22:秋空ラヴァーズ
蝉の声が遠ざかってもはや夏は遠い昔のように感じるころ、蝉の声の代わりに風の音がよく聞こえるようになった。
九月の終わりを過ぎたあたりから、バイト先のカフェでも、温かい飲み物を頼む客がちらほらと出てきた。
季節の変わり目ってやつは、どうにも妙に人恋しい。
「日山くん、そっちの棚の紅茶、補充お願いね」
「あいあいさー」
いつも通りの仕事。いつも通りの時間。
けれど、何かがほんの少しだけ違う気がしていた。
頭のどこかが、まだ引きずっている。
灯籠の灯りの揺らめき、誰かの声、あの時の沈黙――。
全部、胸の奥でくすぶったままだ。
「……先輩?」
振り返ると、ドアの前に沖田が立っていた。
制服の上からカーディガンを羽織り、頬にはうっすらと汗が残っている。
見慣れたはずの姿なのに、妙に遠く見えた。
「……お前、またわざわざこんなとこまで」
「えへへ。たまには顔出しです。どうせバイトしてるんだろうなって思って」
「まあ、否定はできん。実際働いてるし」
「ですよね~。テスト終わっても全然休まないんですね、先輩」
沖田は笑って言いながら、空いていたカウンター席に腰を下ろした。
目線がふと合う。
その瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
あの夜に聞こえた水の音が、ふっと蘇る。
頭の奥で、『ノイズ』が走った。
ザラザラのスチールウールで何かを擦るような不快な音が脳裏に響く。
「……どうかしました?」
「いや。なんでもない。少し、風が冷たくなっただけだ。送風を弱めてくる」
沖田は何も追及せず、ただコーヒーを両手で包んで笑った。
いつものように、何も聞かない。
それがありがたい。
ありがたい、はずなのに。
どこかで、心がざらついた。
「お、善。お前、バイト終わったらちょっといいか?」
カウンター席の方から神崎の声が飛んでくる。この前バイトに来た時から常連になりやがった。
「なんだよ」
「いやさ、来週みんなで紅葉見に行こうぜって話になってんだよ。白も行くし、沖田ちゃんもな」
「紅葉って……気が早くないか、まだ紅葉のニュース見てないぞ今年」
「バカ、お前そういう季節先取りイベントってのが大事なんだよ」
神崎は悪戯っぽく笑いながら、「どうせお前、家とバイトと学校の往復しかしてねぇんだろ」と軽く肩を叩いた。
反論のしようもない。
「行きましょうよ、先輩」
沖田が小さく言った。
その声には、いつもみたいな弾みはなかった。
けれど不思議と、耳の奥に残った。
「……ああ。気が向いたらな」
「それ、行く気ない人のやつです」
「いぃや、検討はする」
「はいはい、どうせ来ますよ。来なかったら私が迎えに行きます」
笑いながら言う沖田の顔を見て、俺はまた違和感を覚えた。
夏の終わりから続く、あのわずかなノイズ。
思い出せそうで、思い出せない。何かを忘れているという感覚はしっかりとあるのに、それが何なのかはすっぽりと抜けている。
風が通り抜けるたび、心の奥で何かがかすかに鳴っている。
*
週末。
空はどこまでも高く、風の匂いはもう夏の名残をほとんど残していなかった。
神崎の唐突な提案によりいつものメンツで近所の公園にやってきた。
「ほらみろ神崎。紅葉って、まだ色づききってねぇじゃねえか」
「いやいや、ほら、これから色づく前のグラデーションがいいんだよ」
「それを『紅葉狩り』とは呼ばない気がするけど」
これでは単純なピクニックだ。
「細けぇこと言うな善。お前、ロマンが足りねぇんだよ」
わけのわからないことをのたまう神崎を後目に、俺達は適当にぶらつく。
完全に紅葉シーズンを外してはいるが、きんもくせいや『秋』を彩る植物は着実に芽吹き始めていた。その雰囲気を感じながら、目的もなく歩くというのも中々に乙なもので、悪くない。
「ね、先輩」
ふいに沖田が隣に並んできた。
「ん?」
「空、すごく高くないですか。まるで吸い込まれそうです」
「言われてみればそうだな。……風も冷たい」
「夏の空より、ちょっとだけ寂しそう」
「寂しい、か」
「でも、こういう空のほうが好きです。落ち着いてて、でもしっかりと音はある」
沖田はそう言って、少しだけ目を細めた。
その横顔を見て、言葉が浮かびそうで浮かばない。
思えば、こうして二人きりで並んで歩くのも久しぶりだった。
ただの雑談のはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
風が吹いた。
枯れ葉がひとひら、足もとを転がっていく。
その音に紛れて、俺の中でまたノイズが鳴った。
思い出したくない記憶の、欠片のようなざらつき。
「……先輩?」
「いや、なんでもねぇ。風が強いと感じただけで、なんもねえさ」
「ほんと、変な人ですよね。いつも平気そうな顔して」
「なんもないからそう言ってるだけだ」
「……先輩、私は嘘が嫌いです。」
沖田の声が、深く俺の胸に刺さる。
「そう聞こえたか。なら俺の落ち度だな」
「そうじゃあ……ないんですけどねえ……」
どうするか考えあぐねて、俺は近くにある沖田の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
自分でも、何でそんなことをしでかしたのか分からない。
言葉にすれば何かが壊れそうで、舌の奥で止めたと思ったら行動に移していた。
沖田は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
ただ、笑って「ま、先輩らしいや」と小さく呟いた。
その笑顔が、少しだけ痛かった。
おもしろい、つまらない等、どんな感想・評価でもいただければ私はとてもうれしく思います。
もしよろしければぜひともお願いいたします。




