【前編】老人
風のない夜の中を君は歩いている。星明かりに照らされた夜の道を。
君の進む先には導くように街路灯が立ち並んでいて、しかし君の背後で、それもすぐ背後で舗装道路は消えている。
街の途切れる場所に、あるいは街の始まる場所に君は立っている。
それから、君は歩きはじめる。
見知らぬ夜の中、見知らぬ街へと君は一歩を踏み出す。
君は人を探している。
僕は誰かを探しているのだ、と君は思う。
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街は寝静まっている。家々は戸を閉ざし、灯りを落としている。地上にある光は街路灯くらいのもので、そのためか星と月とが最大限に明るい。
この夜はとても深くて、しかし不思議なほどに不安を感じさせない夜だ。どこまでも穏健で、どこまでも優しい夜だと君は感じる。
まるで僕の戸惑いを包み込んでくれるようだ、と。
そうだ、君はひどく戸惑っている。
なにしろ君にはわからないことが多すぎる。君にあるのは『自分は誰かを探しているのだ』という目的意識だけで、そのほかは自分の置かれている状況の一切が不明なのだ。
君は戸惑いながらも歩き続ける。
そんな君の進む先で、小さな灯りが揺れている。
懐中電灯を手にした誰かが、君の少し前を歩いている。
とにかく、君はこの街ではじめて見つけたその相手に駆け寄り、話しかける。
「すみません。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
そう発した自分の声が思ったよりもずっと落ち着いていたことに、君は自分でも驚く。眩暈がしそうなほど戸惑っているというのに、焦りや緊張というものはまったく感じていないらしい。なんだか不自然な心理の同居だ、と君は思う。
君に呼び止められた相手は、「私のことかな?」と自分に向けて指差し確認をすると、すぐに陽気な笑みを浮かべて君へと振り返る。
淡い色のジーンズと白のポロシャツを身に着けた年配の男性だ。年齢は、だいたい六十歳くらいだろうか。細かな皺の浮いた目元に銀縁のメガネを渡していて、髪の毛は白い部分のほうが若干多い。どことなく矍鑠とした老人だが、しかし頑迷さはまったく感じられない。朗らかな笑顔からは柔和な人間性が垣間見える。
親切そうな人でよかった。君はほっと安堵の息をつく。戸惑いと平静と、そして安堵。やはり奇妙な取り合わせだ、と君は思う。
「その、突然こんなことを言っても困らせてしまうだけかもしれませんが」
君は挨拶すら省略して、単刀直入に本題を切り出す。
「実は、僕はある人にどうしても会わなければならないんです」
「なるほど、人探しかね」
そう言って、老人は小さく頷く。不躾ともいえる君の態度を気にした様子はない。
「はたしてこの年寄りが役立てるものかわからんが、まあとりあえずだ、どなたさんをお尋ねなのか教えてもらおうかね」
老人は鷹揚に笑う。
ありがたいな、と君は思う。老人の物腰と気さくな口調に、君は根拠のない期待すら抱きはじめている。
君は老人に尋ね人の名前を告げる。
「ええと、僕が探しているのは『不在者』っていう人なんです」
君は老人に尋ね人の名前を告げた。
不在者。それが君の会わなければならない人物の名前だ。奇妙な名前だと、君は感じていない。
「不在者だって」
老人が驚いたように声をあげる。
「あんたが探しているのは彼なのか」
「おじいさんは『不在者』のことをご存知なんですか?」
君は驚いて老人に尋ねる。声に勢いがこもるのを自覚する。
「……そうか。不在者が戻ってきているのか。ということは、あんたは……」
君の質問には答えぬまま、老人は感慨深げに数度、頷く。
それから老人はあらためて君へと向かい直り、片方の手で君の肩を掴んでくる。力のこもった、熱い掌だ。
「安心しなさいな。君は必ず彼に辿り着く」
老人はそう言って、もう一度深く頷く。
「彼って、『不在者』のことですよね?」
と君は尋ねる。
「そう。不在者だ」
老人は答える。
「そういうことになっておる。今までのところ例外はないし、これからも多分ないだろう。君は必ず不在者と出会えるはずだ」
戸惑いは膨らみつづける。とにかく、君にはわからないことが多すぎるのだ。もちろん老人の言っていることだって全然わからない。理解できない。
そうした君の内心を見透かしたかのように、老人は声を出して笑う。
「どうも信用出来ないという顔をしておるがね、これは本当に、まずなによりも確かなことなのだよ。この私が請け合おうじゃないか。なんなら誓約書をつくってあげたっていい」
「いえ、その、別にそういうことじゃないんです」
君は慌てて言葉を取り繕う。そういうことじゃない。
どういうことじゃないのか、君自身よくわかっていない。こうして、わからないことは着実に増えつづけていく。
「うむ。そういうことじゃないな」
老人は心の底から楽しげに、からかうように君の言葉を繰り返す。
「まぁともかく、この私を信じたまえよ。心配しなさんな。君が案ずるほどに状況は君を突き放しちゃいないんだ」
「でも、だったら僕はどうしたらいいんでしょうか?」
「気楽にやればいいんだ」
老人は答える。それから、「いや、これじゃ質問の答えにはなっとらんか」とひとり呟く。
いまさらだよ、と君は思うが、口には出さない。
「そうだな。とりあえずは私にしたのと同じように、適当な人間を見つけては『不在者を知っていますか?』と聞いてまわればいい」
と老人は言う。
「まぁ、この世界で不在者のことを知らん者などまずおらんのだがね。しかしそうやって君が不在者を探していることを伝えれば、相手は君がどういった立場に立たされているのかをすぐに理解してくれるだろう。いいかね、重要なのはつまりその部分なのさ」
「当事者の僕にはさっぱりわからないのに?」
君は尋ね返す。少しだけムッとしながら。
「そのうちにわかるさ。そしてそのときになったら今こうやってあれこれと案じていたことを思い出して、『あんなにいろいろ気に病んで馬鹿みたいだったな』と、そう思えばいい。ああ、その際は是非とも、君が君を馬鹿にする楽しみを私にも手伝わせてくれたまえ」
そう言って、老人はからからと声をあげて笑い出す。
それから、老人は君の肩に置きっぱなしにしていた手をもちあげて、そのまま力づけるように君の背中を押し出す。
君はよろめくように一歩を踏み出し、二歩目で持ち直し、そして三歩目では、もうはっきりと自分の足で歩きはじめている。
「がんばれよ」
歩き出した君の背中に老人がエールを投げかける。
「あの、なんだかよくわからないけど、とにかくありがとうございました」
首だけを後ろにめぐらせて君はそれに応える。
君は立ち止まらず、そしてそれっきり振り返りもしない。
さしあたっては少しだけ楽観してみようかな、と君は思う。
老人の言葉や話しぶりには不思議な説得力があったし、そもそもほかにあてがあるわけでもないのだ。
それになにより、君は短い対話のうちに、すっかりあの老人のことが好きになっていたのだから。
混乱はいやまして、戸惑いは膨らむ。しかし、それらが君の重荷となることはない。