シュレディンガーの猫へ
「かわいー」
ああ。
「気味悪い」
とても聞き慣れた音だ。
「ニャンコオオオオオッ!!!!」
ニャンコ。
私はしばしば、私をそう呼ぶ生き物に遭遇する。
街中の路地で私と出会った時、その生き物は逃げるか素通るか、
もしくは布袋のなかから突き出た、
二本のミミズのようなものをピーンとこちらに伸ばして突進してくるか……
いずれにせよ、どうにも得体が知れない。
あれは何なのだ。
私の同族が2本足で立って、前足を真横にぶらさげて、全身の毛を丸刈りにしたら、
案外ああいう生き物になったりするのだろうか。死んだ方がましである。
あの、布袋から突き出たナマ色ミミズが。もうどうにもこうにも気持ち悪い。
ミミズの先っぽが5つに分かれていて、
さらにバラバラに蠢く(うごめく)さまなど見ていて怖気が走るほどだ。
あの不気味な生き物の名前は分からないが
私は彼らを仮に、「ネコ」と呼ぶとしよう。
「ネコ」はとにかくブキミである。
木の葉がたくさん舞い落ちる頃。
私が神社の石段で、ほんわりとした日なたとそよ風にウトウトしていると、
奇声をあげ、地響きを轟かせながら石段を駆け下りて、「ネコ」は私を踏みつぶそうとしてくる。
「こんのウンコ! いつもウンコしよってからに!!」
それをヒラッと交わすと、「ネコ」は今度は木の棒を、私のケツや頭に叩きつけてくるのだ。
私はたいてい、石段の両側にある鉄の柵をくぐり、「ネコ」の猛攻をかわす。
すると「ネコ」は、武器を天高く振り回しながら、雄叫びをあげるのだ。
「もう来るんじゃないよ!」
何と言っているのだろう。まあいい。
ここは最高のウンコが出来る、お気に入りの場所なのだ。
「ネコ」ごときに譲れまい。あいつとはどうやって縄張りを争ったらいいのだ?
とにかく明日もウンコをしに来よう。
「ネコ」はとかく、意味が分からない。
私のことを好いているのか?
私をどう思っているのだ?
どいつもこいつも区別がつかないのに
会う奴会う奴、反応が違うので理解に苦しむ。
おまえは一体、いつの「ネコ」なのだ?
それとも、一度も会っていないのか?
桜が舞い散る頃だと、「ネコ」は一層、気狂いになる。
奇声をあげてただただ、桜の下でのたうち回る「ネコ」のそばに寄ると、
「縁起ワリイイイイイイイイイイイイ!!! ゲラゲラゲラ」
酒瓶が脳天に落ちてくる。
私の親友の話によると、彼らの雄叫びにはさして何の意味も無いらしい。
我々なら、「ニャアオ」。で済む話を、(ニャアオ、には無限の可能性が在るのだ)
「言葉」という、ひどく難解に分類された雄叫びを好んで使い、
延々ととりとめなく叫びあうことに生き甲斐を感じ、
あのナマ色のミミズを相手のケツやら口やらに突っ込んで愛をたしかめ、
最後には土に頭を突っ込んで死ぬのだという。
なんと不気味な。
まさに化け物である。
だが私には、ひとつだけ見分けの付く「ネコ」がいる。
その「ネコ」はとても小さい。
彼と会うのはだいたい夕方ごろである。
私がそびえ立つブロック塀の間で涼をとっていると、
飛び出そうな黒のめんたまをキラキラさせ、あの気味悪いミミズの触手をワキワキ蠢かせて、
道路に腹ばいになって私を見つめるのでその「ネコ」だけ区別がつくようになった。
彼はいつも、私に問う。
「ねえねえにゃんこさん、ぼくの弟にならない?」
なんと言っているのだろう。
私にはおそらく一生、分かることはないのだろう。
しかし私はいつも、彼にだけは問うのだ。
「ニャアオ」
おまえは何と言っているのだ? と。
すると彼はいつも、口を三日月型につりあげ、目をいっぱいに見開いて奇声をあげるのだ。
じつに不気味である。不気味だが、どうも……愛らしい気もする。
蠢く触手を、ガバーッとこちらに伸ばしさえしなければ。
いやはや。それだけはご勘弁。
触られたくないので、私はつねに、ひらりと塀の上に逃げる。
すると彼は、首を直角にそらして私を見上げ、
目から塩辛い水をボトボト落としながら、こんな奇声を発するのだ。
「うそつき」
何と、言っているのだろう。
私には一生、分かることはないのだろう。
私は唯一、そして無限に可能性のある言葉を、再び彼に言うのだ。
「ニャアオ」
冬が来た。
春が来て、夏が来て、秋が来た。
例の「ネコ」は、私が見かけるたび、体が大きくなっていった。
なんと不思議な生き物か。
そしてあの触手もぐんぐん伸びていった。5つのミミズも、それはそれは長くでかくなってしまった。
一度天を覆われたら最後、逃げ切れる気がしないので、
私はあの触手が届かないよう、彼との距離をすこしずつ、離していった。
あれに触られるのだけは嫌だった。
「にゃんこ。俺の弟になる?」
私と同じ目線で、彼は聞く。
もう塀に登っても、彼が私を見上げることはない。
そろそろ私は、彼の発する奇声の意味を知りたくなってきていた。
私は言う。何度でも言う。
「ニャアオ」
おまえは、なんと言っているのだ? と。
冬が来た。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て───
ある日、「ネコ」は、ネズミ色の服を着て、ネズミ色のひもで首を締め上げて、
かつかつと音のする靴を履いて、私の塀にやってきた。
彼はとうとう、塀の上の私を、見下ろしたのだ。
「やあ。にゃんこ」
「ニャアオ」
「もうおじいさんだなあ……土産を買ってきてやるよ。
俺が帰ってくるまで、生きて待ってるんだぞ?」
「ニャアオ」
ああ。今日もこの「ネコ」は元気のようだ。
それは、良かった。
彼はその日、夕方に帰ってこなかった。
何故なのだろう。彼は私を見上げていた頃から、陽が落ちる前にはここを通っていったのに。
幾年も、幾年も。
体の大きさが変わっても、あの触手がぐんぐん伸びても、それだけは変わらなかったのに。
私はひらりと、塀から飛び降りた。
住宅街を抜け、誰も通らない、川沿いの桜並木を忍ぶように歩いていく。
地面にこびりついた桜の花。雨のしみと、朽ちた醜さ。
それを延々と目にしなければならないから、葉桜の道は嫌いだ。
手に足に、ピトピトくっつくのも心地よいものではない。
それに。
あの「ネコ」は、どこへ行ったのか?
なんとも不安な気持ちになる。
毎日毎日、顔を合わせていたわけではないのだが───
この胸騒ぎ。あの不気味な生き物なら、「難解な分類の雄叫び」とやらが本当にあるのなら、
ずばり、この不安を言い当てることも出来るのだろうか。
「ニャアオ……」
私には、分かるはずもない、事であるのだが。
───そして、私の意識は飛んだ。
不意に足を止めたのがいけなかったのか
ただそこに突然現れた、とんでもなく馬鹿でかい「ネコ」の乗り物がいけなかったのか
つまりは
ニャアオ。
そういう、ことである。
「これ、ですかねえ……」
その夜。
あの塀の近所の交番に、ある青年が落とし物を尋ねに、訪れていた。
深刻な顔でパイプ椅子に座る青年の机の前に、茶色の段ボール箱を置く警官。
青年は、黙ってその箱を見つめている。
「えー……と、ですね。さっきの玉突き事故に巻き込まれたのは、この子だけでして。
その……ノラのようだったので、処分しようと思っていたところで。
……中身は、御覧にならない方が……」
青年は、その箱を見つめてただ、呆然としている。
物言わぬ箱の輪郭を、そっと手のひらで撫でて、青年はぽつりと呟いた。
「……シュレディンガー」
不意に哀しそうに笑い、青年は困った顔の警官を見やる。目には涙をためている。
「シュレディンガーって、呼んでいたんです。勝手にね。
全然触らせてくれないし、懐いてくれなくって。そのくせ、絶対に返事はしてくれるんですよ。
俺のこと嫌いなのか好きなのか、こいつの中身は一体、どうなってるんだって。ずっと思っていました」
「シュレディンガーの、ネコですか」
警官はますます困ったように笑って、箱を青年からそっと、取り上げる。
「やはりこれは、開けない方が良いでしょう」
「いえ。その中のネコは、死んでます。確実に。そうでしょう?」
困り顔の警官から、青年はふたたびやんわりと、箱を取り返す。
青年は笑って、ひとすじの涙を流した。
「うちの弟が、お世話かけました」
青年は、夜道を歩いていく。腕のなかに、茶色の箱を抱えて。
住宅街。あの塀の上───例のネコはどこにも居ない。
ふと塀の前に立ち止まり、青年は誰にも聞こえないほど秘やかに、塀に向かって囁く。
「……俺の弟になる?」
青年は、すこし考えて、ほんのすこし哀しげに、そしてとても愛しげに───
「……じゃあ、帰ろうか」
とても愛しげに、箱を抱きしめたのだった。
FIN.