頭を押さえ、自嘲気味な笑みを漏らした。
「俺、仏教とか、生まれ変わりとか、そんな宗教の話はさっぱりわからん。信じたこともなかった。けど……やっぱ俺みたいな人間は、『死んだ後』は『畜生道』か『修羅道』に叩き落とされるんかな? 畜生って言うくらいやから、次は犬か何かに生まれ変わるんやろか」
えらいこっちゃ嬢が、台形の口を微かに動かし、冬の夜風のような冷たさを孕んだ声で呟いた。
「えらいこっちゃ」
「ははは、ほんまに、えらいこっちゃやで。俺がしでかした事もそうやし、犬とか猫とか、そんな動物になる自分なんて想像もつかへん。変な虫にでも生まれ変わったら、それこそ笑えん『えらいこっちゃ』やな……」
春樹は無理に笑い飛ばそうとしたが、その笑い声は店内の静寂に吸い込まれ、虚しく響くだけだった。
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### 霧に包まれた動機
女鬼は「『死んだ後』、か……」と呟く。
春樹は、「え?」と思わず声が漏れる。
女鬼は、肘を突いて春樹の顔をじっと覗き込んだ。
その金色の瞳は、春樹の脳内に残された記憶の断片を、一つひとつ解剖するように鋭く光る。
「ねえ。畜生修羅おっちゃんはさー、えらいこっちゃ嬢と、どこで出会ったわけ?」
「え? ああ、確か……どこかの神社やったはずや。赤い鳥居が並んでて、灯籠が薄暗く光ってて……。多分、神社の境内やと思う。少なくとも、城南宮とか北野天満宮みたいな有名なとこじゃなかったはずやけどな。……あれ、どこの神社やったかな?」
春樹は眉間に皺を寄せ、記憶の糸を手繰り寄せようとする。
あの銀色の髪の少女が、鳥居の陰から自分をじっと見つめていた光景は、鮮明に思い出せる。
「じゃあさ、一番大事なこと。そもそも、なんでおっちゃんは、そんな夜更けに神社なんかにいたの?」
「え?」
女鬼の問いに、春樹は言葉を詰まらせた。
神社にいた理由。
散歩のついでだったのか。誰かと待ち合わせをしていたのか。
あるいは、何か切実な願い事でもあったのか。
「それは、確か……。あれ、なんでやったっけ。お守りを買いに……いや、そんな信心深いことするタイプやないし。仕事帰り……? いや、違う。確か、何かを……何かをしようとして、あの場所へ行ったはずなんや……」
春樹は激しく首をかしげ、記憶の暗闇の中に手を伸ばした。
しかし、神社へ向かった動機、その直前に抱いていた感情。
それらの記憶だけが、深い霧に包まれたように真っ白な空白となって、どうしても思い出せなかった。
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## 五寸釘の呪縛と、赤き因縁の糸
春樹が記憶の迷路に立ち尽くしていると、女鬼が音も無く、しなやかな指先で机の上の風呂敷包みを解いた。
さらり、と滑らかな衣擦れの音と共に姿を現したのは、どす黒く変色した藁の束――。
それは、見る者の心臓を冷たく掴むような禍々しいオーラを放つ藁人形だった。
人形の胸元には、何かがびっしりと書き込まれた血のような色の御札が貼り付けられており、その上から容赦なく、10本、20本と数え切れないほどの五寸釘が深く打ち込まれていた。
「……っ! なんやこれ、藁人形か? 釘が仰山刺さって……気味悪いなあ、おい」
春樹は本能的な嫌悪感から、のけぞるようにして距離を取った。
鉄の錆びた匂いと、何かが腐敗したような不快な気配が、カウンター越しに鼻を突く。
「これに見覚え、あるんじゃない?」
女鬼が金色の瞳を細め、低く突き放すような声で問う。
「いや、知らん! 俺はこんな藁人形、見たことも使ったこともないわ。大体、俺が誰を呪うねん。そんな陰湿なこと、俺の性に合わんわ!」
春樹は震える声で笑い飛ばそうとした。
自分は豪快で、喧嘩なら真っ向からやる男だ、こんな呪術なんて自分とは無縁の世界の話だ――そう自分に言い聞かせるように。
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### 噴き出す業火と髑髏の叫び
「やっぱり、今のままじゃ気付かないか」
女鬼が静かに立ち上がった。
彼女が春樹の右肩にそっと触れた瞬間、その美しい金色の瞳が、夜の太陽のように激しく輝きを増した。
「……あ、がっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
突如として、春樹の全身を焼き尽くすような凄まじい激痛が突き抜けた。
悲鳴を上げてのたうち回る春樹の視界に、信じられない光景が広がる。
自分の体――腕から、胸から、足から、どす黒い怨念が霧のように噴き出し、それが無数の髑髏や、ゆらゆらと揺らめく不気味な鬼火となって一気に立ち現れたのだ。
「なんやねんこれ!? なんで俺の体からこんなんが!? 痛い、痛い痛い! 全身が千切れるみたいや! ちょ、助けてくれ、誰か助けてええええええッ!」
春樹は椅子から転げ落ち、床を掻きむしりながら叫んだ。
一箇所ではない。
かつて自分が誰かを蹴り飛ばした足が、殴りつけた拳が、そして今、見えない五寸釘を打ち込まれているかのような鋭い痛みが、心臓の奥まで貫いてくる。
「痛いんだ?ねえ、それはどんな痛み? 自分がしてきたことの痛み?相手を蹴った場所の痛み? それとも、誰かに釘を刺されたような痛み? それとも……もっと別の、魂を削られるような痛み?」
女鬼は無表情のまま、光り輝く瞳で春樹を見据え、一歩、また一歩と追い詰めるように問うていく。
「と、とにかく痛いんや! ぜ、全部……! 今言うたこと全部ある痛みや! お願いやから助けてくれ、助けて下さいッ!!!」
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### 赤い糸の真実
プライドも虚勢もすべてかなぐり捨て、春樹は涙と鼻水に塗れながら、床に這いつくばって女鬼の足元に縋り付いた。
その様子を冷徹に見下ろしながら、女鬼は冷たく言い放つ。
「目を逸らさずに、その藁人形を観な。そしたら一旦、解放してあげる」
春樹は、死に物狂いで顔を上げた。
視界が血の滲むような痛みで霞む中、カウンターの上の藁人形を凝視する。
すると、そこには衝撃の光景があった。
藁人形の首元から伸びる、鮮血のように赤い、一本の太い「糸」。
その糸は、蛇のように空間を這い回り、もう片方の端が――春樹自身の心臓に、食い込むように固く、固く結びつけられていた。
「これ……俺と繋がっとる……?」
春樹がその「因縁の糸」を観た瞬間、嵐のような激痛が嘘のように引き、静寂が店内に戻ってきた。
だが、その静寂は解放を意味するものではなかった。
自分が呪っていたのではなく、自分が呪いの中心にいたという、逃れられぬ真実がそこにあったのだ。
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## 裏返しの因縁と、忍び寄る「影」の正体
女鬼が春樹の肩からスッと手を離し、爛々と輝いていた金色の瞳が元の柔らかな、しかし底知れぬ光を湛えた色に戻る。
刹那、春樹の視界を埋め尽くしていたおぞましい髑髏や、肌を焼くような激痛、そして立ち上る鬼火の幻影が一瞬にして霧散した。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……!」
春樹は命からがら荒い呼吸を繰り返し、崩れ落ちるようにカウンター席に座り直した。
全身を冷や汗が伝い、作業着の背中はじっとりと濡れ、椅子が軋むほどに体が小刻みに震えている。
先ほどまで感じていた凄まじい「重圧」と「痛み」の余韻が、いまだに神経の端々を痺れさせていた。
「今のは、一体なんやったんや……。あんなもんが……あんな化け物みたいなのが、俺にずっと張り付いとったっていうんけ……?」
春樹は喉を鳴らし、自分の分厚い両手を見つめた。
そこには何も見えない。しかし、つい数秒前まで、そこには自分を呪い殺さんと叫ぶ何者かの顔が無数にあったのだ。
「今のはね、あーしの『鬼の眼』を通して、修羅畜生おっちゃんに『真実』を見せたんよ。普段は隠れてるけど、そこにあるっていう絶対的な事実をね」
女鬼はカウンターに置かれた藁人形を指先で弄びながら、淡々と語りかけた。
その声は鈴を転がすように美しいが、内容は絶望的なまでに無慈悲だった。
「真実って……どういうこっちゃ。あんな恐ろしいもんが、俺の体にずっと張り付いてたって言うんか? 俺は知らんうちに、あんな不気味なもんを引き連れて歩いてたんか……?」
「そ。正確に言うと、おっちゃんが自分の行いで、どんどんと増やしていってたってわけ。負のコレクション、みたいな?」
女鬼はフッと笑うように目を細めて見せたが、春樹は恐ろしさのあまり身震いするしかなかった。
自分が誇らしげに闊歩していた京都の街中で、誰にも見えない「罪の化身」を背負い続けていた。
その滑稽さと悍ましさに、胃の底から込み上げる吐き気を禁じ得ない。
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### 被害者としての自覚、加害者としての過去
「そんな……。それに、なんであの藁人形と俺が赤い糸で結ばれてるように見えたんや。俺はあんなもん、使ったこともあらへんし、触ったことだって一度もあらへんのに……!」
春樹は必死に訴えた。
自分は暴力こそ振るってきたが、陰でこそこそと人形を弄るような真似はしていない。
自分の価値観では、それは「女々しい奴」のすることだ。
しかし、女鬼はその言葉を鼻で笑うように、冷ややかな視線を向けた。
「ふーん……。あくまで、自分が『呪った側』の視点でしか考えてないんだね」
「な、何を言うて……」
春樹は言葉を失い、固まった。
女鬼の言わんとすることが、氷のように冷たく脳髄に染み込んでいく。
「……まさか。呪われたんは、俺の方、か……?」
恐る恐る尋ねたその声は、自分でも驚くほど細く、情けなく震えていた。
女鬼は表情を変えず、ただ静かに金色の瞳で彼を射抜いた。
「呪われる心当たりは?」
「……っ」
その問いは、春樹の胸を深く抉った。
先ほど盃の水面で見せつけられた、数々の悪行。
気弱な後輩に因縁をつけ、ラグビーの練習と称して無抵抗な人間を蹴り飛ばし、強い者には媚びを売りながら弱い者を徹底的に踏みにじってきた。
それは、相手の人生を、尊厳を、そして魂を削り取る行為に他ならない。
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### 降り積もった恨みの果て
「……俺に恨みある奴が、俺を呪ったってことか。ずっと……ずっと前から。今までオカルトなんて信じてへんかったけど、呪いって、ほんまにあるんやな……」
春樹の脳裏に、自分が傷つけた人々の、名前も忘れてしまった無数の「顔」が浮かんでは消える。
学校の裏庭で泣いていた少年、恐怖で震えていた女の子、地面に這いつくばっていた後輩たち。
彼らの誰が、深夜の境内で五寸釘を握りしめていても、おかしくはない。
「でも、一体だれが……。誰がこんな恐ろしいことを……」
春樹はカウンターに置かれた藁人形を、戦慄の面持ちで見つめた。
びっしりと打ち込まれた五寸釘の一本一本が、誰かの底知れぬ憎悪そのものに見える。
自分は「ちょっとした悪ふざけ」だと思っていたことが、相手にとっては「死を持って償わせたいほどの遺恨」になっていたのだ。
見えない刃が、自分の喉元に突きつけられている。
春樹は、これまで自分が振りかざしてきた暴力が、今度は「呪い」という形になって自分の命を刈り取りに来ていることを、この「摩訶不思議食堂」の静寂の中で、嫌というほど思い知らされていた。
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## 解呪の終わりと、解けぬ「業」の鎖
春樹は、カウンターに置かれた禍々しい藁人形を、縋るような、それでいて震える瞳で見つめた。
もしこれが自分の命を削っている呪いの正体なのだとしたら、目の前の「鬼」に救いを求めるしかない。
彼は脂汗を拭いながら、擦り切れた声で女鬼に問いかけた。
「なあ、この呪いって、今からでも解いたり出来るんけ? 女鬼ちゃんがこれを持ってるってことは、何とか回収してくれたってことなんやろ? 鬼である女鬼ちゃんの力やったら、こんなん簡単に解けるんとちゃうん? 頼むわ、何とかしてくれ……!」
死への恐怖が、春樹のプライドを完全に溶かしていた。
しかし、女鬼は彼の必死の形相を冷めた目で見つめ、金色の瞳を僅かに細めた。
「あー、結論から言うと、あーしも解こうと思えば解けるよ。でも、あーしにはそんな義理も無ければ、そもそもやる必要もないからやんないだけ。っていうかさ、既にとある超絶優秀有能シゴデキな2人の専門家が、完璧に綺麗なかたちで解呪してくれた後だし。だから、これは呪術に使われてた当時を再現した、レプリカみたいなもんだって思えばいいよ」
「な、なんや……。もう呪いは無効なんやんけ! 脅かしよって……。でも、さっきのは……あの変な髑髏とか、あの激痛は何やったんや。あれもレプリカなんか?」
春樹は一瞬、安堵の溜息を漏らした。呪いが解けているのなら、もう命の危険はないはずだ。
だが、女鬼の口元には、獲物を追い詰めた猟師のような、薄く残酷な笑みが浮かんでいた。
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### 消えぬ「業」の重み
「甘いなー。解かれたのはあくまで『呪術』っていう術式そのものであってさ。畜生修羅おっちゃんがガキの頃から積み重ねてきた悪行による『業』とか、そこから生まれた呪詛と怨念そのものを解いてくれたわけじゃないからねー。それは、おっちゃんが永劫に背負っていくべきことだし」
女鬼の言葉は、氷の刃となって春樹の心臓を突き刺した。
術が解けても、自分が生み出した「恨み」のエネルギーは、消えることなく自分に張り付いているというのだ。
「そ、そっか……。でも、とりあえずその、命に関わるような呪いが解けただけでも助かったわ。その『専門家』の2人ってのが誰か知らんけど、俺の代わりにやってくれたんやな。お礼言いに行かなあかんな。……あ、やっぱり幾らか包んだ方がええんけ? お寺とか神社やったら、御布施とか言うやん。金ならある程度は出せるで」
春樹は「金で解決できる」という安堵から、少しだけ調子を取り戻して笑ってみせた。
だが、その軽薄な笑い声は、女鬼のきっぱりとした拒絶によって遮られた。
「それは無理」
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### 閉じられた「再会」への道
「え、なんでやねん? あ、もしかして、めっちゃ偉い人で、俺みたいなもんが気軽に会いに行けへんとか? ほら、テレビに出るようなえらいお坊さんとかって、なかなか会えへんからな」
春樹は不思議そうに首をかしげた。
だが、女鬼の表情は、先程までの冷徹さとは打って変わって、どこか深い哀しみと慈悲を湛えたものに変わっていた。
「もっと根本的な問題。さっきも尋ねたよね、なんであんな夜更けに神社にいたのかって。その『理由』を思い出せば自ずと、あーしが言ってる意味がわかってくるよ」
女鬼の視線は、もはや春樹の目ではなく、彼の背後にある「何か」を見ているようだった。
えらいこっちゃ嬢もまた、台形の口を結び、静かに頷いている。
「え? 神社に、いた理由……?」
春樹は再び、意識の奥底にある真っ白な霧の中へ手を伸ばした。
あの日。
あの夜。
自分は確かに、強い目的意識を持ってあの鳥居をくぐったはずだった。
仕事でもなく、散歩でもなく、誰かに会いに行くのでもない。
もっと、自らの根源に関わるような、決定的な出来事があったはずだ。
春樹の脳裏に、夜の静寂、自分の荒い呼吸、そして手首に感じていた「重み」が、断片的な映像となって蘇り始める。
だが、その核心に触れようとするたび、激しい頭痛が彼の思考を遮った。
「俺は……あの場所で……何をしようとして……」
春樹は自分の頭を抱え、必死に記憶の糸をタグり寄せようと、暗闇の中で激しく首をかしげ続けた。
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## 失われた空白の記憶と、同窓会の残響
春樹は激しく頭を抱え、脂汗を滴らせながら、真っ白に塗り潰された記憶の壁を必死に爪で掻き毟るようにして、過去を手繰り寄せようとしていた。
「俺は……一体……。確か、お守り買いに行ったんやったっけ? そや、お守り買うために販売所探してて……。巫女さんとか誰もおらんやんけって、暗い境内で独り言吐いてたんや。それは覚えとる」
「なんでお守り買いにいったん? 安産祈願とか?」
女鬼は、わざとらしく小首をかしげ、いたずらっぽく、それでいて底冷えするような声で尋ねた。
「いや、ないない! そんなんあるわけないやろ。だって俺、何回か女の人と付き合ったことはあるけど……。みんな『すぐ手を上げる』とか『DVや』とか言うて、泣きながら逃げていきよった。結局すぐ別れてしもて……。あ、そっか。俺を呪ったんは、あの別れた女たちの誰かかもしれんな。どいつもこいつも恨みがましい顔しとったし」
春樹は、自らの暴力を「相手が勝手に逃げた」程度にしか捉えていない、厚顔無恥な本音をさらけ出した。
だが、その表情はすぐに強張った。
「安産祈願なわけがあらへんし、そんな幸せな目的やなくてやな……確か……」
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### 「身を守る」ための渇望
「お守り買う目的って、なんだろうね?」
女鬼が追い詰めるように、金色の瞳を妖しく光らせる。
「え? それは……身を守るためや。読んで字の如くやろ! 身を、守る……。そや! 俺、同窓会帰りに立ち寄ったはずや。少しずつ思い出してきたぞ!」
春樹の瞳に、少しずつ焦点が戻り始めた。
記憶の断片が、濁流のように押し寄せてくる。
「そんで、確か俺……誰やったっけな。俺に向かって『そのまま永遠に呪われろ』とか吐き捨てた奴がおったっけ? そんな物騒なこと言われて、気味悪うなって……」
「なんで、同窓会でそんなこと言われたん?」
女鬼の問いは、冷静であればあるほど、春樹の罪を抉り出していく。
「え? それは……確か……」
すると、女鬼はさらに問うていく。
「その同窓会ってさ、誰が幹事で、どういうきっかけで開かれたわけ?」
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### 40歳の節目と、焼肉の夜
「え? 幹事って……。あ、そや。男子は金田や。星田も手伝ったって言うてたな。後、女子は熊田って子が……。あ、思い出した! さっき盃に映ってた、下級生を泣かした時に俺を注意したあの女子。あれ、熊田や! 40歳になった節目に集まろうってことになって、街の焼肉屋を貸し切って盛大にやったんや」
春樹は、ようやく繋がり始めた記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
「そうそう、思い出したわ。久しぶりに会う同級生たちと肉を食うて……。そんで、二次会で酒を飲める店に移動して……。そんで……」
そこで、春樹の言葉がピタリと止まった。
彼は自分の頭を軽く叩き、再び激しく首をかしげた。
「……あれ? 二次会の後の記憶が、全くあらへん。俺、その後に神社に行ったんやと思うてたのに……。それまでの流れははっきりしとるのに、店を出てからの記憶が、ごっそり抜け落ちとるわ。ははは! なんや、飲み過ぎて記憶飛んでもうたんかな? 酒癖悪いのは昔からやけど、神社に行ったことすら忘れるなんて、俺も焼きが回ったわ!」
春樹は豪快に笑い飛ばしたが、その笑い声は店内の静寂に吸い込まれ、一滴の湿り気も残さなかった。
地蔵店長は何も言わず、ただ慈悲深い笑みを湛え、えらいこっちゃ嬢は「えらいこっちゃ」とだけ小さく呟いた。
春樹が「ただの泥酔」だと思っているその空白の時間こそが、彼をこの摩訶不思議な食堂へと導いた、決定的な理由であることを彼はまだ知らない。
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## 五寸釘の記憶、噴き上がる怨嗟の濁流
女鬼は憐れむような瞳で春樹を眺めながら、その実、蛇が獲物を追い詰めるような鋭い声音で問いかけた。
「二次会からどうやって、えらいこっちゃんと出会った神社に行ったわけ? おっちゃん、その間の『足』はどうしたの?」
「そりゃ、タクシー捕まえて……いや、俺、タクシー呼んだっけ……。ん、ちゃうな。俺、あの時……『救急車呼んでくれ!』って、必死に叫んでたはずや……」
春樹の脳裏で、真っ白な霧が急速に晴れ渡っていく。
それは安らぎを伴うものではなく、心臓を直接氷の素手で握りつぶされるような、おぞましい真実の露呈であった。
「そや、俺……あいつらあんまり飲んでへんから、お前ら酒弱すぎじゃ情けない、気合入れんかいって、アホみたいに一人で飲んでて……。そんで、ちょっと飲み過ぎて、店の外の涼める場所に行くって言うたんや。幹事やからって金田と星田と熊田がついてきてくれて……。そこは確か、ビルの5階にあった店の、吹き抜けになった場所で……」
語るほどに春樹の顔から血の気が失せ、土気色に染まっていく。
ガチガチと歯が鳴り、指先が痙攣するように激しく震え始めた。
「そんで、手すりの柵にもたれかかったら……」
春樹は、自らの喉を掻き切るような悲鳴を押し殺し、目を見開いた。
「俺、5階から、転落したんや……」
呻くようなその告白に、店内の温度がさらに数度下がったように感じられた。
春樹の脳裏には、スローモーションのように遠ざかっていくビルの明かりと、全身を叩きつけるような凄まじい衝撃が、生々しい肉体の記憶として蘇っていた。
「そんで、金田と星田と熊田が、すぐに下まで駆けつけてくれたんや。人通りがない方の、暗い地面に落っこちてしもて……。全身の骨が折れたみたいで、指一本動かせんで。でも、あの3人がいてくれて良かった、助かった、そう思ったんや……」
「そんじゃ、救急車は呼んでくれて、助かったん?」
女鬼の問いは、もはや質問ではなく、残酷な真実への引導であった。
「……違う。助けてくれるどころか……。そや! これや、これを見せつけられた気がする!」
春樹は、取り憑かれたような形相で、カウンターの上に置かれたあの禍々しい藁人形へと手を伸ばした。
理性が「触れるな」と警鐘を鳴らしていたが、真実を知りたいという剥き出しの本能が、その手を止めさせなかった。
ガシッ、と。
春樹の太い指が藁人形を掴んだ、その刹那。
「……っ、が、ああああああああああああああああああッ!!!」
無防備な春樹の魂へと、藁人形に封じ込められていた凄まじいまでの怨念が、堤防を決壊させた濁流のごとく一気に流れ込んだ。
それは、誰かがたった一晩の怒りで生み出したような生易しいものではない。
暗い部屋で、あるいは人知れぬ境内で、憎しみを、殺意を、絶望を、一針一針、一打一打、1年分という長い年月をかけて丹念に、狂気的に積み重ねてきた濃縮された呪詛の塊であった。
春樹の視界は真っ赤に染まり、耳元では何千、何万という人々の呪詛の呟きが、鼓膜を破らんばかりの轟音となって荒れ狂う。
逃げ場のない脳内に、暴力的なまでの情報が、そして春樹自身がこれまで目を逸らし続けてきた「因果の報い」が、否応なしに突きつけられていく。
絶叫すら掻き消されるほどの怨嗟の渦中で、春樹は、自らが犯した罪がいかなる結末を招き寄せたのかを、魂に直接刻み込まれることとなった。
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## 39歳の再会と、積年の恨みの発芽
藁人形を掴んだ春樹の脳内に、濁流のような記憶が逆流する。
それは忘却の彼方に追いやっていた、同窓会より1年前の出来事――39歳の頃、京都の街角での出来事だった。
偶然、道端で金田の姿を見かけた春樹は、ラグビー部時代のような大きな声で呼び止めた。
「お、金田やんけ! 久しぶりやな、自分!」
金田は一瞬、逃げるような素振りを見せたが、春樹の巨体に気圧されるように足を止めた。
少しばかりの儀礼的な昔話を交わした後、春樹は得意げに笑いながら、金田の肩をバシバシと叩いた。
「そういえばお前、ガキの頃、俺のこと突き飛ばしたよな。ほら、中学の時に公園で。覚えとるか?」
金田は顔を引き攣らせ、絞り出すように答えた。
「ああ、あれは確か、あんたが一方的に……」
「まあまあ! 大昔のことやから、俺が広い心で勘弁したるわ。お互いもうええ大人やし、水に流したる。もしも同窓会とかあったりしても、それでいじったりせんといたるから安心せえや!」
春樹はガハハと豪快に笑った。
自分では「過去を許してやる器の大きい男」を演じているつもりだったが、その実、相手の心を土足で踏みにじっていることに微塵も気づいていない。
金田の表情が、一瞬にして氷のように冷たく、どす黒い怒りに染まったことも、春樹は完全に見落としていた。
そこへ、偶然にも熊田が通りかかった。
「あれ、春樹と金田君やん。珍しい組み合わせやね」
熊田も加わり、しばしの世間話が続く。
しかし、春樹の口から出るのは、やはり無神経な「思い出話」という名の凶器だった。
「熊田もそうや。お前も昔、俺になんだかんだ突っかかってたよなあ。正義の味方気取りやったんか?」
春樹がニヤニヤと笑いながら言うと、熊田は冷ややかな溜息を一つ吐き、真っ直ぐに春樹を見据えた。
「……あれは、春樹が下級生いじめたり、暴力振るったりしてたから言ったんやん。あんた、自分がやったことは都合よく忘れて、やられたことだけ根に持つ典型やね」
「なんやと? ええ年して、またガキの頃みたいに嫌味言いよんのけ?」
春樹がムッとして声を荒らげると、熊田は憐れみの混じった瞳で彼を見つめた。
「あんた……ほんまに、何一つ変わってないんやね」
その場は気まずい沈黙のまま、数分の世間話を終えて解散となった。
春樹は「あいつら、相変わらずノリが悪いな」と毒突きながら歩き去ったが、その背後で、金田と熊田の二人が、言葉にできないほど深い絶望と憎悪を共有していたことを、知る由もなかった。
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### 闇の中の聖域
場面は一転し、藁人形を通して春樹の脳に「直接」新たな光景が映し出された。
それは、今の春樹が知る由もない、見たこともない不気味な神社の風景だった。
鬱蒼と茂る竹林の奥、月明かりさえ届かないほどに深い闇に包まれた境内。
そこには、手入れの行き届いた有名な神社とは程遠い、朽ち果てた鳥居と、苔むした無数の石塔が並んでいる。
静寂を切り裂くのは、「コン……コン……コン……」という、乾いた、しかし重苦しい音。
誰かが、深夜の境内で、一本の釘を打ち込んでいる。
その釘が貫いているのは、まさに今、春樹が握りしめている藁人形。
人形の胸に貼られた御札には、呪術的な文字と共に、はっきりと書き記されていた。
「中田春樹」
藁人形の視点から見えるその光景は、あまりにも生々しい。
釘を打つ手の震え、零れ落ちる涙、そして、呪詛の言葉を吐き続ける執念。
それは、あの街角での再会から、正確に1年分の歳月をかけて、毎日、欠かさず続けられてきた儀式の記録であった。
春樹は、自らが「水に流した」と笑っていたあの日から、一歩一歩、確実に見えない死神を育てていたのだ。
藁人形を握りしめた春樹の脳内に、溢れ出した呪詛が濁流となって流れ込む。
視界は真っ赤に染まり、1年間の執念が凝縮された「真実」が、強制的に再生され始めた。
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### 深夜の神社の「共犯者」
始まりは、あの街角での再会だった。
金田と熊田の心に再燃したのは、かつての恐怖ではない。
自分たちが受けた傷を「水に流してやる」と嘯き、無意識の暴力を「親愛のボディタッチ」として振るい続ける春樹への、逃れようのない殺意だった。
「もう、あいつをこの世に置いておく理由はあらへん」
二人は深夜、人跡稀な神社の境内で、春樹の名前を刻んだ藁人形に五寸釘を打ち込み始めた。
コン……コン……コン……。
静寂を切り裂く乾いた音が、夜の闇に吸い込まれていく。
ある夜、その異様な音に導かれるように、不眠症で散歩をしていた星田が姿を現し、金田と熊田の呪いの儀式を目撃した。
本来、呪いの儀式は人に見られればその効力を失う。
しかし、星田は通報するどころか、人形に書かれた「中田春樹」の文字を見た瞬間、凍りつくような冷笑を浮かべた。
「なあ、俺も加えてくれへんか?」
星田の声には、一切の躊躇がなかった。
「神社の御神木を傷つけたら具合悪いし、器物損壊で捕まるのも馬鹿らしい。もっと目立たん場所で、確実に仕留める方法を考えようや」
星田は冷静だった。
そして彼は御札の裏に、震える手で新たな文言を書き加えた。
『滅茶苦茶に苦しんで絶命』
それから1年。三人は同窓会という「処刑の日」を目指し、毎晩、交互に、あるいは三人で集まっては、春樹の魂を削り取るように釘を打ち込み続けたのである。
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### 終焉の同窓会と、五階からの転落、そして歓喜、三人の祝杯
そして、運命の同窓会当日。
40歳の節目を祝う焼肉屋の熱気の中、春樹は上機嫌で酒を煽っていた。
そこから一次会がお開きになり、場所は二次会の会場となったビルの5階に映る。
酒を飲み過ぎて火照った体を冷まそうと、春樹はベランダの柵に背中を預けた。
メキッ、という不吉な音が響いた瞬間、老朽化していた鉄柵が、まるで誰かに操られたかのように呆気なく崩落した。
「あ……」
声も出なかった。
視界が上下に回転し、夜風が耳元を通り過ぎる。
ドサッ、という肉塊が地面に叩きつけられる鈍い音が響き渡った。
手足はあり得ない方向に折れ曲がり、全身の骨が粉々に砕けた衝撃。
春樹は地面に這いつくばり、肺から漏れる喘鳴と共に、激痛にのたうち回った。
そこへ、金田、星田、熊田の三人が駆け下りてくる。
春樹は、彼らが救急車を呼んでくれると信じて疑わなかった。
だが、視界の端に映った三人の顔には、焦りも悲しみもなかった。
「……やった。やっと死ぬんやな、こいつ」
「見てみ、あがき苦しんどるわ。御札に書いた通りや」
三人は、地面で虫のようにのたうち回る春樹を見下ろし、狂喜に満ちた笑顔を浮かべていた。
救急車を呼ぶどころか、彼らは春樹の最期の苦しみを、一滴も漏らさぬよう見届けるための特等席にいたのだ。
彼らの眼差しには、積年の恨みが晴れたことへの、至福の悦びが溢れていた。
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### カウンターに響く震え
「ひっ……あ、あああぁぁぁ……ッ!!!」
春樹は現実のカウンター席で、椅子から転げ落ちそうになりながら、自分の体を抱きしめて震え上がった。
今、脳内に流れ込んできたのは、単なる映像ではない。
自分が「事故」だと思っていたあの転落が、友だと思っていた彼らの「完璧な呪い」の結果であったという、逃れようのない絶望だった。
「あいつら……笑ってた……。俺が、俺が死ぬのを、あんなに嬉しそうに……」
春樹の顔面は土気色を通り越し、死人のように青白くなっている。
自分の人生がいかに周囲から憎まれていたか。
そして、今自分が座っているこの場所が、一体どこなのか。
春樹はガチガチと歯を鳴らし、涙と鼻水に塗れながら、ただただ地獄のような真実に打ちのめされていた。
女鬼は、そんな春樹を憐れむことすらなく、冷ややかな瞳でただ見つめていた。
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## 終焉の同窓会と、六年越しの死の宣告
春樹は、焼けた藁の不快な臭いが染みついた手を、弾かれたように人形から離した。
だが、指先の感触が消えても、脳内に直接叩き込まれた「記憶」という名の激毒は、もはや手放すことなど出来なかった。
網膜の裏側には、血に染まったコンクリートの上で無様にのたうち回る自分自身の最期が、消えない残像として焼き付いている。
ビルの5階から転落し、全身の骨が砕ける凄まじい衝撃に襲われ、助けを求めて虚空を掻いていた自分。
そこへ駆け寄ってきた金田、星田、熊田の三人が見せたのは、救いの手などでは断じてなかった。
金田は冷酷な、心の底から悦びに満ちた笑みを浮かべると、懐からボロボロに引き裂かれた藁人形を取り出し、虫の息である春樹の目の前に突きつけた。
「そのまま永遠に呪われろ。楽に死ねると思うな、いや、死んだ後も楽になれると思うなや」
その呪詛に満ちた言葉を吐き捨てると、彼らは春樹の喉から漏れる絶望の喘鳴を置き去りにして、何食わぬ顔で二次会の店へと戻っていった。
店に戻るなり、三人は周囲の同級生たちに向かって、明るく、そして完璧な嘘を吐いて見せた。
「春樹は少し一人でおらしてくれ言うてたから、俺ら先に戻ってきてん。飲み過ぎて頭冷やしとるんやろ。酔いが少し冷めたら、そのうち戻ってくるわ」
そう言って、彼らは春樹の命の灯火が消えゆく間も、平然と酒を酌み交わし、談笑し、勝利の美酒を味わうかのように笑い続けていた。
一方、暗い地面の上で春樹は、砕けた骨が内臓を突き破る激痛に苛まれながら、2時間もの間、孤独と恐怖の中で苦しみ続けた。
意識が混濁し、冷たい死の帳が降りてくる絶望の淵で、最後に振り絞るようにして口にした言葉は、あまりにも遅すぎた後悔だった。
「呪われる……お守り、買いに、いかな……」
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そうして、二次会がお開きになった深夜。金田は時計をチラリと確認すると、まるで台本をなぞるような芝居がかった仕草で立ち上がった。
「春樹の奴、まだ戻ってけへんな。ちょっと呼びに行ってくるわ。二次会の会費、あいつからも徴収せなあかんしな」
「そうやね。勝手にどっか行かれたら困るし。私たちも行くわ」
金田に促されるように、熊田と星田も席を立つ。
金田に促されるように、熊田と星田を連れて店を出た三人は、さも春樹を探しているふりをして5階を見渡してから、転落現場へと向かった。
そこで冷たくなった彼を見つけ出すと、第一発見者を装って凄まじい悲鳴を上げ、周囲を騒然とさせた。
「……お、おい! 春樹やないか! 何してんねん!」
金田がわざとらしい悲鳴を上げ、さも今初めて発見したかのような第一発見者を装う。
星田は震える手で救急車を呼び、熊田は顔を覆って泣き崩れるフリをした。
慌てて救急車が呼ばれたが、その時には既に全てが遅すぎた後だった。
だが、そのすべては完璧なアリバイ作りのための演技に過ぎなかった。
救急隊が駆けつけた時、春樹の瞳は既に光を失い、魂は肉体という檻から解き放たれていた。
こうして、中田春樹という男は、40歳という節目の年に、この世を去った。
以来、彼は自分が死んでいることさえ自覚できぬまま、怨念の渦に囚われて彷徨い続けてきたのだ。
それから6年、娑婆の住人ではなくなり、今この瞬間に至っている。
全てを知ってしまった春樹は、ガタガタと歯の根が合わないほどに震え上がり、掠れた声で問いかけた。
「……それやったら、今ここにおる、この俺は、一体……何なんや……。俺は、死んどるんか……?」
地蔵店長は、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔を絶やさず、静かに合掌してお辞儀をした。
「ここは、人間も怪異も、あらゆる存在を分け隔てなくお迎えする、現世にも、それ以外にも開かれた食堂で御座います」
女鬼は、冷めた金色の瞳で春樹を射抜いた。
「今見たのは、藁人形を通して再生された過去の事実。言うなれば、藁人形がずっとおっちゃんのことを縛り続けてきた現実、と言えば分かりやすいかな。おっちゃんが死の間際に『お守りを買いに行く』って思いを強烈に抱いたから、あんたの魂はあの『迷いの神社』の境内に現れたんよ。もっとも、今更お守り買ったところで、身体も魂も手遅れだけどね」
女鬼は、トドメを刺すように淡々と、逃れようのない事実を告げた。
「ま、ようするにさ……おっちゃんは、既に死んでるんよ。40歳の、あの同窓会の夜にね。今の娑婆の時間からすると、あれからもう6年も経ってるわけ。その藁人形は、あんたが死ぬ1年前には、既に周到に準備されてたってわけよ」
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## 第19話:仇を恩で返す者、そして六年目の落涙
自分が既にこの世の住人ではなく、6年もの歳月を「死者」として彷徨っていたというあまりにも残酷な真実。
それを突きつけられた春樹は、魂の芯まで凍りついたかのように、しばらくの間、深い沈黙に沈んでいた。
カウンターを照らす提灯の明かりが、彼の透け始めた指先を虚しく通り抜けていく。
「……でも、なんで6年も、自分が死んだことにも気づかずに彷徨ってたんや? なんで、今になって……やっとこうして、この食堂に来れたんは、一体なんでなんや?」
春樹は、絞り出すような掠れた声で首をかしげた。
記憶の断片が繋がった今、逆にその空白の長さが不気味な違和感となって彼にのしかかっていた。
「それはさっき言った、超絶優秀な専門家が2人がかりで、おっちゃんにかけられてた呪術を解体してくれたことによる恩恵。まあ、『成仏』って言ったら分かりやすいかな。あの執念深い術式のせいで、おっちゃんは死んだ後も、真っ暗な闇の中にガチガチに縛りつけられてた状態だったわけ。それを、その専門家達が、完璧なかたちで解いてくれたんだよ」
女鬼は、どこか遠くを見るような瞳で語った。
彼女の指先が、カウンターの上でリズミカルに音を立てる。
「なんで……なんでそんなことを。見ず知らずの、こんな俺なんかのために、誰がそんな手間をかけてくれたんや」
「んー。誰がやったか、名前までは明かさないけどさ。その2人のうちの1人は、おっちゃんにとって見ず知らずの他人じゃないんよね。もっと言えば、その人は『修羅畜生おっちゃん』に酷い目に遭わされた過去があるにも関わらず、あんたのつけた『仇』を、呪縛を解くという『恩』で返してくれたんだよ。本人は絶対に否定するだろうけどさ、まさに仇を恩で返すなんて真似を平然とやってのけるんだから、人間としての器の大きさが、あんたとは比べ物にならないよね」
女鬼が、微かに、しかし確かに慈悲の混じった笑みを浮かべた。
その言葉が、春樹の胸にどんな刃よりも鋭く突き刺さった。
「それって……俺が今まで傷つけてきた、踏みにじってきた人の中に……俺をこの暗闇から助けてくれた人が、いたってことか……」
春樹は、ようやく理解した。
自分が「弱者」と決めつけ、人生を蹂躙した相手。
名前も忘れてしまった彼らの中に、自分のような外道を救うために、その身を削るような祈りや術を捧げてくれた聖者がいたのだ。
自分の抱いていた器の小ささと、その人物の魂の気高さ。
その絶望的なまでの差に、春樹は言葉を失い、目から大粒の涙が溢れ出した。
「……生きてたら、ちゃんと御祓いの代金を払うべきやった。そして……ちゃんと、土下座して謝罪するべきやったんや。……もう、手遅れやけど。全部、全部遅すぎたんやな……っ」
春樹は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
失った時間の重さと、返せぬ恩義の苦しみが、彼の半透明な魂を激しく揺さぶる。
その様子を冷ややかに、しかしどこか憐れむような目で見つめていたえらいこっちゃ嬢が、静かに口を開いた。
「後悔先に立たず、えらいこっちゃ。……もう、全部終わったこと、えらいこっちゃ」
彼女の台形の口から漏れた冷徹な事実は、もはや誰にも変えることのできない「結末」であった。
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## 無自覚という名の深い業
春樹は、カウンターに力なく突っ伏したまま、溢れ出る涙で袖を濡らしていた。
自らが同級生に呪い殺されるほどに憎まれ、それ以外にも数え切れないほどの人々に恨みを買い、真っ黒な怨念にまみれて死んでいったという、逃れようのない凄惨な結末。
その重みに押し潰され、彼は魂の奥底から絞り出すような声で独白した。
「俺は……同級生に呪い殺されるほど恨まれて……。それだけやない、これまでに数え切れんほどの人を傷つけて、恨まれて、全身怨念まみれになってしもて。……一体なんで、なんでこんなことになってもうたんや……」
春樹の肩は小刻みに震え、後悔の念が濁流となって彼を飲み込んでいく。
なぜ自分は、これほどまでに醜い人生を歩んでしまったのか。
その問いに対し、隣で髪を弄っていた女鬼は、冷めた金色の瞳を向けながらさらりと言い放った。
「それについてはさ、今自分で半分くらい解答言ってるじゃん。気づいてないの?」
「……え? いや、なんで俺が死んでもうたかは、さっきの藁人形の記憶からはっきりわかった。そやから半分どころか、答えは全部わかっとるがな。……俺が言いたいのは、そういう表面上の話やなくてやな……」
春樹は顔を上げ、涙に濡れた瞳で女鬼を見つめた。
彼が求めているのは、自分の死因という「結果」ではなく、なぜ自分の人生そのものがこれほどまでに歪んでしまったのかという、もっと根源的な「原因」だった。
「だからさ、根本的な話、その原因を知りたいってことでしょ? そもそも、自分の人生のどこでどう間違えたのか。それが言いたいんだよね?」
女鬼は、春樹の混乱を見透かすように問いを重ねる。
「……そうそう、そういう意味や。どこでボタンを掛け違えたんか、それが分からんのや」
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### 無自覚という名の凶器
女鬼はふっと鼻で笑い、カウンターを指先でリズミカルに叩いた。
「だからさー、今おっちゃんが自分で言った内容の中に、最大のヒントがあるじゃん」
「え? 俺、何か重要なこと言うたけ……? ただ後悔しとるだけで、そんな大層なこと言うた覚えはないけど……」
困惑する春樹に対し、女鬼は身を乗り出し、至近距離から彼の瞳を覗き込んだ。
その金色の瞳には、春樹が今まで見ようとしなかった「真実」が、鋭い刃となって映し出されている。
「言ったよ。『なんでこんなことになってもうたんや』ってさ。……その言葉、少なくとも暴力振るいまくってた時は、何が悪かったのかさえ分かってなかったし、自分の行いの異常さに気づいてすらいなかったってことが、よーくわかる発言だよねー」
「そりゃまあ……悪いって最初から気づいてたら、俺かて流石にそんな悪いことはせえへんよ。人間やったら誰かてそうやろ」
春樹は咄嗟に弁明したが、女鬼の口元には、獲物を追い詰めた猟師のような残酷な笑みが浮かんでいた。
「それってさー、逆説的に言えば、気づいてなかったから、自覚できてなかったから、無意識だったからこそ、あんな酷いことができたってことだよね? 自分の拳が相手の骨を砕く重さも、自分の言葉が相手の心を殺す冷たさも、全部『無意識』にスルーしてたわけだ?」
「……まあ、そうなるやろな。当時はそれが当たり前やと思ってたし、相手がどんな思いをしてるかなんて、これっぽっちも考えたことがなかったわ……」
春樹は、自らの浅ましさを認めるように声を落とした。
自分の振るった暴力も、理不尽な恫喝も、すべては「無意識」という深い霧の中での出来事だった。
しかし、その霧こそが、周囲の人々にとっては命を削るような猛毒であったのだ。
「つまり、無自覚、無意識だったってことなんだね。……それがどれだけ怖ろしいことか、分かってんの?」
「……確かに、そう言われたらそうや。……えっと、女鬼さんは、一体何が言いたいん? 俺が無意識やったから、余計にタチが悪かったってことか……?」
春樹は、女鬼が突きつけようとしている「最終的な審判」の気配を感じ、再び身震いした。
無自覚に行われた悪行は、意識的な悪よりも深く、重い呪いとなって、今もなお春樹の魂にこびり付いている。
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## 無自覚という名の深淵――仏陀の警句
「『無意識やったから、余計にタチが悪かった』。まさに今おっちゃんが言ったことが、今のおっちゃんの結果になった原因に繋がる話なんよ」
女鬼はそう言うと、静かに地蔵店長を見上げた。
その金色の瞳には、断罪の響きと共に、どこか深い諦念のような色が混じっている。
春樹もまた、彼女の視線に吸い込まれるように、カウンターの奥で穏やかに佇む地蔵店長を仰ぎ見た。
地蔵店長は、いつもの優しいお地蔵さん笑顔を絶やさぬまま、静かに合掌して丁寧にお辞儀をした。
店内に灯る提灯の火が、彼の慈愛に満ちた貌を幽玄に照らし出す。
「無意識の悪について、このような話が御座います」
地蔵店長の口から紡がれる声は、まるで古寺の鐘の音のように、春樹の魂の奥底まで深く、重く響き渡った。
「ある時、阿難尊者という仏陀の御弟子が、仏陀に尋ねました。『悪いと知りながら造る罪と、悪いと知らずに造る悪と、どちらが恐ろしいと思いますか?』と。春樹さん、貴方ならどう答えますかな?」
「え……? そりゃあ、悪いって分かっててやる方が、悪質やから怖いに決まっとるやろ……」
春樹は困惑しながらも、自らの感覚を信じて答えた。
しかし、地蔵店長は首を横に振り、静かなトーンで言葉を続けた。
「仏陀は、『悪いと知らずに造る悪の方がより恐ろしい』と答えられました。」
地蔵店長は、諭すように春樹の目を見つめた。
「確かに、人を傷つけようとして傷つける事、悪をなそうとして悪を為す事は、決して許されることではない悪い事です。しかし、悪いと知らずに為す悪は、それ以上に恐ろしい。何故だかわかりますか?」
「え? そ、それは……」
春樹は言葉に詰まった。
自分のこれまでの人生――「ただの悪ふざけ」だと思い込み、「自分を誇示するため」に振るった無数の拳や暴言。
それが「悪いこと」であるという認識すら持たず、ただ本能のままに生きてきた自分の姿が、地蔵店長の言葉の裏側で醜く蠢いている。
「これはまさに、春樹さんが生前、体験された事。御自身が行って来た悪行を顧みれば、自ずとわかる事かと存じます」
地蔵店長は、変わらぬお地蔵さん笑顔を向けたまま、静かにその真意を問いかける。
「それは……俺みたいに、あいつらに恨まれて、最後は死ぬほどの報復を受けるから、ですか? 知らん間に恨みが溜まって、気づいた時にはもう逃げられへんようになってるから……」
春樹が震える声で答えると、地蔵店長は哀しげに目を細めた。
「確かに、それは悪を為した方からすれば、身の毛もよだつような怖い事ではありましょう。ですが、もっと根本的な恐ろしさが御座います」
「もっと、深いところの、恐ろしさ……?」
春樹の脳裏に、先程見た「藁人形を打つ三人の顔」が再び浮かび上がった。
しかし、地蔵店長が示そうとしているのは、加害者としての春樹が受ける物理的な報復の恐怖を越えた、もっと暗く、救いのない「魂の仕組み」の話であった。
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## 灼熱の鉄棒と、無明の奈落
地蔵店長は、慈悲の光を湛えた瞳で春樹を見つめ、静かに、しかし断固とした響きで言葉を紡いだ。
「自覚無く、無意識に悪を行う者には、悪い事をしている、相手を傷つけているという自覚も意識も御座いません。ゆえに、自らその足を止めて己を正すこともなく、ただひたすらに悪の道を突き進んでしまうのです。悪いと知っていれば、良心の呵責というブレーキがかかりましょう。ですが、知らぬ者は他者を傷つけ続け、そして際限なく奈落へと堕ちていく事になります」
地蔵店長の穏やかな笑顔は、春樹にとっては何よりも鋭い刃となってその胸を抉った。
逃げ場のない真実が、静寂に包まれた店内に重く響き渡る。
「一本の赤く焼けた鉄の棒があると致しましょう。熱いと知って触る者と、熱いと知らずに触る者、どちらが大火傷を負うでしょうか。当然、熱いと知らずに無防備に、その熱塊を全力で掴み取る者の方が、より深く、骨まで届くような酷い怪我を負うのです」
「……あ、ああ……っ」
春樹は、自らの震える両手を見つめた。
かつてその拳で、自分より弱い者たちの肉体を、尊厳を、未来を打ち砕いてきた。
当時はそれを「力ある者の特権」かのように無自覚に受け入れ、相手の流す涙を「弱者の甘え」と切り捨てていた。
だが、地蔵店長が説く理によれば、その瞬間に最も深い傷を負っていたのは、他ならぬ春樹自身だったのだ。
「悪を為すことは、相手を傷つけることは勿論、御自身をも傷つけているのです。そしてそれを自覚しない、無意識のままでいるという事は、御自身の信用も信頼も失い、他者を傷つけながらも御自身の存在そのものを傷つける事を止めず、永遠に毀損し続けているという事です。勿論、御自身がこれほどまでに恨まれていたり、それによる怨念を溜め続けている事にも気づく事はありません。意識が及んでいないのですから、当然、気付きようもない事でありましょう」
地蔵店長の言葉が、春樹の脳裏で先程の藁人形の光景と合致した。
自分を殺したいほど憎んでいた三人の同級生。
彼らが深夜に釘を打ち、呪詛を吐き続けていた一年間。
春樹は、その怨念の嵐の中にいながら、自分は無敵だと信じて疑わなかった。
相手がどれほどの地獄を味わっていたか、その想像力が欠如していたからこそ、自分に降りかかる死の足音にすら気づけなかったのだ。
春樹の全身を、これまで味わったことのないような悍ましい感覚が支配した。
無意識であったがゆえに、彼は「人間」としての誇りも、優しさも、光も、すべてを自らの手で削り取り、代わりに真っ黒な汚泥のような業を魂に詰め込み続けていた。
自覚がないということは、反省の機会を自ら捨て去っていたということだ。
気づけば彼の魂は、数え切れないほどの人々の悲鳴と憎悪を吸い込み、もはや修復不可能なほどに深く、醜く汚染されていたのである。
春樹は、喉の奥からせり上がる嗚咽を抑えることができなかった。
自分が「豪快に生きている」と思い込んでいた40年間。
その実態は、赤く焼けた鉄棒を「冷たい」と誤認して握りしめ、自分自身の存在を焼き尽くし、真っ黒な灰へと変えていく無残な自滅の過程でしかなかったのだ。
その救いようのない愚かさに、春樹はただただ絶望の底へと沈んでいくしかなかった。
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## 断絶の理と六年目の自覚、地獄の沙汰も心次第
「……もしさ、おっちゃんがどっかの段階で自分のしてきた事、自分がしでかした事に気づいて自覚できてて、一度でも心からの謝罪があったら、彼らも、せめて救急車を呼ぶくらいはしてくれたかもしんないね。ま、今更だけどね」
女鬼は、ふぅー、と長いため息を吐き出した。
その吐息は、冷たい夜霧のようにカウンターの上を滑り、春樹の胸を白く染める。
自覚があれば、あの日、あいつらの手には藁人形ではなく、救急車を呼ぶための携帯電話が握られていたかもしれない。
そんな「もしも」の可能性は、春樹が積み上げてきた無自覚な暴力の歴史によって、とうの昔に食い潰されていたのだ。
「後の祭り、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃ嬢が、無機質な瞳で春樹を見据え、無情な現実を言葉にする。
地蔵店長は、悲しげな揺らめきを見せる提灯の下で、静かに合掌した。
そのお地蔵さん笑顔は、救いというよりも、逃れられぬ運命を優しく包み込む包帯のようだった。
「死は不可逆ゆえ、最早、現世に戻ってやり直すことは出来ません。貴方の肉体は既に土に還り、貴方の時間は6年前に止まっておるのです」
春樹は、ガタガタと震える自分の両手を見つめた。
そこに流れる血はなく、あるのはただ、過去の業という名の冷たい影だけだ。
「……俺はもう、生き返らへん。地獄行って、その……女鬼さん達に、これから毎日ボコボコに叩かれ続けるんか?」
「あーしには、その予定はないかなー。担当じゃないし。ま、叩いて欲しいなら叩くよ? 遠慮なく言って?」
女鬼がニヤリと不敵な笑みを浮かべ、細い指をパキパキと鳴らしてみせる。
その「殺気」だけで、店内の空気がひび割れんばかりに凍りついた。
「あ、いや、勘弁して下さい! 死んでまうわ……って、もう死んでたんやったな。とにかく、地獄でえげつない目に遭うんよな? 針の山とか、血の池とか……」
「どんだけえげつない目に遭うかどうかは、おっちゃん自身の心がけ次第かなー。それこそ、これから先、ちゃんと自身の行いを自覚して、こっち側での次の段階に進むしかないんじゃね?」
女鬼は、不意に優しく、どこか励ますようなギャルの微笑みを浮かべた。
春樹は、その言葉を反芻するように、深く、重く頷いた。
「……そやな。それで少しでも、罪滅ぼしっていうか、あいつらへの償いになるなら、やらなあかんよな。呪いを解いてくれた見ず知らずの人達へのお礼も出来ひんかったから……せめて、その感謝も込めて、自分と向き合わなあかんわ」
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### 「えらいやっちゃ」の祝福
春樹の瞳には、先程までの絶望とは違う、小さな、しかし消えない光が宿っていた。
自分の醜さを認め、他者への恩義を噛み締める。
それは、彼が40年の人生で一度も経験したことのない、初めての「自覚」という名の歩みだった。
「うん、それがいいよ」
女鬼が満足げに頷いた、その時。
それまで静かに椅子に座っていたえらいこっちゃ嬢が、ぴょんっ、と軽やかな音を立てて椅子の上に飛び乗った。
彼女は短い腕を伸ばし、春樹の太い、脂ぎった頭をよしよしと優しく撫でた。
「やっと意識的になりよった。えらいやっちゃ」
彼女の台形の口から漏れたのは、いつもの「えらいこっちゃ」ではなかった。
自覚を持ち、己の道を歩み出そうとする者への、奇妙で温かい賞賛の言葉だった。
「……はは、有難うな。手遅れやけどな、ほんまに」
春樹は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、力なく、しかし清々しく笑った。
自分の人生がいかに救いようのないものだったか。
それを知った上で笑えることが、今の彼に残された唯一の、そして最大の救いだった。
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## 朱き導き手と、六文銭の精算
春樹がえらいこっちゃ嬢に撫でられ、笑顔を見せていると。
食堂の扉が、ゆっくりと開かれた。
直後、店内の空気が一変する。
入り口の枠を埋め尽くすようにして現れたのは、優に2メートル50センチは超えるであろう、筋骨隆々とした巨躯を誇る赤鬼であった。
その肌は煮えたぎる溶岩のように赤く、頭上には鋭く突き出した二本の角が、提灯の明かりを鈍く反射している。
しかし、その威圧的な外見に反し、赤鬼は深々と頭を下げ、丁寧な所作でお辞儀をした。
「お邪魔しますー。女鬼ちゃん、あんじょういったみたいやね。御疲れさん。ほな、こっからは儂が責任持って、このおっちゃんを奪衣婆さんとこまで連れて行くさかい、後は御飯食べてゆっくり休んでや。えらいこっちゃんも、地蔵店長も、いつも有難うさんです」
赤鬼の声は、地鳴りのように低く重厚でありながら、どこか親しみやすい温厚さを湛えていた。
彼は巨体を屈めるようにして店内に一歩足を踏み入れると、床がズシンと微かに震える。
「ん。そんじゃ赤鬼さん、後はよろしくねー♪」
女鬼は椅子から立ち上がると、長い金髪をなびかせ、慣れた手つきでスッと綺麗なお辞儀を返した。
その瞳には、一仕事終えた安堵感と、春樹への最後の慈悲が混ざり合っている。
「おっちゃん、後はあの赤鬼さんと一緒に行けばいいからさ。あんまり暴れて困らせちゃダメだよ?」
女鬼は、いたずらっぽく、しかし優しく微笑んで春樹を促した。
春樹は、目の前の巨体を見上げ、自らの小ささを改めて痛感しながらも、静かに頷いた。
「……ああ。分かった。有難うな。それじゃ、最後にお勘定やね」
地蔵店長は、柔らかなお地蔵さん笑顔を絶やすことなく、静かに合掌してお辞儀をした。
「当店は御布施形式にしております。御自身の心のままに、置いていって頂ければ宜しいのです」
春樹は、上着のポケットから使い古した革の財布を取り出すと、それを迷うことなくえらいこっちゃ嬢の手へと手渡した。
「それなら、これ。財布ごと持って行ってや。金はもう、あっちの世界じゃ要らんやろうしな。さっき中身を観たら、1万円札が2枚と、5千円札が1枚入ってたわ。それを今日のお勘定にしてな。あ、でも、ポケットに入ってるこの6枚の昔の硬貨は、なんかこれから使う気がするから、これだけは持っていくで。」
春樹は、晴れやかな、それでいて少し寂しげな笑みを浮かべた。
掌の中に残された、古びた6枚の硬貨。
それが自らの命を三途の河の向こう側へと運ぶための「六文銭」であることを、今の彼は何故だかわからなかったが、しかし確かに悟っていた。
「毎度あり! 財布ごとありがとちゃん、えらいこっちゃな大金! 」
えらいこっちゃ嬢は、両手で重たい財布を受け取ると、トコトコと短い足取りでレジへと向かった。
春樹は、カウンターの奥で微笑む地蔵店長と、これまで自分を断罪し続けてくれた女鬼、そして騒がしい看板娘に向かって、深々とお辞儀をした。
「ほな、皆さん、ほんまにお世話になりました。有難う御座います。……それと、もし会えるんやったら、俺の呪いを解いてくれた人たちに、お礼を言うてたって伝えておいて下さい。死んだ後の話やけど、これからはちゃんと『意識する奴』になります、って。そう言うておいて下さい」
春樹の言葉は、かつての傲慢さを一切削ぎ落とした、澄んだ響きを持っていた。
彼は赤鬼の大きな影に並ぶようにして、店の出口へと歩き出す。
カラン、と乾いた鈴の音が店内に響いた。
「御来店、誠に有難う御座います」
地蔵店長は、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で合掌し、静かに、そして暖かく、春樹の後ろ姿を見送った。
春樹の魂は、赤鬼に導かれ、霧の立ち込める闇の中へと静かに消えていったのである。
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## 因縁の浄化と、七桁の徳
春樹が赤鬼に引かれ、奪衣婆へと六文銭を支払い、静かに三途の川を渡り切った頃。
現世では、あの禍々しい藁人形のお焚き上げから1週間という時が流れていた。
京都の静かな場所に佇む寺院。
そこには、かつて呪いの儀式に手を染めた金田、星田、熊田の3人の姿があった。
お焚き上げ当日、彼らは女性住職と呪術師に対し、相応の金額を御布施として包んでいた。
しかし、この1週間の間に、春樹が他界してからというもの、彼らの身の回りに起きていた不可解な災難は嘘のように霧散した。
その劇的な変化に恐れおののき、同時に深い感謝を抱いた彼らは、改めて「謝礼」をしたいと申し出たのである。
寺院の客間、磨き上げられた畳の上に正座する3人の前には、凛とした佇まいの女性住職と、影を纏ったような呪術師が座している。
「本当に、有難う御座いました。あの日から1週間……実は直近で、うちの子供が39度以上の熱を5日間も出し続けて、医者もお手上げで困り果ててたんです。それが、あの日を境に嘘のように熱が引きまして……。その他にも、重なっていた不運がぱったりと止んだんです。これも全て、お焚き上げの御蔭さんです」
熊田が代表して深く頭を下げると、金田と星田もそれに倣い、畳に額を擦り付けるようにして感謝を述べた。
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女性住職と呪術師は、既に十分な御布施は頂いていると、その追加の申し出を一度は静かに固辞した。
特に呪術師は、自らの業に対して、それ以上の対価を求めることを良しとしない様子で、客間の隅で静かに首を振る。
しかし、金田たちの決意は固かった。
「このままでは私らの気が済みません。あんな恐ろしいもんに関わってしもうて、ただお礼を言うだけでは足りんのです」
金田が切実な声を上げると、星田も「どうか、受け取ってやってください」と縋るように言葉を重ねた。
その熱意に押されるように、女性住職がゆっくりと口を開いた。
「……仏教には『財施』という教えが御座います。自らの持つ財を差し出し、他者や仏法のために役立てる。それは単なる支払いではなく、御自身の中に眠る欲を捨て、徳を積むための尊い修行の一つでもあります。皆様がそこまで仰るのであれば、それは皆様の未来のための『徳』として、有難く頂戴致しましょう」
住職の柔らかな、しかし重みのある法話を受け、女性住職と呪術師の2人は、ようやく受け取りを承諾した。
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客間の和テーブルの上には、最新のタブレット端末が置かれた。
金田、星田、熊田の3人は、それぞれ震える指先で画面を操作していく。
電子的な操作音が静寂に響くたびに、膨大な数字がネットワークを通じて移動していった。
その金額は、それぞれ寺院に対して7桁、そして呪術師に対しても7桁、100万円がそれぞれ表示されていた。
合計すれば、一般人にとっては大きな金額と言える額であった。
「……流石に、これは受け取り過ぎで御座います。」
画面に表示された桁数を確認した女性住職が、驚きと共に制止の声を上げた。
呪術師もまた、その桁外れの報酬に眉を微かに動かし、無言で異議を唱えようとする。
しかし、熊田は晴れやかな、どこか憑き物が落ちたような笑顔でそれを遮った。
「ええんです。これは私らの『御詫び』でもあります。どうか、これで徳を積ませて下さい。私らが前を向いて生きていくための、ケジメなんです」
これ以上断ることは、彼らの覚悟を汚すことになると悟った女性住職は、静かに合掌した。
「……分かりました。それでは、この浄財は寺の維持と、困っている方々のために大切に使わせて頂きます。有難く頂戴致します」
呪術師もまた、深々と一度だけ頭を下げ、その契約の成立を認めた。
こうして、中田春樹という男を巡る1年間に及ぶ凄惨な呪いの連鎖は、莫大な財と祈りによる「精算」を持って、現世において完全に終焉を迎えた。
部屋を出る3人の背中には、もうあの湿り気を帯びた影は張り付いていなかった。
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## 因縁の残響と、冷徹なる真実
全ての「清算」を終え、客間に流れる空気はどこか非現実的な静寂に包まれていた。
7桁という莫大な金額を振り込み終えた金田、星田、熊田の3人は、憑き物が落ちたような安堵感と、消えない罪悪感の狭間で、目の前の呪術師を改めて見つめた。
金田は膝の上で固く拳を握り、かつて自分が背を向けていた年下の少年――今は謎めいた呪術師となった男に向かって、絞り出すように声を絞り出した。
「俺はあんたの名前も覚えてへんし、呪術師としか名乗ってくれへんから、もうそう呼ぶしかあらへんけど……。俺もあの頃、ソフトボール大会の時とかに、あんたに結構嫌な思いさせてたよな。……それやのに、こうして助けてくれて、ほんまに有難うな」
金田は深く、畳に鼻がつくほどに頭を下げた。
金田は呪術師の1学年上の上級生であり、かつて春樹の影に隠れて彼を冷遇していた認識があった。
呪術師は、表情一つ変えずに、ただ冷淡に、しかしどこか達観したような声音で短く答えた。
「……昔の事です」
その言葉を引き継ぐように、熊田もまた、苦い後悔を滲ませて口を開いた。
「私も……呪術師さんが廊下で春樹に暴力振るわれてるの、何度も見てた。注意はしたものの、結局止めきれへんかったから……正直、あんたに恨まれてもしゃーないって思うてたんよ」
呪術師は、わずかに視線を上げ、熊田を真っ直ぐに見据えた。
「むしろ、あの時は勇気を持って止めようとしてくれたこと、感謝してたくらいです。お気になさらず」
そう言って呪術師は、淡々と頭を下げた。
熊田はその謙虚な態度に救われる思いを感じつつも、金田との過去を思えば、彼が自分たちを救った動機が「優しさ」だけでは説明がつかないことに気づいていた。
「……なんにせよ、金田君とはあんまり良い思い出がなさそうやのに。それでも、こうして私らを助けてくれるなんて。呪術師さんは、ほんまに器がでかいんやね」
熊田が感極まったように言うと、呪術師はふっと自嘲気味な笑みを漏らし、それをきっぱりと否定した。
「……器がでかいわけでも、ましてや優しいからでもありません。僕にとっても、あの呪術を解体する方が『都合が良かった』だけですわ」
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### 「都合」の正体と、暴かれた偶然
「都合が良いって……どういう意味や?」
星田が不思議そうに首をかしげる。
自らの身を削るような解呪の儀式を行い、莫大な怨念を浄化した動機が、ただの「都合」だというのか。
「僕の解呪の動機は、素人呪術が暴走して、あの由緒ある神社が汚されたままなんが嫌だという、僕の個人的なエゴによるものです。まさに『罰当たり』な真似をされたままなんが、気に入らんかっただけですえ。清浄であるべき場所を、泥で汚されたままにしておけなかった……それだけのことです」
呪術師の言葉は、冷徹なまでに職人的であった。
彼にとって、金田たちの救済はあくまで副産物に過ぎず、目的は場所の「清掃」であったというのだ。
「でも、動機が何であれ、そのおかげで結果として私らは助けられた。子供も嘘みたいに元気になって、学校へ行けるようになったんよ。ほんまに、感謝してもしきれへんわ……」
熊田が微笑みながら再び感謝を告げると、呪術師は残酷なまでの真実を、静かに、しかし断定的に突きつけた。
「『病は気から』と言う表現がある通り、呪術の影響はゼロではありませんが、皆様が思ってはるほど大きくもあらへんのです。そもそも、あの中田春樹さんが転落しはったんも、はっきり申し上げて、ただの『事故』でしかありませんしな」
呪術師の淡々とした一言が、客間の空気を氷つかせた。
「……え?」
「事故……? 呪いが成就したんやなくて?」
金田と星田が、弾かれたように顔を見合わせた。
呪術師は、その動揺を冷めた目で見つめながら、さらに言葉を重ねる。
「左様です。あの夜の転落は、奴さんが酒に酔った末の、老朽化した柵の破損による不運な事故です。呪術が物理的に誰かを突き落とすなんてことは、あのような素人の儀式では起こり得ません。そやからこそ、僕は最初から、追加の御布施は貰い過ぎやと言うたんですわ。皆様の不安が作り出した幻想に、それほどの価値はありませんえ」
呪術師の断言を聞き、金田、星田、熊田の3人は、呆然とお互いの顔を見合わせた。
自分たちが1年間、殺意を込めて打ち込み続けたあの呪いさえも、春樹の死という結末の前では無力な「ままごと」に過ぎなかったのか。
そして、その「気休め」のために、自分たちはこれほどの代償を払ったのか。
戸惑う3人の横で、女性住職だけは、すべてを見通したような静かな慈悲を湛え、一言も発することなく彼らを見守り続けていた。
因縁は解かれた。
しかし、彼らが背負った「呪殺という罪」の重さだけは、事故という真実を聞いた後も、消えることなくその場に漂い続けていた。
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## 逆凪の代償と、冷徹なる引導
呪術師の瞳は、底無しの沼のように静まり返っていた。
「『人を呪わば穴二つ』、『逆凪』……言い方は色々ありますがね。呪術に手を出した、あるいは他者を呪った時点で、まずは御自身が呪われるのがこの世界の理です」
呪術師は、淡々と、しかし聞く者の骨の髄まで冷やすような声音で諭し始めた。
座布団に正座する金田、星田、熊田の3人は、その言葉の重みに耐えるように肩を窄める。
「そして、恨みや呪いというもんは、確かに本人を最初に呪いますが、その報いを受けるのは、本人だけとは限りません。人を傷つけて恨みを抱いた人が、恨みの対象である人物の『最も大切なもの』に狙いを定めて、それを奪い去ることで報復するかの如く、呪う対象の周囲にも影響を及ぼすことが御座います」
その瞬間、熊田の脳裏に、これまでの悪夢が鮮烈に蘇った。
39度を超す高熱にうなされ、解呪が完了するまで数日間も苦しみ続けた我が子の震える手。
金田も、星田も、自分たちの家族に次々と降りかかった不可解な不幸や、不気味な気配を思い出し、全身に凄まじい悪寒が走った。
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### 素人呪術の成れの果て
「素人呪術で実際に発動したんは、御三方、つまり術者への呪い、言うなれば『呪いのしっぺ返し』と、春樹さんの死後を迷わせて、暗い迷いの世界に閉じ込めたことだけです」
呪術師は、無機質な表情のまま解説を続ける。
「僕が今回、解呪して全てを無効にしたことで、結果として御三方のしっぺ返しが止んだ事により、周囲への影響も止まったんでしょうな。そして、今頃は春樹さんも、迷いの世界から解放されたはずですえ」
春樹の魂が、ようやく「えらいこっちゃ食堂」に辿り着き、精算を終えられたのは、まさにこの現世での解呪があったからに他ならない。
呪術師は、釘を刺すように冷ややかな視線を向けた。
「素人呪術は危険極まりない。今後は二度と、このような真似はなさらんことですな。まあ、これに懲りて、もう手は出さないでしょうが」
「……はい。肝に銘じます。本当に、恐ろしいことをしてしまいました」
熊田たちは、揃って深く頭を下げた。
だが、熊田は顔を上げると、確信に満ちた強い眼差しで呪術師を見つめた。
「それと、やっぱりお支払いし過ぎなんてことはありません。今の御話を聞いて、解呪して頂いたおかげで家族にも及んだ『しっぺ返し』が無くなった……その恩恵があるのは変わりません。それに、私にはやっぱり……あの時、柵が壊れて春樹が転落したのは、呪いの力が働いたとしか思えへんのです。あれは事故やなくて、私らの怨念が引き起こしたんやと」
呪術師は、それ以上彼女を説得することを諦めたのか、あるいはその盲信すらも「救い」の一部であると悟ったのか、微かに肩を竦めてみせた。
「……さいですか。まあ、そう思い込むことで御三方の精神が救われるというのなら、それで宜しゅおす」
呪術師の突き放すような、しかしどこか赦しを含んだ言葉が、客間の静寂に溶けていく。
傍らで黙して見守っていた女性住職は、ただ静かに数珠を繰り、彼らの罪と後悔が、浄財と共に正しく消えていくのを祈るように見つめていた。
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## 清算の終わりと、奇妙な来訪者たち
金田、星田、熊田の3人が、憑き物が落ちたような顔で深く頭を下げ、寺院の門を後にした。
その足取りは、数分前までの重苦しさが嘘のように軽く、京都の柔らかな風に溶けていく。
そして、彼らと入れ替わるようにして、石畳の参道を軽やかな足取りでやってくる影があった。
「おっはよー♪ ちょうど今、あの3人とすれ違ったけどさ。みんな、ようやく心の整理がついたって、いい顔してたね」
派手な金髪をなびかせ、慣れた様子で境内に足を踏み入れたのは女鬼だ。
その隣には、銀色の髪を揺らしながら小さな手で女鬼と手を繋いだえらいこっちゃ嬢が、ちょこちょこと歩いている。
目を引くのは、えらいこっちゃ嬢が被っているベレー帽の上だ。
そこには、藁で編まれた古い草履に目と口、そして細い手足が生えた奇妙な怪異――化け草履がちょこんと鎮座していた。
「女鬼さん、えらいこっちゃさん、化け草履さん。ようこそお参りくださいました」
女性住職は、慈愛に満ちた菩薩のような微笑みを浮かべ、静かに合掌してお辞儀をした。
その横で、影を纏ったような呪術師もまた、静かに頭を下げる。
「お早う御座います。こっちは全部、終わりましたえ」
その声には、大きな仕事を終えた職人のような、淡々とした響きがあった。
「おはようさん。素人呪術による逆凪は、ほんまにえらいこっちゃ。無事に解けて、良かったちゃん」
えらいこっちゃ嬢が、無機質ながらもどこか安堵したような声で挨拶を交わす。
すると、彼女の頭の上で化け草履が、わらわらと手足を動かして身を乗り出した。
「お早うさんですのう! お礼に伺うのが遅うなりよったけど、藁の付喪神神社の穢れを払うて下さって、これで全部スッキリ、大助かりですやのう! ほんまに、有難うさんですやで!」
化け草履は、ぴょんっと地面に降り立つと、藁をカサカサと鳴らしながら、呪術師に向かって丁寧にお辞儀をした。
呪術師は、その奇妙な怪異の礼に応える。
「ご丁寧に有難う御座います。僕がしたくてした事やさかい、礼には及びませんえ。神社の静寂を汚されたままなんが、我慢ならんかっただけですさかいに」
そう口では言いながらも、呪術師の目元は、どこか柔らかな光を湛えていた。
彼にとっても、この「清算」は自らの矜持を守るための大切な儀式であったのだ。
「さて。立ち話も何ですから、中へどうぞ。丁度、良いお茶が御座います」
女性住職が優しく微笑み、本堂へと続く廊下を指し示した。
女鬼は「わーい♪お寺のお茶菓子、楽しみにしてたんだよね!」とはしゃぎ、えらいこっちゃ嬢の手を引いて歩き出す。
化け草履もまた、カサカサと小気味よい音を立ててその後を追った。
朝の陽光が降り注ぐ静かな境内。
かつて呪詛の煙が立ち込めていたあの場所は、今や清浄な空気に満たされ、奇妙な一行は笑い声を残して、歴史ある建物の中へと消えていった。
中田春樹という男が遺した最後の波紋は、こうして穏やかな水面へと還っていったのである。
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## 彼岸と此岸の茶飲み話 ―― 因縁の終焉
本堂の静寂の中に、低く、しかし力強い念仏の声が響き渡る。
女性住職を導師とし、阿弥陀如来像の慈悲深い眼差しに見守られながら、一同は静かに手を合わせた。
立ち昇る線香の煙が、現世と隠世の境界を曖昧にするかのように揺らめいている。
一心に称えられた念仏が終わり、心地よい静寂が本堂を包み込んだ。
その後、一行は畳の香りが清々しい客間へと移動した。
和テーブルの上には、丁寧に淹れられた深緑の緑茶と、漆黒の輝きを放つ見事な羊羹が用意されている。
一同は居住まいを正し、声を揃えて食前の言葉を称えた。
「われここに食をうく、つつしみて天地の恵と人々の労を謝し奉る」
続けて、十回の念仏「十念」を静かに称え終えると、ようやく安らぎの時間が訪れた。
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### 羊羹と安らぎのひととき
「えらいこっちゃな美味羊羹! これ、えらいこっちゃな逸品や!」
えらいこっちゃ嬢が、小さな口をいっぱいに動かしながら、弾んだ声で絶賛する。
化け草履もまた、藁の足をパタパタとさせて喜びに震えていた。
「ほんに、ほんに美味い羊羹ですやのう。お口の中でとろけるようですわ。有難いことですやで」
女鬼も、湯気の立つ御茶を一口すすり、満足げに目を細めた。
「マジでイケてるし♪ 羊羹の甘さが疲れた魂に染みるわー。住職さん、ありがとねー♪」
和やかな空気が流れる中、女鬼は表情を引き締め、ゆっくりと言葉を繋いだ。
それは、あの「畜生修羅おっちゃん」こと、中田春樹についての報告だった。
「……それでね。あのおっちゃん、摩訶不思議食堂で自分のしでかした事、ようやく『自覚』したよ。最後はちゃんと自分の足で、赤鬼さんと一緒に三途の川へ向かったし。奪衣婆さんのところでの手続きも、あっちの役人への引き継ぎも、全部つつがなく終えてきたから。もう、あの神社で迷うこともないはずだよ」
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### 仇を恩で返す結末
女鬼の報告を、女性住職と呪術師は静かに聞き入っていた。
報告を終えた女鬼は、二人に向かって茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。
「今回はマジで感謝してるし。ありがとね、二人共。おかげで、現世での面倒なことは、全部二人が綺麗に片づけてくれたから、あっちでの導きが凄くやりやすかったんよ。あのおっちゃん、最後にお礼言ってたよ。『これからはちゃんと意識する奴になります』ってさ」
化け草履が立ちあがり、改めて深々とお辞儀をする。
「あっしみたいに、藁で出来てる怪異とか付喪神の類は、あの『藁の付喪神神社』に立ち寄ることがありよりますさかい。神社が呪詛の穢れから解放されたんは、ほんまに助かりましたでな。有難うさんですやで」
女性住職は、慈愛に満ちた菩薩のような微笑みを浮かべ、静かに合掌した。
「それは何よりです。神社も元通りになって、あの方の魂が、ようやく一歩を踏み出せたのであれば、私達の務めも報われました」
呪術師は相変わらず無表情を貫いていたが、その瞳の奥には、刺々しい殺気はもう微塵も残っていなかった。
湯呑みから立ち昇る湯気に目を細める彼の周囲には、どこか安堵したような、春の陽だまりを思わせる優しい雰囲気が漂っている。
彼にとっても、この「解呪」は、かつて自分を傷つけた男への復讐ではなく、自らの住まう世界を清めるための、矜持を懸けた戦いだったのだ。
「ご報告、有難う御座います。春樹さんの礼と決意、確かに聞き届けました。」
そう言ってから、呪術師は御茶を一口、慈しむように飲んだ。
因縁は解け、呪いは消えた。
京都の静かな午前、人間と怪異が卓を囲むこの奇妙な茶会は、一つの魂の救済を祝うかのように、穏やかに続いていった。




