Chapter 2:魔法初体験(二歳)
「おーい、お前小説なんか書いてたんだなあ!」
ノートが水溜りに叩きつけられた。
白い表紙は茶色に染まり、びっしりと書き込まれた文字もインクで大きく滲んで、大きな染みの塊になっていた。
彼女は必死にもがいて取り戻そうとしたが、背中を誰かに足で踏みつけられて、立ち上がれなかった。
苦しそうに顔を上げると、嫌悪と吐き気を催すような肥満した女の顔が目に入った。
「姉御、まず読んでよな。大作家の傑作をみんなにも見せてやれよ!」
「プッ~覚えてるよ、超面白いんだから! 読んでやるぜ!」
太った女生徒は胸を張って、わざとらしく大声で読み上げた。
「『イケメンの少年に、美少女!』」
「プハハハッ――!」
「ダッセー書き出しだな」
「だよな、妄想全開の乙女小説だぜ!」
彼女の身体は人の足の下に踏まれ、心もまた踏みにじられていた。
強烈な屈辱感で体が震え始め、情けない涙が目尻からこぼれ落ちた。
「あらあら、泣いちゃった」
「ほんと根性なしかよ」
その肥満体の女生徒がにこにこと笑いながらしゃがみ込み、手を伸ばして彼女の頬をパンパンと叩いた。
「かわいそうにね、現実を教えてあげるよ。異世界なんて存在しないんだ。妄想はやめなよ」
「もっと現実的なことを覚えなきゃね」
「もっと現実的なこと…」
「もっと現っと…」
「現実…」
肥満女生徒の声は、まるで谷間にこだまするように、幾重もの反響となって響いてきた。
やがて、彼女は夢の深淵からはっと目を覚ました。
息を切らし、体中に汗の玉が浮いていた。
ベッドから起き上がると、窓の外から差し込む陽の光がまばゆく輝いている。光の温もりに安堵のため息をついた。これで自分が望む世界に戻れたことが証明されたのだ。
異世界に転生してから、二年目だった。
あの誕生日に転生を確信して以来、彼女は周囲の世界を知ろうと努めてきた。生後半年で言葉を話し始め、パパ、ママと呼んだとき、今世の両親は飛び上がらんばかりに喜んだ。一歳の誕生日には父が靴を買ってくれ、二人の助けを借りて歩くことを覚えた。
転生から一年半が過ぎた今、彼女は本を読み始め、この世界を探求し、理解しようとしていた。
「でも、二歳の誕生日から、この悪夢がどんどんひどくなってる。何とかしないと」
独り言を呟きながら、周りを見渡す。広いベッドには自分一人だけだった。
母親は朝食の支度を始めたらしく、食べ物の香りが漂ってくる。
父親はどうやら出かけたようだ。母が薪を割るのを手伝う音が聞こえない。
彼女はベッドから降り、一階へ降りていった。ちょうど母親の一葉が木の器を運んでいるのが見えた。
「起きたの、楓奈?じゃあ朝ごはんにしよう」
朝食は白いご飯と青い野菜だった。楓奈は箸でその野菜を二口ほど口に運んだ。噛むとシャキッとしていて、甘かった。
「最近、本でお勉強、どう?クイズだよ、この野菜は何かな?」
「うん」
楓奈は箸の先を噛みながら少し考え、答えた。
「人工飼育のスライムの頭に栽培する、スライム菜」
「正解。どうやら最近、ちゃんと本を読んでるみたいね」
一葉の若く美しい顔に優しい微笑みが浮かんだ。彼女は手を伸ばし、楓奈の頭を撫でて、褒めた。
楓奈は満足そうだった。ただ、この世界の母親とはいえ、前世の母と比べると一葉は少し若すぎる。楓奈の心の中では、むしろ彼女を自分のお姉さんのように思っていた。
(前世には妹が一人だけいたが、いつも嫌悪の目で見られていた。両親はいつも「姉としての義務を果たして、妹の面倒を見なさい」と小言を言っていた。だから前世の自分はいつも思っていた。なぜ私が姉と呼ばれることをしなければいけないのか?私を包み込み、守ってくれるお姉さんやお兄さんがいてもいいんじゃないかって。
でも、今、自分は自分のお姉さんとお兄さんを得られたのかもしれない。)
「お父様はどこ?」
「改守は狩猟隊について深山に入ったのよ」一葉はそう言いながら窓の外を見た。外は明るい陽射しなのに、彼女は眉をひそめた。「最近、ちょっと落ち着かないの。魔獣潮(魔獸の群れ)が来ませんように」
楓奈は食事の手を一瞬止めた。
魔獣潮(魔獣の群れ)は、この世界における恐ろしい自然災害だ。
前世の地球では、動物たちはそれほど途方もなく強くはなかった。しかし、この異世界では、どの魔獣や怪物も強力な異能を持ち、それらが集結して放つ威力はまさに恐怖そのものだった。
彼女は本で読んだことがある。ある鳥型魔獣が両翼を広げれば、空を覆い隠し、一帯をまるで夜のように暗くしてしまうと。
そんな巨獣が現れたら、どうやって逃げればいいのか——彼女は考えることすら怖かった。
まるで映画『ゴジラ』のように、一発の原子ブレスで東京全体を破壃してしまうかもしれないのだ。
彼女は今の生活がとても好きだった。故郷を離れ、流浪の身になるようなことは望んでいなかった。
一葉が振り返ると、ハッとした。娘が食事の手を止め、目の前の野菜をじっと見つめ、可愛らしい小さな顔に怖がった表情を浮かべていたのだ。一葉は微笑み、手を伸ばして楓奈のぷにぷにした頬をつまんだ。
「どうしたの、怖くなっちゃった?」
「あ? ママ」
楓奈は我に返り、思わず声が出た。
「どんな災いがあっても、パパとママがあなたを守るからね」一葉は楓奈の頬を撫でながら言った。
「安心して」
楓奈は一葉の笑顔と窓から差し込む陽光が溶け合う様子をじっと見つめた。それはまるで天から舞い降りた天使のようで、次第に視界がぼやけていった。
「あらあら、どうして泣いちゃうの? そんなに怖いの?」
目尻から涙の粒が転がり落ち、一葉は驚いた。慌てて立ち上がり、娘のそばへ駆け寄ると、抱きしえ、背中をそっと撫でた。
「怖がらないで、怖がらないで。まだ何も起きてないんだから。ママがいるから、怖くないよ~」
温かい抱擁に、楓奈は少し正気を取り戻した。しかし、さきほど思い出したあの声が、まだ脳裏にこだましていた。
『どうして他の子じゃなくてお前だけいじめるんだ? お前に問題があるんじゃないの?』
『いじめられてるなら先生に相談しなさいよ? 私たちそんなに忙しいのに、私たちに言ったって仕方ないでしょ』
『いじめられてるなら親に相談しなさいよ? 私のところに来る前に、まず自分の成績を上げてこいよ』
数々の冷たい言葉が過去の記憶から押し寄せてくる。それはまるで癒えることのない古傷のように、ずっと血を流し続けていた。
しかし、今抱きしめられているこの温もりは、これほどまでに現実的で温かかった。彼女は目を閉じて、その感覚を味わった。
「ありがとう、ママ。もう怖くないよ」
「何か困ったことがあったら、必ずママに言ってね」
「うん。洗顔してくる」
楓奈が抱擁を解くと、一葉は彼女が涙をぬぐったのを見て、食器の片付けに戻った。
「お腹いっぱいになった?」
「うん、お腹いっぱい」
楓奈はしばらく、せわしなく動く一葉の背中をじっと見つめた後、二階へと駆け上がった。小さな踏み台を持ち出し、洗面所に運び込み、その上に乗って、ようやく鏡に自分の顔を映すことができた。
「楓奈、あなたは変わり始めなければならない。絶対に前世の悲劇を二度と繰り返してはいけない」
鏡に映った自分に向かって指を立て、彼女は静かにそう言い聞かせた。