二
ルカは客のいない店舗をぐるりと見まわした。壁は一面ガラス張りで、白島の太陽を惜しみなく店の中に取り込み、壁際の棚に並ぶガラスを輝かせた。店舗の中央には大きな丸テーブルがあり、季節の商品を美しくディスプレイしている。今は青いテーブルクロスを敷き、レースグラスの食器を並べていた。
ウルバーノの主力商品は、レースグラスと種類の多いカラーガラス、花の模様が可愛らしいミルフィオリだ。種類の多いカラーガラスはクラウディオの研究の成果である。昔からの技法で作りつつも、ミルフィオリの花模様やレースのデザインなどを時代に合わせて刷新しながら、ウルバーノはガラスを作り続けていた。
店舗の中央にディスプレイされているレースグラスをルカは見た。ウルバーノの主力商品であり、売り上げもダントツで多い。まるで本当にガラスの中に白いレースが編み込まれたような美しいガラスだった。涼やかな白いレース模様がコップの底や皿の中央から縁へと均一に広がっていく。その様は白島の波のようでもあった。白いレース模様は複雑に絡み合い、見ていて飽きない。レースグラスと言えば白だが、白以外のレースグラスもあり、模様違い、色違いのセット商品がよく売れた。ウルバーノのマエストロたちの中で一番繊細で美しいレースグラスを作るのはカルロである。カルロにレースグラスを教えたのはステファノだが、今やカルロの方が美しいレースグラスを作った。レースのデザインや組み合わせを考えるのも彼なのだそうだ。
次にルカはレジ台の近くにある棚を見た。ここだけ商品の毛色が違う。ネックレス、ブローチ、ピアスや指輪などガラスアクセサリーが並んでいる。ウルバーノではアクセサリーは作らない。この商品は、他の店舗からの委託商品である。現在、職人の数が少ないこともあり、店舗には商品を並べる余裕があった。ウルバーノの主力商品はレースグラスの食器で、商品単価が高い。そのため、別の工房のウルバーノとは傾向が違う、商品単価が安めの商品を委託品として預かり、店頭販売していた。小さく、手ごろな価格のガラスアクセサリーは特に若い女性に人気で、無類の可愛いもの好きのトトが委託商品のディスプレイをしていた。電話対応や複数の作業を同時進行させるのは苦手だが、トトは季節やイベントに合わせて委託商品を一番見栄え良くディスプレイするのが得意だ。トトはガラスアクセサリーの販売がしたかったのだが、ガラスアクセサリーを扱う工房に「アクセサリーの販売に男はいらない」と採用を断られてしまったらしい。それが今、委託という形だがガラスアクセサリーの販売ができるようになって毎日楽しそうだ。
トトを見れば、委託所品の一つである青いピアスとミルフィオリの大ぶりのブローチを制服の胸元に留めていた。商品を実際に身に着けて、客に売り込む。トトは自分によく似合うものを選ぶのも上手で、ピアスもブローチもトトにとても似合っていた。トトが可愛らしくガラスアクセサリーを身に着ける様を見て、客たちは委託商品に目を向ける。トトはウルバーノの商品よりも委託商品を売り込む方が上手だった。
「ああ、新しい委託品を並べたんだね。すごく綺麗に並んでる。トトのディスプレイは本当にすごいよ」
「うん。昨日、団体客さんがたくさん買ってくれたからね! 綺麗でしょ!」
今回はミルフィオリのブローチの委託品が多かったのか、棚には所狭しとブローチが並んでいた。委託品の棚の前に立つルカのぴったり隣に立って、トトはルカに委託商品の説明を始めた。
「今年は青が流行りの色で、青いワンピースを着るお客さんが多いから反対色の暖色系のミルフィオリのブローチを並べてみたんだ。青い服につけたら差し色になっていいでしょう?」
「……ああ、うん……」
トトが腕が触れ合うほどぴったりと横に立つので、ルカは思わず一歩トトから離れた。しかし無意識なのか、トトがさりげなく離れたルカに近づいて、元の距離感に戻ってしまう。トトの熱心な説明を聞きながら、ルカは正直困ってしまった。
トトは自分と相手の関係に応じた適切な距離を取れない。放っておくと、心理的にも物理的にも近づきすぎてしまう。職場の同僚として、適切ではない距離で立つトトに困っていると、若い細身のいかにも低血圧そうな男が店舗に入ってきた。ニーノ・グロッソである。ヴェレノ本土の出身で茶色の髪にハシバミ色の目、二十六歳でトトと同い年だが、ニーノの方が大人びて見えた。
「トト~。健康保険の更新書類が間違ってるって、お前だけ戻って来たよ。正式書類は本名って言われてるだろ」
「だって可愛くない名前嫌なんだもん!!」
「ダメ。書き直して。……後、ルカさんが困ってるよ。近すぎ」
ニーノがトトとルカの距離感の近さを迷わず指摘する。
「えー? 困ってる?」
いまだぴったりとルカにくっついたまま、トトが不服そうにルカを見た。ルカが気にしないと言うのを期待しているようである。
「……少し」
はっきりと「困る」とは言いづらくて、ルカは曖昧に笑う。そういう曖昧な態度はトトが勘違いするからはっきり言えとヴァレンティーノに言われているのだが、中々面と向かって迷惑とは言えないものだった。ウルバーノでは、トトの距離感がおかしかったら、メジャーできっちり測って何度でも適切な距離を教えろとヴァレンティーノに言われている。その指示通りにニーノがレジ台から、メジャーを取り出して百二十センチほどメモリを引き出し、トトとルカの間にメジャーを置いた。
「同僚との社会的距離は百二十センチってヴァレンティーノさんに教わったんだろ。ほら、立ち位置直して」
「……うう。この距離、寂しくて嫌い」
「僕はこのくらいがいいな」
メジャーが示す適切な距離感に安心感を覚えながら、ルカは本心をトトに伝えた。ルカにはっきりと明言されて、トトはしぶしぶとルカから適切な距離を取る。
「この距離はトトを守る距離だよ。ルカさんの前に採用した販売の人、トトの距離感が無理って言って一週間で辞めちゃっただろ。そういうことが続くとトトを雇い続けられなくなる」
メジャーを巻き戻しながらニーノが過去のトラブルに触れた。トトは自分の行動の何が悪くてトラブルになるのかをいまいち理解していない。一つ一つ教えることは骨だったが、彼と仕事をするということは、この面倒くささを受け入れることだった。
「うん。……ごめんなさい、ルカ」
「いいよ。僕もちゃんと言わなかったの駄目だった。トトはこういうのが分からないんだね。距離感を守ってくれたらトトの苦手な作業をフォローするよ」
「そうそう。前の職場で道を聞かれて、店をほっぽって道案内したらクビになったんだろ」
「だって言葉で説明できなかったんだよ~」
怠惰で店を空けたのではないとトトが泣きそうな声で過去の罪を弁明する。
白島は観光地なので、白島の販売職は観光客によく道を尋ねられる。トトはウルバーノに勤める以前はガラス通りにある別の工房の販売員だった。しかし、電話の内容が聞き取れない。客が多い時に間違った商品を包んで客に渡してしまう。作業に集中しすぎて客の声掛けに気が付かない。大小様々なトラブルを起こし、観光客に道を尋ねられて、店を三十分近く無人にしたことが決定打でクビになった。
「トトは要領よく複数の作業を同時進行するのができないんだから、助けてくれる人を困らせたら駄目だ」
ニーノがルカと適切な距離感を保つ理由をトトに教える。
ウルバーノでは周辺の地図を用意して、目的地に印をつけて渡すというやり方を取った。しかしそれでは観光客が本当に目的地についたかどうか不安になってしまい、トトはその後の仕事が手につかない。気持ちの切り替えも苦手なようなので、もういっそ案内をしてしまえばいいというヴァレンティーノの判断で、トトは客に尋ねられたら道案内をすることを許可された。しかし一度、ウルバーノから一時間もかかるレストランまで案内してしまったことがあったので、案内の範囲はガラス通りの指定範囲まで、範囲外の場所については、ガラス通りにあるインフォメーションセンターに案内するよう道案内のルールが更新された。トトは、ルカたちが過去の経験で身につける「適当」が分からないようだ。だから度を超えた距離の店まで案内してしまい、同僚という距離のある関係のルカに家族の距離で近づいてしまう。そのことをただ怒ってもトトは傷つくばかりで何も学べない。だからトトが躓く度に一つずつ具体的に「適当」を教える。トトをクビにせず、教えることを選択したのは、ウルバーノのマスターであるヴァレンティーノだ。マスターとはヴェトライオたちだけでなく、工房全ての人間を気に掛ける立場でもあった。ヴァレンティーノのやり方を受け入れられず、辞めてしまった従業員もいたようだが、ルカはヴァレンティーノのやり方を受け入れたいと思っていた。
「トトは気にしないようだけど、あまり距離が近いと大抵の人は正直不快なんだ。だからちゃんと距離感を守ってくれたら、電話はできるだけ僕が出るし、トトがお客さんと外に出たら道案内してるんだなって思うから怒らないよ」
「……そっか。人間関係のルールって俺にはなんだか寂しいのばっかりで嫌だったんだけど、守ると良いこともあるんだね」
ルールを守れば自分の足りない部分を助けてもらえると理解して、トトの表情が明るくなる。トトがルカとの距離感に納得したことを見届けて、ニーノは書類をトトに渡すと工房へ戻っていった。トトが書類を書き直していると、新しい客が店舗に入ってきて、ルカは客に丁寧にあいさつをした。