第一章 体力テスト
1
入学式から数日が経った。
朝のホームルーム。アラーキーが定着しつつある担任の荒木恒一がスポーツウエア姿で教卓前に立った。
「今日は予定通り体力テストを行う。男女分かれて着替えを済ませて、9時までにグラウンドに集合すること!では準備しろー」
クラス内は「えー」とか「寒いのに」とか「あたし体育苦手」とか、口々に不満を言いつつも、仕方なく準備に取り掛かる。
「男子早く出てってよねー」と女子の誰かが言う。男子は隣の5組の教室で着替えだ。代わりに5組の女子が6組にやってくる。
1年生全員が真新しい体操着を身につけてグラウンドに集まった。
「大河、やっちまったな!」
蓮が言う。
「鳥肌立ってるな!」
直が茶化す。
「村井君、やめてよ。見てるこっちが寒いよ」
結月もツッコむ。
「ほんとばか!」
玲奈が彼氏の醜態を嘆く。
あいにくの曇り空で風も冷たい4月某日。1年生約280人の全員が上下ジャージ姿だ。
村井大河を除いては。
大河はやはりバカキャラで確定だ。「体操着」を持ってこいという日に、夏用の半袖Tシャツとハーフパンツしか持ってこなかったのだ。間違ってはいない。間違ってはいないのだけれど。まあ、気合いで我慢するしかない。
蒼真は直と各種目を回るつもりだったが、バスケ組の蓮と大河も何となく一緒に回る雰囲気だ。運動神経の良さそうなバスケ組と一緒に競技を進めるのが蒼真は少し気が引けた。蒼真は体力テストを真面目にこなしたことがない。
例えば、反復横跳び。
人類がなぜか横に移動することを問われる種目である。
「蒼真、ちゃんとやれよ」
直が先回りしてサボらないよう釘を刺してくる。
「誠意は見せるよ」
「誠意じゃなくて全力を見せるんだよ!誰に対する誠意だよ?!」
「うーん、文部科学省?」
明らかに蒼真は全国の統計値を乱している。誠意のかけらもない。
「神谷っていつもあんななのか?」
蓮が直に問う。
「毎年こうだぜ」
「冷めてるなぁ」
「だろ!」
蓮と直は顔を見合わせ呆れたように笑った。
ちなみに蓮は機敏な動きで65回をマーク。周囲がどよめいた。
「神谷君!気合いだよ!気合い!」
大河が蒼真に熱い声かけをする。半袖短パン姿で。
蒼真はそれを聞こえないふりをする。
「次は外競技だろ。さっさと終わらせよう」
そう言って一人先に行ってしまう。
2
ハンドボール投げ。
将来ハンドボールを投げる仕事に就く予定があるなら欠かせない測定種目だ。洲原高校にはハンドボール部はない。
バスケ部組が美しい放物線を描いて、好記録を出していく。蓮は34メートル、大河は35メートルだ。直も平均程度の記録は出した。
「神谷君、気合いだよ!」
大河がハッパをかけてくる。
蒼真は本当に気が乗らない。
蒼真、1投目。
「マジかよ」
蓮が小さくつぶやくのが聞こえる。
周囲の雰囲気が重苦しくなるのを感じて、蒼真の心もずっしりと重くなる。
蒼真の記録は13メートル。
「蒼真、誠意足りなさすぎだぞー」
直が声かけする。
「神谷、もう1投あるから大丈夫!」
蓮が励ます。
蒼真2投目。14メートル。
「神谷、それ全力ってことでいいんだよな?」
蓮が確認する。
「ああ。球技はダメなんだ。ボールは得意じゃないから球技はやらないんだ。小さい頃から」
蒼真が小声で答える。
グラウンドを歩く結月と玲奈の姿が目に入った。蒼真の情けない姿を見られてしまっただろうか。
「神谷君の全力ならそれでよし!」
大河が空気を変えようとしてくれる。
蒼真はそれがかえって居た堪れなくて顔をしかめる。
「50メートル走で終わりだ。さっさと終わらせようぜ!ほらほら!」
直が皆の背中を押すように後ろから声をかける。
3
50メートル走。
人類の逃げる力が試される競技である。
2人ずつ走るため、少しの待機列ができている。蒼真は先ほどハンドボール投げで情けない姿を晒したことをまだ引きずっていた。うつむいた状態で走る順番を待っている。
「次の人は準備してください」
聞き覚えのある女子の声だった。結月だ。自分の測定が全て終わって、教師たちの手伝いを買って出たんだろうか。
「久遠さん、バスケ部のマネージャー引き受けてくれたんだよ」
蓮が教えてくれた。蒼真はそうなるような気がしていたので驚きはなかった。入学式の日の後も、蓮と結月がその件で何度か話をしているのを見ていたからだ。
結月の隣には玲奈が一緒にいるのが見える。
「久遠さん、シュッとしてて美人だよな。ああいう子好きだわ」
「久遠さんのポニーテールいいっ!」
「レナちゃんのかわいい系も捨てがたい」
「いや、俺はレナちゃんのナイスバディ推しだけど」
とかいう、男子の下世話な会話が聞こえてくる。大河が男子と玲奈の間に仁王立ちして威嚇している。
玲奈の茶色い髪は、肩のあたりで自然に丸みを帯び、毛先だけがゆるくカールしていた。縛っているわけでも派手に巻いているわけでもないのに、なんとなく手が込んでいる感じがする。ゆるやかなアーチを描くふんわりとした眉に、ぱっちりと潤んだ大きな丸い瞳。桜の花びらのようにぷっくりとした厚みのある唇と、桃のようにほんのり血色の良い柔らかな肌。そして胸。ジャージ姿ゆえに、はっきりとした大きさは分からない。ただ、確かにそこにある、という事実を、男の目は正直に拾ってしまう。
「大槻君と神谷君、次ね」
結月はスタートラインに2人を誘導する。
結月が蒼真を肘でちょんと小突きつつ、音にならない小さな声で「頑張れ」と囁いた。
その瞬間、曇り空の切れ間から一条の光が蒼真に降り注いたような気がした。
「準備できましたー」
と、結月が大声で50メートル先のスターターに合図をする。
蒼真はスタンディングスタートの体勢を取る。
「よーい」という声の後に赤いフラッグが振り下ろされる。
蓮と蒼真は同時に出る。
蓮が速い。
蒼真は無心になって走る。
先ほど結月に肘打ちされたところが熱い。
追いかける立場の蒼真はひたすらに、今日初めて全力で、わずか数秒の間必死になる。
蓮の背中を標的に定めて、がむしゃらに地を蹴って、空気を切り裂いて、前へ前へと意識を持っていく。
蓮に追いつくだとか、いいタイムを出すとか、競争や記録のためではなく、ただ自分の中のものを絞り出し切る感覚で走り抜いた。
蓮は6秒台前半を叩き出した。陸上部の顧問らしい体育教師にスカウトされて苦笑を浮かべている。周囲の女子たちもキャーキャー言っている。爽やかスポーツ男子、モテモテだ。
蒼真は7秒1。ものすごく疲れた。体育でこんなに息が上がるほど本気で走ったことがあっただろうか。タイムは平凡なものだが、他の種目では感じなかった感覚が残った。
「蒼真のガチのやつ初めて見たかも」
直がタオルを差し出してくれる。
蓮が少し離れたところからこちらを見て笑っている。
大河は蒼真の方がタイムが良かったと言って悔しがっている。
全ての競技を終えてグラウンドから昇降口に向かう4人。
大河が直に運動部のやりがいを語り、直が大河に帰宅部の自由の素晴らしさを分からせようとしている。
そんなどうでもいい雑談を蒼真と蓮はやや後ろを歩きながら聞いていた。
蓮が蒼真にぼそっと話しかける。
「お前さ、あれ、応援効果だろ?」
蓮の視線の先には結月がいた。
こちらの話し声に気づいたのか、結月がこちらを向いて手を振ってくる。蓮だけが結月に手を振りかえしている。
蒼真は蓮の問いに対して何も言わなかった。しかし、少しだけ背筋を伸ばして顔を上げて歩いた。




