26:旅行ラヴァー(2)
班行動の締めは自由時間だった。二年の男子が三人で自由、というのは自由の形をしているようで案外不自由だ。何か楽しいことをしようとすると、誰かが「それはさっきした」と言い、何もしないでいると先生が「せっかくやからどっか行かんと」って言う。女子の班はそっちで面倒そうだけれど、こちらも中々にままならんものだ。
「ねぇ善、この店、抹茶ソフトが評判らしいよ」
「らしいよって、お前が言うと宣伝に聞こえる」
「そうじゃなくて提案だよ。ほら、行こう」
白が珍しく押す。神崎は「賛成!」とすでに列に並んでいた。俺は渋々ついていく。ソフトクリームは確かにうまかった。冷えて、渋くて、少し甘い。舌に残るのは草の匂いに似ていて、夏の終わりの縁側の味がした。いつもの茶店を思い出す。叔母さんの笑い声と、叔父さんの穏やかな声。そこに、最近はもうひとつ、明るい声が混ざる。
『――いってらっしゃい、先輩。』
短い言葉が、やけに長く尾を引いた。
「善、顔、緩んでるぞ」
「緩んでねぇ」
「嘘。今、確実に『うまい』って顔した」
白は写真を撮る。俺の抗議を聞かなかったことにするのがうまい。
土産物屋の前で神崎が立ち止まった。視線の先には、名前を入れられる木札、鈴、守り袋や、ハートが割れて片方ずつ持てるタイプのキーホルダー。
あの時、遊園地で購入した片割れのキーホルダーと見比べる。
どこにでも、あるもんなんだな。
「なぁ善。これ、沖田ちゃん用に買っとけよ」
「買わない」
「なんでだよ! 『沖田、これは俺の気持ちだ』って渡したら絶対喜ぶって!」
神崎がキザな口調で俺の真似をして揶揄う。似てないぞお前。
「……俺は、そういうことをする柄じゃない」
「柄の問題じゃなくて、気持ちの問題だよ。全く気にならないのなら、何故それと見比べているのかぁ~な?」
白が静かに差し挟む。
「どっちでもいいけど、買わないなら買わないで、どうしてかっていう理由。行動の原理は自分で分かってた方がいい」
「どうしてって――別に、必要ないからだ」
口が、勝手に答えた。二人はそれ以上何も言わない。俺は代わりに、無難な八つ橋と、可愛らしいサイズの鈴。家用に小さなセットを買ってリュックにねじ込んだ。歩きながら、ポケットの鈴がかすかに鳴る。手のひらで押さえる。音は止まらない。止める気もそこまでないが。
*
旅館に着くと、空はすでに金色から群青に変わっていた。風呂場の湯気、脱衣所の湿気、かけ湯の熱。湯に沈むと、体の境界が曖昧になる。肩まで浸かる神崎が「極楽……」と声を伸ばす。白は髪をまとめて、静かに湯船の縁に寄りかかる。
「善、明日は伏見と奈良らしいよ。歩くから覚悟しとけよ」
「今日より歩くのか」
「歩くねぇ。そういうの、苦手じゃないでしょ」
「苦手じゃない。得意でもない」
湯の表面に灯りが揺れる。ぼんやりと見ていると、突然、金属を擦るような高いノイズが脳裏に走った。視界の端が白く弾ける。湯の匂いが石鹸の匂いに変わり、次の瞬間、女の人の鋭い声が、何かが落ちて割れる音に重なる。
――やめろ。
すぐに湯から上がった。洗い場で冷たい水を手首にかける。戻る。息を整える。二人は気づかなかったふりをしてくれた。白の視線が、何も言わずに「無理はしないで」と言ってくる。神崎は「のぼせたか?」と笑って軽く背中を叩いた。どちらも正しい。
*
部屋に戻ると、男子部屋の夜は案の定の地獄だった。枕が飛び、先生が突入して、説教して、五分後にはまた飛び始める。神崎はその中心だ。白は形だけの止め役を買って出てるが、止めきれない。俺は早々に布団を抜けて、静かな廊下を歩いた。足音が畳に吸い込まれて、代わりに遠くの笑い声だけが細く届く。
縁側の引き戸を開ける。夜気がすべり込む。虫の声が近い。庭の砂利が薄明かりに光って、松の影が長く伸びている。ポケットからスマホを取り出す。画面の黒が、顔をうっすら照らす。
『――いってらっしゃい、先輩。』
指が、返信欄に触れる。『ありがとう』は簡単すぎる。『ただいま』はまだ早い。『お土産、いるか』は嘘くさい。何を書いても、どこかずれる。少し考えてから、画面を閉じた。
代わりに、もう片方のポケットから鈴を取り出す。指で転がすと、かすかに音が鳴る。こんな小さな音が、思ったより遠くまで届く気がした。夜は、音の行き先を増幅させる。
「……なんだって、こんな簡単な問題も解けないのかねえ。この大馬鹿野郎は」
小さく呟いて、またポケットに戻す。彼女の顔が浮かぶ。笑っている顔。困った時に、少し眉が寄る顔。怒った時に、本気で怒れない顔。全部がぜんぶ、最近の顔だ。
それより前は、ぼやけている。わざとピントを外している。外したままでいたいと思っている。なのに、時々、勝手に合ってしまう。合わせた瞬間、ノイズが走って、また白くなる。自分の意思より速い速度で、蓋が閉まる。
――思い出すな。ここで思い出すな。
また声が聞こえた。
空を見上げる。星はほとんど見えない。街の光が薄い膜をかけている。見えないのに、それでもあるはずだ、と人は言えるのだろうか。見えないのに、あると信じるのは、信じたいからだ。俺は意外と、信じたい人間なのかもしれない。
縁側の板が、体温で少し温かくなった。遠くで先生の声がして、神崎の「すみませーん!」が続いた。白の笑い声も混ざる。世界は相変わらず、勝手に明るい。俺はそこに少し遅れてついていく。
スマホをもう一度開いて、何も書かず、何も送らず、画面を閉じた。
あの短い一行が、今日一日のどの景色より、鮮明だった。
部屋に戻ると、布団が一枚、俺の分だけ静かに敷かれていた。白の仕業だろう。神崎は既に爆睡して、妙に可愛い寝息を立てている。電気を消す前、ポケットの鈴がまた小さく鳴った。誰にも聞こえない音で、俺にだけ聞こえる音で。
――いつか、この音を渡す日が来るのか。
その問いを、すぐに笑って否定する。明日も歩く。起きて、歩いて、見て、買って、笑って、夜に少しだけ静かになって、眠る。それでいい。今は、それでいい。
目を閉じる。暗闇の向こうで、ほんの一瞬だけ、白いノイズが細く走った。すぐ消えた。消えたふりをして、どこかで鳴っている。
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