第1章:瘴気、京を覆う
月は雲に隠れ、星は光を失い、都に夜が訪れる。
風が凪いだかと思えば、黒き瘴気が街を包む。
それは、焚かれぬ香のごとく、どこからともなく漂い、やがて人々の喉を焦がす。
咳。
血。
熱。
そして死。
誰もがそれを「病」と呼んだ。
しかし、そう名付けたところで、何の意味もなかった。
祈りも、占いも、供物も通じぬ――それは、既に**“この世の理”を逸した存在**だったのだ。
「……また一人、死んだか」
安倍晴義は、口元を布で覆いながら、倒れた男の脈をとる。
反応は、ない。
目の周りに浮かぶ黒い痣。喉を焼かれたかのような発赤。肺に溜まった血。
それは、晴義にとって見慣れた「敵の痕跡」であった。
「……サーズ、また貴様か」
忌まわしき名を口にする。
この都に現れし疫魔――SARS。
異国より現れし“気”を操る悪魔。
それは単独ではなく、**「コーヴィ堂」**という魔の組織に属していることを、晴義は既に突き止めていた。
SARSは“感染”という形で人から人へ移り、拡がり、そして魂を奪う。
それを祓うため、晴義は戦ってきた。
否――斬ってきた。
彼の背にあるのは、経文でもお札でもない。
刃。鋼の刃。**手術刀**と呼ばれる、精密に造られた刃物。
それを振るい、肉を裂き、血を抜き、瘴気を断ち、魂を救う。
かつて禁裏御殿に仕え、蘭学・陰陽・漢方を融合させたその技。
人々は彼を恐れ、また敬い――こう呼ぶようになった。
**「斬魔師」**と。
その夜、晴義は異様な気配を感じていた。
東山のふもと、貴族の屋敷から響く悲鳴。
駆けつけた時には、既に四人が倒れていた。
「ぐぅ……ッ、たすけ、……っが、ぜ……ッ!」
その中の一人、まだ命の火を消していない男が、胸を掻きむしる。
「我が名は……サーズ。……人の無知と恐れにて、我は生まれた……」
言葉はすでに人のものではない。
喉から漏れ出る黒い瘴気が、周囲の空気すら腐らせていく。
「黙れ」
晴義は短く言い放ち、袖から銀のメスを抜いた。
それは祈りの道具ではない。
治すための刃。殺すための刃。
悪魔を斬るための、冷たく鋭い意志の象徴。
「斬魔師、安倍晴義――出陣する」
静かなる声が、疫魔の咆哮を切り裂いた。
この夜、都にて最初の戦いが始まる。
疫魔サーズ。コーヴィ堂の尖兵。
その存在を暴き、断ち切るために――
晴義の刃が、冥き夜を斬る。