21:過去ラヴァーズ
宵の街が、やわらかな橙に染まっていた。
川沿いには人が溢れ、風に乗って線香花火の香りが漂う。提灯の灯りを見上げながら、私は隣を歩く先輩に声をかけた。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ息を吐く。
「すごい人混みですね、神崎さんの方」
「そりゃそうだ。地元のイベントじゃこれが一番でかい。……人混み、苦手だろ?」
「えっ、そんなこと……ありますけど」
図星だった。
人が多いと、息が詰まる。肩がぶつかるたび、無意識に身をすくめてしまう。
でも、今は。
「先輩が一緒なら、平気です」
そう言うと、先輩が少しだけ目を細めた。
呆れたように笑って、それでも何も言わず歩幅を合わせてくれる。
風が吹いて、服の裾が揺れた。
川面に浮かぶ灯籠の光が、ふたりの影を細く長く伸ばしていく。
「……綺麗、ですね」
「そうだな、毎年ボランティアのやつらが流してるんだが、正直ここまで綺麗なのは知らなかった」
先輩の声は穏やかだった。
でも私は、その穏やかさがどこか切なく思えて、口を開く。
「先輩……あの、ちょっと、聞いてもいいですか」
「ん?」
――あぁ、駄目だ。
「先輩って、家族ってどう思いますか?」
彼の肩が、ほんの少しだけ動いた。
返事を待たずに、私は笑ってごまかした。
「変な質問ですよね。えっと、私……あんまり、うまくいってなくて」
手にしていた金魚すくいの袋が、かすかに震える。
ああ、いけない。またこうやって、情けない話をしてしまう。
「昔から、家の中が静かなんです。怒鳴り声とか、喧嘩とか、そういうのもないんですけど……誰も、誰のことも見てないっていうか」
灯籠の光が、水面で揺れた。
まるで私の声が、その波に溶けて消えていくみたいだった。
「母も父も、それぞれ自分のことで手一杯でして。私が何を考えてるかとか、どんな顔してるかなんて、気にもしてない感じで。……だからかな。あの頃、先輩が話を聞いてくれたとき、ちょっとだけ救われたんです」
その言葉を出した瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
先輩は黙っていた。
無言のまま、川を見つめていた。
ああ、言わなきゃよかった。
思い出さないようにしているはずなのに。勝手に掘り返して。
決めていたのに。彼が私を忘れていることを知って、このことは蓋をしてもう掘り返さないでおこうって決めたのに。
なのに私の体は勝手に口を開いた。
「……ごめんなさい、変な話して。せっかくの祭りなのに」
「いや」
短く否定の声が落ちた。
いつもより少しだけ、低い声で。
「――――俺も、人に見てもらえるってのは、そう簡単なもんじゃねぇと思ってる」
彼は、ゆっくりと視線をこちらに戻す。
その目が真っすぐで、息が詰まりそうになった。
「けどな。お前が誰に見てもらえなくても、俺は、見てるから」
灯籠の光が、彼の横顔を照らしていた。
まるでそれが、夜に浮かぶ唯一の灯みたいに思えた。
すごく優しい、朧気で淡い光。私はソレに吸い寄せられるかのように彼にもたれかかった。
「……先輩、ずるいです」
「は?」
「そんなこと言われたら、泣いちゃうじゃないですか」
笑って誤魔化したけれど、視界が滲んでいた。
先輩は気づいていないふりをして、代わりに金魚の入った袋を指でつついた。
「ほら。こいつ、帰るまでに死なせんなよ」
「もー、そこ心配ですか?」
「そりゃそうだ。責任感ないと金魚にも嫌われる」
軽口を叩き合ううちに、胸の奥が少しだけ軽くなった。
灯籠の流れる音が静かに続いている。
――あの日、誰も見てくれなかった私を、この人だけが見つけてくれた。
手を、握ってくれた。
その事実を、今も信じていいのだと。
この夏の終わりに、ようやく思えた気がした。
*
祭りの喧噪が、ゆるやかに遠のいていく。
提灯の列が途切れ、川の流れがふたたび夜の音を取り戻す。
俺たちは、屋台の片隅のベンチに腰を下ろしていた。
人の波が去っていくのを、ただ黙って見ていた。
「……結構、泣いてたな」
「な、泣いてないです」
「いや、泣いてた」
俺がそう言うと、沖田は頬をふくらませて視線を逸らす。
その顔を見たら、もう何も言えなくなった。
……あんなふうに泣く奴、久しぶりに見た。
「もー、人前で泣きじゃくるのって結構恥ずかしいんですよぅ」
「いいんじゃないか。泣きたいときに泣ける奴は、強いよ」
言いながら、自分でも妙なことを言ったと思った。
強い、なんて。 泣くことが、強さになるなんて。
胸の奥で、何かがきしんだ。
痛みではない。けれど、鈍い音が確かにした。
――思い出すな。
頭のどこかで、そう囁く声がした。
ざらつくノイズが、視界の端に走る。
紙灯籠の列が、一瞬、ぼやけた。
川面の光が、乱反射して、歪んだ顔を映す。
誰の顔だ。一体なんだ。
知らないはずの――。
……やめろ。考えるのをすぐやめた。
軽く頭を振る。
瞬間、景色が戻った。
沖田の横顔がそこにあった。
灯籠の橙色が頬を照らして、穏やかに笑っている。
「……先輩?」
「ああ。なんでもない」
言葉が勝手に口をついて出た。
『なんでもない』――便利な言葉だ。
何も言いたくない時も、何も言えない時もそれひとつで全部、覆い隠せる。
川の流れが、遠くで小さく音を立てていた。
灯籠の光が、夜風に揺れる。
「――先輩」
「本当だ。なんでも、無い。何もないんだ。大丈夫だ」
沖田がきょとんとした顔をして、それから、柔らかく笑った。
「……そうですか。ならいいです、私は先輩の彼女(仮)ですから、信じましょうとも」
その笑顔に、胸のざらつきが少しだけ和らいだ。
けれど、ノイズの残響はまだ奥底にあった。
波の下に沈んで消えない、鈍い金属音みたいに。
灯籠が最後のひとつになった。
小さく揺れて、闇の中へ吸い込まれていく。
――それを、俺は最後まで見届けなかった。
見たらいけないような気がした。
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