第五章:届かぬ刃、命の重さ
夜の帳が下りた京の町。
雨が静かに屋根を打ち、濡れた灯籠の火が小さく揺れていた。
安倍晴義は、薬書院の一室に独り座していた。
机上には、古びた診察帳――自ら封印した過去の記録。
表紙には、筆で記されていた。
患者名:椎名 夕帆
診断:不明症状(発熱、咳、幻覚、神経異常)
結果:未治療。死亡扱い。
そのページを開いたとき、
封じていた記憶が、波のように押し寄せてくる。
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◆ 回想:九年前
それは、晴義がまだ「斬魔師」となる以前――
貴族院附属の病院にて、若き医師として日々、患者と向き合っていた頃。
その日運ばれてきたのは、一人の少女。
儚げな顔立ち、かすれる声、乾いた咳。
身元不明の患者だったが、晴義の元を「選んだように」訪れてきた。
「先生……わたし、なにかが、中にいるの。
でも、苦しいっていうより、さみしいの……」
晴義は全力で診断を試みた。
だが、すべての薬が効かない。
呪術師も陰陽師も手を出せない。
まるで「病気」という概念の外にいるような存在だった。
「この子は……病ではない。“何か”を宿している」
診断は、限りなく“瘴魔”に近かった。
しかし、その症状は「未発症」。
斬れば――命を落とす。
斬らなければ――いずれ暴走する。
「先生、わたし……人じゃなくなったら、先生の手で止めてね」
その少女の言葉に、晴義はうなずいた。
だが――
時が来た時、彼は、斬れなかった。
「……まだ大丈夫だ」「まだ人の心が残っている」
そう、自分に言い聞かせた。
だがその瞬間、少女の身体が仮面をかぶり、黒き瘴気をまとい、姿を消した。
少女・夕帆は、発症し、姿を消した。
斬らずに逃がしたその瞬間――
晴義は、初めて“患者を見捨てた”。
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◆ 現在・薬書院
「そして今……“核”は雪麻呂に宿った」
彼は診察帳を閉じる。
そのとき、背後に声が響く。
「……あの時の患者。お前が斬れなかったことで、私は生まれた」
振り返れば、闇の中に――アルファの仮面が浮かんでいた。
「夕帆の中にあった“孤独と恐れ”が、“病”として変異した。それが私。
つまり、お前の“罪”が、私の原型だ」
晴義は刃に手をかけるも、動けなかった。
「……なぜ、あのとき斬れなかった。
あれが、“初めての患者”だったからか?」
アルファの声は、まるで晴義自身の内なる声のように響く。
「お前は“命を救いたい”と願った。
だがその刃は、“命を絶つこと”にもなる。
――その矛盾こそが、私の核となった」
静かにアルファは仮面を取り、薄い笑みを浮かべた。
その顔は――椎名夕帆に、酷似していた。
「私を完全に“斬る”には、かつてのお前を乗り越えねばならない。
覚えておけ、晴義。お前の刃は、まだ“躊躇”している」
そして再び、仮面がはめられ、姿は闇に溶けた。
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晴義はその場に静かに座り直し、刀を膝に置く。
「――次こそは、斬る。
命のために。過去のために。
そして、まだ救える者のために」
雨は止んだ。
その空の下、彼の誓いだけが静かに響いていた。