Chapter 6:師匠
「わたくしの名は浮世浄寧。よろしくお願いいたします」
朝も早く、不思議家の玄関先に一人の修道女が立っていた。
純白の修道服をまとい、髪は真っ白。
顔には白いヴェールがかかっていたが、それでも目尻の小じわは見て取れた。
年老いた修道女だった。
楓奈は両親の驚きに満ちた様子には気づかず、好奇心いっぱいに尋ねた。
「あんたが先生なの?」
老修道女がかすかに腰をかがめた。その時、楓奈は初めて気づいた。修道女の背中に、巨大な十字架が背負われていることに。
十字架は修道女とほぼ同じ背丈で、ほんの少しだけ短い。
彼女がそれを背負って歩けるとは思えたが、明らかに太く重そうで、しゃがむことは難しそうだった。
「そうだ。君がわたくしの弟子となる者か? 不思議楓奈」
「え? あたしのこと知ってるの?」
「ああ。それに、君には高い魔法の素質があることも見て取れる」
「えっ?」
(身内以外に魔法の才能を褒められるなんて、生まれて初めてだ…)
その時、ようやく両親が驚きから我に返ったようだった。
「純白の修道女様が、ご自ら教えにいらしてくださるとは…これはまさに…」
「まさか…? フフにこんな幸運が?」
「ん?」
楓奈は首をかしげ、一葉の方を見上げた。
(“こんな幸運”ってどういうこと? この修道女、すごい有名人なの?)
一葉はうつむき、娘の疑問を察したように説明を始めた。
「フフ、この浮世様はね、国でただお一人の『純白の修道女』様なのよ。教会の修道女はみんな黒い修道服を着ているけど、最高位の方だけが白い修道服を着ることを許されているの」
楓奈はぽかんと彼女を見つめ、ちんぷんかんぷんという様子だった。
改守がそっと妻の肩に触れた。
「娘には今はまだわからないだろう。学んでいくうちに理解するさ」
「そうね」
一葉はうなずき、ふと思い出したようにしゃがみ込んだ。
「フフ、三億年前、二代目魔王が現れた時の話、覚えている?」
「うん、覚えてるよ」
「その物語に出てくる、魔王出現で広まった病気を民衆に癒やしつつ世界を巡った『最も美しき修道女』が、この方なのよ」
「えっ!?」
楓奈は目を見開いた。
三億年前。その美しさがもとで国家同士が教会に戦争を仕掛けそうになったという、最も美しき修道女。魔王の出現と彼女の世界巡礼が重なり、修道女に思いを寄せていた国王は断念せざるを得なかったという伝説の人物。
三億年! 彼女はまだ生きていたのか?
「当時、浮世様は世界で最も強い魔法使いの一人だったの。それが今、どんな実力か想像できるでしょう?」
楓奈は頭が真っ白になった。
(そんな人が…あたしを教えるの?)
「ご安心なさい。この占いの結果は、北方の氷山王国の占い師協会長が自ら占ったものです。かの方は千年も前から、わたくしの弟子がここで待っていると告げてくださっていました」
楓奈は思わず口を押さえた。
(千年も前から!?)
「さて、小さき者よ。わたくしを師と仰ぐことを望まぬか?」
楓奈は慌てて首を縦に振った。
「そ、そんなことないです!大師様! ぜひお願いします!」
「腰を折って礼をすれば、それが師弟の儀とするがよい」
楓奈は恭しく腰を折った。改守と一葉は当惑した様子だった。
「師弟…? ただの生徒ではなかったのですか?」
一葉が信じられないという口調で尋ねた。
「普通の生徒に、わたくしがわざわざ遠路はるばる来ると思うか? 知らせを受けた時たまたま中部の紅葉王国にいたとはいえ、終われば北方の氷山王国に戻り、職務を続けねばならぬ。雪の都までがどれほど遠いか、おわかりか?」
「それは楓奈、この上ない名誉です」
改守が感嘆した。
老修道女は楓奈の礼が終わるのを見届け、うなずいた。
「ではこれより、お前とわたくしは師弟の契りを結んだ。わたくしが師、お前が弟子だ」
「はい、師匠」
「よろしい。では中に入り、詳しく話をしよう」
老修道女が中へ入るよう示すと、楓奈は振り返り、修道女の後ろの楓の木の下に小さな人影を見つけた。
彼はこちらの様子を眺めているようだった。
「ちょっと待って、師匠」
「どうした」
「あれはあたしの遊び仲間なんだけど、ついでに教えてもらえない? そうすれば授業にも相棒ができるし」
老修道女が振り向くと、真っ黒な服を着た星動の姿があった。皆に気づかれた彼は、すぐに何事もなかったかのように背を向けた。
「断るわけではないが、誰にでも最も適した師というものは…おや?」
老修道女は右手の親指と中指を合わせ、他の指を軽く曲げて印を結んだ。楓奈は彼女の手のひらに白い魔法の刻印が一瞬光るのを見た。すると、老修道女の拒否の言葉は突然止まり、怪訝な声をあげた。
「師匠、どうしたの?」
「…構わぬ。彼はわたくしの弟子にはなれぬが、教え子にはなれる。わたくしが彼の教師となろう」
「やった! じゃあ、あたしが伝えてくるね」
楓奈は嬉しそうだった。一人で授業は確かに退屈だ。相棒がいる方がいいに決まってる。
「待て。彼にこう伝えるのを忘れるな:『この世に彼に教えるのに最も適した師は存在しない。すべての不適切な師の中では、わたくしが最も彼に教えるのに適している』と」
「わかった」
楓奈は興味津々で駆け出した。
彼女の知らないところで、背後で改守は少し躊躇していた。
「浮世大師…さきほどのお言葉の意味は、まさかあの少年が…」
「そうだ。あの少年は異世界からの転生者だ」
「!」
改守と妻は顔を見合わせ、互いの目に映る不安を確かめ合った。
「フフがあの子と接するのは…大丈夫でしょうか?」
「問題ない。むしろ楓奈にとって、視野を広げる良い機会となるだろう」
「そうでしょうか…?」
一葉は手を頬に当て、小さな男の子と話し始めた娘を心配そうに見つめた。
「ご安心を。すべてはわたくしの掌握の中にある」
…
「楓奈はわたくしに師事するので、『師匠』と尊称する。だがお前は違う。『先生』と呼べばよい」
「先生、よろしくお願いします」
「うむ、着席せよ」
彼らは今、不思議家の地下室にいた。
改守と一葉が午前中に急いで片付けて、修道女が授業を行う場として用意したものだ。
修道女は部屋の隅へ歩き、背中から巨大な十字架をゆっくりと下ろした。
十字架が床に置かれた瞬間、星動と楓奈は家が揺れたのを感じた。
「心配するな。この十字架はむしろ家に加護を形成し、簡単には崩れぬようにしてくれる」
「先生、なんでずっとあの十字架を背負ってるんですか?」
「これはわたくしの苦行だ…三大教会を知っているか?」
「知らないです」
「楓奈の表情を見るに知らぬようだな。では説明しよう。この世界には主に三つの宗教がある:
『夢神教』、
『聖王教』、
そして『竜王教』だ。
それぞれが夢神、聖王、竜王を信仰している」
「初代魔王伝説に出てくる聖王と竜王!」
(お母さんが昨日ちょうどこの話をしてた)
「ああ、まさにそのお方たちだ。
はるか昔、およそ五億年前には魔王を信奉する『魔王教』もあった。だが度重なるテロ活動の末、諸国連合によって討伐され、今は存在しないと言ってよいか、あるいはごく少数となった」
(地球の悪魔崇拝みたいなものか…)
「三大宗教の違いと起源を簡単に説明しよう。
夢神教は夢神を信奉し、夢神が世界を創造したと信じる。
ゆえに世界全体を『夢世界』と呼ぶ。
夢神教にも聖王に関する経典は存在するが、夢神教は聖王を指導者あるいは救世主として見るだけで、神としては見なさない。
夢神教が信仰する神は夢神ただお一人である」
「師匠、夢神様にはお名前があるんですか?」
「夢神に名はない。いくつかの伝承では『夢尽蔵』という呼び名が使われることがある。だが教団内では、夢神は無名であるか、あるいは無数の名を持つと考えられており、一つの名で表せるものではないとされている」
(“夢尽蔵”…“無尽蔵”みたい?)
修道女は壁に大きな黒板を掛け、四隅を固定すると、チョークで図を描き始めた。
「次に聖王教だ。聖王教は最初、夢神教と一体だった。
およそ三億年前に分裂した。教義の衝突が原因だ。
先ほど言ったように、聖王という存在は夢神教内では救世主としての地位しか認められていない。
だが聖王教はそうは考えない。当時の聖王教皇は夢神教の第二教皇だった。彼が主張した『夢神は実在せず、聖王こそが真実である』という教えに、多くの信徒が聖王教へと流れた。
後に夢神教で内戦が勃発し、聖王教は敗北した。
しかし夢神教の第一教皇は情けをかけ、彼らを追放した。
聖王教は『黄金公国』という小国に流れ着き、かろうじて命脈を保った。長い年月を経て、ゆっくりと勢力を回復していったのだ。
その後、彼らを率いた指導者が宗教改革を実行し、平和的な手段で夢神教徒と接触することを主張した。そのため両教団は次第に調和し共存するようになり、
聖王教はさらに発展し、世界三大宗教の一つとなった」
「師匠、じゃあ夢神様は本当に存在するんですか?」
「夢神教内では存在すると考えられている。聖王教内では存在しないと考えられている」
「聖王教がなんで夢神様がいないって思うんですか、先生」
「歴史的経典に夢神存在の痕跡が見つからず、聖王存在の痕跡は見つかるからだ。夢神に関する記述はすべて神話や夢神教の教義の中にしかない」
「じゃあ夢神教はなんで夢神様が本当にいるって確信してるんですか? 師匠」
「教団内では、『夢』という現象こそが、夢神の権能の一つの象徴であると考えられている」
(地球の太陽や空、雷を信仰する文明みたいに、日光や青空、雷鳴を神の力だと思うのと同じだな。ただ、こっちの異世界は夢を信仰してるってだけ。ちょっと変だけど)
「なるほど…」
星動がノートを取り出して書き始めた。手ぶらの楓奈は少し恥ずかしくなった。
ちなみに、修道女は星動の両親とも話をつけており、星動は毎朝六時に起きて楓奈と一緒に勉強し、昼はそれぞれ家で食事をとり、午後も授業を受け、夜八時に帰宅することになっていた。
「さらに、夢神教が世界を『夢世界』と呼ぶことについても、確固たる歴史的経典で裏付けられているわけではない。
聖王教は世界全体を『聖大陸』と呼ぶ。
この名は聖王が自らを犠牲にして魔王を封印した時、人々が彼を称えて名付けたものだ」
楓奈は頭をかいた。
「どうした、楓奈」
「えっと…師匠。あたし、師匠が夢神教の修道女なのに、夢神教の欠点ばっかり言ってる気がするんだけど…」
「欠点だと?いや、わたくしはただ事実を述べているだけだ」
「はあ?」
「物事の現実と、人々の認識は時に異なる。
わたくしがこうして夢神教では確定できない事柄を君たちに平静に話せるのは、それらが今のところ確認できない事実に過ぎず、時がその答えを示すと信じているからに他ならない」
「は、はい…なるほど」
(地球の宗教も、科学の発展に合わせて教義のバグを修正してきたみたいだしな…)
「最後に竜王教だ。特筆すべきことは少ない。
竜王を信奉し、その人物像と事績は聖王よりもさらに明確だ。
初代竜王は二億年前まで存命し、二代の魔王を目撃した。寿命は非常に長かった」
「へえー」
「先生、竜王教と他の教団の教義の衝突って何なんですか?」
(あれ?)
「竜王教は聖王の実在も否定し、聖王に関するすべては後世の創作だと考える。
また、聖王は非常に人間に近い姿で描かれ、夢神も経典では人型だ。
だが竜王教の竜王は明らかに竜の姿であり、竜王教の教義はすべて竜王の言葉だ。
そのため、多くの人族たちは受け入れがたかった」
「わかりました、先生ありがとう」
楓奈は振り返り、ペンを走らせる星動の様子を見て、自分は落ちこぼれだと思った。
「三大宗教の紹介を終えたところで、次は三大宗教の主要な『印象』について説明しよう」
「印象…」
(この言い方、すごく変だな)
楓奈は思わず口に出してしまったことに気づかなかった。修道女が黒板をトントンと叩いた。
「楓奈、何か質問か?」
「あ、えっと」
楓奈は自分の失態に気づき、顔を赤らめた。
「あ、あたし…『印象』って言い方がすごく変だなって思って。それに印象ってさっきも話したよね? 三つの宗教の違いとか」
「どうやら理解していないようだな。わたくしがここで言う『印象』とは、この世界の運行を維持する基本ルールの一つを指す」
楓奈はまばたきをし、呆然とした。
(印象が…世界を動かす基本ルール?
どういうこと?)
「お前が魔力を鍛え、魔法を学び、剣術や武術を修行するのも、すべてこれに関係する」
「これは、極めて重要なのだ!」
パチン!
修道女が黒板にチョークを強く叩きつけた。チョークが折れる音が静かな地下室にはっきりと響き渡った。