一
特に義務ではないのだが、ルカは自分のシフトを終えた後、しばしば工房へ行き、工房の仕事を手伝った。と言っても、ガラスを吹く技術はないので、掃除をしたり、ガラスの原料である砂やソーダ灰を運んだり、道具を洗ったりとごく簡単な雑用を少し手伝う程度である。雑用を一緒にこなしながら、ルカはヴェトライオたちからガラスのことや白島のことを教わった。
ヴェトライオたちは坩堝に焼かれたガラスが無くなるともう仕事ができない。坩堝にあまり多くの砂を入れれば坩堝からガラスが漏れ出るので、一日に作れるガラスの量は毎日同じだ。その日、作れるだけのガラスを作るとヴェトライオたちの仕事は終わり、工房内の片づけをして帰っていく。ヴェトライオたちが帰ると窯番と呼ばれる夜勤の従業員が工房へやってくる。ガラスの原料の砂とソーダ灰と石灰と色出しに必要な酸化金属を溶解炉に投入し、一晩かけて砂を焼く。仮眠を挟みながら、溶解炉の火を維持し、明け方にガラスができるのを見届けるのが仕事だ。
その日、ルカのシフトは早番で、販売の仕事を終えて、工房へ寄った。工房の掃除を少し手伝い、ヴァレンティーノに頼まれて、夜勤の窯番当てにメッセージを書くことになった。働く時間が異なる窯番とヴェトライオたちはノートでやり取りをしており、ノートを見返せば、日々の工房内の出来事がざっくばらんに書かれている。筆跡やメッセージの内容にヴェトライオたちの性格がよく表れており、ルカはノートを見返すのが楽しかった。
「──ルチアーノ!」
終業後、加工室から出てきたクラウディオが帰り支度を済ませたカルロにそう声を掛けた。鞄を背負い、カルロがクラウディオの方を見る。
「飯食って帰ろうぜ、ディオ」
「いいね! いつもの店?」
楽しそうに二人が話している。五つ年が違うのだが、よほど気が合うのか、終業後の二人は親友のようである。それでもその仲の良さを業務中には出さないケジメの付け方もルカには好感が持てた。二人は工房内にいた従業員に別れの挨拶を告げて、工房室を出ていく。二人がいなくなった後に、だらだらと話し込んで、工房内に残っていたテオとニコラに声を掛けた。
「……あの、ルチアーノって確か」
「カルロさんのミドルネームだよ。クラウディオさんはカルロさんのこと、終業後はミドルネームで呼ぶんだ」
「なんで、そんな面倒なことするんだろうな? いつもルチアーノでいいじゃん」
「クラウディオさん、真面目だから、きっとケジメなんじゃないかな」
対して、カルロはクラウディオのことを業務時間内外関わらず、「ディオ」と愛称で呼んでいる。
カルロ、テオ、クラウディオ、トト、ニコラの独身組は人間関係の構築が下手で、学生時代あまり友人がいなかった。ニコラは家庭環境が不安定だったため、ニーノは朝起きられないため、あまり学校に行けず、学生時代友人ができなかった。ウルバーノでは既婚の従業員とヴァレンティーノに助けられて、そこそこ上手くやっており、愛称で呼ぶほど親しい人もできた。愛称で呼ぶという経験が今になってできてクラウディオもカルロも楽しいようだ。
「三十代以上の人はミドルネームを持ってる人が多いよね」
「そうだな。うちで一番長い名前の人は社長かな。マルティーノ・レアンドロ・ウルバーノ・オルドリーニ!」
「あはは、よく覚えてるね!」
すらすらと社長のフルネームを言ったテオにニコラが思わず声をあげて笑う。レアンドロは洗礼名、ウルバーノは父方姓、オルドリーニは母方姓だそうだ。
ヴェレノに人が暮らし始めたその昔は、名前の種類も少なく、身内や親戚から名前をもらうことも多く、同じ名前の人が親戚やコミュニティ内に多くいた。そのままでは区別がつかないため、区別をつけるために洗礼名、土地名、両親の苗字、自分でつけた名前などを好きにいくつも名前を付けることが許されていた。そのため時にはすごく長い名前の人もいたが、特に問題視はされなかった。
長すぎる名前が問題視されるようになったのは、戸籍管理が法律で定められてからである。すごく長い名前の人と短い名前の人が混在し、書類上の管理が難しくなった。そのため、戸籍を管理するための書類に名前が収まるよう、一度はミドルネームが禁止され、苗字に対して名前は一つと言うルールが定められた。昔に比べて名前の種類も増えたので、理論上はその運用でも問題なかったはずなのだが、今までの慣習と大きく異なるルールは人々に受け入れられず、原則は一つの苗字に一つの名前だが、三つまでの名前を付けることが許可され、今に至る。そのため、比較的年配の人たちは名前が長い傾向があるが、ルカたちのような若い世代は名前が短いことが多い。
「ルカは短いねえ。ルカ・ココ。自分でミドルネームつけようとは思わないの?」
「よく言われます。特に困ってないので、ミドルネームは考えてないです」
ルカが店舗での出来事や売れ筋商品について書いてから、ヴァレンティーノにノートを返した。次はヴァレンティーノが窯番当てにメッセージを書こうとして、胸のポケットにしまっていた私用の万年筆を取り出した。そこに加工室からニーノが出てきて、ヴァレンティーノに話しかける。どうやら急に大きな注文が入って来たらしく、今晩、溶解炉で焼くガラスの色の変更をしたいようだった。ニーノは注文を書き留めたメモ用紙をヴァレンティーノに渡して、注文を受けるか判断を仰いだ。
「あの飲食店か。なんでこんな数の赤金グラスの発注が来るんだ? いつもくる注文はシンプルなクリスタッロガラスのコップだぞ」
「赤がイメージカラーのイベントをしたいらしくて、赤金のグラスが大量に欲しいんだそうです。赤金ガラスは費用がかかりますよって言ったんですけど、それでもいいと」
赤金ガラスはその名の通り、発色のための材料が金である。金はそのままではガラスに溶けないので、塩化金にして砂と一緒に焼く。半日ほど溶解炉で焼いてできあがるのは、透明のガラスだ。これを一度冷まし、もう一度熱すると赤金と呼ばれるワインレッドのような深みのある赤いガラスになった。赤いガラスは、他の色のガラスよりも材料費も手間もかかるため、高価な色であった。
「あの店は支払いもきちんとするから、引き受けよう。……でもこのオーダーだとフランコ、びっくりするな」
「俺まだ埋め合わせ残業残ってるんで、フランコが来たら事情を説明しておきます」
フランコは夜勤の窯番である。ルカはフランコに挨拶をしたことがあるが、一緒に何か業務をしたことはなかった。
「それがいいな。頼む。はは、お前の埋め合わせ残業、結構役に立つよな」
ヴァレンティーノがニーノの遅刻を褒めさえすることにルカは違和感を覚えた。ルカはもともとイレーネとトトをサポートするために雇われた。ウルバーノは、満遍なく能力の高い人間を採用するのではなく、互いに苦手なことをフォローし合いながら工房も店舗も運営することを選んだ。その決定を下したのは、現マスターのヴァレンティーノと社長のマルティーノだ。工房で決定権限を持つ二人がそれでいいと言うのなら、一従業員でしかないルカはその決定に従うべきだった。だが、ルカはニーノの遅刻癖がどうしても納得できなかった。
ルカは立ち上がり、ニーノに近づいた。ノートを書くために椅子に座っていたヴァレンティーノとニーノがルカを見る。
「ニーノさんはすごく仕事もできますし、工夫をすれば朝も起きれるんじゃないんですか? 少し色々やってみませんか?」
ルカなりに言葉を選んで、朝起きるための対策をニーノに対策する。そのルカの言葉にニーノは露骨に困った顔をした。
「そういう努力は一通りしました。工夫や努力より、遅刻を受け入れる方が現実的なんです」
ルカの提案をニーノはにべもなく却下する。この反応は予想外で、ルカは慄いた。二人のやり取りにヴァレンティーノの表情が変わる。
「ルカ、心配してくれてありがとう。うちでも色々試してみたんだ。でも改善しなかった。だから今の体制を取ったんだ。受け入れて欲しい」
「そうだよ。枕も色々変えて、結局、意味なかったんだよね。余った枕、もらって使ってるし」
「工房のお金でいくつか買ったんだよな。俺も枕、もらったよ」
心配そうな顔をして、ニコラとテオがルカとニーノの会話に割って入る。それでもルカはどうしても納得がいかなかった。
「でももっと他のやり方があるかもしれません。病院で検査とか行ったことありますか?」
「そういうのは一通りして、どの検査結果でも異常は出ませんでした」
「それなら生活習慣を見直すとか」
「俺、毎日夜九時には寝てますよ」
「睡眠の質が悪いとか」
「そんなことないですよ。部屋も真っ暗にしてるし、枕も自分に合ってるの使ってるし」
「起きようって気持ち、ありますか?」
提案を一つずつ潰していくニーノに、ルカは次第に苛立っていく。気づけばニーノを責めるような口調になってしまった。責められてニーノは自分が被害者かのように困惑していた。
「……俺、この話を学生の頃がずーっとありとあらゆる人間としてきたから、俺の理論武装にルカさん、勝てないですよ」
「なんで遅刻常習犯の方が態度でかいんだろうな。笑える」
ルカとの静かな口論に呆れさえするニーノに思わずテオが茶々を入れる。
「一人、加工採用でニーノの遅刻を許してるお前らが許せないって辞めちゃった人いたよね……」
また同じことが起きるかもしれないとニコラが不安そうにルカとニーノを見た。
「ルカ。大卒で、親戚にお医者さんがいるクラウディオが今の医療技術では見つからない新種の病気なんていくらでもあるから、ニーノも何かしらの病気や体質なんでしょうって言ったからそういうことになったんだよ」
「そうそう。ナントカカントカって病気なんだ、こいつは」
テオの説明に乗っかって、ルカを宥めるつもりでヴァレンティーノが余計に火に油を注ぐ。
「なんですか、ナントカカントカって!?」
とにかくいい加減なことが嫌いなルカは今度はヴァレンティーノと揉め始めた。ルカはヴァレンティーノにプロポーズをしていたが、それとこれとは話が別だ。納得のいかないことを有耶無耶にはしておけなかった。自分が原因で揉め始めた二人を見て、ニーノが頭を抱えた。
「……あの、こうやって治せない遅刻のこと言われるのが一番ストレスなんですけど、どうしたら納得してもらえますか。ルカさんが納得してくれるなら朝起きる以外なんでもしますから」
どうせ新人のルカなら大したことは言わないと、この場を収めたいだけのニーノのお為ごかしだろう言葉にルカはさらに苛立つ。ヴァレンティーノと違い、大して体も大きくなく、真面目で大人しそうと言われる容姿をしているからか、ルカは度々同性に侮られた。
「何でもって、じゃあ、僕が土下座して欲しいって言ったらするんですか?」
だが大人しく黙っている性格ではなかったので、ルカはすぐさまニーノにやれるものならやってみろと重い要求を突き付ける。意外にもニーノの挑発に乗ったルカにテオが面白そうな顔をして、ニコラが不安そうにし、ヴァレンティーノが呆れる。ルカの挑発を真正面から受けたニーノは感情が読み取れない表情でルカを見返した。
「本当に土下座をして欲しいんじゃないですけど、そうやって大げさな言葉で自分が向き合わないといけないところから逃げて欲しくないって話を──何してるんですか?! 本当に土下座しないで!!」
迷わずルカの前で土下座をしたニーノにルカが悲鳴を上げて、地面に頭を擦り付けようとしたニーノの腕を掴んで引き起こした。
「ルカ、ニーノは遅刻のことを許してもらえるなら、大げさじゃなく何でもするよ」
「今、したね」
テオとニコラが静かにやり取りを実況する。
「遅刻のこととやかく言われなくなるなら、土下座して靴の裏舐めるくらいならしますよ。しますか?」
「しなくていいです!!」
自分の腕を掴むルカを真っすぐ見上げて、ニーノが尋ねる。本気としか思えない視線と声音にルカは寒気がして、否定の悲鳴を上げた。恐らくこの状態になることが想像ついていたヴァレンティーノが疲れた顔でため息をついた。
「ニーノ、もうその辺にしろ。ルカ、そいつはまだ発見されてない朝起きられない病なんだ。そのうちにクラウディオの親戚が学会で新種の病気として発表してくれるさ」
「クラウディオの親戚の医者、産婦人科医と眼科医だよ」
「そうだったか? ルカ、二人で話そう。ニーノは店舗でトトを手伝え、テオとニコラはもう帰れ」
ヴァレンティーノの一声で、ニーノは店舗へ向かい、テオとニコラは工房を出ていった。二人で工房に残り、ルカはまだとても納得いかず、ヴァレンティーノを見た。体の大きなヴァレンティーノにはサイズが合わない椅子がギシギシと小さな悲鳴を上げている。
「ルカが真面目な性格なのは知ってる。過去に採用した人でも、真面目な人ほどニーノの遅刻癖を許せなかった。だが、朝起きられずに遅刻することを一番気にしているのは本人だ。学生の頃から色んな科で検査もしたし、寝方も生活習慣も見直したんだそうだ。それでもどうしても朝は眩暈が酷くて、体が起こせない。昼以降は普通だから尚更に怠けて見えるかもしれないが、そうじゃない」
ヴァレンティーノの説明がルカはどうしても納得できなかった。
「内定を出す前にうちの連中はできることとできないことの差が激しいから、フォローして欲しいと話したはずだ。どうして今更ニーノを責める」
「それは理解していたはずなんですけど、実際に仕事をしてみたら人のフォローは思った以上に大変で、仕事のできるニーノさんの出勤が当てにできたらいいと思ったんです」
「……それは、そうだな。そこは申し訳ないと思ってる」
ルカの正論にヴァレンティーノが言い訳の余地なく、新人のルカに余計な負担を強いている事実を素直に謝罪した。
「ニーノさんやトトをクビにしろとまでは言いません。でも、もうちょっと改善させた方がいいと思います。トトやニーノさんの出来ないことを受け入れられなくて辞めてしまう人が実際に出てるのに、その問題を解決しないでいることがウルバーノにとって良いことだとは思えません」
ルカの正論をヴァレンティーノは静かに聞いた。だから自分が正しいのだとルカは思った。少なくとも間違ってはいない自信はあった。
「ヴァレンティーノさんだって、ニーノさんが毎日きちんと出社して、トトが電話を取れて、カルロさんが社交的になった方がいいって思うでしょう? どうしてそうなるよう努力させないんですか?」
「俺はそう思わない」
意外なことをヴァレンティーノは言った。苦し紛れの発言ではない。確かな根拠を持って、ヴァレンティーノはルカにそう言い切った。
「挨拶とか、どんなに遅刻をしても出勤をするとか、最低限は求めるが、無理はしなくていい。皆、できないことが違うんだから、カバーし合えばいい。ニーノは確かに毎日遅刻するが、その代わりに遅番の時間帯の店舗の手伝いや夜勤の窯番と交流してくれるし、トトは制服で道案内をして、その先でウルバーノの宣伝をして帰ってくるから新規の客がよく来る。カルロは時間をかけて自分と関係を作ってくれた人を絶対に裏切らない。できないことはできることと表裏一体だ」
言われてみれば確かにそうで、ルカはヴァレンティーノの主張を否定できなかった。言葉に詰まったルカを責めるではなく、ヴァレンティーノは穏やかな表情でルカを見た。
「……お前だってそうだ、ルカ。お前のできないことは、別のできることに繋げられそうなんじゃないのか」
「……もしかしてプロポーズのこと言ってますか?」
もしもルカがヴァレンティーノを愛せる人だったら、ヴァレンティーノはあのプロポーズを間違いなく断っていた。自分を愛してくれた人を置いていくことはできないと。彼を愛さないというルカだからこそ、ヴァレンティーノはルカを家族にするか、今悩んでくれている。
「そうだよ、毎日必死に考えてるよ。だからあいつらのことも、もう少し大目に見てやって欲しい」
そう言われてしまうと、ルカとしてはもう何も言えない。どうしても耐えがたいことがあったら相談するという約束をして、ヴァレンティーノとの話し合いを終えた。