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竜の棲む島  作者: 四つ葉
第一章
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 温暖な海に突き出したヴェレノ半島と十の島には昔から野生の竜が住んでいた。ヴェレノ半島は、非常に多種多様な毒を持つ動植物の多い土地だった。その毒性動植物たちの頂点に立つのが、ヴェルデと呼ばれる一際強い毒性を持つ深い緑色の小型の竜である。見た目は竜と言うより、大きなトカゲで、羽はあるが飛行は苦手で、半島、島間は泳いで移動する。この竜は狩りのために自らも毒腺を持つが、幼体の時から雑食で毒を持つ動植物を積極的に食べ、毒を体内に蓄積し、成体になる頃には皮膚、骨、血、肉、全ての部位に複雑に入り混じった複数種の毒を持つ。これは幼体の時に摂取した毒の種類や量によって全身を守る毒の種類が個体ごとに異なるためであり、個体によって体に溜め込む毒の種類を変えることによって、種の全滅を防ぐと言われている。

 複数種類の毒を持つ竜の排泄物や死骸に含まれる毒を土や植物が吸収し、毒を吸収した植物を食べた昆虫や小動物にも複雑に複数種の毒が蓄積する。そのためヴェレノの動植物は、他の地域の同種に比べて明らかに毒性が複雑で強い。強力で複雑な毒を持ち、獰猛な竜が多く住む土地に、当然人は住めず、これらの毒に耐性があるか、この過酷な環境下でも生き残れる特性を持つ動植物たちのみが生息できる特殊な土地だった。

 人々は毒の生態系の頂点に立つヴェルデ竜と何種かの毒性の強い動物を駆除し、長い年月をかけてヴェレノ半島と半島から離れた四つの島に生息する動植物の毒性を弱めて、定住していった。残り六つの島は今もなお、ヴェルデ竜及び毒性の強い動物の生息域であり、人が立ち入ることは法律で禁止されている。

 ヴェレノにはヴェルデ竜の他にもう一種類、竜がいる。無毒で温厚な性質のコロレという翼竜である。ヴェルデ竜より二回りくらい大きく、飛行が上手く、人を襲うことはしない。成体は羽を広げると二メートル近くあるため、羽を広げ、体の大きさで敵を威嚇する。青みがかった淡い緑色の個体が多いが、中には赤や青、黄色などの変種も多くいた。飛行が上手なので、半島、島間は飛んで移動する。どちらの竜も群れで暮らし、非常に縄張り意識が強く、ここ三百年は六つの島をヴェルデ竜が、半島と四つの島をコロレ竜が、自らの縄張りとして時に小競り合いを繰り返しながらも概ね平和に棲み分けていた。

 人間はコロレ竜と土地を分け合って暮らしていた。大人の竜はあまり人前にやってこないが、幼体の竜は非常に好奇心旺盛で、浜辺で子供たちが遊んでいると一緒に混ざって遊んだりもする。成体の竜は人に興味がないのではなく、人と付かず離れずの距離を取り、海で溺れた人を助けたり、沖合で難破した船を救助してくれたりと様々な逸話があった。

 ヴェレノ半島から船で十五分ほどの距離のところに白島ビアンカと呼ばれる島がある。北側は森が広がり、中央部には色とりどりの壁や屋根が可愛らしい住宅街があり、そして南側にある遠浅の湾の砂浜は太陽の光に照らされて真っ白に輝くことから「(ビアンカ)」と呼ばれるようになった。ヴェレノ半島からほど近い十の島は、この白島をはじめとして全て色の名前がついていた。

 この白島の白い砂の正体は珪砂で、珪砂を多く含む白島の砂はガラスづくりに非常に適している。それに気が付いた人々は、窯を作り、坩堝に白島の砂とソーダ灰と石灰を入れ、半日ほど高温で焼き、吹き棒でガラスを吹き、美しいガラス製品を作った。島で最初に作られたガラスはコアガラスだったと言われている。コアと呼ばれる芯棒に高温で焼いてどろどろになったガラスを巻き付けて作る原始的なガラスである。このコアグラスから始まった白島のガラスは、今ではたくさんの国から観光客がやってくるヴェレノの大事な産業になっていた。

 ルカが初めて見た白島のガラスは、勤めていた文房具店に委託販売されていたガラスペンであった。各工房で趣向を凝らした色とりどりの軸、均一に捩じれるペン先の溝がインクを吸い上げ、一度のインク着けで思いのほか長く書くことができる。紙の上を細いガラスのペン先がするすると滑っていき、書き心地も良い。美しく、実用性も高いガラスペンを文房具が好きで販売の仕事もするようになったルカはすぐに気に入った。

 最初はショーケースの中に収まっているガラスペンを仕事の合間に見ているだけでよかった。だが次第に、ガラスペンの作り方を知りたくなった。本で調べてもいまいち分からなかったので、卸元の工房がある白島へヴァカンツァで行くことにした。

 白島に着いてみれば、海は透き通るほどに美しく、白い砂浜は光り輝き、空には悠然と薄荷色の竜が飛んでいる。観光地でもある島には昔からたくさんのガラス工房があり、ヴェトライオと呼ばれるガラス職人たちが毎日ガラス製品を作っていた。工房によって作られるガラス製品は様々だが、特に有名なのは、クリスタッロと呼ばれる透明なガラス、レースグラス、ミルフィオリと呼ばれる小さな花が集まったようなガラス製品である。色ガラスの種類も多く、エナメルによる絵付けが美しいガラス製品もある。どの工房のガラス製品も美しく、見学したガラスペンの作り方は鮮やかで、ルカはどうしてもこの島で暮らしてみたくなった。ガラス工房の販売従業員の求人はないかと白島の役所にダメもとで尋ねてみたら、たまたま担当してくれた職員の人が熱心に求人情報をあたってくれた。ルカはホテルで履歴書と職務経歴書を急いで書き上げて、ルカの職歴で応募できそうな工房にいくつか応募した。その中でガラスの知識が全くない上、遠方から引っ越す必要のあるルカを受け入れてくれた奇特な工房が一つだけあった。引っ越し手当まで出してくれるし、ヴェトライオたちは昔からの慣習で住み込みが多いので、白島に越して来たら、借り上げのアパートの一部屋を安価に貸してくれるともいう。独身で、身軽なルカはすぐに就職を決めた。前職の文房具店の人たちはルカがずっとガラスペンに心奪われていたのは知っていたし、白島へ長期休暇に行くと聞いて、見た目に似合わず行動力のあるルカがいつかは転職するかもと覚悟をしていたら、就職を決めてヴァカンツァから戻ってきたルカを諦めて見送ってくれた。


 島の西側にある、港から真っすぐに伸びる島で最も古く大きな通りを、昔から島の人たちは『ガラス通り』と呼んでいた。ガラス通りは何本かの支路があり、リゾート地区である島の南側へ行く『海通り』、ガラス通りをさらに進むと北側へ行く『森通り』がある。ガラス通りから別れる支路は他にもたくさんあるが、島の交通や流通に重要な通りはこの三つの通りである。ウルバーノガラス工房は、ガラス通りと観光客向けのホテルの並ぶ南部へ行く海通りの分かれ目あたりにあった。この辺りはガラス通りでも特に昔から営業している古いガラス工房が立ち並ぶ一角で、ルカの新しい就職先であるウルバーノガラス工房もその一つであり、毎日多くの観光客や島の人たちがガラスを求めて、店舗へ訪れた。

 ウルバーノガラス工房の販売従業員のシフトは三部制である。早番、中番、遅番。早番は九時に来て店舗内の清掃をし、商品を補充し、十時に店を開け、十七時までが勤務時間だ。中番は子育て中の従業員のためのシフトで、店舗の開店時間の十時までに来て、十五時で上がる。遅番は十三時に来て、十九時の閉店後の掃除、売り上げの確認、店舗を施錠する二十時までが業務時間である。現在、販売従業員が少ないため、早番の販売従業員が帰宅した後は工房の加工部の従業員が店舗の業務を手伝ってくれていた。

 今日のルカのシフトは遅番で、もうすでに工房の店舗も動いている中、出勤した。店舗はガラス通り沿いにあるが、工房は店舗から少し離れた場所にある。ルカは店舗の手前の小道で曲がる。ウルバーノの敷地沿いに植えられているピンク色の花を咲かせるキョウチクトウに沿って歩き、工房の正面玄関へ向かった。ポルティコと呼ばれる柱廊の先に正面玄関がある。両開きの重厚な扉には、ガラス工房に相応しい小さなバラ窓が嵌め込まれている。右側には竜が、左側にはピンクのキョウチクトウの模様のステンドクラスが美しい。ルカは両開きの扉の右側を開けて、工房の中に入った。

 たくさんの材料やガラスづくりに必要な道具を搬入させるために、エントランスホールには余計な装飾はなく、広いエントランスの左手には階段が、そして右側に両開きの扉がある。工房の扉は大きく開く両開きが多い。ルカは扉の片側だけを開けて、エントランスの隣の部屋へ入った。隣の部屋はウルバーノガラス工房の心臓部である工房室である。広い工房に入るとむっとした熱気を感じる。工房の中央にある大きな窯からの熱だ。

 広く、コンクリートが剥き出しの広い工房の中央には、ルカがかつて見たこともないような燻し色の大きな窯が鎮座している。半円の窯の上部から天井まで続く長い筒は、工房の二階を超えて煙突と繋がっている。窯には十個の小さな口があり、口の中から煌々と燃え盛る真っ赤な炎が見えた。この窯は熔解炉と言い、ガラスの材料を焼くための炉である。中は千四百度ほどで、この窯だけは溶けたガラスが収まる坩堝を交換する時以外、年中、火を落とさない。

 ガラス作りには三つの炉が必要だ。一つはこのガラスの材料を焼くための熔解炉、もう一つが成型中のガラスを温め直すための再加熱炉グローリーホール、そしてガラスを冷やすための徐冷炉である。再加熱炉グローリーホールは、ワイン樽を横倒しにしたような炉で、溶解炉とは違い小ぶりで、溶鉱炉の近くに三か所置かれている。ガラスを再加熱して形を整えるためのもので、その名の通り、中は空洞である。こちらは千二百度の高温状態が維持されており、工房のチーム数と同じだけの再加熱炉グローリーホールが稼働していた。こちらは終業時に火を落とされる。徐冷炉はでき上がったガラス製品をゆっくりと冷やすための炉であり、業務用の大型冷蔵庫のような形で、工房には大きなものが一つある。でき上がったガラス製品をそのままにしておくと急激に温度が下がり、ガラスが割れてしまうため、徐冷炉でゆっくりと冷ますのだ。徐冷炉内は五百度に維持され、終業後に電源が落とされ、一晩かけてガラスを冷ます。翌日以降に常温まで冷めたガラスを加工部の職人が研磨やエナメル絵付けをして、店舗に並ぶ商品になる。

 でき上がったガラスをヴェトライオたちが次々、徐冷炉に仕舞っていく。中央の溶解炉と再加熱炉の間にはマーバー台、作業ベンチなどがあり、工房の奥には吹き竿やポンテ竿、ピンサー、種切りばさみなど、吹きガラスに必要な道具を並べる道具置き場とガラスの材料である白島の砂やソーダ灰、石灰置き場、ガラスに色をつけるための薬品を並べる棚、たくさんの蛇口の並ぶ水場がある。工房では一日中、道具やガラスがぶつかる甲高い音、溶解炉の温度を維持する発電機のモーター音、業務用扇風機のファンの音、炉の火が燃え上がる低い音など様々な音が響き、その中でヴェトライオたちが黙々とガラスを一つずつ手作りしていた。宙吹きガラスは二人一組のチームで作るのが基本だが、話し声はあまりせず、助手のヴェトライオたちはマエストロと呼ばれる最高位のヴェトライオの体や目の動きから、必要な動作を汲み取り、動いていた。

 ヴェトライオと呼ばれるガラス職人には、四つの階級がある。ヴェトライオになって最初に与えられる階級はアプレンディスタ、見習いだ。工房の掃除など雑用から仕事を始めて、ガラスの吹き方や道具の扱い方を教わる。次の階級がガルゾネットで、ガラス制作の基本は覚えたがまだ一人で商品の制作はできない段階である。下玉と呼ばれるガラス製品を作る元を吹き竿に巻き取る作業が安定してできるようになるとガルゾネットと呼ばれるようになる。一部の商品の制作を任せられるくらいの力量になるとセルヴェンテと呼ばれる階級に上がる。最後がマエストロだ。工房の全ての商品を作れ、且つ、白島のガラス協会の試験を受けて合格するとなることのできる白島の名誉職だ。マエストロは白島では特に尊敬された。

 ウルバーノには三人のマエストロがおり、三つのチームがある。その中で一番会話が多いのは、Sチームである。マエストロはステファノ・オット・サンティという熟練の老人で今年で五十八になった。昔は烏の濡れ羽色だったと本人が豪語する髪は今や真っ白だが、皺の目立つ肌の下の骨と筋肉はまだしっかりしており、若手の職人たちと遜色ない質と量のガラスを毎日吹き、作った。

 ステファノの助手は、ガルゾネットのロレンツォ・パオロ・カルヴィである。今年で四十八で、以前は銀行員であったが、三人の子供が独立した後に銀行を早期退職してヴェトライオになった。黒縁の眼鏡を掛け、白髪交じりの黒髪に黒目でいかにも几帳面そうな中肉中背の中年男性である。最近やっとガラスを吹くのに必要な筋肉がついてきたらしい。器用な方ではないが、辛抱強いので続けてさえいればマエストロになれると話してくれたのはステファノだ。ステファノ以外のマエストロがロレンツォよりも若いため、年上の部下は使いにくいだろうという配慮で高齢のステファノが指導係についた。元銀行員であっただけあり、金銭管理が得意なので、店舗の売り上げの集計や管理などでルカもよくお世話になっている人でもあった。

 丁度その二人が作業をしていたのでルカは声を掛けた。

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ。もう遅番のルカが来る時間か」

「お疲れ様です、ルカさん」

 職人と聞くと気難しい人を連想するが、二人はそういったことはなく、ルカが挨拶をすると丁寧に返事を返してくれた。

「昼休み中なのに工房に皆いるんですね」

 ガラスを販売する店舗と工房は二つともウルバーノの敷地内にあるが、建物は別だ。意識的に関わらないと互いの顔を見て会話をすることがないため、ルカたち販売従業員は出勤したら必ず工房へ挨拶に来るよう言われていた。遅番は工房の従業員の昼休み時間に出勤するため、工房の二階にある大会議室へ挨拶をしに行くことが多い。ここで加工部の従業員も含めて、昼食を食べているからだ。

「ちょっとトラブルがあってな。徐冷炉から加工室に移動させるときにニコラがガラスの入ったケースを台車から崩れ落としちまって、大量に割れたんだ。午前はその片付けでほぼ終わって、ニコラがあんまり落ち込んで使い物にならないから、今日は早めに昼にしたんだよ」

「でも割れたガラスは、また溶解炉に入れて再利用できますから」

 検品漏れや破損したガラスは、細かく砕いてカレットにし、再び溶解炉で溶かして再利用する。製品を作った手間は無駄になるが、ガラスの材料が無駄になることはなかった。

「それは大変でしたね」

 午前のトラブルを聞いてルカは目を丸くする。数個程度のガラスの破損はよくあることだが、大量の在庫の破損の話を聞くのは初めてだった。

 ステファノに「慰めてやってくれ」と言われて、ルカはもう一つ他に人が集まっている場所へ向かった。四人の男性が立ち話をしていた。最初にルカに気が付いたのは、短く切りそろえた茶髪にハシバミ色の目の、四人の中で一番小柄な男性だった。

「お疲れ! ルカ!」

 ルカと目が合うと、はきはきとした声でルカに挨拶をしてくれた。様々な音がする工房内でも良く通る良い声だった。テオ・コヴェリ、二十四歳だ。最近セルヴェンテに昇格したヴェトライオである。大変な努力家なのだが、何でも白黒はっきりさせたい正義感が強すぎる性格で、過去に勤めていた工房では人間関係で上手くいかなかったらしい。納得いかないことは有耶無耶にせず、声をあげる性格が良いときもあれば、悪いときもある。ウルバーノのマエストロたちからに他人に合わせることも大事だと諭され、ガラスと呼吸を合わせることを教えられて、ようやく他人と折り合いがつくようになったそうだ。ウルバーノで一番技量のあるマエストロのガラスに惚れ込んでウルバーノへ転職してきたため、現在は彼の希望のマエストロの助手についている。

「お疲れ様です。午前、大変だったみたいですね」

「あんな盛大にケースが崩れ落ちたの、久しぶりだな。でも、皆、一回はやるよ」

 ルカも挨拶を返し、すぐ隣にいる男性へ視線を向けた。椅子に腰かけ、ガラス瓶から直接飲み物を飲んでいるふくよかで大柄な男だ。白島出身の人に多い、茶の髪にハシバミ色の目。小柄なテオと並ぶと座っていても横幅の大きさに目が行く。これで鉄の棒を持って、意外にも身軽に動き、誰よりも繊細で美しいガラスを作った。カルロ・ルチアーノ・クレメンテ、三十五歳。宙吹きガラスの専門技術を学べる技術学校を卒業後、ウルバーノに就職し、ウルバーノで最も技術力のあるヴェトライオであり、テオの指導係である。工房のヴェトライオたちから一番尊敬されているカルロにルカは挨拶をした。

「おはようございます」

 カルロはちらとルカを見て、聞こえるような聞こえないような小さな声で「うす」とだけ返した。工房内で一番立場の高いマエストロに新人の販売従業員のルカが雑に挨拶されたことに、工房内の空気が一瞬で凍り付く。

「──ちゃんと挨拶しろ! カルロ!」

 カルロの行動を見逃さず、すぐに怒号が飛んでくる。まだルカが挨拶をしていないマエストロの声だった。

「お前の今期の目標は「元気に挨拶する」だろう!」

 その怒号は新人のルカが立場の高いマエストロに雑に扱われてショックを受けない配慮──ではなく、ただ単純に自分で決めた今期の目標を達成しないカルロを強く指導する声だった。

 工房内でマエストロの立場は非常に高い。良くも悪くも工房の従業員は皆、マエストロの影響を受ける。だからこそ、自分の振る舞いで余計な誤解が起きないように、マエストロ試験の合格後の講習会では、「自分から挨拶をする。舌打ちをしない。扉を静かに閉める」という振る舞いを新マエストロたちは徹底して教えられるそうだ。しかしカルロは自分から話しかけ、人と関係を深めるのがとても苦手なようであった。ルカの出勤初日、見るからに学生時代スクールカースト上位だったと思われる販売従業員に自分から挨拶なんてできない、とカルロがあまりにルカに怯えたので、自分の方から挨拶をすると当時言ったのだが、それでもカルロはルカが怖いようだった。

「カルロさんなりに挨拶してくれましたから……」

「こんないい加減な挨拶は駄目だ! やり直せ!」

「……お、お疲れ様です……今日も……いいお日柄ですね……」

 もう一人のマエストロに怒られて、カルロが泣きそうな顔と震える声で、ようやくルカに挨拶をする。

「良い天気ではありますね……」

 何とかカルロが挨拶をしてくれたので、ルカは最後のチームの方を見た。中年の男性と若い男性のペアだ。先ほどカルロを怒鳴りつけたマエストロは、ヴァレンティーノ・ジョバンニ・ヴィスコンティ、三十八歳である。筋肉質で、背の高い男だった。日焼けをした肌に黒の髪とオリーブ色の目が人目を引く。ヴェトライオたちは、皆、Tシャツにジーンズなど軽装が多いが、ヴァレンティーノだけは黒の長袖のシャツを着ており、この暑い中でも第一ボタンまできっちりと留めている。ヴァレンティーノの方が先にルカに挨拶をした。

「お疲れ」

「お疲れ様です。今日も暑いですね」

「そうだな。店舗は涼しいから羨ましいよ」

 ヴァレンティーノの前職は百貨店のバイヤーで、二十九歳の時に地元である白島に戻って来て、ヴェトライオになった。元々器用な性質であったためか、ヴァレンティーノはマエストロになるまでに通常十年かかるところを八年でマエストロになり、同時にウルバーノのマスターという役職にも就いた。マスターとは工房の長である。かつてはステファノが就いていた役職であった。本来であれば、ヴァレンティーノよりもヴェトライオとしてのキャリアの長いカルロが引き継ぐべきだったのだが、マスターはただガラスを作ればいい職ではない。工房内の人間関係を維持し、工房のガラスの方向性を決め、採用や販売方法など工房運営の多くのことに関り、責任を持つ。自分に運営業務はできないとカルロが泣いて訴えたため、前職が百貨店のバイヤーであったヴァレンティーノが引き継ぐことになったのだ。ヴァレンティーノであれば人間関係の調整も上手で、販売分野にも詳しい。ウルバーノとして売り出すガラスの方向性など、ヴェトライオとしての経験が直接役に立つ部分をカルロに任せる形で落ち着いた。

 最後にヴァレンティーノの助手を勤める若いヴェトライオに声を掛けた。金に近い髪色に黄色がかった茶色の目が特徴の青年である。ヴァレンティーノほどではないが背は高く、すらりと細身だが、筋肉はしっかりと付いている。ニコラ・タッソ、二十四歳のガルゾネットだ。テオと同じ年だが、ヴェトライオとして働き始めたのがテオより少し遅かったため、今はまだガルゾネットだった。同じ年で共通の話題が多いのか、テオとニコラは仲が良かった。ニコラは他のヴェトライオたちとは違い、右耳にだけ、ローズカットされ金で縁取りされた赤いガラスのピアスをつけている。彼は左耳があまり聞こえないので、声を掛けて欲しい方の右耳に目印のピアスをつけているのだ。ルカはピアスが付いている右側からニコラに声を掛けた。

「お疲れ様です。午前は大変だったみたいですね」

「お疲れさま……。ケースのガラスが何もかも割れちゃって、もう頭、真っ白になっちゃったよ」

 まだ気持ちが落ち着かないのか、ニコラは椅子に座って落ち込んでいた。

「こんな迷惑かけたのに、皆、怒らないんだ……」

「わざとじゃないからですよ。それにニコラさんを怒ったって、ガラスは元に戻らないでしょう?」

「皆と同じこと言うんだね。普通の人って、優しいね」

 ニコラはとても穏やかな人だった。さぞ穏やかな家庭で育ったのだろうと思ったら、彼の父親は酒を飲んで暴れる人で、顔の左側をよく殴られたため、ニコラの左耳はあまり聞こえないのだという。ルカの出勤初日、左耳の聴力の話になり、ニコラの生育歴に呆然としていたルカに気づかず、ニコラは「父親は酒で酔って海に落ちて死んだからもう大丈夫」という、何も大丈夫ではなさそうな説明した。母親は「薬を飲んでよく寝ている人」だったそうだ。子供の頃からニコラが母の面倒を見ていたが、家を出たので、今は母の兄が主に面倒を見て、療養施設にいるのだという。

「ほら、ルカだって同じこと言うんだから、ニコラはもう落ち込むの禁止!」

「……うん、そうする……」

 テオに頷くニコラの表情はまだ暗い。会話の流れを優先して、とっさに本心ではない返事をしてしまうニコラの悪い癖だった。ニコラは純粋に温厚な性格なのではなく、酒で暴れる父親と精神が不安定な母親のいる家庭内で生き残るために、自分の感情を後回しにして、場の空気を壊さないことをとにかく優先する生き方しか選べなかった人だった。

 いい加減な返事をする人だと悪印象がつくから心にない返事は良くないと思ったが、ニコラより年上でもウルバーノでは新人のルカが指摘することは憚られた。

「……ニコラ、テオにそう返事をしたなら暗い顔をしてはいけない。気持ちを切り替えられないなら、今日は落ち込ませて欲しいと言うべきだ」

 ルカが指摘できずにいたことをヴァレンティーノがはっきりと指摘する。ヴァレンティーノはニコラの成育歴も把握した上で、ガラスの作り方と同時に自分の感情の表現の仕方を教えるためにも指導係についていた。

「……」

 ヴァレンティーノの指摘にニコラがばつの悪そうな表情をして、視線を俯かせる。

「どうする?」

 曖昧な態度を許さず、ヴァレンティーノはさらにもう一度ニコラに問いかけた。

「……あ、……その……」

 俯いたまま、ニコラは歯切れ悪く返事を濁す。

「もー! お前、またそれ!」

「怒るな。お前が怒るとニコラは余計に何も言えなくなる」

 悪い癖が簡単には治せないニコラに何でもはっきりと物を言わないと気が済まないテオがすぐに怒り出す。瓶の中のジュースを空にしたカルロが、パドルと呼ばれるガラスに底を作る平たい木の板で軽くテオの頭を小突いた。

「一日くらい落ち込んでもいいんじゃないですか?」

 ルカの優しい問いかけにもニコラは何も言えなかった。ルカもニコラに無理には返事を求めず、窯のある工房の隣の部屋へ向かった。

 加工室は工房の三分の一ほどの広さで、ガラスの仕上げ加工のための部屋である。徐冷炉で冷ましたガラスを研磨し、必要があればエナメル絵付けをして、製品にする。部屋の左側には平盤研磨機と木盤研磨機とエナメル絵付けのための作業机が並んでいた。この研磨機で吹き竿やポンテ竿の接合部のバリを研磨機で削り落としていた。バリを削り落とした後は、バーナーで焼き、表面を滑らかにする。

 完成した製品は、加工室の左隣の在庫室へ運ばれ、保管される。販売従業員たちは、在庫室にある裏口から必要分のガラスを店舗へ運んで、店舗の棚に並べるのだ。

 今はまだ休憩時間なので加工部の従業員は作業用の椅子に腰掛け、コーヒーを飲んでいた。加工室に入ってきたルカに気が付いて、視線を上げる。

「お疲れ様です。もう遅番の方が来る時間なんですね」

 フェルナンド・カッサーノ、四十二歳である。茶の髪にハシバミ色の目、細身で、やや神経が細そうなタイプの中年男性だった。フェルナンドは以前、商社勤めだったが仕事の忙しさで鬱病になってしまい退職し、地元である白島に戻ってきた。しばらくは子供の世話をしつつ療養し、妻の勧めで、妻が勤めるガラス工房へ再就職した。鬱は寛解したと診断されたそうだが、寛解とは症状や検査異常が認められない状態を指すので、天候が悪い日が続いたり、季節の変わり目などは体調を崩しやすい。そのため、自分のペースで作業ができる加工職に就いた。

「お疲れ様、ルカ」

 次にフェルナンドの隣でコーヒーを飲んでいた女性に挨拶をした。カルロッタ・ソレ、四十二歳である。フェルナンドの妻である。前職は美容師で、大変絵が上手い。引退した高齢のエナメル絵付けの職人から技術を引き継ぎ、現在は彼女が加工部の責任者だ。絵付けの邪魔にならないように、丸く結い上げた豊かで長い髪の色は金色で、目の覚めるような青い瞳が美しい。白い肌に真っ赤な口紅がよく似合う、迫力のある美人だった。フェルナンドと正式に夫婦であるが、この地域は昔から別姓が基本なので、この二人も別姓である。

「お疲れ様です。ニーノは来てますか?」

 ニーノとは加工部の従業員の一人である。とにかく朝起きられない体質で、九時の就業開始時間に間に合わないので、「起きたら来る」という通常ならば考えられない勤務形態を取っていた。遅刻した分は残業で埋め合わせをした。

「さすがにもう来てるけど、午前中に社長の定期面談で二階に行ったきり戻ってないわね。一緒にお昼に行ったのかも」

「そうですか。会えたら挨拶しておきますね」

 ルカは次に加工室の右側にある扉を開けた。以前は倉庫として使われていた小さな部屋である。小型の電気炉が三台並び、棚には古い本や資料が所狭しと並べられている。ガラスの引き戸のついた棚にはたくさんの薬品瓶が並んでいた。研究室と呼ばれる部屋であった。大きな作業用のテーブルにいつもたくさんのガラス片が並べられている。全てのガラス片の横には丁寧な筆跡でメモ書きが置かれていた。

 部屋の隅の椅子に細身の男が座って、熱心に本を読んでいる。白いシャツにベージュの綿のパンツ。服装規定がほぼない工房で、こんな真面目な格好をするのは、ヴァレンティーノとこの男しかいない。クラウディオ・オルランド、三十歳。この工房で唯一の研究職だ。工房で唯一の──もしかしたら島で唯一の──大卒の男性である。白島の古い書物から今は失われてしまったガラスの技術を再生したり、より安価で鮮やかで新しい色ガラスを生み出すための研究を担当している。

 通常であれば、高校で進学コースを選び、大学に進学した生徒は医師や弁護士など社会的地位の高い職に就く。こんな田舎のガラス工房に就職することはない。しかし、クラウディオは大変優秀な成績で大学を卒業し、研究職に一度は就いたものの、そこでの人間関係に躓き、研究成果も出せず、身も心もボロボロになりながら退職した。その後、無職の傷心旅行でやってきた白島で、カルロと意気投合し、このウルバーノに研究職兼加工職として再就職した。

 就職当初、クラウディオは研究だけを希望していたそうなのだが、一人で研究をしていると、成果が出せなかった時に気持ちが焦ったり、落ち込んだりして、精神衛生上良くないという社長の判断で、クラウディオは加工職も週の半分程度担当していた。研究のアイディアは人との何気ない会話や自分も工房の売り上げに貢献しているという安心感の中で生まれるらしく、今ではこの兼任職を気に入っているという。

「……お疲れさま……です」

 熱心に古い本を読み込んでいるクラウディオにルカはそろそろと声を掛ける。ルカの声は全く届いていないようで、クラウディオは反応しない。そもそもルカが扉を開けて研究室に入ってきたことにも気が付いていないようだ。仕方なく、ルカはクラウディオに近づき、クラウディオの顔の前で手を振った。

「お疲れ様! です!」

 クラウディオの真横から少し大きめの声で挨拶をした。そこでようやくクラウディオはルカに気が付いて、ルカの方を見た。

「お疲れ様です。全然気が付きませんでした」

「集中していたみたいですね。何の本を読んでいるんですか?」

「この本に角度や背景色によって色合いの変わるガラスの記述がありまして、その再現をするために読み込んでいたのです。古い本なので、言い回しが古かったり、知らない単語もよく出てくるので、読むのに時間がかかります」

「へえ、難しいことをしているんですね」

 ルカも試しに日焼けし、紙の端がボロボロになっている古書を見てみた。古典の授業に出てくるような文章はルカでは全く読めなかった。

「……全然読めないですね……」

「慣れたら読めるものです」

 クラウディオは前職が研究職なだけあり、ウルバーノに様々な研究成果をもたらしてくれた。

「この本によると変色ガラスの材料は金であることは確定しているのですが、ガラスに対する金の量と再加熱の温度の記載が曖昧でよく分かりません。昔と今では重さの単位も違いますし、温度も今ほど正確には計測できないので、火の色や窯を何時間熱したかなどの大まかな記載しかないのです。なので、具体的な金の量や再加熱の温度は実際に試してみるしかありません。しかも工房によっては、金以外の材料を混ぜることもあったようで、どの記載が一番再現性が高いのか分かりません。ガラスの材料になる白島の砂は、ごく微量の鉄が混じっていて、灰を入れてそのまま焼いてできるガラスは薄荷色と呼ばれる青みがかった緑色です。これは酸化鉄の影響なのですが、つまりガラスの材料の砂には色々な不純物があるので、そうした不純物との複雑な兼ね合いで、偶然任せで出された色だとすると再現性に関して……」

「──ディオ! ルカさん、仕事できないわよ!」

 いつまでも研究室から出てこないルカを心配して、カルロッタが二人に声を掛けにくる。はっと我に返ったクラウディオがルカに頭を下げて謝った。

「すみません。私は研究の話になると止まらなくなってしまって……」

「それだけ頑張っているんですね。研究が進んだらまた聞かせてください」

 カルロッタに助けられてルカは研究室を出る。加工部にはもう一人従業員がいるのだが、今はいないので、カルロッタに礼を言って別れ、ルカは正面玄関から外に出た。キョウチクトウが咲く工房の中庭を通り抜け、店舗の裏口の扉を開く。バックヤードの左手にある扉が更衣室だ。更衣室で制服に着替えて、ガラス商品が並ぶ店舗へ入った。

 ウルバーノの制服は、ガラスの色を邪魔せず、高級感のある半袖のグレーのシャツと黒のズボンである。ウルバーノの溶解炉をデザインしたロゴマークが胸に刺繍されている。衿から裾まできっちりとアイロンがけされたシャツを着て、ルカは店舗に入った。店舗に入るとちょうど従業員が客を見送ったところであった。

 客を見送り、くるりと体を翻して店内に戻ろうとして、ルカと目が合う。大きなハシバミ色の目に茶色の癖っ毛が愛らしい青年である。背は特別高くも低くもない。アントニオ・アッカルド、二十六歳。ウルバーノの販売従業員でルカの先輩である。

「トト、お疲れ様」

 アントニオは無類の可愛いもの好きで、自分の名前が可愛くないから好きではないという理由で、ウルバーノの従業員たちに自分を「トト」と愛称で呼ぶようお願いしていた。特に断る理由もないので、ウルバーノの人たちは全員彼をトトと呼ぶ。トトはルカを一目見て、泣きそうな顔をして、レジ台を越えて店舗に出たルカに抱きついた。

「うわ~ん! ルカ! おつかれ! 一人で心細かったよう!!」

「イレーネは?」

 イレーネ ・カンパニーレは四歳の男の子のお母さんである。今年で二十七になった。

「お子さんが嘔吐したから迎えに来てくれって保育園から電話があって、さっき帰っちゃったんだ! ルカが来るまでいるって言ってくれたんだけど、保育園から二度目の電話がきちゃって……」

 二度目の電話に保育園側の必死さも伝わって来て、ルカは先に帰ったイレーネを責める気にはなれなかった。

「それじゃあ仕方ないね。二人で回そう。電話とかトトが苦手な仕事は僕が対応するから安心して」

「うん! もう電話が来たらどうしようって気が気じゃなかった!」

 トトは電話での会話が苦手で、相手の要件を聞き取れない。他にもトトは一つのことに集中しすぎる傾向があるようで、同時に複数の作業をすることができない。無理に頼めばパニックになってしまう。イレーネはまだ子供が小さいため、十時から十五時までの中番でしか出勤しない。しかし保育園から連絡があれば、今日のように早退することもあるので、トトとイレーネをカバーする従業員としてルカは採用された。ウルバーノがルカのような飛び込みの応募を受け入れ、すぐに内定と引っ越し代を出してくれた理由は、就職してすぐに分かった。店舗の規模に対して、販売員が少なすぎる。ルカが就職する少し前まで販売員はもっといたのだが、イレーネの早退の多さとトトのフォロー内容への不満ですぐに辞めてしまったそうだ。イレーネが中番しかできないのであれば、もう一人二人販売員が欲しいところだが、必要があれば販売経験のある加工部の従業員が手伝ってくれるので、今はこの人数で回すしかない。

 以上が、ひとまず本日この工房で働く人たちであった。


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