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【後編】不在者

 三番目も、四番目も、そして五番目に出会った相手も、基本的な反応は老人や記号女と変わらなかった。

 君が呼び止めた相手はみんな親切な人ばかりで、そして君が『不在者』を探していることを知ると、たちまちにしてよりいっそう好意的に態度を転じさせた。


 しかし、君の求める答えを与えてくれる者もまた、ひとりとしていなかった。みんないたずらな笑顔を浮かべながら、「君は必ず不在者に会えるさ」と根拠もなく保証してくれるばかりだった。有意義な情報はいまだにひとつとして得られずにいる。


 だが、君はもう戸惑わない。

 状況は依然として不可解で、わからないことはわからないことのままだ。


 けれど、君はそんな状況をまるごと受け入れて、楽しむ余裕すら持ちはじめている。


「あの、すみません」


 君は六人目に声をかける。そして相手が返事をするのをまってから、


「夜分遅くに申し訳ないんですけれど」


 と挨拶する。

 そのすぐ後にはもう、君と相手は肩を組んで笑いあっている。夜分遅くに申し訳ないのですけどというこの挨拶は、どういうわけだか誰に対してもおおいにウケた。


 このようにして、七人目、八人目と、君は次々に話しかける。そしてそうやって誰かに声をかけるたびに、大好きな誰かがひとりずつ増えていく。

 君にはそれが嬉しくてたまらない。涙がこみ上げるほど、嬉しくて嬉しくてたまらない。


 何人に、あるいは何十人に話しかけたのか、君にはもはや見当すらつかない。

 君は街路沿いに木造のベンチを発見し、ほとんど倒れ込むようにそてそこに横になる。


 笑いすぎた両頬が幸せに痛むのを君は感じる。君の全身は充実した疲労感に包まれている。


 ベンチに身を横たえながら、夜明けはまだ来ないのかな、と君は思う。

 不在者を探しはじめてからすでにかなりの時間が過ぎているような気がする。しかし同時に、わずかばかりの時も動いていないような気もする。

 時間の感覚が、やはりひどく曖昧になっている。


 そのとき不意に、君の傍らで誰かがふっと笑う気配があった。


「おかしな連中ばっかりだったろう」


 気配の主が君に語りかけてくる。


「でもいい人ばかりでしたよ」


 君は相手の姿を確認するよりも先にそう返事をしている。


「本当に、いい人ばっかりだった」


 そうして身を起こした君の隣りには、いつの間にか『左右非対称の男』が座っていた。

 男は身体の中心線を際目に、髪型も服の色も、メガネのフレームまでもが左右で異なっている。靴も右足はスニーカー、左足は紳士靴を履いている。

 だが、君は特殊過ぎる男の風貌に、まったく違和感を覚えていない。左右非対称。それさえ抜きにすればあとはどこにでもいる人の良い中年男性といった感じだ、と君は思っている。『左右非対称の男』の存在を、君は極々自然に受け入れている。


「もちろんさ」


 左右非対称の男はどことなく誇らしげな顔をして頷く。


「なんせこの塔の世界には、いいヤツしかいないんだからね」

「あなたが『不在者』なんですね」


 ベンチに座り直した君は、わかりきったことを確認する口調でそう尋ねている。

 君には数え切れないほどのわからないことがあったが、しかしこの男こそが探し求めていた『不在者』であるということだけは、不思議と理解している。そうであるのだとはっきり知っている。


「いかにも、私が不在者さ」


 左右非対称の男はきっぱりとそう答え、『不在者』として君に微笑みかける。


「みんなが言った通りだった」


 君はなかば感動してそう呟く。


「僕は、本当にあなたに辿り着くことが出来たんだ」

「そりゃあそうさ」


 不在者は楽しむように言う。


「なにしろ、あの連中もみんな同じ経験を持っているんだからね。やつらには最初から全部わかっていたのさ」

「どういうことですか?」

「つまり、連中も君と同じように私を探したことがあるんだよ」


 不在者は言う。


「私はこの世界に新しい住人がやってきたときにだけ現れ、普段はどこにも存在していない。だから不在者というんだけどね。そして新たな住人はまずこの私を探し出すことになる。誰にそうしろと言われたわけでもなくね。君だって、自分がどうしてこの私を探していたのか覚えていないだろう?」


 君はこっくりと頷く。言われてみれば、君はどうして自分が不在者を探していたのかについてなにも思い出せない。気が付いたときには既に君は街にいたのだ。不在者に出会わなければいけないという目的意識を抱いて。


 そこまで考えたとき、君はふと、いましがた不在者が話してくれた内容に引っかかる部分があったことに思い当たる。


「……新しい住人があなたを探す?」


 君は慎重な口調で不在者に尋ねる。


「新しい住人って、ひょっとして、僕もそうなんですか?」


 不在者が身を仰け反らせて、心底おかしそうに大きな声をあげて笑いだす。それは「なにをいまさら言っておるんだ」とでもいうような笑い方だった。

 君はすっかり化かされたような気分になっている。だが、不愉快さや憤りはみじんも感じていない。

 不安と困惑は再び大きく膨らんでいたが、しかしそれと拮抗するほどに、期待や喜びといった感情もまた強固だった。


 自分が何を与えられようとしているのか、やはり君にはよくわからない。しかし、君はそれを――あるいはそれらを――受け入れるための決意を固めようとしている。

 あらゆる感情がまぜこぜになって君の輪郭を補強しはじめる。


 我々の別離の時は迫っている。


「君は時計をもっているかね?」


 ようやく笑うのをやめた不在者が君に尋ねる。

 君はズボンのポケットをまさぐり、年季の厚みを感じさせるくすんだ色の懐中時計をそこに見つけ出す。時計はコチコチと律動的な音を刻んでいるが、その針は午前二時ちょうどを示したまま一秒たりとも進もうとしない。


「その時計をどのようにして手に入れたか、覚えているかね?」と不在者が尋ねる。

「十歳の誕生日に父からもらいました」と君は答える。


 時計にまつわる思い出が、君の心の中でぼんやりと火を灯す。君はゆっくりと瞳をとじて、もうすぐ終わってしまう命を労るかのような丁寧さでその記憶を手繰る。


「もともとは祖父の時計だったんです。父が祖父からこれをもらい、僕が父から受け継ぎました」


 君はそう話し、そしてさらに語る。


「父親から息子へと時計を託すことについて、父は何か特別な意義を感じていたように思います。僕に時計をくれるとき、父は、なんだかすごく誇らしそうな顔をしていましたから」

「君はお父さんのことが好きだったんだな」

「尊敬していました」


 君は答える。そして、胸のうちでじくじくと疼く罪悪感を抑えながら、さみしく笑って言葉を続ける。


「でも、僕は父の顔も、声も、彼がどんな人だったのかも思い出せません」

「君は自分のことを薄情者だと思ってるんだろう」と不在者は言う。「だけどね、それは決して君のせいなんかじゃないんだ。気に病んではいけないよ」

「この場所で、僕はうまくやっていけるんでしょうか?」


 君は不安を吐き出すように不在者に尋ねる。

 それから、君は精一杯の勇気を振り絞り、それを言葉にする。


「だって、僕は自分の名前すら覚えていないんですよ」


 そうだ。君には自分の名前すら思い出すことが出来ないのだ。


 そんな君の肩を、不在者が優しく叩く。それは『案ずることなんかなにもないさ』と伝えようとするような叩き方だった。


「多分自分では気付いていないだろうがね」


 と不在者は言う。


「君は私に辿り着くまでのあいだに、もうすっかりこの街に受け入れられているのだよ」

「でも、僕はなんにもしていないはずですよ」

「とんでもない」


 不在者は力のこもった口調でそれを否定する。


「君は私のことを尋ねまわって、たくさんの人たちに話しかけただろう? そうすることで君は自分の存在をはっきりとまわりに主張したのさ。この世界の人間にとってはね、『不在者を知っていますか?』と尋ねられるのは、『新しくあなたたちの仲間になるものですが』と挨拶されているのとほとんど同じなんだよ。少なくともこの午前二時の街に、君の存在を知らぬ者はもはや数えるほどもいないだろう。君はいま、ちょっとした話題の人になっているはずだよ。彼らの新しい仲間としてね」


 今度こそ言葉を失って、君はまじまじと不在者の顔を見つめ返す。

 街の人々の極端に好意的な態度。からかうような笑顔。一見なんの根拠もないように見えた安請け合いと、遠いなにかを懐かしむような眼差し。

 そして見ず知らずの君に与えてくれた、涙がこぼれそうになるほどのあの親愛の手ざわり。

 君の頭の中でそれらすべてが、ここに来てひとつにつながった。


「だ、だって僕はあなたを探さなくちゃって、ほんとうに、ただそれだけで……」

「しかしこれは間違いなく君の行動の結果だよ」


 不在者は断固とした口調で言う。


「君は状況を前進させるために自ら積極的に行動した。君は自分の足で歩き回り、自分から人々に話しかけ、そしてそうすることによって自分から街に溶け込んだんだ。鳥の雛が自分の力で卵の殻を破るのと同じようにね。本当に大切なのはその事実なんだ。君は胸を張っていいんだよ」


 不在者はそれだけ言うと、君に向けて器用にウインクをしてみせた。二つの瞳のうちの片方だけを閉じるその仕草は、左右非対称の彼を象徴しているように君には感じられた。


「さてと、それじゃあ、私はそろそろ失礼するよ」


 不在者はそう言ってベンチから立ち上がる。


「どこにいくんですか?」


 君もまた立ち上がりながら尋ねる。


「新しい住人がやってきたときはね、私にとっても特別な機会なんだ。このチャンスに再会を喜びあいたいヤツはそれこそ星の数ほどもいる。しかもその相手はこうして現れるたびにひとりずつ増えていくと来てる。これじゃあ忙しくって身が持たんよ、まったく」


 やれやれという身振りをして見せた不在者は、言葉とは裏腹にとても嬉しそうだった。


「あの、いろいろとお世話になりました」と君は言う。


 そして、決然とした思いを込めて不在者に告げる。


「あの、僕もいつかまたお会いできる日を楽しみにしています。そしてそれまでは、とにかく、がんばってみようと思います」


「がんばる必要なんてないさ」


 不在者が苦笑して言う。


「だがそういう新鮮な意気込みを見せられるたびにね、私は自分のこの役目を誰かに自慢したくてたまらなくなるよ。ともかく、わからないことや困ったことがあったら近くにいる誰かを頼りなさい。そして時計を大切にするんだ。この世界では時計は重要な意味を持つからね。肌身離さず持ち歩き、決してなくさぬように注意すること」

「はい」


 君は頷いて不在者に応じる。


「さようなら、不在者さん」

「また会えるのを楽しみにしているよ。夢歩き」



 最後にもう一度君の肩を叩くと、不在者はそのままどこかへと歩き去っていった。君は手をふるわけでもなく、しかしその姿が見えなくなるまで、大切に彼の背中を見送った。

 それから、君はあらためて街の住人としての最初の一歩を踏み出す。『夢歩き』というのが自分に与えられた名前なのだということを、君はしっかりと理解している。



 君は名付けられ、この街の新しい住人となる。


 ――僕は名付けられ、この街の新しい住人になった。


(了)

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