1mg. 未成年者、立ち入り禁止
※未成年者の喫煙は法律で禁止されています。
もし未成年者で吸われる方は肺癌、低身長、悪臭、その他モロモロのリスクを覚悟した上で、やっぱり吸うのはやめましょう。
未成年者の喫煙、ダメ絶対!
「無理だって! 無理無理カタツムリ! 来週の頭にレポート提出があるの知ってるだろ!? 他のやつに頼めよ!」
季節は春。無事に進級を果たし大学3年生になった俺こと葦束浩也の麗らかな放課後は一本の電話によって破壊された。
気だるい週明けである月曜日の授業をこなし、帰りに買い食いでもしてやるかと思った矢先にポケットの携帯電話が鳴動したのだ。
『さ、いーごのキスは――』
昔流行った女性シンガーの曲である。この出だしの『最後の』という部分が『さ、いーごの』とやや区切って間延びする部分がなんとなく気に入って着信音にしている。
甘く切ない歌声に惹かれて、液晶画面に表示された先方の名を見ないで取ってしまったのが運の尽き。
まあ出なくても家に帰ればわかることだったんだけどね。
「いやーヨドも辿歌ちゃんもすでに別件が入っててさ。まあ店番だけだし、バイト代もやるぞ」
電話の相手は俺の後見人であり、叔母であり、師し……いやこれはいいか。葦束紅葉さんであった。
女性でありながら男性さながらの言葉遣いを操る紅葉姉さん、ハスキーな声も相まって電話越しだと性別の判断が付かない。
「いやいやバイト代の話じゃねーから! そもそも今週はシフトに入らないって伝えてあったろ?」
「……そうなんだけど急に用事入ってさ。ちょっくらフィリピン行ってくる」
「……え? は? フィリピン?」
「お店で知り合ったカイト君がね……家が大変らしいんだわ。だからお金渡さないと」
「死ね! まだあのホストクラブに通っていたのかよ!」
国籍フィリピンのホストであるカイト(推定23歳)。最近の紅葉姉さん(暫定25歳)のお気に入りである。絶賛色ボケ中。
「本業を引退した俺の数少ない楽しみなんだよ……」
「だったら復職すればいいじゃねーかよ!」
「それはそれ、これはこれ、吸殻は灰皿に」
不思議と電話越しなのに紅葉姉さんのドヤ顔が見える。
「うっせぇ! そしてうっぜぇ!! 関係ねえし!」
「……お前、ツッコミが兄さんに似てきたな。成長って怖いな」
「頼むから紅葉姉さんはもう少し成長してくれよ……」
「そもそもお前が俺の後を継ぎたいと言い出したから、そのための環境作りとして構えた店だろう。その責任ぐらいは取れ。心配しなくてもちゃんとバイト代はいつもの場所に置いておくからな。んじゃ俺が帰国するまでガンバ!」
「えっ!? 今時ガンバって古っ! おい! ちょっ……」
ぷーぷーぷー
律儀に余計なツッコミをしている間に無情にも耳元からは機械音が響き、俺を絶望へと叩き落した。行き場のない怒りとやるせなさを肩に背負い込み家路を行く。買い食いはとうに諦めた。
ただでさえ度重なる欠席で教授に目をつけられている俺は提出物には力を入れなければならない。しかし急遽入ったバイトによって高評価を獲得するのは難しいだろう。
「……余計な仕事が入りませんように」
都合のいい願望が叶わないと知っているが呟いてしまう俺であった。
◇◇◇
『喫茶店ピース』
横浜市のとある街にある、高級住宅街に不釣合いなレトロな雰囲気を醸し出すお店の名前だ。ぶっちゃけ俺の家でありバイト先である。
メニューは普通の喫茶店と変わらないが値段の割りには味が良いと評判で、しかも専用のバリスタが熟練の手さばきで最高のコーヒーを入れてくれる贅沢振り。店内は常に緩やかな雰囲気が流れ、一度来た者は是非ともまた来たいと思わせる…………が、普段の店内は片手で数えるぐらいのお客さんしかいない。
その理由は表に掲げている看板のせいだ。
『非喫煙者、お断り』
そう、この店は喫煙者専用の喫茶店なのだ。
元々は本職を引退し、暇になった愛煙家である紅葉姉さんが「俺の後を継ぐなら窓口が必要だろ? だったら最高のコーヒーを飲みながらタバコをガバガバ吸える喫茶店を作りたい!」と分煙、禁煙化が進む社会に正面から喧嘩を売って誕生したこの喫茶店。
店内は常に煙が充満しており、一度入店したら来ていた服は一日でおじゃんになる。
そのせいで喫煙家の母数が少ない女性はほぼ来ない。合わせてカップルも来ない。学生なんて以ての外。
つまりは二十歳を超えた「体臭? 口臭? 関係ねーよ!」な男性しか訪れない喫茶店なのだ。
ちなみに喫茶店にはタバコ屋が隣接しており、そこで普通にタバコを買ったりすることができる。普通の街にあるような普通のタバコ屋だ。
そして今日はこちらでの店番である。
「あーホントに面倒。いやでも最初は俺がやりたいと言い始めたからなあ……」
愚痴を吐きながら店内に入り、道路に面するシャッターを上げた。面倒なので上着を脱いでその上からエプロンを着るだけにする。
四角い窓から見える風景は変わりがなく、俺の荒んだ心を癒してくれる。
……いや、そもそもバイトが入らなければ荒まないし、この風景を見ることもなかったんだけどな。
ひよこと卵がどっちが先かなんて意味のわからないことを考え始める前に、バイト代が入っているであろう小さな箪笥を開けた。
「……携帯灰皿じゃねーか! どこの世界にバイト代として携帯灰皿を出すんだよ!」
そこには百円均一で買える携帯灰皿が三つ収まっていた。バイト代が三百円である。世知辛い。
本気でフィリピン行きの飛行機が墜落してくれないかホント願う。
お客さんが来ない間にカウンターで見えないようにレポートを仕上げようと思ったがやめた。隣の喫茶店と違ってこちらは普通のタバコ屋なのでお客さんは普通に来るのだ。その時に他のことをしていたらバツが悪いし、ただでさえ地面に近い評判が更に下がる。
暇を持て余した俺はカウンター下の引き出しを開け、棒付き飴を取り出し咥える。カウンターの下には小さなテレビが置いてあるから暇つぶしで付けますかね。
『緊急速報です』
なにそれ怖い。
『昨日未明、横浜刑務所から――』
「あー! 今日はコー君なんだ!」
声のする方を向くとそこには赤いランドセルを背負い、肩口から二つに伸びた髪形――ツインテールをぶら下げた美少女がこちら見て笑っていた。
テレビを消して向き直る。
「こんにちわ伊織ちゃん。学校帰り?」
「うんそうだよー! 今日はコー君が店番なんだね? ダメだよお仕事中にタバコ吸ったら」
「……いやたまたまね。これもいつも通りのキャンディーだよ。食べる?」
「食べるー!」
元気に挨拶してくれたこの美少女の名前は秋希伊織ちゃんという。近くの小学校に通う小学五年生であり、あと五年もすれば近づくのも恐れ多い美女になるだろう。彼女のスクールゾーンにこの喫茶店があり、店番をして顔を合わせる内に自然と仲良くなっていた。
「どれどれ……」
棒付き飴を取り出し一つを伊織ちゃんにあげる。会うたびにこの飴で餌付けしていたから懐かれているのかもしれない。
「いつもありがとー!」
俺から受け取った飴を大事そうに両手で受け取ると口に咥える。
幸せそうに舐めている伊織ちゃんを見てると光源氏の気持ちがわからんでもない……い、いや俺はロリコンじゃねーし! 年上美人なおねーさん系がタイプだし!
脳内で紅葉姉さんが『ん? 私がタイプか?』と話しかけてきたが無視した。
「ロリコンでしょっぴくか迷う所ですね」
頭を抱えていた俺に凛とした声が届く。
顔上げると暖かくなってきた季節にも関わらず暑そうなスーツをぴっちりと着た美人が立っていた。少し茶色に染まった髪を片方で結んで肩まで降ろしている。しかしその子供っぽい髪型も彼女の凛とした顔立ちを際立たせている。仕事ができるキャリアウーマンみたいだ。
とりあえず……
「好きです。付き合ってください」
「……はい?」
おっとあまりに好みど真ん中なので心の声が漏れてしまった。細い腰の割に素敵なお胸がストライク。美人な所がストライク。意思が強そうな瞳もストライクで三振だ。
「浮気、ダメー!」
「いひゃいいひゃい」
カウンターに身を乗り出した伊織ちゃん(おそらくB-)に頬を摘ままれてしまった。
それにしても浮気なんておませさんだなあ。
とか呑気な事を考えていたらお姉さんの視線が冷たくなっていく。
「冗談ですよ。お客さんですか? それにしてもしょっぴくとは物騒ですね」
「こちらも冗談のつもりだったんですけど怪しくなってきましたね……はい、これ。本当にしょっぴきますよ?」
そう言うとお姉さんはその豊満な胸ポケットから手帳を取り出した。
げ、警察手帳。
仕事柄、色々やましいことはしているけど警察とは仲良くしているからしょっぴかれることはない……はずだ。
「な、中身を確認しないとホントかわかんないなー……なんて」
俺の言葉を聞いたお姉さんはやれやれとため息をつき、手帳を広げてくれた。
「最近そういう人が増えているんですよね。ネットかなにかで仕入れた知識か知らないけど、効率が悪くなって迷惑です」
舌打ちする姿もとても絵になるお姉さん。言葉遣いと裏腹に仕草が荒い。
手帳の中身を見ると階級、花蹊皐という氏名、そして所属を示す番号が書かれていた。
この番号は確か……
「成松さんと同じ所ですか。まあここらへんの刑事さんならそうか」
「ん? 成松警部補を知っているのですか? ……補導でもされたことあるんですか?」
「まさか。ちなみにこれ棒付きキャディーですけど舐めますか?」
口から飴を取り出して皐さんに向ける。
やだ! よく考えたらこれって関節キスじゃない!
「やだ! よく考えたらこれって関節キスじゃない!」
おっと思わず声に出てしまった。
「……いらないです。あなた初対面の人に飛ばしすぎじゃないですか?」
そりゃ残念。
「それより……」
「ご注文ですか? タバコ買ってくれたらお姉さんには特別に携帯灰皿あげます」
これだけの美人さんなら何も買わなくてもサービスしてしまうけどね。
俺のバイト代を用意しようとすると――
「――美味しいタバコはありますか?」
「――――」
皐さんの言葉に意識が切り替わる。
――美味しいタバコ。
非喫煙者の認識ではただの紫煙であるタバコに美味しいも不味いもあるかと思われるが、タバコには味がある。舌の上を煙が通過する時に味覚を刺激し、タバコの特有の味が広がるのだ。タバコの種類が多いのはこの味と香りによるものだ。
そしてこの店、『ピース』でタバコの美味しさを聞いてくるというのは特別な符合を意味している。
……そして俺のレポート提出が不可能になったことも示していた。
「……ありますよ。古今東西のタバコが。お好みはありますか?」
と言っても皐さんが純粋に美味しいタバコを欲しているだけかもしれないので符合の再確認を行う。
「『キャストル』をもらえますか?」
キャストルというタバコは吸うとバニラの香りが漂い、1982年に販売が終了している。この店は紅葉姉さんの趣味で古今東西のタバコを収集しているが、常連客ならまだしも初めてこの店に訪れた皐さんがキャストルを求めるのは不自然である。
つまりは――
「……わかりました。在庫を見てきますのでどうぞ中に。ごめんね伊織ちゃん。仕事が入っちゃった」
「うん! 頑張ってね!」
伊織ちゃんの笑顔に癒されてこの後のやる気を出す。
幸い隣の喫茶店にはお客さんがいなかったのでクローズの看板を立てて皐さんを迎え入れた。案内したのは店の奥――カウンターを迂回した先にある一室。中には向かい合うようにソファが一組、そして真ん中には机だけという質素な部屋だ。
おっと灰皿と空気清浄機も置いてある。
「端見さん、コーヒー二つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
バリスタである端見さん――何故かサッカースパイクを磨きながら傍らにある『義眼はどこまで見れるのか?』などという書物に目を通している彼に飲み物をお願いする。
端見さんは老紳士、という形容がピタリと当てはまるナイスミドルだ。手入れを欠かしていないであろう立派な口髭にオールバックで清潔感を漂わせる。眼光はやや鋭いものの、整った顔立ちにいいアクセントになっている。近所の女子大生が端見さんにお近づきになりたいがために喫煙しようか迷っているなんて噂もあるぐらいだ。
いいよね……女子大生。
「いかんいかん。俺には皐さんがいるんだ」
「勝手にあなたの物にしないでください。……そもそも名前で呼ばないで下さい。ナヨナヨして嫌いなんです」
「綺麗な名前じゃないですか」
そう言うと皐さんは深い溜息を吐いた。
「だから嫌いなんです。私は女だからと言って舐められたくないんですよ」
対面のソファに座った皐さんが眉根を寄せて不機嫌にしている。仕草の一つ一つがあらっぽいことも関係してるのかね。まあ言葉は丁寧だけど。
それにしても不機嫌そうな顔も魅力的に映る。
もしかして月子に匹敵するんじゃないか?
っと、また思考が逸れてしまう前に本題に入ろう。
エプロンを外してネクタイを緩め、端見さんが淹れてくれたコーヒーを一口飲んで話し始める。
「……お探しのキャストルですが現在在庫が切れてまして、残念ながらご用意できません」
「そんな! 雅遊さんって人から紹介されてきたんですよ!?」
うへえ、雅遊さん経由のお客さんか。
しかもあの人符合だけ教えて後はこっち任せかよ。
『雅遊探偵事務所』の所長である雅遊秀人さんから斡旋される仕事の8割は面倒だから覚えておこう! 残りの2割はお金にならない仕事です!
「まあまあ落ち着いて」
興奮する皐さんを宥めて胸ポケットを弄る。
小さな箱に収まっている一本約20円の筒状の物を口に咥えた。それの先に着火装置を近づけて火を点して大きく深呼吸。葉っぱを紙でまとめただけのフィルターが、俺と世界を煙で繋ぐ。肺に気体が充満するのを感じ、見えない何かが俺の全身に漲る。
部屋にも甘い香りが部屋を包みこんだ。
煙に覆われている空間、時間はまるで別世界だ。この世界にいながらにしてどこか位相がずれた世界を覗いている気分にさせてくれる。しかし煙を通した二つの世界は近いようで限りなく遠い。
……っと、また思考がズレてきた。
紫煙越しの皐さんを見てニヤリと笑う。
さて――
「キャストルは切れていますけど、後継である『キャストル・マイルド』ならすぐにご用意できます。――まずはご用件を伺いましょう」
――未成年者が世間に隠れて喫煙しているような、そんな決して表に出せないような仕事が始まる。