二
出勤初日のことを思い返しながら、ルカは観光客たちにも人気の朝市に行ってみた。港のすぐ隣にある市場で、昼近くまでその日水揚げした魚介類を漁師の妻たちが売っている。白島の観光名所の一つだ。飲食店や屋台もあり、観光客たちは、塩焼きした海老や貝などの立ち食いを楽しんだ。市場に併設されている飲食店では、白島の伝統的な料理を出す。
どの店でも氷が敷き詰められたアルミのバットに見たこともない色とりどりの魚や甲殻類、貝類が所狭しと並び、見ているだけなら楽しい。だが自分が調理をするとなるとルカは手が出なかった。
店を切り盛りする女性たちに調理の仕方を聞いてはみるが、そんなに料理が得意ではないルカは自分が魚を捌き、調理するところを想像できなかった。ルカがいろいろ悩んでいる間にヴァレンティーノのように大柄な漁師たちも店を出入りする。彼らは水難事故の際に本人確認ができるように全身に入れ墨を入れていることが多い。都会では見たことがないような人たちにルカは少し慄きつつ、店の女主人たちに礼を言って市場の店から離れた。
白島で暮らしてみて知ったのだが、漁師もヴェトライオたちも都会の人たちよりも全体的に気性が荒い。地声も大きく、言葉使いも粗野で、自分が納得いかないことがあれば、曖昧なままにはしておかない。話が拗れれば割とすぐに手が出る。そういう気質が嫌で島を出ていく人もいる。しかし、人知の及ばぬ海や火を相手にするということは、温厚なだけではいられないのだろうともルカは感じていた。
気性の荒い人たちとそうではない人たちの絶妙な間に立っているのが、ヴァレンティーノだった。きっと本人は白島の気質に合った人なのだろう。それを上手く出したり引いたりして、人と人の隙間を埋めていた。
結局、何も買えずに市場を出ようとするとルカは偶然ヴァレンティーノを見かけた。彼は休日でも黒の長袖のシャツを着ていた。その姿を見て、ルカは少し前にテオが聞かせてくれた話を思い出した。
どれほどに広くとも、千度以上の溶解炉や再加熱炉のある工房の夏は、灼熱の熱さだ。半袖でも汗の噴き出る夏の工房でも、ヴァレンティーノは必ず黒の長袖のシャツを着ている。本人も暑そうにしているが、シャツの第一ボタンまでをぴっちりと締め、彼は決して肌を、もっと正確に言えば竜の鱗を、誰にも見せないようにしている。白島や半島の出身者ばかりの工房の従業員たちは今更竜の鱗など気にしないので、工房内だけでも楽な格好をしてはどうかとステファノや社長が何度も言ったそうだが、ヴァレンティーノは曖昧に笑い、上手く言葉を濁して、黒の長袖のシャツを着ているのだと。
──ヴァレンティーノ、夏でも肌の透けない黒の長袖のシャツしか着ない。普段は何でもない顔して笑ってるけど、俺たちにも竜の鱗を見せないようにすごく気を付けてる。あの黒のシャツがあの人の心の鎧なんだろうなって思うと……俺、切なくてさ。
特別なものを持って生まれて、何もないはずがない。彼ほどの要領の良さでも傷つくことはあったのだろうと、白島出身ではないルカでも彼の過去をなんとなく想像できた。
そして、いつも迷いなく物を言うテオの声音が珍しく頼りなく震えていたことをルカは忘れられずにいた。その後、彼がまるでルカに祈るように続けた言葉を──。
「──お疲れ様です」
挨拶は目が合ったらすぐに、とヴェトライオたち同様に厳しく教育されているルカは、ヴァレンティーノと目が合うとすぐさま挨拶をした。
「お疲れ。市場、見に来たのか?」
「ああ、はい。料理のレパートリーを増やしたくて、市場に来てみたんですが、調理の仕方も分からない魚を見ても、買う勇気が出なくて……」
「料理はまず食べないと駄目だ。昼飯まだ? ならこっち来いよ。奢るよ」
ヴァレンティーノはそう言って、どこかに向かって歩き出す。足の長さが違うヴァレンティーノはルカがついてくるものと信じてスタスタ歩いていくので、ルカは慌ててヴァレンティーノの後を追った。
「何か用事があったんじゃ……」
「いや、知り合いが最近退院して、復帰したって言うから顔を見に来ただけだ」
ヴァレンティーノは日曜日でも営業している市場と併設の飲食店へルカを連れて行ってくれた。建物は古いがよく掃除された綺麗な店だった。年季の入った木製のテーブルと椅子が雰囲気を出している。都会だったらレトロモダンなどと言われる雰囲気の店だ。壁には白島の地図や漁師たちの写真がたくさん飾られていた。
店内に入り、ヴァレンティーノは奥の二人用のテーブルに腰かけた。遅れてルカが向かいの壁際のソファーに座る。市場はもう終わる時間だが、飲食店の営業は終わらない。昼にするには少し早い時間だが、観光客たちで店が混むことを考えると店内にまだまばらにしか人のいないこの時間の方が昼食にするにはちょうど良かった。
ヴァレンティーノがテーブルの上に置かれていたメニューを広げて、一通り確認する。
「アレルギーある?」
「いえ」
「じゃあ、初心者でも挑戦しやすいのとお勧めメニューを勝手に決めていい?」
「は、はい」
飲み物のメニューだけ渡されて、ルカはアイスコーヒーを選んだ。ヴァレンティーノが料理名を店員に次々に告げていく。
「白島の出身なんですよね? ご両親も白島に住んでいるんですか?」
店員がテーブルから離れるとルカはつい興味が勝って、ヴァレンティーノのプライベートを尋ねた。彼はあまり自らのことを話さない。
「ああ。生まれは白島だけど途中でヴェレノ半島に引っ越してそっち育ち。親と弟は漁と貝の養殖を半分ずつやってる。父方の祖父が白島で牧師をしてたんだ。俺は牧師だった祖父が建てた家に借家住まいだ。オーナーが父親だから、家賃がなくていい」
自分からは話さないが、聞けばヴァレンティーノは自分のことを答えてくれた。
仕事の話や白島の話をしていると、料理が運ばれてきた。チーズの盛り合わせ、ナスとニンニクのマリネ、アサリのリゾットといわしのベッカフィーコとイカとエビのフリッターだ。今朝獲れたばかりの素材で作った料理はどれもかつて食べたことがないほどに美味しかった。
「初心者が魚を捌くのは大変だから、下処理の手間が少ない貝やエビあたりから始めると良い。旨味成分が多いから、初心者でも美味しく作れる。料理ってのは、完成の味と形を知らないと作りようがない」
彼には馴染の料理を珍しがって食べるルカを微笑ましそうに眺めながら、ヴァレンティーノはフリッターを食べる。フリッターはガラスの深皿に山盛りになっていた。島の料理は何も選んでもサイズも大きく、量も多い。ルカには人と分け合って食べるくらいでちょうどよかった。
「料理、よくするんですか?」
「百貨店の食品バイヤーやってたからな。料理ができないと仕事にならない」
ヴァレンティーノは食事をしながら昔の話を聞かせてくれた。前職は海外や地方の知られていない食品を探し出し、百貨店で取り扱うバイヤーだった。馴染のない食材は富裕層の奥様方に興味は持ってもらえるが、自分で調理でき、家族が食べてくれる味である見込みがないと買ってはもらえない。だから、実際に地元の料理店で食べ、調理方法を聞き、購入して、会社のキッチンで何度も試作品を作って、レシピと一緒に販売するのが定番の売り方だったそうだ。
「じゃあ、ヴァレンティーノさんは料理上手なんですね!」
「まあ、嫌いじゃないけど、今は一人暮らしだからいい加減なもんだな。食べるのが自分だけだと作る気しなくてさ」
「せっかく作れるのにもったいない。……漁師になろうとは思わなかったんですか?」
田舎はあまり仕事に幅がない。ヴェレノ半島や白島の主な産業は、観光と漁師とヴェトライオくらいである。両親が漁師をしているなら、そのまま引き継いでも良かったのではないかとルカは尋ねた。
「都会に憧れがあったのと、漁師は船が転覆すると一気に人が死ぬからな。兄弟がいるときは、海に出る奴と陸地に残すのとで分けることが多いんだ。弟が海が好きだったから、俺は違う仕事にした」
「へえ。でも仕事を辞めて、地元に戻って来たんですね?」
地元に戻って来ても漁師になる予定はなく、ヴェトライオを目指していたわけでもなく、それでも地元に戻ってきたヴァレンティーノがルカは不思議でならかなった。人間関係の構築の上手なヴァレンティーノであれば、トトたちのように人との関係で行き詰まったとも思えない。
「うーん……なんか、病んじゃってさ」
きっと一言では答えられず、ヴァレンティーノが曖昧な言葉で答えを濁した。図らず重い言葉を聞いて、リゾットを食べていたルカの手が止まる。表情を固くしたルカにヴァレンティーノは意外にも悪戯っぽく笑った。「ここで止めとく?」と煽られて、思わずルカは「最後まで聞きます」と挑発に乗った。ルカは負けず嫌いな性格だった。
ヴァレンティーノが病んだ経緯はこうだった。百貨店のバイヤーになってしばらくして彼女ができた。会社の飲み会で「子供は要らない」と堂々と宣言して、男性以上にバリバリ働くタイプの女性で、決断力の強さとさっぱりした性格に好感が持てた。隠し事をして付き合うのは卑怯かと、竜の呪いについて全て話して、付き合うことになった。竜の鱗を見ても特に狼狽えない女性だったという。すごい人もいたもんだなと、鱗を見て言葉もなかったルカは見知らぬ女性に感心した。
しばらくして二人は同棲するようになった。二人とも希望していなかったので、子供ができないように気を付けていた。
「子供は無しでって約束で付き合い始めて、同棲してしばらくはそれでよかった。でもだんだん子供を産む友達が増えて、友達の子供を見てたら、自分の子供が欲しくなったんだと。それで俺と同棲しながら、浮気相手と子づくりして、子供ができたから別れてくれって言われた。同棲してようが、恋人なんてただの口約束だからな。引き止める言葉もなかったよ」
「そこまで本気で浮気されて気づかなかったんですか!?」
急転直下の流れにルカも驚きを隠せない。ルカの悲鳴に近い問いかけに、ヴァレンティーノは「気づかなかったなあ」と呟いて、しみじみと遠くを見た。クリスタッロガラスのコップの水を飲んで、「いや」と言葉を漏らす。
「……本当は彼女が心変わりしているのは何となく気が付いていた。でもそれが自分にとって都合の悪いものだってのも気が付いてて、知らないふりをしたんだ。彼女と話し合うことを避けた。悪いのは俺だ。だから愛想をつかされたんだよ」
だから浮気をした彼女だけが悪いのではないと、浮気された挙句、捨てられたはずのヴァレンティーノは元恋人を一言も責めなかった。
「それで病んじゃったんですか?」
病むのには十分な理由ではあったが、ここまで冷静に原因を分析できる人が病むだろうかと思い、ルカはマリネを食べながら尋ねた。ヴァレンティーノはフリッターをつまみながら、首を横に振る。
「それもいくらかは原因だけど、鱗を隠しながらの生活自体がやっぱりちょっときつかったな。今でも積極的に見せてる訳じゃないが、地元民は知ってるし、人に見られてもそこまで大事にならない。島でも半島でもこの竜の呪いの話は全く隠してないし、何だったら観光の売りにしてるくらいだ。でも余所ではそうも行かない。肌を見せる必要のある場所に行くのを断ったり、夏でも長袖を着ている理由を話せなかったりで、ジリジリ心が擦り切れてるところを彼女に捨てられた。会社を辞めた直接の原因は、竜の呪いのことを話せるくらい仲の良かった先輩に『その呪いはどうしても解けないのか』って聞かれたことだ。先輩はただの質問をしただけだった。でも病んでると駄目だな。俺は『お前はいつになったらまともになるんだ』って言われたような気がして、逃げるように会社を辞めた」
病んだヴァレンティーノの心の内が悲しくて、ルカは慰める言葉も思いつかなかった。ヴァレンティーノが昔のことを懐かしみながら、訥々と話を続ける。
自分は一人きりだと絶望しながら地元に戻って来て、空を悠然と飛ぶ竜を見て安堵した。いつか自分もあの一匹になるのだから一人ではない。しばらくは実家で無職をしていたが、そろそろ働けと怒られて仕事を探すことにした。バイヤーだったのでガラスの販売がいいかと思って就職活動をしたら、一社目で内定が出た。だが鱗のせいで内定取り消しになり、不貞腐れながらウルバーノの敷地内の吸い殻入れのある喫煙エリアで勝手に煙草を吸っていたら、カルロと社長に出くわし、カルロに「挨拶しろ」と怒鳴ってウルバーノから内定をもらった話に繋がった。
「……挨拶の前に不法侵入はいいんですか」
何をどう聞いても挨拶のできなかったカルロより不法侵入をしているヴァレンティーノの方が罪が重いはずだ。罪の重さが都会と違う田舎のローカルルールにルカは時々ついていけない。
「別にこんな田舎、他人がちょっと敷地に入って煙草吸ってたって、何も言われないさ」
ヴァレンティーノの倫理観がルカにはよく分からない。
「じゃ、次の場所行くか」
ルカが粗方食事を済ませたことを確認して、ヴァレンティーノが次の予定を勝手に決める。
「え?」
「せっかくだからもう少し付き合えよ」
何か当てがあるようで、ヴァレンティーノが悪戯っぽく笑う。ヴァレンティーノは自然と人を巻き込むのが上手な魅力的な人だと思った。