29:茶店ラヴァーズ
ドアベルが鳴った。喉の奥に落ちる、聞き慣れた音だ。
旅の空気をまだ引きずる身体が、その音だけでいつもの速度に戻っていく。
「いらっしゃ~……おや、ぜっちゃん!お帰りぃ~」
叔母さんがカウンターの向こうで手を振る。白い皿の上にはシフォンの欠片、湯気の細い線が立っている。奥では湯がごぼごぼ言って、店内の匂いはコーヒーとバターと、少しの洗剤。
「ただいまさん。これ差し入れ兼お土産」
紙袋を片手で掲げる。八つ橋。神崎が試食で半分食べようとしたやつの、ちゃんと買ったほうだ。
「まぁ、ありがと。後でみんなでつまもうねぇ」
カウンターを離れる前に、入口のベルがもう一度やさしく鳴った。
「おかえりなさい、先輩」
そこにいた。制服ではなく私服、けれど見慣れた身のこなし。
沖田は、ほんの少しだけ息を弾ませていて、けれど声はいつもの高さだった。
「あぁ」
それだけ言う。言葉は足すほど薄くなると知っているから、今はこれでいい。
彼女は叔母さんに会釈してから、当然のようにいつものテーブルへ向かった。俺もついていく。
「座っててください。注文、私が言ってきますね」
返事をする前に、沖田は軽やかにカウンターへ小走りする。
テーブルにリュックを置く音が、自分のものなのに他人の生活音みたいに聞こえた。旅の耳は、まだ現地に半分残っている。
戻ってきた彼女の手にはアイスティーとホットコーヒー。
コースターに置かれた瞬間、グラスが小さく鳴った。
「どうでした?千本鳥居、全部数えられました?」
「数えようとしたやつがいてな。三十で飽きてやがったよ」
「神崎さんですね?」
「他に誰がいる。鹿にもモテてたぞ。四方八方から」
「あぁ~……似合いますねぇ」
似合うのか。似合うらしい。
笑い合う。笑いながら、アイスティーの氷がカランと鳴って、店のベルと同じ高さの音を一瞬つかまえた。
「写真、いっぱい撮りました?」
「白がな。俺は数枚だけだ」
「見たいです。……今じゃなくていいですけど」
「べつに今でいいだろう、出し惜しみするもんじゃあない」
スマホを取り出して、フォルダを開く。鳥居の途中で撮った一枚。
画面をテーブルに向けると、彼女はすこしだけ身を乗り出す。
指先がテーブルの縁に触れて、爪が光った。
「わぁ。……ほんとに、綺麗」
『綺麗』。彼女の口から出ると、その言葉は薄くならない。
そうか、俺に必要なのは、誰かの主語かもしれない。自分の主語では重すぎて沈むから。
「他には?」
「大仏。陰が涼しかった」
「ふふ、表現が先輩っぽ~い」
「ほめ言葉だと思っておく」
会話の合間、ポケットの中で鈴が小さく転がった。音は出ていない。
出さないように、親指で押さえる。
鳴らすにはまだ、体か心のどこかが追いついていない。
「はい、シフォン半分こ~」
叔母さんが皿を運んできて、テーブルにそっと置いた。
「ぜっちゃん、疲れてない?無理しちゃ、駄目よ。ね、沖ちゃん」
叔母さんらしい口調で釘を刺して、片目だけつむってカウンターへ戻っていく。
沖田が「はい、そうですね」と返事をした。仲いいな君ら。
「お土産、店に置いてく。叔父さんにも」
「はい。あ、私からは……」
彼女は鞄を探って、小さな包みを出した。
紫の、包み紙の飴。見覚えのある色だった。
「一本道の雑貨屋で。買わないって決めたものの代わりに、つい。……ひとつ、どうぞ」
包みを受け取る。包み紙が小さく鳴る。
舌にのせたら、すぐ溶けるだろう味がした。甘さの種類は分からない。けど、軽いのは分かる。
「ありがとな」
「どういたしまして」
彼女はナプキンでグラスの水滴を拭いながら、視線を一度だけ外へ向けた。
夕方の光が、店のガラスで柔らかく反射する。
その反射の中で、彼女の横顔がいつもより少し大人びて見えた。俺の目が旅のままだからかもしれない。
「明日から、フツーに学校なんだよなあ」
「はい、迎えに参ります」
「来いとは言っとらんが」
「『迎えに参る』のが、私の朝の仕事なので」
「なんともな仕事だな。給料は」
「先輩の『ありがとう』で歩合制です」
「薄給にもほどがあるだろう、墨を塗ったように真っ黒だ」
「ふふ、でも額面以上の価値がありますから」
冗談の応酬は、体温の調整にちょうどいい。
俺たちはシフォンを半分ずつに分け、紅茶とコーヒーで流し込む。
フォークが皿を小さく擦る音、氷の鳴る音、外の車の遠い音。
店の音は、『いつもここにいる』を連呼してくれる。
「……楽しかったです?」
彼女が、少し遅れて聞いた。言葉を選んでいないのが分かる声。
俺はカップの取っ手を親指でなぞって、一拍置く。
「歩いた分だけ、ましになった」
「まし?」
「頭の中の余白が、増えた」
「それは、とても良いお土産です」
彼女は満足そうに頷いて、それ以上は掘らなかった。
掘らない、という選択肢をちゃんと選べるのが、彼女の強さだと思う。
帰り際、入口のベルがまた鳴った。
立ち上がった俺のポケットの中で、鈴がほんの一瞬だけ答えるように震えた――気がした。
鳴ってはいない。けれど、確かにそこにある。
「じゃあ、また明日」
「はい。……おかえりなさい、先輩」
「あぁ。ただいま。んでもって、ありがとよ」
それだけで店を出る。外気は旅先より少し湿って、街の匂いが濃い。
歩き出して三歩目で、ドアベルの余韻がふっと消えた。
代わりに、ポケットの内側で小さな音が自分だけに届く。
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