鮎苦谷
闇と聞いて思い浮かんだのが、これしかなかった。
一番普通で一番怖くて、一番優しい闇の思い出です。
『鮎苦谷』の名は、鮎ですらその谷を上るのに苦しむことから名付けられたという。
五月のゴールデンウィーク明け。
科学クラブのメンバーの真帆は、その谷に釣りに出かけた。
小学生七人が谷への道を歩く。
「谷」と言われているが、小学校からそう遠くない、歩いて五分くらいのところにある。
谷までの道はアスファルトで舗装されて、道路の上にひかれた白い線はハッキリとわかる。真帆の通学路にひかれたものよりは、新しい。まだ、線とアスファルトの境は真っ直ぐだった。
谷のすぐ隣には運動公園があった。そこで地域の祭りが行われることもあって、親しまれている場所だった。
真帆たちも、幼稚園の時からその祭りに参加していて、谷は当たり前にそこにあるものだった。
この谷は一見、ただの川に見える。しかし、谷と道を白く隔てるガードレールにお腹を持たれかけさせ、谷を覗き込むと、流れの底はよく見えない。つまりかなり深い、ということだ。
瀬の中に、大きな岩がいくつも居座っている。
谷に着いたメンバー達は釣竿を持ったまま、その岩を慣れたようによじ登ったり跳んだりして、好きなところへ移動していった。
真帆は、祖父から借りてきた釣り道具を出した。
しかし、その先につけた糸は絡まってしまっていた。あまりに楽しみで、竿を振り回してしまったのがいけなかった。
他のメンバーが次々と糸を垂らすのを恨めしげに見た後、岩に座って糸の絡まりをほどき始めた。
岩と水面はそれほど離れていない。谷に沿って、時折崖から風が降りてくる。
糸を解くのは、根気がいる作業だった。
糸を追っていく真帆は、記憶の中の谷を覗く。
そこには青いビニルプールに入れられたオオサンショウウオがいた。
もう、六年前のことになる。
真帆がまだ幼稚園児だった時に大雨が降った。
それによって流されてきたオオサンショウウオを、谷の近所に住む人が発見して保護した。
そして谷に返す前に、園児達に見せてくれたのだった。
アユクルシダニのオオサンショウウオ。
まだ六つにならなかった真帆にとって、その言葉の並びは不自然だった。
先生が言う、テンネンキネンブツの『オオサンショウウオ』は珍しい、という説明は真帆たちには届いていなかった。だが、とても大きな生き物が見つかったのだ、それはワクワクすることらしい、と理解した。
先生から説明を受けた後、皆でそれが保護されているという、谷近くの施設までやってきた。
一クラス三十人くらいの園児が二クラス。二列に並んで、ワイワイと喋っている。
オオサンショウウオに面会するために、先生たちに並べられた、列。
そのうち、それがジリジリと進み出した。先に並んでいた子たちが、歓声を上げている。そして、先生に促されプールの前から離れると、皆、手を洗いに行った。
前に進むにつれて、プールの青がハッキリ見えた。その中にどんなものがいるかも分からないのに、クラスの子達があげる歓声に期待が膨れた。
ついに、真帆の番になった。
プールの中にどぷっと入った、黒とこげ茶のまだら模様。
オオサンショウウオにとって、ビニルプールは狭そうに見えた。そして、全く動かない。大きな岩が沈んでいるように思えた。でも岩のように固そうではない、体のくねり方が柔らかさを伝えてくる。
不気味だった。
最初に説明をしていたおじさんが、オオサンショウウオの傍に片膝をついてしゃがんでいる。そして、太短いそれの腕を掴んで、ぐいっと真帆の方に寄せてきたのだった。
「ほれ、握手せぇ」
おじさんの顔は、悪びれなく笑顔。
プールの中に沈んだままのオオサンショウウオの表情は、全く分からなかった。
岩柄の短い腕を持ち上げられて、抗議の声もあげない。真帆の隣にいた子が指でつついて、
「うわっ、べちょってしとる」
と、すぐに手を引っ込めた。真帆も恐る恐る手に触れる。
初めての感触だった。
そこに、鮎苦谷がいた。
糸をほどきながら、谷に帰っていったあのオオサンショウウオを思い出してみる。
あいにくと、ここから見える谷の瀬の中には、今は黒い鯉が数匹見えるだけ。
彼らは、明るい光の中を悠々と泳いでいる。
「つれへーん」
向こうの岩の方で、男子が騒いでいる。
そんなに大声出したら、魚なんて釣れへんよ。と真帆は口には出さずに、騒ぐ彼らを一瞥した。
それに、と思う。どうせ釣れなどしないのだ。
真帆の祖父は釣り好きだったが、その祖父がこの谷には釣りに来ない。釣り道具を借りに行った時も、この谷に行くと言ったら変な顔をしていた。
鮎が苦しんで谷を登るどころか、いないのかもしれない。
糸を半分ほど解したところで、飽きてきた。
釣竿を傍らに置いて、岩の上に足を投げ出した。
騒いでいる一団は、監督役の先生と楽しそうにじゃれている。
真帆はぼんやりと、谷の向こうを作る崖を見た。
そこに岸はない。
崖から出ている樹木の色が落とし込まれた水面。深緑に染まったそこから垂直に崖が出ている。
沈んだ底は相当深そうだ。
水面が反射して白くなっているのは、背景にされた水の色が濃いから。
崖や岩に遮られ作られた陰が、光のあるところをより美しく見せている。
オオサンショウウオは、このどこかにいるんだろうか。
不気味な模様と巨体が、あの暗いところにぬっと出てきても、今ならそれほど怖くない気がした。
結局、釣り糸も戻せず、オオサンショウウオに会うこともなく。
集合の合図がかかった。
真帆は、釣り竿を片付けて、岩の上に立つ。
陰影の深さはただそこにあって、光の作る闇は穏やかだった。
谷の底はそうやって、何かを待っている気がする。
それは私ではない、と真帆は思う。
待っているものを考えたら、底に捕まってしまう。
穏やかさが足首を掴みにくるから。
真帆は竿を持ったまま、岩から岩へ飛び移った。
ガードレールに遮られた、アスファルトの道路に立って、谷の方をもう一度見ると。
それはそれは、恨めしそうだった。
時刻は四時。
五月の四時は、まだ明るくて良かったのだ。