青年郎党1
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キズキ。これは今の本名であります。
「今の本名」というのは、つまりかつて別の名前を持っていたということです。自分は昔の名前をもう覚えてはいません。どうにも過去の事というのは曖昧で、自分には昔住んでいた場所も、養ってくれていた人もいたはずですが覚えておりません。
薄ぼんやりとは記憶に残っています。眠る時に見る夢というのは、現実の情報の寄せ集めでありながら、全く人生とは非接触的で無意味です。
同じく、かつての記憶は夢のように思い出そうと霧散して、自分の為にはならないものなのです。
自分には今しかありません。導かれた自分というのはその時から始まった自分でしかあり得ません。それが無意味であるというのは、全ての自分を無くすことになるでしょう。
……………………
「はい、どうぞ。昨晩について聞かせてもらえるかな?」
新聞部だと言う彼女はただの質問をインタビューのように聞く。自分は頼まれると弱い性分で断る事が出来ない。
目の前の彼女のように冷静で落ち着いた振る舞いが出来たならどれほど良いことかと思わなくもない。
そんな事を考えながら、冷静を装う意識で言葉を始める。
「昨日の夜の出来事です」
ガラスが割れる音。それは何かが溜めた力を一点に爆発したような音。
イメージするような、パリッとか、カリッとかそんな甲高い音はガラスにヒビが入った音に過ぎない。割れるとはもっと力強く、非日常の音がするものだ。
夜21時の数分前、自分はバタバタと最後の仕事を終えていく。食後の後片付け、明日の為の仕込みなどが今の時間の仕事となっている。
いつもは21時前には、迷宮へ行く為の鉄格子を閉めるという作業がある。だが、お客様が来た日の夜からそれは菊花さんの仕事になっている。
そう菊花さんに言われたからだ。
庭園に一々行くのは時間効率があまり良くないので、この提案は素直に受け入れた。任されている仕事が減るのは寂しい事であるが、その分だけこの建物内を隅々まで掃除でもすれば良い。
仕事は自分の心の平穏に繋がる。誰が為にという意味があれば尚更。
船の運転もかつては、堂山さんの仕事だったが少し前にそれも引き継いだ。菊花さんの医療技術も学べたらよかった。でも、何度か教わった末に匙を投げられた。
自分にはとことん才能が無かったらしい。
自分は窓を拭き始める。昨日は廊下の溜まった埃を払った、一昨日も同じくである。
窓から外を眺める。小断の部屋をぼんやりと。昨日は珍しく窓が開いていた。いや、初めてくらいかな。今日はまた閉まっている。
彼女の事を思い出す。初めての彼女の文字を。
彼女は死ぬ。彼女は強い意志を持ち、己の生を軽んじる事なく、死んでいくだろう。…………その選択を間違えているとは思わない。自分はただ彼女の生に少しでも働きかけれる今が幸せである。
そんな事を考えながら霞むガラスを綺麗にしていく。
窓の5枚目に差し掛かるところだった。いざ、ここから集中に入る、という所だったから、よく覚えている。
ガラスの破裂音。先程まで、ガラスを綺麗にしていた自分だったから、その音が自分に関する所から起きたものだと思い、触った全ての窓ガラスを確認したが、何も無い。
ここで、外を見回す。一つの窓からカーテンが靡いているのが見える。窓ガラスが割れて、光を散乱させる部屋。あの部屋は客室用だった、自分はそこまで思い至ったところで、その部屋までの道のりを即座に走り出した。
頭の中では、客室数からその部屋の持ち主が誰だっかを思い出す。持ち主は四罪ヶ楽真空だと分かる。気が重くても、走るペースを落とす理由にはならない。仕事だ。
辿り着く。
コンコン、コンコン。ノックする。
窓ガラスが割れたにしては静かすぎる。故意にしても事故にしても反応が薄弱。その雰囲気に自分は回数を忘れるくらいノックをするよう突き動かされる。
ドンドンドンドンドンドンドンドン。
ノックでは埒があかない気がして、自然と扉を拳で叩く。自分の周りの空気だけが熱くなっていく。走った為の喉の上げ下げが、打つ手が熱を生む。
汗が落ちる。
スカッと動く景色。バンッという音と共に扉が蹴り開かれる。体ごと吹き飛ばされ、後方に手をつく。内側から分厚い黒いコートを着込んだ牛の顔の生き物が目の前に立っている
自分と目が合う。黒目が巨大で、目に感情が見えない。見上げるほどに体も巨躯。
一瞬、目を離すと、それは動いた。
短い時間が、のっぺりと間延びする。
それから何事も起こらない空白の数秒――。
一度だけ、瞬きをする。
ほんの一拍の間に、それは消えていた。黒い影の残像だけが、空気のなかを泳いでいる。
左に去った。追いかける、いやダメだ。自分は部屋の中を確認するのが先だ。人命優先、菊花はそう言うだろう。
痛む手首を無理やり動かして、体を起き上がらせ、部屋の中へと足を動かす。部屋の中に倒れている人影が見えた。
「――真空さん! 大丈夫ですか!?」
バタバタと近づく。足がもつれて倒れたりしないように。
夜。静かな夜。血溜まりの中に横たわる彼女の体が、ゆっくりと自分の生気を吸い取っていくような錯覚に襲われる。そこから先は、ただ無意識のままに手が動いていた。




