16. 切り替え
「あのような環境で研究を続けていれば再び爆発が起こるか、別の何かしらの事故が起こってもおかしくなかったでしょう。色んな魔法植物を出し入れしていた時点で室内の環境の変化が起こりやすいでしょうし、そもそも埃が積もってもお構いなしにしている時点で論外です」
魔法植物に対する的確な知識を踏まえたシルクの注意にグレイは反論せず、叱られた仔犬のようにシュンと落ち込んでしまう。
普段なら何かしら理由を付けて反論するのにとシャロンは多少の驚きを含んだ表情をするが、相手はこれまで様々な言い掛かりを付けてきた研究者達とは違う、専門家ではない人物。素直に意見を聞いた上で発言してくる人物だ。そう考えるとグレイにとっては大きなストレスを感じずに接することが出来る相手なのだろうと考える。しかし同時に、出会って間もないのにここまで信用して大丈夫なのかと逆に不安にもなっている。
「兎に角…今日のデータを基準として、これからどうやって最終目標を達成させるのかを考えていくしかないのではありませんか」
グレイは返却されたノートの最終頁、先程書き込んだばかりの頁を見つめる。
研究を始めてから月日は経っているが、進歩したのか後退したのか複雑な気持ちに襲われる。
そんなグレイの様子を察してか、純粋に思っただけなのか、シルクは続けた。
「どのような結果でも、結果が出た時点でそれは1つの進歩じゃないでしょうか」
「…例え悪い結果だったとしてもかい?」
「はい、”結果”として判明したのですから。それは次に向けての進歩になります」
無表情であるものの、瞳からは真剣さが伺えられる。
真剣な目付きで断言した。
「掃除中にも研究の事を呟くくらいなんです。博士は研究熱心で、研究がとても好きなんだなとよく分かりましたから…博士は素晴らしい人ですよ」
これからは整理整頓も踏まえながら研究を進めてください、と付け足すとシルクは研究室から出て行った。そのまま自室に戻るのだろう。
グレイは静かに閉ざされた扉を見つめ、続いて手元のノートに視線を落とす。
何度も開いては書き足してを繰り返され、表紙の縁が薄く汚れている研究ノート。
必ず目標を達成させるために、何度も考えては実験してを繰り返してきた結果が書き留められた、たった1つのノートだ。
グレイは再び顔を上げる。
清々しい、自身に満ち溢れた笑顔だ。
「よし、一旦ピュアポトスの特性を今一度詳しく洗い出してしまおう!そのデータから具体的な条件を見つけてから実験再開だね!2人はこれからどうするんだい、研修終わりだし課題が出てたりする?」
「しっかり出てますよ、研修についてまとめたレポートがあります」
「そういう訳だから先生の研究に首を突っ込む余裕は無いけど…まぁ何とかなるだろ」
シャロンはグレイの様子から、変に突っ込まなくても大丈夫だろうと安堵する。
不安や焦りを漂わせ、いつものように目の下に隈を浮かばせ怪しいを笑みを貼りつけているグレイはそこにはいない。
1人の研究者として自信を持ち、目の前の研究に挑もうとしているグレイがそこにはいた。
「2人ともレポート頑張りなよ!それじゃあ僕は早速資料を集めてこないと…確か自室にあったっけ」
「ちゃんと取り出したら元の場所に戻せよ」
「分かってるよ~!」
グレイも研究室から出ると、続いてシャロンとミュスカも研究室から出る。
3人の自室は二階にあるため直ぐに戻ることが出来るが、自室に戻ろうとする途中でミュスカはふと廊下の隅にある小瓶を見つける。
シルクが置いた大炭草の入った小瓶。この小瓶は各階に一定の間隔で設置されている。
1枚だけで広範囲に消臭効果が発揮されている特別な大炭草。ミュスカは小瓶を手に持ち、廊下の先、階段がある方へと視線を移す。
「シルクさんって何者なんでしょうね」
「…さぁな」
――――
――
シルクは自室に戻り、設置した椅子に深く腰かける。
そのままゆっくり目を閉じ、昨日の大掃除の光景が脳裏に映し出される。
積み上げられた段ボール、書類、未開封の物品。
どれも埃が積もっていて動かされた形跡が少ない。
そんな光景を思い出せば、不意に手に力が籠められる。奥歯がグッと嚙み締められる。
ゆっくりと開いた瞳には怒りが込められていた。
(…どうして、こんなにイライラするのだろう)
決してグレイに対して怒りを感じているのでは無い。
整理整頓されず放置された部屋に、床が見えず行き場が限られてしまっている部屋に対して。
自室を掃除する時に感じたぐつぐつと煮えたぎるような怒りの感情。
その時よりも、実際に汚部屋を目にした時の方が怒りの度合いは増していた。
沸騰しているお湯がどんどん上昇し、鍋の縁から勢いよく溢れようとするような怒り。しかしそれは縁から零れることなく寸止めで鎮火される。
自らの理性によってなのか…または諦めによってなのか。
記憶が欠落しているシルクにとって、怒りの理由や怒りの鎮火作用が何なのかあやふやであった。
(…疲れているのかもしれないな)
シルクは椅子に座ったまま仮眠をとることにした。
シルクにとっての、数日ぶりの睡眠である。




