実は1970年代には既に少子高齢化問題は叫ばれていた
1976年7月、珍しく各省の重鎮の官僚達が顔を合わせていた。もちろん、楽しくお喋りを楽しんでいた訳ではない。
重々しく、一人が口を開く。
「“人口過剰”という事で良いのではないか?」
すると、別の一人が静かに頷く。
「ああ、まだ焦る必要はない。放っておけば、出生率は自然に回復していくかもしれないからな」
実は日本人の出生率が急速に下がって来ていたのだ。しかも高齢者の寿命は延びている。このまま進めば、人口の少ない若い世代が人口の多い高齢者世代を支えるという歪な逆さのピラミッドになってしまう。だから本来ならば、早急に手を打たねばならないはずだったのだが、彼らはそれを先延ばしにしたのである。理由はいたってシンプルだ。少子化対策に予算を奪われたくなかったから。
もちろん、その当時はまだそれほど少子化が深刻ではなかったという事情もあったのだが、彼らは“出生率は自然と回復をする”という楽観的見通しに縋っていたとも言える。が、それは甘すぎる見通しだった。
時は流れて1993年の12月。
官僚達が再び会合を開いていた。誰もが渋い顔をしている。原因は明らかだ。日本人の出生率が回復をしないのである。その所為で、少子高齢化は日本社会の大きな負担になり始めていた。その頃になると、“人口過剰論”など持ち出せないくらいに問題は深刻化していた。
「まったく、日本の母親どもは、何故、子供を産もうとしないのだ? 自分達の役割を分かっているのか?」
「やはり男女平等などというものがいけない。だから、女が子供を産まなくなる」
彼らは勝手な文句ばかり言っていたが、自分達の無策…… いや、“金を惜しんで行動に出ない卑しさ”については一言も口を開かなかった。
もし仮に、少子化対策で予算を割き、それによって作った団体が天下り先か何かになっていたのなら、彼らは嬉々として少子化対策を前進させていただろう。だが、そんな妙案は浮かばなかった。予算を奪われる。利権が減る。ならば、彼らが積極的に少子化対策など行うはずもなかった。
彼らは利権に群がる性質を持った生き物だ。理性によるコントロール能力などありはしない。もちろん、そうして問題を放置し続ければ、やがて少子化は日本社会の国力を奪う。そうなれば、自分達の首を絞める。それは充分に分かっていた。だが彼らは、それでも、損はしたくなかったのだった。
“いずれ、誰かがやらなくてはいけない話だが、それが自分達である必要はない”
彼らはそう思っていた。“次の世代ががんばれば良いのだ”と。原子力発電所の廃炉や核廃棄物の処理についても似たような思考が見られるが、彼らは“自分達は逃げ切れる”と思っていたのだ。負担は次の世代に丸投げしてしまえば良い。
――が、ある程度、数学に強い者ならば容易に理解できる話ではあるが、少子化問題は時が経てば経つほど解決が困難になっていく。親の人口が900万人の時よりも、1000万人の時に出産を促した方が効率良く人口を増やせるのは当たり前の話だ。スケールメリットも活かし易くなる。逆に人口が減れば減るほど、人口は増やし難くなる。
つまり、先延ばし、次の世代への丸投げは、少子化問題にとっては愚かすぎる選択だったのだ。
そして、案の定、問題は悪化し続けた。問題が悪化するから敢えて目を背けているのか、それとも危機意識を持てば、自発的に国民が子供を産み始めるとでも思っているのか、官僚達は何もしなかった。
いや、“自分達は逃げ切れる”と、思っているのかもしれない。引退するまで問題に取り組むのを避けてしまえば良い……
2023年。
少子化問題に目を背け続けて来た政府はようやくこども家庭庁を設立し、問題解決に取り組むと宣言をした。
1970年代に少子高齢化問題が叫ばれてから、約50年もが経過をしている。当然ながら遅すぎる対応だ。しかも、肝心の政策の中身にも“期待できない”という声が大半。生産者世代への負担は重くなり続け、このままでは少子化による社会の衰退は避けられないだろう。或いは官僚は、移民政策をなし崩し的に実施するつもりでいるのかもしれない。
――が、しかし、実は“少子化問題”への有効な対策は存在する。人口を回復させる事は確かに困難だ。だが、“少なくなった人口を効率良く活かす手段”ならば存在するのである。
――先進技術を取り込み、生産性を向上させれば良い。
例えば、2023年9月現在、タクシードライバーが不足しているが、“ライドシェアリング”という情報技術を用いた相乗りサービスが実現すれば、その人手不足を解消できる。いや、それどころかタクシードライバーの失業すら懸念されるほどなのだ。失業したタクシードライバーは、運送業などで雇えば良いのだから、大きな問題はない。いや、“問題”どころか運送業の人手不足を改善できる。
が、国土交通省はこの案を退けた。
タクシードライバー業界と癒着している彼らは、その既得権益を失いたくはなかったのである。そして、タクシードライバーの上限を80歳に引き上げた。
生産年齢の引き上げも、少子高齢化問題対策の一つと言えるが、それでも、その決定には目を覆いたくなる醜さが見え隠れしている。高齢者ドライバーの増加で、交通事故が起こる懸念を彼らは無視している。せめて、高齢の場合は、自動ブレーキを義務付け、自動運転を推進するべきだろう。
しかし、彼らはその自動運転車の推進にも反対をしている。
経済産業省が、自動運搬車の普及を推進しようとしているが、国土交通省はそれには関わっていない。彼らが普及しようとしているのは、車単独で可能な自動運転車ではなく、導線有の、交通インフラとセットの自動運転車だ。それが普及すれば、膨大な道路利権が生まれるが、彼らはそれを欲しがっているのである。
――日本社会の様々なインフラ設備の老朽化が懸念されている中で、一体、どこにそんな資源があると言うのだろう?
このまま生産性も向上させずにいけば、近い将来に始めなくてはいけない原子力発電所の廃炉や核廃棄物の処理の負担もより重くなっていく。
人口が減っているからだ。
この日本という社会は、子供達に重過ぎる負担を押し付けようとする。
つくづく、そう思う。
ライドシェアリングは、なんか解禁されそうな雰囲気もありますけどね。
でも、条件付きとかになりそうな気もしますね……