第2章:黒瘴(こくしょう)の悪魔、京を歩む
夜の京は静かだった。
だがその静けさは、死者の町にも似た沈黙。
空気は重く、灯火は揺らぎ、遠くから咳と呻き声が断続的に響く。
それは、もう人ではなかった。
東山の貴族屋敷――その庭にて、影が膨れ上がる。
黒き瘴気が実体化し、ねばついた霧となって地を這う。
やがて、瘴気の中から一対の眼が現れる。
赤く濁った、獣にも似ぬ目。
「……出たな、SARS」
そう呟きながら、斬魔師・安倍晴義は屋根の上から静かに降り立った。
彼は僧でも武士でもない。
だが、その背には刀のような長い包布と、薬瓶を織り込んだ帯。
手には銀光る刃――医師の象徴たる、神鋼手術刀・無垢。
「……また人を喰ったか、瘴鬼よ。何を求めて、京を歩む」
サーズは濁った声で笑った。
「フ、フフフ……我は“人の恐れ”から生まれた影。名をサーズ。コーヴィ堂の前衛を担う者なり」
その声とともに、瘴気が一気に膨張する。
腐った臓腑のような匂い、肌を這う粘着質な熱気。
「咳一つで千人を病ませ、咳二つで万人を殺す。我が咳は“疫”そのもの――」
ゴオッ……!
サーズの口が裂け、黒い気体が爆風のように放たれる。
晴義は即座に布を巻いた仮面を口元に当て、左手の薬瓶を地に叩きつけた。
「瘴気中和式・銀蓮の霧」!
霧が立ちこめ、サーズの瘴気とぶつかりあい、互いに削り合う。
だが次の瞬間、サーズが跳ねた。人間の四倍の跳躍力で、上から急降下してくる!
ズドォッ!!
地面が抉れる。
だが、晴義の姿はそこにはなかった。
「ふっ」
サーズの背後、わずかに浮いた瘴気の乱れを突き、晴義は刃を一閃。
ヒュッ――ッ!
銀の手術刀が、サーズの背を裂いた。
「ッ……!」
だが、黒い煙が吹き出すだけで肉は斬れぬ。
そこにあるのは“病”の化身。物理では斬れぬ存在。
晴義はすぐに下がり、包布を解いて取り出すもう一振りの刃。
「断瘴刀・烏羽」――黒鉄に銀を織り込んだ、悪疫専用の刃。
「次は本気で行かせてもらう」
「よいぞ……人の医者よ……その身で証明せよ……人が病を制するなどという傲慢をな!!」
⸻
サーズが両腕を広げ、周囲に“黒瘴の結界”を張る。
空気そのものが粘り、重くなる。
「瘴気封陣・百層式――この場は“疫界”と化す。お前の呼吸すら、我が糧ぞ」
晴義は目を細め、呼吸を最小限に抑える。
その間も、全身の感覚を研ぎ澄まし、敵の構造を「診る」。
《肺、腸、粘膜……人を模した構造……だが本質は“核”……》
“瘴気核”――それが、病魔の中心。
「見えた。貴様の“中”にあるもの」
晴義は右手の烏羽刀を逆手に構え、左手には注射器のような器具。
「外科術・疫核穿刺――!」
疾風のような踏み込み。
サーズの胸に向けて烏羽刀が突き立つ。黒い血が飛び散る!
「グゥゥ……ッ!!」
直後、晴義は刃を横へ走らせ、露出した“核”に針を打ち込んだ!
チッ――パァン!!
注射器が炸裂。中には銀蓮液と塩化根薬――瘴気を溶かす特製薬液!
「なッ……!? 熱いッ……なにを……入れた……!!?」
「おまえの“核心”に、処方を下した。人を蝕んだ“因果”を、ここで断ち切る」
「貴様ァアアアアアアアア――――!!」
サーズが絶叫し、全身から黒い血煙を撒き散らして爆ぜる!
だがその中心で、晴義は静かに刃を振り払っていた。
黒き霧が晴れたあと、そこに悪魔の姿はなかった。
ただ、焦げた仮面の破片が一枚――地に落ちるのみ。
⸻
風が通る。
沈黙の京。
倒れていた者たちはまだ目を覚まさないが、その苦しみはすでに和らいでいた。
安倍晴義は刀を収め、空を仰ぐ。
「……これで、ほんの一人目か」
彼の戦いは、まだ始まったばかり。
コーヴィ堂には、まだ無数の“名”がある。
アルファ、ベータ、デルタ、ガンマ、ラムダ、ミュー、オミクロン……
そのすべてを斬るまで、彼の刃は止まらない。