序
雲一つない青い空に悠々と薄荷色の翼竜たちが空を飛んでいる。大きな翼を広げて、群を成して彼らは飛ぶ。薄荷色の大きな鱗はガラスのように透き通って美しい。大きく広げられた翼は半透明で、まるでガラスの羽で飛んでいるようである。悠然と空を飛ぶ様を見て、観光客たちがカメラを向けていた。空の色とはまた違う青い海の浅瀬では子供たちと幼体の竜の子供たちが、ばちゃばちゃと楽しそうに走り回っている。翼竜は人に飼いならされている訳ではないが、温厚な性格で人を恐れない。
南側にある三日月のような形をした島の浜辺は遠浅で、観光客や地元の子供たちの格好の遊び場であった。浜辺の砂は夏の太陽の日差しを浴びて、真っ白に輝く。この島の浜辺の砂は特に白く、この白い砂が「白島」という島の名の由来になっていた。その白い砂浜に立つ二人の若い男がいた。
一人は二十代後半の細身の男である。名をルカ・ココと言い、今年で二十八歳になった。ハシバミ色の髪に灰がかった青の瞳、肌の色は白く、中性的な顔立ちで、あまり日焼けをしていない。島の日差しが強いので、強い日差しに慣れていない肌を守るために薄手の綿のシャツを着ていた。
ルカの隣に座っているのは、一際大きな男である。百八十センチメートルは優に超えて、筋肉質で、日焼けをした肌に黒の髪とオリーブ色の目が人目を引いた。黒い長袖のシャツに白の綿のズボンを履いている。彼の名はヴァレンティーノ・ジョバンニ・ヴィスコンティ。今年で三十八になった。ルカが最近勤め始めた職場の同僚だ。
ルカは自分よりも頭一つは優に背の高いヴァレンティーノを見上げて、意を決してこう言った。
「僕と結婚しませんか?」
ルカの突然のプロポーズに、ルカよりも十も年上の大男がぽかんとしている。やや黄色がかった緑の目を見開いて、ルカを見返す。
「な、なんで……?」
それまでの会話を一切無視したルカの提案にヴァレンティーノが動揺するのは当然だ。彼と付き合うような雰囲気も今まで一切なかった。最初から肯定の返事など期待していない提案をしたルカもとても緊張していた。一度、深呼吸して、自らを落ち着ける。
「ご説明致します」
「ご説明頂きたいな」
ルカは一月ほど前、ガラス工芸品と観光地として有名な地域であるヴェレノ半島に越してきた。気候は温暖で、夏は九時近くまで日があり、冬は内地より寒いが、期間は短い。ルカとヴァレンティーノが暮らしているのは本土の最北端であるヴェレノ半島から船で十五分ほどの距離にある小さな島だ。縦に長い島で、北側は立ち入り禁止区域に指定されている森があり、中央部から南側に人が住んでいる。森を抜け、小さな島に所狭しと詰め込んだ屋根や壁がカラフルな住宅街を抜けると、大きな通りへ出る。港から直接つながる大通りは、昔から交通の要で、この道を様々な物資や人が移動した。島の最南部は三日月のような湾になっており、遠浅の海が続く。最南部はリゾート地区として発展しており、気軽に利用できる民宿から高級ホテルまで様々な宿泊施設があった。夏になるとこのリゾート地区へたくさんの観光客が長いバカンツァに訪れた。
春には可愛らしいピンク色のアーモンドの花と目の覚めるような黄色のミモザが咲き、夏には色とりどりのキョウチクトウと真っ白なジャスミンが咲く。島は白島と呼ばれ、色の名のついた島がヴェレノ半島の近辺には十島ある。そのうち、毒の息を吐く獰猛な小型の野生の竜が棲む島が六島、人間と人を襲わない温厚な無毒の翼竜が住む島が四島。白島は半島に次いで多く人と翼竜が住み、ガラス工房がたくさんあることで有名な島だった。
ヴァレンティーノの出身地であり、南の海に浮かぶこの島は、特に夏に長期休暇の観光客が多く訪れ、海で遊び、島の海産物を楽しみ、島の産業であるガラス工芸品を土産として買っていく。港から続く大通りは『ガラス通り』と呼ばれ、ガラス工房が立ち並ぶ、この通りが白島で一番有名な観光地である。工房によってガラス製品の特徴は様々で、地元民であればガラスを見れば、どこの工房の製品かすぐに分かった。観光客たちはたくさんの工房の中から気に入った商品を買っていく。
ルカは白島に数多あるガラス工房の一つであるウルバーノガラス工房の販売職として、先月から白島に住み、仕事を始めた。ヴァレンティーノはガラス工房のヴェトライオと呼ばれるガラス職人である。ウルバーノガラス工房の主力商品はレースグラスと呼ばれる、まるでガラスの中にレースが編み込まれたような柄のガラスである。ガラスの底から縁へ、まるで波うつようにレース模様が広がっていく。レース棒と呼ばれるガラス棒の組み合わせで、レース模様を様々に表現できた。このガラスは製造に手間がかかることから、一度すたれ、いつしか作り方が分からなくなってしまった。そのレースグラスを再現した皿やグラス、花瓶などの生活用品をウルバーノのヴェトライオたちは日々作っていた。
「出勤初日にヴァレンティーノさんと社長は僕に『配慮事項や困っていることはあるか』って聞いてくれましたよね?」
ルカに突然出勤初日の話をされてヴァレンティーノが困惑の表情を浮かべた。
「……でも何もないって……」
「本当はあるんです。配慮して欲しいことではないんですけど、困っていることが」
今更そんなことを言い出すルカにヴァレンティーノはただただ困惑していた。それでもルカの話を誠実に聞こうと体の向きを変えて、ルカに向き合った。
「どう言ったら理解してもらえるか分からないんですけど……僕は人を好きになったことがないんです」
何もかもが唐突で脈絡のないルカの言葉に、ヴァレンティーノは綺麗な緑の目を丸くするばかりだった。急にこんなことを言われても、誰も理解できるはずがない。それでもルカは今この場で、どうしても彼に自分を理解してもらう必要があった。
「……誰かと付き合ったことがないってこと?」
当たり前と言えば当たり前のヴァレンティーノの問いかけにルカは静かに首を横に振った。
「違います。何度か人と付き合ったことはあります。でも全部、上手くいきませんでした」
「それはお互い若かったからだろ?」
そんなこともあるって、と親切心で自分より十も年下のルカを励ますヴァレンティーノに苛立たないよう、ルカはもう一度深く呼吸をする。ここまで切り出した以上、ルカは説明を投げ出すわけにはいかなかった。
「そうじゃないんです。僕から誰かを好きになったこともないし、告白されたから付き合ってもみたけど、どうしても相手を特別好きになれなかったんです」
丁寧に、一切の誤解が生まれないように言葉を選んで、ルカは自分の過去の体験を伝えた。しかしヴァレンティーノは不可解そうに眉を顰めるだけだった。
「好きになれる人に会えてないか、人を好きになるのに時間がかかるだけなんじゃないのか? 男だと珍しいけど、女でそういうの多いよ」
「本当なんです! 友達の好きも恋人の好きも何も違いがなくて、だから触れ合うこともちゃんとできなくて、いつも振られて関係が終わるんです!」
なかなかルカの言葉をそのままに受け止めないヴァレンティーノにルカはめげずに説明を重ねた。あまりに必死そうなルカに、どうやら生半可な気持ちでこの話をしているのではないと察したようで、ヴァレンティーノがようやく真面目な顔をした。ルカに少し顔を寄せ、周囲を見まわした後、余計な人に二人の会話が聞かれぬよう声のトーンを落とした。
「……込み入ったこと聞くけど、触れ合えなかったって勃たなかったってこと? それは病気だから泌尿器科に一度相談……」
「それも違うんです……!」
真面目に心配してくれたことはありがたかったのだが、見当違いな心配にルカは丁寧に否定をした。
「そもそも触れ合いたいという気持ちにならないんです。だからそういう話が出てくるタイミングでいつも関係が壊れるんです」
「そんなことあるわけ……」
ここまで説明しても理解が得られないことに思わず泣きそうになったルカを見て、ヴァレンティーノは言葉を飲み込んだ。
「……ルカは自分のことをそう感じてるんだな。それは分かったよ。でも何で俺と暮らそうって話になるんだ? 誰も好きにならないなら、俺のことも好きじゃないんだろ?」
「そうです。少しも好きではないです」
そこは大事なことなのでルカは即答した。ヴァレンティーノはやや傷ついたような顔をしたが文句は言わなかった。
「……じゃあ、なんで……」
大人なので傷ついたとは言わず、ヴァレンティーノが辛抱強くルカの意図を尋ねる。
「でも人として、心から尊敬しています! 仕事も丁寧だし、ウルバーノの皆をフォローして、こんな立派な人、滅多にいません!」
好きだとは言えなかったが、人としての好意はあるとルカは必死に伝えた。ここが伝わらないとヴァレンティーノはルカの誘いに絶対に頷かない。
「お世辞はいいよ。それで?」
仕事ができることは彼の中ではただの事実なのか、ルカの言葉にヴァレンティーノは特に浮かれることもせず、先を求めた。ようやく話がルカの本来したかった方向へ向かい始めた。
「誰のことも好きになれないけど、でも一人で生きていく勇気はないんです。誰かと一緒にいたい。支え合って暮らしていきたいとは思うんです。親はいつか死にますし、姉夫婦に迷惑もかけられません。自分の家族が欲しいんです!」
ルカの人を好きになれないという話にはいまいち納得した顔は見せなかったが、一人で生きていく寂しさと不安は共感できるのか、ヴァレンティーノはルカの将来の不安を笑うことはしなかった。
ヴァレンティーノは現在三十八歳だが独身で、結婚する気も子供を持つ気もないらしい。彼の両親は弟と一緒にヴェレノ半島で漁師をしており、ヴァレンティーノは祖父母が遺した古い家で一人暮らしをしている。だからルカには、一緒に暮らすのにちょうどいい相手だった。
「まあ、独身は皆そんな感じだ。それで?」
「だから、僕に特別な好きも性欲もなくて、人間的相性が悪くなくて、結婚願望のない人がいないかと、一緒に穏やかに暮らしていける人がいないかとずーっと思ってたんです。この際、年齢とか性別は気にしません! テオさんに『この際、年齢も性別も気にしないから、ヴァレンティーノさんには家族ができて欲しい』って言われて、最初はどうなんだって思ってたんですけど」
テオとは職場の同僚である。ヴァレンティーノと同じガラス職人をしていた。
「テオもルカも年齢とか性別とか気にしてくれよ……」
人と暮らす上でかなり大事な要素を気にしないと言う二人にヴァレンティーノが頭を抱える。
「外せない最初の三つの条件がもう大分厳しいのに、他の条件なんて言ってられません! 」
「いやでも……」
「結婚もしないし、子供も作らないんですよね。ならいいじゃないですか。竜になったら、大漁旗を振ってお見送りします!」
自分でも強引すぎるとは思ったが、他に彼を納得させる理屈がないので、ルカは胸を張って一方的にヴァレンティーノに将来の約束をした。
「大漁旗を振ってくれるのは悪い気はしないが……いやいや、そういうことじゃなくてな……」
何もかも唐突なルカの言葉にヴァレンティーノが頭を抱えっぱなしだ。だが全く取り付く島もないようではなかったので、ルカはここまで心の内を話した勢いに任せてさらに畳みかけた。
「愛せない代わりに絶対に貴方の役に立ちます。仕事の愚痴も聞くし、ウルバーノの皆を支えますし、入院したら着替えとか必要なものも持っていくし、入退院手続きもしますし、手術の立ち合いもするし、職場にも必要な連絡しますし、生活費も折半で入れるし、掃除も得意です!」
何とかヴァレンティーノから肯定の返事をもぎ取ろうとルカは思いつく限りの自分と暮らすメリットを並べてヴァレンティーノを勧誘した。
「それは……便利だな」
ルカの勧誘にヴァレンティーノがあっさりと気持ちを揺らがせる。やはりどれだけ結婚願望がない人でも一人は心細いのだと、ルカは彼にも自分と同じ気持ちがあることに安心した。
「でしょう!?」
「えー、でもそんな……困るよ」
とはいえ、漠然とした寂しさを埋めるために簡単に一緒に暮らす人を選べないとヴァレンティーノはルカの誘いに頷くことはしなかった。数秒前まで表情を明るくていしたルカは、ヴァレンティーノの否定的な言葉に瞬転暗くなって、肩を落とす。
「……どうしてもダメですか?」
ルカには一生に一度のプロポーズだった。やはり人は愛情のある相手の中からしか、家族になり得る人を選ばないのかと絶望的な気持ちになる。それでは他人への愛情を持たないルカは誰とも家族になることはできない。
露骨に落胆するルカにヴァレンティーノが「いやいや」と慰めるように声を掛けた。
「ルカが嫌だって話じゃなくてさ。俺は竜になることで二度家族を置いていく。一度目は竜になった時。二度目は人の記憶をなくした時。今、まさに見ただろう。俺はルカが浜に会いにきてくれても、気が付きもしない竜になる。それが嫌だから今まで一人でいたんだ。だからルカが本当に誰かを愛することができなかったとしても、一緒に暮らすわけには……」
「誰も特別に愛せないのに誰かと暮らしたいなんて身勝手なことを言っているのは、こっちなんです。貴方が突然竜になっても、一緒に暮らしていた僕のことを忘れても、置いて行かれたなんて思いません。その時まで、こんな僕と一緒にいてくれたことに必ず感謝します」
ヴァレンティーノの話し振りから、ルカの人間性に不足があるから一緒に暮らせないと言っているのではないと察して、ルカはヴァレンティーノの断りの言葉を無理に遮って訴えた。
「いや、待ってくれよ……」
ルカの言葉は思っていたよりもヴァレンティーノに響いたようで、ヴァレンティーノの断りの返事が鈍った。
「ヴァレンティーノさんは竜になるまで本当に一人でいいんですか?」
ルカの問いかけにヴァレンティーノが狼狽え、悲しそうな表情を見せる。きっと考えないようにしていたことを突きつけられて、咄嗟に嘘は言えないようだった。
「ルカは俺でいいのか。いつか竜になるなんて、正直意味分からないだろ」
彼とこの島の事情を知らなければ俄かには信じられない話をヴァレンティーノがする。
「僕の誰も愛せないだって、同じくらい意味分からないですよ。意味分からない同士、協力して生活しましょう」
ルカは彼がいつ何になろうとも構わなかった。ほんの一時でも自分と彼が一人でなかったらもうそれでいいと思った。他の人と同じ幸福を目指せないなら、自分たちで新しい幸福を作りたかった。
迷いのないルカの誘いに「それならいい……のか?」とヴァレンティーノはかなり心が揺れている。畳みかけるならここしかない。ルカは一世一代の好機に自分の人生を託した。
「僕は器用な方なので、人を愛せなくても大事にはできると思うんです。誰かの傍にいて、協力し合って生活したいんです。だから、貴方の人として生きる残り時間を僕にください」
必死に思いつく限りの言葉でルカは愛していないヴァレンティーノに気持ちを伝えた。戸惑いつつもヴァレンティーノは、真っすぐに自分を見るルカから視線を逸らすことはしなかった。返事に迷ってしばらくルカを見つめていたヴァレンティーノは苦笑する。
「……もうなんか、プロポーズだな」
「そうです。人生で最初で最後のプロポーズをしています」
「あんまり急な話だから、すぐに結論を出せない。少し考えさせてほしい」
唐突な申し出に迷いに迷ったヴァレンティーノは、はっきりとルカを拒否しなかった。熟考の末、断られる可能性は十分にあったが、こんな急な誘いをにべもなく拒否されなかっただけで今は十分だ。
「できたら期限が欲しいんですが」
返事の期限だけは求めたルカにヴァレンティーノに頷く。
「ああ、そうだよな。でもすごく大事なことだから、ルカの仕事ぶりを見ながら数か月考えさせてくれないか。お互いのこと、まだロクに知らないだろ」
「そ、それもそうですね。少し急ぎすぎました。じっくり考えてください」
ルカがヴァレンティーノの期限に頷いて、すっかり二人は黙り込んでしまった。こんな重い話の後でもできる気軽な話題を探しているルカの横でヴァレンティーノが穏やかに笑う。
「急な話で驚いたけど、でもそう言ってくれたのは嬉しかったよ。ありがとう」
こんな自分が安心して生活したいだけの下心丸出しの提案に彼は怒るどころか、礼を言ってくれた。