【中編】記号女
街は無欲的なまでに小さく完結していながら、奔放なまでにおおらかに広がってもいる。
街には一切の無駄がなく、そして、意味のあるものなどなにひとつ存在しない。
相反する二面性は一致団結して君を惑わせる。
街はまやかしの現実感を隠れ蓑に、濃霧のような錯覚でゆるやかに君を包み込む。
もちろん、君は街の実相を上手に把握することが出来ずにいる。
わからないことばかりが次々に増えていく。わからないことを君はひとつひとつ丁寧に認識し、律儀に戸惑いを掻き抱く。
君は狭くて広い街の散策を続行する。
街は歩みを進めるたびに様相を変え続ける。最初はコンクリートだった街路の舗装はいつのまにか石畳になり、そしてまたいつのまにかコンクリートになる。立ち並ぶ家々は静まりかえったままだが、いくつかの窓辺にはカーテン越しに漏れだす灯りが発見された。街路灯の明かりはおぼろに優しく、たたずむ君の影をそっと足下に映し出す。
そして、塔が見えた。
闇の中に、果てしなく高い塔のシルエットが浮かび上がっていた。
果てなどはないのかもしれないと君は思う。星と月の天空に吸い込まれる、果てなく高い塔。
不意に、老人の一言が君の脳裏に蘇る。
『まぁ、この世界で不在者のことを知らない者などそうはおらんのだがね』
この世界で、と老人が言ったのを君は思い出す。
街ではなく、世界と。
ここは僕の知っている――知っていた世界とは、少し違った世界なのかもしれない。
そしてその世界の在りように、あの塔は深く関係しているような気がする。
ともかく、君は『不在者』を探さなければならない。
手がかりは何もない。だが、行動の方針は掴んでいる。
そうだ。君には老人より授けられた数々の助言がある。そのうちのほとんどはさし当たっては役立ちそうにもなかったが、しかしその中にひとつだけ、具体的な行動を示唆してくれているものがあったはずだ。
君は老人の言葉を思い出そうとする。
『そうだな、とりあえずは私にしたのと同じように』
君は老人の言葉を思い出す。
『適当な人間を見つけては「不在者を知っていますか?」と聞いてまわればいい』
君は老人の言葉を思い出し、思考の履歴からゆっくりとそれを掬いあげる。
そして、ひとまずはその内容に従って行動してみようとそう決める。
老人の言葉は既にひとつの発見へと君を導いてくれているし、それになによりも、君はあの老人のことを好きになっていたのだから。
夜の街に人通りは少ない。だが、決して皆無ではない。とにかく、見掛けた人には片っ端から声をかけてみようと、君はそう決意している。
老人と別れてからしばらくのあとで、あるいはほんの少しあとで(時間の感覚が、なぜだかうまく働かない)、君が呼び止めたのはひとりの若い女性だ。
街路灯の明かりを照り返す真っ白なブラウスと、丈の長いスカート。癖のかかった赤毛はふんわりと結い上げて頭の後ろで揺れるままにしている。顔立ちには若干の幼さが残っているが、全体を見ればシックで曲線的な印象すら備えている。
少しだけ僕より年上かな、と君は思う。だが、はっきりとした答えが見つかることは決してない。
なにしろ君は自分の年齢すら思い出すことが出来ないのだから。
「はぁい」
君に話しかけられた女性はいくぶん間延びした声音でこたえる。
「なんでしょうかぁ? 記号女に、なにかご用がおありでしょうかぁ?」
女性は歌うようにそう続ける。語調はふわふわしているが、しかし酩酊しているわけでもなければ正気を失っているわけでもなさそうだ。目元から口元にかけてとろけるような微笑みが浮かんでいる。
君はふと、もしかしたらこの状況はかなり危ういのではないかと、今更のようにそんな懸念を抱く。
君は自分の正しい年齢を知らないが、おおよそ思春期の中程から十代の終わりくらいではないかと、そう見当をつけている。そして、その年代の男が人気のない夜の街角で若い女性を呼び止めている場面を客観的に思い浮かべてみれば、それは間違いなくそれなりの物騒さを備えている。
さらに良いのか悪いのか、相手の女性は君に対して警戒している様子がまったくない。そのあまりにも無防備な態度に、反対に君のほうが萎縮してしまう。
「あ、あの」
君はすっかりしどろもどろになりながらどうにかこうにか言葉を模索する。そして、
「あの、こんな夜分遅くに、申し訳ありません」
そう、弁明じみたような奇妙な口調で女性に言っている。
ああ、これじゃほんとに不審者のようじゃないかと、言ってしまったあとで君はさらに後悔の度合いを深める。
しかし、やはり女性はやんわりとした物腰を崩そうとしない。
そのかわりに、彼女は面食らったように瞳をぱちくりさせたあとで、なにがおもしろかったのか今度はくすりと吹き出した。
「あはは、そうですねぇ。確かに、『夜分遅く』ですよねぇ」
女性はおかしそうに言う。
「そんなご挨拶、記号女はもうずっと前に忘れちゃってました。この午前二時の街ではいまさらのご挨拶だけれど、でも忘れたくらいのいまさらはなんだか……うん、おもしろいなぁ」
女性は口元をおさえてくすくすと笑う。
話が噛み合っていないと君は感じる。君は、女性が君の素っ頓狂な言葉の選び方や狼狽ぶりを笑ったのではなく、『夜分遅くに申し訳ありません』という挨拶そのものにおかしみを感じているのだということをしっかりと読み取っている。
しかしもちろん、どこがどうおかしいのかも、いったいなにが『いまさら』なのかも、君にはまったく理解できない。わからない。
「それで、ユーモアのセンスがあるあなたは、記号女にどういったご用でしょう?」
女性はそう言ったあと、「こんな夜分遅くに」と自分で付け加え、身を捩って笑う。
記号女というのは彼女の名前なのだろうか、と君は考える。おかしな名前だとは思わない。
「怪しい者じゃないんです」
と君は弁解する。しかし少しのためらいのあとに、「いえ、ほんとは自分でも怪しい者だとはわかっているんです」と訂正する。
「でも、あなたに対して悪意とか害意とか、それになにかよくない企みとか、そういうのはありません、全然。だからそれだけは信じてもらえると、その、助かるんですが」
「そんなのはじめっから疑ってませんよう」
緊張しきりの君に対して、記号女はいともあっけなくそう言う。それから、にへらっと頬を緩める。ついさっきまでの発作的な笑いとは質の異なる、最初に浮かべていた優しい微笑みが、再び君へと向けられる。
「困ったときはお互い様ですし、それに困った人をもっと困らせるようないじわるは、記号女は好きじゃありませんよう」
ありがたいな、と君は思う。
それから、君は自分がいまにも泣き出しそうになっていることに気がつく。
悲しいわけでも辛いわけでもないのに、気持ちがひどく高ぶっているのを君は感じる。
「ありがとう」
君は言葉にしてお礼を言う。
「実は僕は、人探しをしているんです」
「その相手はぁ、記号女じゃないのですよねえ?」
「あなたがそうだったら、どんなにかよかっただろうと思います」
君は湧き上がった感情をそのまま言葉にして記号女に伝える。言葉はとても自然に、ほとんど反射的に、一切の気負いとは無縁に発せられた。
涙が、ついに君の両頬を伝う。
君は驚いたようにシャツの裾で目元を拭う。しかし、一度こぼれてしまった涙はもはや止めることが出来ない。
君の意志とは無関係に、涙は堰を切ったようにあふれ出す。
いったい僕の感情はどうなってしまったんだ、と君は思う。さっきからあまりにも不可解な反応を示し続ける自分の心に対して、君はやはり強烈な戸惑いを覚えている。
だがその一方で、涙は強烈な安らぎを君にもたらしてくれている。
「あのう、もしかして、もしかしたらですけど」
記号女が言う。
「あなたが探している人って、ひょっとして、不在者さんじゃないかしら?」
君はポロポロと涙をこぼしながら、無言のままこっくりと頷く。ひとたび声を出してしまったなら、もうそれだけで嗚咽もとまらなくなってしまいそうだった。
「そういうことだったんですねえ」
何かを納得したように記号女が深く頷く。
突然、柔らかな香りと暖かな感触が君を包み込む。記号女が両腕を伸ばし、君をふわりと抱きしめたのだ。
「だいじょうぶです」
記号女がささやくように言う。
「強い気持ちをのせた言葉や行いは、誰かから受け止めるときだけじゃなくって、自分から解き放つときにも心を揺さぶるものなのです。だけどあなたの心はまだそのことをよくわかっていなくて、感情の揺り返しに対して無防備だったから、それでびっくりしちゃったのです。記号女のときもそうでしたから、わかります」
そう言って、記号女は君の頭を優しく撫でる。
「でもその涙は、とっても心地のよい感じがするでしょう? 記号女はいろいろなことを忘れちゃってますけれど、そのときの安らいだ心地だけは、いまでもずっとおぼえてます。だからあなたが上手に涙を流して、上手にそれと向き合えるように、こうやって記号女が支えていてあげます」
君は記号女の抱擁がより強く、しかし、より優しくなったのを感じる。
君はついに声をあげて泣きはじめる。記号女が君の背中をぽんぽんと叩く。
「だいじょうぶですよう。もう誰かに言われたあとかもしれないけれど、あなたは絶対に、たとえあなたが望まなくたって、不在者さんに会えちゃいますから。不在者さんに辿り着くまでの出逢いや体験も、全部ぜんぶ、無駄にはなりません。記号女が約束しますよ」
そうしてしばらくのあいだ、君は記号女の胸のなかで泣き続ける。
君は心地よく涙を流す。どうして自分が泣いているのかすらわからないまま、君は、泣くことによって自らの心と正しく向き合う。