第3章:仮面の書庫と最初の影
SARSとの戦いから数日。
京の空は晴れ、都人の表情にも幾分かの安堵が戻りつつあった。
だが、安倍晴義は知っていた。
――コーヴィ堂は、これで終わらない。
むしろ、これからが本番であることを。
「SARSは“前衛”。つまり、奥に“本体”があるということだ」
晴義は、京の外れにある宮内薬書院を訪れていた。
それは表向きは貴族のための薬草研究所でありながら、裏では医療と呪術の記録が封印される禁書庫が存在する、国家機密の保管所だった。
案内されたのは、地下の最奥。
蔵の扉には封印の札が五重に貼られ、陰陽の式盤が唸りを上げている。
「……コーヴィ堂の名が初めて記されたのは、ここだ」
晴義は、かつての師より密かに伝えられていた「禁書:疫障巻」を探していた。
幾百という巻物と石板の中、ようやく一冊、黒い革で包まれた書が見つかる。
《疫障巻・下巻 ――序列記録》
めくると、異形の存在たちの名前が刻まれていた。
【コーヴィ堂 序列一覧(抄)】
•α(アルファ)
•β(ベータ)
•γ(ガンマ)
•Δ(デルタ)
•MARS
•SARS
•OMICRON
•他、変異無数
「……やはり、“サーズ”はその中の一体に過ぎない」
中でも、晴義の目を引いたのは、巻頭に記された名。
α(アルファ)――すべての始まり。原初の変異体。
その記述にはこうあった。
“此ノ者、未ダ明カラズ。然レド、姿無クシテ人ノ中ニアリ。仮面ヲ帯ビ、誰ノ中ニモ現レル”
「……姿なき、原初の病魔……」
不意に、薬書院全体がひんやりとした静寂に包まれる。
空気が変わった。
カツン……カツン……
地下の石廊下を、足音が響く。
誰も通すはずのないこの書庫に、誰かが、――いや、“何か”が近づいてくる。
「誰だ」
晴義が問うた瞬間、燭台の灯が一つ、二つと消えていく。
暗闇の中、ふわりと現れたのは、真っ白な仮面。
それは能面にも似て、笑っているようにも見える。
そして、黒衣に身を包んだ異形の存在が姿を現す。
「……会いたかったよ、“斬魔師”」
その声は中性的であり、老若を判別できない。
「貴様……コーヴィ堂の者か?」
「名乗ろう。“アルファ”――すべての始まり。貴様が斬った“SARS”の前、最初に変異した存在だ」
その言葉と同時に、空気が一変する。
まるで肺の中にまで入り込んでくるような圧迫感。
目の前の存在が、ただの“悪魔”ではないことを晴義は直感で悟った。
「なぜ姿を見せた」
「伝えに来たのだ、晴義。お前の“診察”が始まったことを。
そして、お前の処方は、我らには通じぬことを」
「……何を企んでいる」
「我らは“人の進化”に寄生する。病とは違う。抗えば抗うほど、我らは変異する。
次に来る者は、“デルタ”。あれは殺すだけの者ではない。“変える”者だ」
晴義が刃に手をかけると、アルファは一歩、すっと後退する。
「今日は手を出さぬ。お前に“診る目”があるか、試しに来ただけだ。
……ただ一つ忠告をしておこう」
その仮面の奥から、声が低く響いた。
「この都には、既に我らが“核”を宿した者がいる。
その者は、貴様のすぐそばにいるぞ、斬魔師・安倍晴義」
次の瞬間、アルファの姿は闇に溶けるように消えた。
晴義はしばし沈黙し、ゆっくりと刃を下ろした。
「……コーヴィ堂は、“外”から来た病ではない。
“内”から生まれる病だ――人の心の中に」
そして彼は、巻物を持ち、ゆっくりと地上へと戻る。
仮面の言葉は確かだった。
都のどこかに、アルファの“核”を持つ者がいる。
その正体を暴き出す時――京が本当に壊れるのか、それとも救われるのかが決まる。