やせ我慢の裏側
立場が変われば答えも変わる
「俺のうちは元々御家人じゃねえっていうのによう」
勝海舟の曽祖父は越後の生まれである。曽祖父である銀一は生まれつき目が悪く、江戸に出て「あんま」をして金をため、それを元手に金貸しを行い財を成した人物である。その当時の障碍者優遇制度の中に盲人金貸しをはじめやすくなる制度があったので、御家人の「男谷家」の権利を買った。この辺は弟子の龍馬の才谷家とおなじである。
そしてその男谷家の銀一の孫が旗本小普請組の勝家に養子となり生まれたのが彼である。彼は若いころから父の実家の男谷けにて剣術を習い、後に男谷精一郎の高弟である島田寅之助によって免許皆伝の腕と認められる。その後も山鹿流軍学や蘭学など次々に師事し習得していった。
小身の彼が、世に出たきっかけは1853年のペリー来航にある。1年後の再来訪を提示し去っていったペリーに対して、幕府ふ老中「阿部正弘は広く天下に意見を求めた。
その中には「海中から黒船に近づいて穴をあける」などの非現実的なものも多かたっがその中にあった、勝の建白書に阿部が目を止め、目付の大久保一翁と勝は知遇を得る。その後長崎に「長崎海軍伝習所」に入り海軍学と実地訓練を繰り返し学び、5年ほど長崎にて学ぶ。
そして1860年幕府は日米修好条約の批准書をアメリカに届けるためにポーパタン号に、正使新見正興、副使村垣範正、目付に小栗忠順をおき、護衛艦として「咸臨丸」に軍艦奉行の木村吉毅をおき、海舟は「教授方頭取」という船の運航の実質的な指導者とされていた。その木村の従者とし福沢諭吉が同行していた。
勝は幕臣というより江戸っ子の気質が強くしゃべり方も「べらんめえ口調」だったので、元来の調子に乗りやすい性格と相まって、水夫などの運航要因に強い口調でしゃべっていたのが福沢には気に障ったのだろう。福沢は記録として「勝は船長なのに船酔いでほとんど船室から出てこなかった」と嫌味を言っている。
その後幕府による政治が終わると勝、福沢ともに新政府から出仕のを求められると、勝は渋々ながら薩長藩閥の監視という役を自らに課し様々な職を歴任する。
一方福沢はこれから強い国を作るには教育が必要であると考え出仕を固辞し慶應義塾(後の慶応大学の前身)にて人材の教育に努めた。
そんな時に福沢は諸書「瘦せ我慢の説}(1891年)が脱稿し新聞紙上で、元幕臣でありながら政府に出仕している勝海舟と「榎本武揚を痛切に皮肉な嫌味をぶつけ、その後両者は新聞社から感想を求められている。
「まあ、あんときは『他人に評価されるほどのものじゃない自分を色々批評してくれてありがとさん』なんていっといたが、こっちだって宮仕えなんてのは真っ平ごめんだが、この国がおかしくならねえように監視する目付け役が必要だろうって買って出たのに、『教育に専念します』なんて言って逃げやがった奴が偉そうに言うなっての。」
その後2人は和解しないまま勝は1889年、福沢は1901年に和解しないまま亡くなっている。
どちらも我の強い人物でしたからねえ。