前編__歪な世界にふたりきり
※この作品にはいじめの描写・差別的な発言がありますがあくまでフィクションであり作者にはそれらを肯定する意図は一切ございません。閲覧は自己責任お願いいたします。
作者は初投稿且つ人に見せることを前提で書くのはこれが初めてで、なので温かい目で見ていただけると幸いです。
序章
月の輝く静かな夜、プラージュ公爵邸の最奥の部屋では震えているような呼吸音と微かな鼾の音だけが響いていた。
絹の天蓋のついた豪奢な寝台の上に、鼾の主である少女がひとり寝転がっている。彼女は同年代の子供よりふた回りほど横に大きく、悪趣味な程にフリルとレースがあしらわれたネグリジェを着ている。今年で齢十二になる彼女は公爵の愛娘で、名前をベアトリス・プラージュと言った。
そしてその少女の真横には痩せぎすの少年がひとり。目も眩むほどに美しい少年であったが、彼は服をなにも着ていない。一度も日に当たったことのないような生白い体が天蓋越しの月明かりに照らされて闇に薄ぼんやりと浮き上がっているかと思えば、左手のあたりがギラリと光る。
少年の手には、果物用の小さなナイフが握られていた。
貴族の家の食器らしく薔薇の花を模した繊細な彫刻が施されたそれを手に、彼はベアトリスを刺そうかどうか迷っていたのだ。
______否、どこを刺すかで迷っていた。
ベアトリスを殺すことができるのは一度きり、ならばできるだけ痛く惨く殺してやりたい、出来るだけ長く苦しめたい。
銀色の双眸を血走らせて逡巡するこの少年は現在数え十歳、名をユークという。
__彼のフルネームはユーク・プラージュ、ベアトリスの異母弟であり、この話の主人公であった。
…
……
………
「ユーク!ユークはどこなの!?」
「坊ちゃま、坊ちゃま、お嬢様がお帰りです!」
時刻は冒頭の半日ほど前に遡る。父の書斎にいたユークはベアトリスのけたたましい声と召使いの悲鳴に読んでいた本を取り落としかけた。
(もう着いたのか、と言うか馬車の音なんてしなかったと思うけど……いや、なんにせよ早く行かないと)
何せベアトリスは気が短い。その上この歳になっても癇癪が治らず気に入らないことがあればものを壊して人に当たって大泣きしながら猛烈に暴れる。そうなった姉に何度も殴られた経験があるユークはベアトリスの機嫌をこれ以上損ねないように大急ぎでエントランスへ向かった。
(姉上の声からすると今日は嫌なことがあったんだろう、ご機嫌を損ねたらいつも以上になにをされるかわからない、)
「はぁ、はぁっ……急、げっ、、」
主要な港のある国の南方を治めるプラージュ公爵家は王家との繋がりも深い名門の中の名門、当然邸の中も広いため子供の足ではかなりかかる。いつもは馬車の音が開いた窓から微かに聞こえてきた時点でエントランスに向かい始めればちょうど間に合うのだが、今日は本に無中になりすぎていたのか、ユークは馬車の音を聞き逃したのだ。
ベアトリスが帰ってきて騒ぎ始めた時点で時すでに遅し、まして体が弱く体力のないユークなら尚更で、息を切らした彼がつく頃には花瓶の破片が足元に散乱していた。
「はぁっ、はぁ、、あね…うえ、っ、もうしわけ、ありま」
「お黙り!!」
「うぐっ!?、、、、ぃっ……」
ベアトリスの怒鳴り声と共に頬を張られたユークは倒れ、手をついた瞬間に花瓶の破片が肌に刺さる痛みを感じて顔を顰めた。
その表情に上機嫌になったベアトリスは「わたくしを待たせるからこうなるのよ」と鼻を鳴らすのである。
「いいこと?わたくしはお父様の正式な第一夫人の娘、お父様とお母様がここにいらっしゃらないときは私が一番身分が高いのよ。……それに対して、お前は?何の息子だったかしら?言ってごらんなさい」
「痛゛っ!?、い、いたい、ゔ、、痛、」
ユークの手を取り刺さっている破片をじわじわと押し込みながら笑うベアトリスに、ユークは目に涙を浮かべて悲鳴をあげる。ベアトリスの後ろにいるメイドたちは皆目を逸らして見ないふりをしている。
「心優しいお父様が教育を与えてくださっているのに、自分の生まれも言えないのかしら?早く言いなさいよ!」
「ゔ、ぼ、僕はっ……痛っ、い゛、平民の、、娼婦の、っ゛息子です、、」
これはユークの謙りではなく事実である。ユークの母親は父親である公爵の元愛人の娼婦で、身分をかろうじて釣り合わせて第二夫人として籍を入れるために男爵家に形だけの養子入りをしたものの元平民だ。この賤しい身の上のユークの母が公爵の子、しかも男児を賜るなど、侯爵家という由緒正しき家柄の令嬢であったベアトリスの母が面白く思うはずもない。
故にベアトリスの母と彼女に従う使用人たちにより虐め抜かれたユークの母は弱りきってユークが物心つく前に亡くなってしまった。その後ベアトリスの母と使用人たちの矛先は幼いユークに向いて、それを見て育ったベアトリスもユークを虐められて当然な存在だと考えているのである。
ユークの母が亡くなってからも夫婦仲は冷えたまま戻らず、公爵と第一夫人は年に一度、社交シーズン明けの一週間しか帰ってこない。故にこの屋敷の主はベアトリスも同然、ユークはほとんど毎日彼女の暴言と暴力に晒されながら生活しているのである。
「そうよ、お前は娼婦の息子なの!!ねぇ、そんな賤しい生まれのお前を高貴なわたくしと同じ屋敷に入れてやっているなんてありがたいと思わない?それなのにお前ときたら!わたくしを、この屋敷の主たるわたくしを!!…どうして待たせるような真似をするのかしら?」
「っ、申し訳ございません___っ゛!!??」
最後に破片を勢いよく引き抜いたベアトリスは冷たい声で「…包帯を巻いたらバスルームに来なさい。わたくし疲れたから早く着替えて休みたいの。」と吐き捨ててから大勢のメイドと共に立ち去っていった。これでバスルームへの到着が遅れると先刻の二の舞になることは明らかだったのでユークは着ていたシャツの一部を割いて一生懸命止血しながら救急箱まで走り、包帯を巻いてからまた走らなければならなかった。
「遅いけど……わたくしは寛大だから許してあげる。」
「は………ありがとうございます、」
「髪を梳かしてちょうだい、痛くしたら怒るわよ?」
「はい」
ユークがたどりつく頃には既に待っていたベアトリスだが彼女を怒らせる前に間に合ったようだ。髪を梳けというのは彼女がたびたびユークにしている命令だが、少しでも髪がもつれれば撲たれるので慣れているにしても気は抜けない。ユークは慎重に彼女のブロンドを解き、メイドが差し出して来た専用の石鹸を泡立てる。
第一夫人譲りの黄金の髪はベアトリスの自慢だ。普段は脂ぎっていたり汗ばんでいたりで魅力が目減りしているのだが、こうして泡を纏って手櫛で梳かしている間は文句なしの艶を帯びて輝く。ユークは姉のことが決して好きではなかったが、彼女の金髪が最も美しい瞬間を独占していることには一抹の優越感を覚えていた。
「はー…疲れた。癒されたいわ。何かないの?」
「………庭の薔薇でも摘んで参りましょうか、それか詩の朗読でも__」
「おまえは本当にだめね!わたくし美しい花なんて大嫌いよ!!」
「っう゛申し訳ございません、」
怒声とともに振り返ったベアトリスに思い切り腕をつねられユークは短く呻いた。どうやら彼女の癇に障ってしまったらしい。ベアトリスはユークを恨めしそうに睨みつけた後、ため息をついて浴槽の中で膝を抱えた。
「……はぁ、もういいわよ。おまえには美しいものを見て嫌な気持ちになるなんて一生わからないわ」
「…申し訳ございません」
(……容姿のことで何か言われたのか。…姉上は確かに人よりもふくよかだけど、顔の作り自体は醜くもないだろうに。)
ベアトリスの父であるプラージュ公爵もベアトリスの母である第一夫人も社交界では評判の美男美女であったとユークは何度か聞いたことがあるし、もっと言えばもう少し幼い頃の平均より少しふっくらしているという程度だった時期の姉は振り返ってみれば可憐な少女であったはずだ。その時期の姉は今ほど癇癪もひどくなく、ユークが覚えている一番最初の頃のベアトリスはユークを叩くことも暴言を吐くこともなく、純粋に可愛がってくれていた。ベアトリスの暴言暴力が酷くなり、ぽっちゃりどころではなく太り始めたのは王太子妃教育が本格的に始まってからである。
(……いや、昔を思い出したところで詮無いことだな。変なこと言ったら撲たれるだろうし。)
五歳の頃、着飾った姉に向かって「お似合いです」ではなく「お美しいです」と言った際に激昂された挙句扇子で散々に撲たれ骨を折られたユークは服ではなくベアトリスそのものの容姿を形容するような言葉は絶対に口に出さないと決めていた。そのため今回も彼女を静観するのみであった。
「…そうよ、いくら顔がかわいくてもちっとも気が利かないし、母親は賤しい血筋なんだもの。わたくし、ユークじゃなくてよかったわ、わたくしは期待されてるから叱られるのだもの。わたくし王妃になるために一生懸命お勉強してるのよ、机の上でやるお勉強だけじゃないわ、お洒落もダンスもよ。わたくし皆から期待されているの。」
「そうですね。」
「………どんなに厳しくされても、やるしかないのよ。」
「……そうですか。」
「ねぇ、ユーク。わたくしのこと、可哀想だと思う?羨ましいと思う?…おまえがわたくしになれると言われたらどうしたいの?」
「………姉上のような高貴な方に成り代わるだなんて、想像もつきません。僕には考えかねる問題です。」
彼女のブロンドをことさらに優しく梳きながら答えたユークに、ベアトリスは目尻だけを撓ませた。ユークは存外この笑みなのか泣き出す寸前なのかわからない表情が好きであった。一拍ほど置いて何かを思いついたような顔になったベアトリスは浴槽の中で立ち上がり、それから湯船の縁に腰掛けるような形でユークに向き直った。
「そう。……そうね、おまえには荷が重い質問だったわね。……………ねぇユーク、おまえの主はだあれ?」
「姉上です」
父母がいない日はほとんど毎日問いかけられるこの質問、ユークはいつも通り機械的に即答し跪く。ベアトリスは泡まみれの足でユークの頭を踏み躙り、きゃらきゃらと笑い声をあげるのであった。
「……ふふ、ユーク、わたくし昨日怖い夢を見たの。一緒に眠ってくれる?」
「………かしこまりました」
〜〜
その日の夜、湯浴みと夕食を済ませた二人は邸の最奥であるベアトリスの部屋の寝台の上にいた。
「ユーク」
「はい」
「何をすればいいかわかるでしょ?いつも通りにして」
「……はい」
ユークはベアトリスに促されるままに自身のシャツのボタンに手をかける。
……発端はベアトリスが十歳、ユークが八歳になる年の夏ごろ、社交シーズンが終わった一週間後で両親が邸を発ったその日のことであった。
「ねぇ、ユーク。娼婦って何する人なのかお母様に聞いて見たの……そうしたら、結婚も婚約もしてない殿方の寝台の上に裸で上がったり、キスをしたりするんですって!……ユーク、そういえばおまえの母親の仕事はなんだと言っていたかしら」
「…………僕の母親は娼婦をしていました」
「そうよね、おまえは娼婦の息子だったわよね!…ユーク、わたくしはお風呂でもないのに裸になるなんて恥ずかしくて到底できないけど、お前はちがうわよね?だって娼婦の息子だものね?…今ここで裸になってみせて、わたくしにキスしてみなさい」
「っ、姉上、それは」
「あら、そしたらあなたは第一夫人の息子では当然ないし第二夫人の娼婦の息子でもないということになって追い出されてしまうわよ?それでもいいの?」
初めの頃は恥ずかしいやらなけなしの尊厳を踏み躙られる屈辱やらで抵抗していたユークであったが、馬鹿にされて散々に揶揄われて傷ついて、それを繰り返しているうちにすっかり麻痺してしまった。
もはや無感情に衣類を全て脱ぎ捨てたユークにベアトリスはつまらなそうにため息をつく。
「……流石は娼婦の息子ね、少しは恥ずかしいと思わないの?」
「…やはり血なのかもしれません。」
「それともなに?おまえぐらい美しければ隠したいものなんてないのかしら。」
「服を着てもよろしいのであれば裸身を晒したくはないのですが。」
「ふん、そのままよ。そっちの方が惨めに見えてお似合いだもの。」
「……左様でございますか。」
麻痺はしているが嫌でないと言ったら嘘になる、ユークは服を持って姉に打診したが彼女は首を縦には振らなかった。
「寒いからこっちに来て。」
「…はい」
寝転がったベアトリスの横に寝そべったユークはベアトリスにの腕にそっと背を寄せた。そのままユークが背を丸めて瞼を閉じると、背中側からベアトリスの声がする。
「ユーク、夕方湯浴みをするわたくしに、おまえは薔薇を摘んでこようかと尋ねたわよね」
「はい」
「あんなこと二度と言わないで。わたくし切り花は嫌いだし、美しい花も嫌いなの」
「大変申し訳ございませんでした。」
「大輪の白薔薇よりも美しいおまえにはわからないかもしれないけど…自分より美しいものを見るのは嫌な気持ちになるのよ。だからわたくしは薔薇が嫌いよ。きっと世界に咲くどんな花もお前のことが嫌いだわ。」
「……。」
ユークは返答に困ってただ黙っていた。するとベアトリスは小さく笑った。
「おまえは本当にだめね、どんどんだめになっていく。昔だったら痛ければもっと叫んだし、恥ずかしければみっともなく慌てて、困ればすっかり怯えて縮こまっていたのに。最近痛いときの反応すら薄くなった。それに、わたくしがなにか言えば自分の感情なんてそっちのけですぐにそれを叶えないと落ち着かなくなったんだものね。」
「!!」
ベアトリスの言葉にユークは目を丸くした。辛い時間を耐え抜くことに精一杯だった彼は、自身が全くもって彼女の言う通りになっていることに気がついていなかったのだ。
(…………あ、れ、、そうか、僕は。)
ユークは“子供の象を鎖に繋いで育てると、大人になって鎖が引きちぎれるようになっても繋がれた箇所から動けない”という話をぼんやりと思い出していた。
ユークはこの話の象と同じだ。ベアトリスの要望を叶えなければ罰される環境で育ったせいで、いまや彼女の一挙手一投足に怯えて彼女に支配され、逆らえなくなってしまったのだ。ユークは彼女に逆らうことの出来る力や社会的な地位を得たとしても、きっと彼女に怯え続ける。
(……いつか僕が姉上よりも___
_______いや、姉上のこと、もう殺すことが出来るんじゃないか?)
これはユークにとって全くもって新鮮な気づきであった。昔から殴られ蹴られ罵倒され、そうして絶対的な優位にいたベアトリスを自身の手で殺すことができるかもしれないだなんて!
ユークの中に、昏い歓喜が湧き上がる。
ベアトリスが、あのベアトリスが!!!
今日までの自身のように痛みに顔を歪める様を見るのはどんなに気分が良いだろうか、泣き叫ぶ悲鳴はどれほど魅力的であろうか、己がつけた傷から滴る彼女の血の味はどれほどの甘露であろうか!!!!
「わたくしは皆のために王妃となるのだから、皆もわたくしのために尽くしてくれたっていいじゃない。いつかみんなおまえみたくするの、ユークはその一人目よ。光栄でしょ?」
「………………っあ、、は、……い゛っ!?、」
「なによ、その返事。…ふん、わたくしもう寝るから。起こしたら怒るわよ!」
「…はい」
唐突な気づきに愕然として返答に時間を要したユークに、ベアトリスは不機嫌になって彼の背をどついた。
そのままそっぽを向いて、しばらくしたら鼾をかきはじめたのだ。
(姉上、…………寝ておられるのか、______今なら)
ユークはわけのわからない高揚感と衝動に突き動かされて、ベアトリスの部屋の隅にある果物が積まれたローテーブルに駆け寄った。それは全てを鈍らせる至高の美酒のごとき殺意であった。
夜中にお腹が空いたと暴れる彼女を見かねた料理長が部屋の比較的涼しい角のところに置いてくれたそれは、果物を剥いて食べるための小さなナイフが常備されている。
_____そして冒頭の光景につながる。
衝動のままにナイフを手に取ったはいいものの、どこを刺すか散々迷ったユークは結局、ベアトリスののどぶえに突き立てようと思い切りナイフを振りかぶったが………………そのままぴたりと止まってしまった。
寝台に散ったベアトリスの金髪が月の光に照らされる様が、あまりにも美しくて息を呑んだのだ。
_____それが土に埋まっていく様を見たくないと、はっきりと思ってしまったのだ。
その瞬間に、ユークを突き動かしていた高揚と熱がすっと引き、代わりに冷たくなって………自身の体のはずなのにぴくりとも動かせなくなってしまった。
ユークはナイフを振りかぶった体勢のまま、ベアトリスをじっと見つめていた。
暢気にちいさな鼾をかくベアトリスの寝顔に、ユークは思う。
(____憎い。僕は姉上がどうしようもなく憎い、殺してしまいたいほど憎いんだ)
ならば手に持っているナイフを振り下ろせばいい。それはあらゆる倫理と法律に背くことであったが、少なくともユークにとってその垣根は全くどうでも良いものであった。
____それでも。
ユークは、今、ここで、両手に握り振りかぶっている薔薇の意匠の果物ナイフを振り下ろすことが、どうにも出来ないのである。
「……どうして」
ユークは途方に暮れたように呟いた。
その一言をもってして、彼女を殺すことを諦めた。
今なお己の中に渦巻き続けるベアトリスへの憎悪と殺意に対抗しうるほどのなにかを彼女に抱いてしまっていることを認めたのである。
それは己の人生のほとんどの記憶を占め己を支配していた存在が欠落するという恐怖かもしれないし、昔の彼女やあんなに歪んでしまった彼女の荊棘に包まれたような刺々しい心の柔い部分を知ってしまっていることで人知れず湧いていた情かもしれない。しかし、ユークはそれを理由に彼女の全てを受け入れ赦すことは死んでも御免であった。
(…………姉上のせいだ。僕が姉上のことを憎く思うのも、僕が姉上を殺したいと思うのも…どんなに憎くて殺したくても絶対に姉上を殺すことができないのも、この矛盾が両立するのも、全部。)
ユークは振りかぶったナイフをゆるゆると下ろした。しかしナイフを手から離すことができなかった。
(僕は姉上を絶対に殺せない。こんなに憎いのに、殺したいのに、できない。
…………僕が、僕がこんなにおかしくなったのは姉上のせいだ。)
歪なユークと、ユークを歪めたベアトリス、そして彼女もまた誰かによって歪められている。今この時までベアトリスが存在していまっていたことで、ユークはどうしたってこの歪さから逃げられなくなっていた。
ユークはきっと明日も明後日も殴られるのだろう。
ならばいっそ自分が、そう思い自身に刃を向けたユークだが、ナイフの切先が喉に触れた瞬間に走った痛みが果てしなく気に食わなかった。
(…姉上が僕に殺されず生きているのに、僕は姉上に殴られ蹴られ罵倒され、歪められた挙句死ぬのか?)
_____いやだ。
(姉上が死んで僕がひとりになるのも、僕が死んで姉上だけが生きながらえるのも、どちらも等しく気に入らない。)
ある種の開き直りを得た瞬間、ユークは人知れず笑みを浮かべていた。___この世のものとは到底思えないような、いっそ暴力的なくらいに美しい笑みであった。
結局どうしたって地獄のような人生なのだ。
「______だから、ふたりで征きましょうね。」
ユークは軽やかな足取りでローテーブルにナイフを戻した後、ベアトリスのブロンドを一房手に取り、そっと口付けを落としてから眠りについた。