一
白島でも日曜日はどこも休みだが、どのガラス工房からも溶解炉の稼働音は聞こえてくる。休みの日でもガラスの原料を焼く溶解炉の火を落とすことができないからだ。溶解炉の火は一度止めてしまうと、再度、炉内をガラスを溶かせる温度に上げるまでに三日かかる。そのため、坩堝の交換をする夏至の頃と年末年始以外は火を落とさない。溶解炉の中でどろどろに溶けたガラスを収める坩堝は、長く使い続けると穴が開くため、一定期間使うと溶解炉の火を止め、必ず交換する。ルカがウルバーノで働き始めた時はもうすでに夏至を過ぎていて、ルカはまだ坩堝の交換期を体験したことがなかった。島中の溶解炉の火が止まる時期は、工房から毎日響いている音がせず、ヴェトライオたちも仕事をしないので、島全体が静かなのだと聞かされて、ルカは白島でこれから過ごす年末年始が少し楽しみだった。
各ガラス工房の従業員の休みの取り方はそれぞれだが、ウルバーノでは工房が休みの日曜日とシフト制で週に一度、休みを取る。月の頭に希望シフトを提出し、同じ部署の従業員と融通し合って、休みを決める。販売は、子供のいるイレーネの希望を優先してシフトを組んだ。
ヴェトライオたちは溶解炉の火の世話があるため、日曜日でもシフトを組んで、交代で工房に来て溶解炉の状態を確認する。ガラスを焼かない日は炉の温度は千度程度に抑え、日曜日の午後六時くらいから窯番と呼ばれる夜勤の従業員がやって来て、溶解炉の温度を上げ、月曜日に使うガラスの原料を炉に投下し、焼いた。
日曜日、早くに目を覚ましたルカは、一通り家事を済ませてから、特に用事もなく外に出てみた。空を見上げると羽を広げた竜が群れで飛んでいる。絵本の中でしか見たことがなかった生き物が当たり前に飛んでいる不思議な島だった。竜は翼竜類に分類され、爬虫類の一種であるらしい。分類学上の詳しい説明をクラウディオがしてくれたが、ルカは覚えられなかった。
竜を理解する上で大事なのはこのヴェレノに伝わる昔話である。なんと人が竜になる伝説が、この土地には伝わっていた。
かつて、この島を含む周辺の島々と半島の一部は、竜を始めとする多くの動植物が強い毒を持ち、人が住むことのできない土地だった。竜といくつかの毒性の強い動物を土地から追い出し、人が住める土地にしたのが、故郷を追われて逃げるようにこの土地へやって来た始祖の魔法使いたちである。彼らはかつて別の土地で魔法で人の傷を治し、未来を予知し、結界を土地に刻んで獣や病魔から人を守っていた。しかし新たな領土拡大を目指してやって来た異教徒たちに悪魔や魔女と呼ばれ、異端狩りに遭った。彼らは強い軍隊と戦う力はなかったため、ほうほうの体でこの毒が支配する土地へ逃げてきたのだ。異教徒たちはこの毒の土地まではやってこなかった。
異教徒たちに殺される心配はなくなったが、強い毒を持つ動物が多くいる土地で人が生活をすることはあまりに困難だった。そのため、始祖の魔法使いたちは、自分たちの持てる魔法を使って、この毒の土地を少しずつ人が住める土地にしていった。毒を中和する魔法で植物の毒性を弱め、ヴェレノ竜と他の毒性の強い動物たちを遠ざける魔法を使い、土地を住み分けた。始めは半島の一部の土地で暮らしていたが、次第に異端狩りに遭って逃げてきた人が増えてきたため、どうしても海を越えて島への進出が必要になった。
半島から距離は遠くないが、小さな島で暮らすには、まずは獰猛な竜たちを完全に島から追い出さなくてはならない。そのために魔法使いたちは害獣よけの魔法よりも確実にヴェレノ竜を遠ざけることのできる方法を考えた。人間を攻撃せず、毒の息も吐かない竜を『生み出す』ことにしたのである。
冬は短く、一年の大半が温暖なこの土地には鹿や熊のような大型の獣がいない。ネズミなどの小さな生き物を魔法で大きな生き物にすることは難しいため、始祖の魔法使いたちは、この土地で一番大きな『生き物』を竜に変えることにした。人間である。成人であれば、竜に作り替えることができた。
魔法使いたちは、竜になることを了承してくれる人を募った。余命いくばくもない老人、治療の手立てのない病人、希死念慮のある人、それぞれの理由で人は竜になることを望んだ。彼らのおかげで、人に対して温厚で毒のない翼竜がヴェレノ竜を島から追い出し、始祖の魔法使いたちは新たに島を得た。島は深刻な毒の汚染があったが、時間をかけて魔法使いたちは毒を浄化し、人が少しずつ島へ移り住むようになった。現在、海に点在する十の島のうち、四つの島が人のものとなり、残り六つは野生の竜の土地となっている。
元人間だった竜には繫殖能力があり、少しずつ竜の数も増えた。しかし、竜は成長するのに時間がかかり、当面は人を竜に作り替えて、竜の数を安定させる必要があった。
竜の数を見極めながら、魔法使いたちは、竜になる人を募り、魔法で竜にした。何年も、何年も、何年も。時には友人がいた。身内がいた。お世話になった人がいた。我が子がいた。魔法使いたちの中にも人を竜に作り替えることに耐えられなくなって、自ら竜になることを望む者も出た。とうとう竜に作り替える魔法を行使することを拒否する魔法使いが出てきて、魔法使いたちの意見は真っ二つに分かれた。──つまり、人を竜にし続けるか、否か。もうこの不自然な方法を長く続けることはできなかった。何か新しい結論を出さなくてはならなかった。
よその土地から大型の生き物を連れてきて竜にしたこともあったが、この土地に愛着のない生き物で作った竜は数年もすると土地を離れてしまう。生き物を竜に作り替える魔法は、最低でも成人の人間の大きさが必要である。土地に愛着のある人間以上の大きさの生き物が必要だった。
魔法使いたちは、人間が竜になる魔法を行使する瞬間が何よりも苦しかった。殺人だという人もいた。自分の呪文で直接人を竜にすることが苦しいから、自然と竜になってもらう魔法を作り出した。半島と人が住む四つの島。これらの土地の出身者は、無作為にいずれ竜になる呪いを持って生まれる魔法である。呪いを持って生まれた人は、生きている間にほんの少しずつ竜化が進行し、人生の終りの方で自然と竜となる。死んだ生き物やあまりに弱った生き物を竜にすることはできないからだ。
この土地の人たちは、長い間、この結論を出すまでに魔法使いたちが悩み苦しみ揉める様を見てきたので、その呪いに反対しなかった。
呪いは粛々と行使され、完全に無作為に竜になる人間が生まれるようになった。今でもこの呪いは半島と島を管理する魔法使いの一族たちが維持しており、呪いが解かれることはない──というお伽話がヴェレノにはあった。
現在は過去の悲壮な歴史はどこへやら、豊かな食とガラス工芸品と特別天然記念物の竜が売りの呑気な観光地である。特に北の土地に住む人たちが、長期休暇で訪れる定番の旅行先となっていた。
確かにこの土地には、特別天然記念物の二種類の竜がいる。翼竜が住む島に人は住んでおり、ヴェレノ竜の棲む島の動植物の毒性は一際強く、人は住めない。特別な許可がない限り、上陸自体が法律で禁止されている。昔話の内容と現状は一致するが、これは現状に合うように昔話を作ったという方が正しい。
人間を竜にするなんて昔話のお伽話である。荒唐無稽も良いところだ。魔法使いの話も権力者が自分の血筋に権威付けするための定番の手法である。高名な魔法使いの一族の末裔であるという話はそこら中にあったが、ルカは人が魔法を使うところなんて見たことがなかった。
これらの話は、この観光地に付加価値をつけるちょっとしたエッセンスだとルカは思っていた。
ルカの出勤初日、ウルバーノの従業員たちへの挨拶を済ませて、社長室で社長のマルティーノとマスターのヴァレンティーノと事務的な話をしているときに、ヴァレンティーノがヴェレノ半島に伝わるお伽話に触れて、真っ黒な長袖のシャツを捲って見せるまでは。
右の上腕部の外側の一部分、人の肌から大ぶりの鱗が生えていた。薄荷色というのが相応しいのか、青がかった淡い緑色の鱗である。透明で光沢のあるそれは、薄いガラスのようにも見えた。
本来であれば、人の肌から生えるはずのない鱗を見て、ルカはただただ呆然とした。
「ババ抜きのババみたいなもんだ」
ルカに鱗を見せたヴァレンティーノが、捲ったシャツの袖を直しながら、落ち着いた声音でルカに説明する。
「俺はいずれ竜になる」
目の前の現実が受け止めきれず、ルカは言葉もなかった。昔話は、伝説でお伽話だと思っていたら、本当だった。
「……島のインフォメーションセンターに置いてあるパンプレットに書いてあったお伽話って本当だったんですか……」
ルカが竜の呪い話を知っているのは、島の誰かから特別に聞かされたからではない。ごく普通にヴェレノ半島や白島の観光パンフレットなどに記載されている内容だからである。観光雑誌にもしばしば記載されるヴェレノ半島や白島の定番の紹介文であり、そういうイメージで売り出している地域としかルカは受け取っていなかった。こんな荒唐無稽な話を誰が信じようか。
「嘘書いてどうするんだ。島のパンプレットにも、『竜化している人があなたの隣にいるかもしれません』って最後に書いてあっただろ」
「あれは、お伽話とか都市伝説の締めのお決まりの定型文でしょう?!」
だから尚更に信じなかったのだとルカはヴァレンティーノの指摘に声高に反論する。
「何言ってんだ。本当にいるかもしれないから、そう書いてあるんだよ。外から来た奴らは本当にこの話を信じないな!」
「ヴェレノの紹介文を書いた人が、島出身のミステリー作家さんだからねえ。思わせぶりな書き方なんだよね」
ヴァレンティーノの隣に座っているマルティーノがルカの反論はもっともだと苦笑する。やや薄くなったが白島の人らしい茶色の髪とハシバミ色の目。背は高くなく、カルロほどではないがふくよかな体型で、以前はマエストロであった。性格は穏やかだが、ガラスは前衛的なものを作るとルカに聞かせてくれたのはステファノだ。現在は手を痛めてヴェトライオを引退し、社長業を専任している。
「ウルバーノの前に別の工房で営業で内定が出たんだ。さすがに社長に竜の呪いのことは伝えておこうと思って鱗を見せたら、そんなの困るって言われてさ。その日のうちに内定取り消しになった。白島出身の従業員が説明してくれたんだけど、移住組の人だったから受け入れらなかった」
島の環境とガラスに惚れて、移り住む人がヴェレノ半島や白島には多い。ルカだって人が竜になる話を信じていなかったのだから、その社長が驚いて、ヴァレンティーノの鱗を受け入れられなかったとしても仕方がなかった。
「でも内定取り消しになったから、うちにきてくれたしね」
悪いことばかりではなかったとマルティーノがヴァレンティーノの内定取り消しの話に笑う。
「そうですね。内定取り消しになった帰り道に工房の喫煙エリアで勝手にタバコ吸って不貞腐れてたら、工房から出てきたカルロと目があって、目があったら挨拶しろってメンチ切ったら社長にその場で採用されたんだ」
ウルバーノの喫煙エリアは工房と店舗の間にある中庭のミモザの近くにあった。赤いアルミ製の吸い殻入れが設置されており、従業員であれば誰でも自由に利用ができる。吸い殻は喫煙者たちが交代で捨てている。ウルバーノは土地の境目をキョウチクトウの垣根で仕切っているだけで、工房の入り口は柵も何もない。外部からの出入りも自由なので、しばしば近所の工房や店舗の従業員も入って来て、ウルバーノの従業員と煙草を吸っていく。喫煙者たちにとって、吸い殻入れのある喫煙エリアは小さな社交場になっていた。
「な、なんですか、それ……」
出勤初日のルカはヴァレンティーノの性格も都会とは違う田舎のローカルルールも知らなかったので、勝手に人の土地に不法侵入して、喫煙した挙句、工房のマエストロに啖呵を切るヴァレンティーノがただただ信じられなかった。
「いやあ、マエストロなのにカルロは誰に対してもきちんと挨拶できなくてね。マエストロだと周りも悪い部分をあまり指摘できないから、困ってたんだよ」
確かにカルロはルカが挨拶をしても、挙動不審になって怯えて視線を逸らすばかりで、ロクに挨拶をしてくれなかった。ヴァレンティーノに怒られてようやくルカに挨拶をしてくれたが、どうやら誰に対しても挨拶ができないタイプのようで安心した。
「でも、ヴァルは初対面で挨拶させたから、これだと思ってね。器用な方だって言うし、高齢のヴェトライオが引退した後のことを考えないといけない時期で、思い切ってヴェトライオで採用したんだよ」
偶然とはいえ、マエストロにまでなれた優秀な人を採用できたとマルティーノは満足げだ。
「ヴァレンティーノさんは、営業か販売の仕事がしたかったんじゃないんですか?」
前職がバイヤーならば、過去の経験が活きる職種の方がいいだろう。工房側の都合で全く未経験の職種を受け入れたヴァレンティーノの意見を聞きたく、ルカは彼の方を見た。
「白島生まれだし、一回くらいやってみてもいいかと思ってさ。向いてなかったら、販売に回してくれって約束でヴェトライオになったんだ。やってみたら、物づくりも楽しいもんだな」
ヴァレンティーノが体躯に見合わない穏やかな笑顔を見せた。本来の希望ではなかった職種でも結果を出したヴァレンティーノにルカは感心した。ヴァレンティーノはどんな仕事をしたとしても、その仕事の良いところを見つけられ、順応性も高いタイプなのだろう。
「俺も含めて、変なのばっかりの職場で悪いな。でも変人ばっかりだから、苦手なタイプの客の対応をしないとか、電話対応免除とか、遅刻の容認とか大抵のことには対応できる。配慮して欲しいことはあるか?」
ヴァレンティーノにそう問われて、ルカは少し考え込んだ。やや考えてから視線をヴァレンティーノとマルティーノに戻す。
「──何もありません」
とルカは涼やかに答えた。