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五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

作者: 狸塚ぼたん

【短編】五月(さつき)待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする


 五月の曇天空は、ついに小雨をぱらぱらと降らし始めた。


 以前、我が主は見つからない。


 昨日、あたくしの主人である清才様は、とある貴族の方と仲違いをしていらした。従者ではなく自らが赴くなど、相当重大な依頼に違いないとお弟子様たちが噂をしていた矢先に、その方は大変お怒りになって屋敷を出て行かれたのだ。


事の詳細は、清才様がお話ししてくださらないためにわかりかねたが、今日になっても、清才様は朝餉も摂られず部屋に引き籠りになって出てくる気配はない。声を掛けても、返ってくるのは曖昧な反応のみだった。


 数刻してから再び様子を窺ったところ、部屋には読みかけの書物があるだけで、清才様はいらっしゃらなかった。


「もし、師匠がいずこにおるか存じてはおらぬか」


 清才様を探している途中、お弟子様である定義(さだよし)様と廊下で鉢合わせた。外出から戻ったばかりのようで、よく見ると髪や服が濡れている。


「申し訳ありません、清才様は先程からお見えにならなくて。黙って屋敷から出て行くお方ではないので、屋敷内にいらっしゃるとは思うのですが」


「そうか。急用ではない。改めよう」


「あ、あの、余計なことをお聞き致しますが、清才様は昨日あの貴族の方とどのようなことで仲違いされたのでしょうか」


 清才様は人に依存なさらない。ただの仲違いで、あのように落胆される方では決してないのだ。


他になにか原因があるのかも知れない。貴族の方が怒って出て行った直後に、清才様とお話しをされていたこの方なら、知っているに違いないと思った。


「すまんが、あの方から口止めされているのだ。我が口からは言えぬ」


 定義様はふいに、あたくしから目をお逸らしになった。


 妖退治を生業としているものの、妖退治を嫌っている清才様のことだから、初めは貴族の方からの退治依頼を断り仲違いしたのだと思っていた。


しかし、それで口止めをするのは不自然だ。実際、そんなことは多々あることで、仲違いすればそれをあたくしに隠していたことなんてなかったし、清才様があんなふうに落ち込むこともなかった。


 よっぽど、あたくしに聞かれたくないことで仲違いをされたのか。そう考えると、心当たりがないこともなかった。


「……そうでしたか、大変失礼致しました」


 あたくしが頭を下げると、定義様はそれ以上なにも仰ることなく去って行かれた。


「いずこにいらっしゃるのかしら」


 屋敷の者に尋ねるも、今日は見掛けていないと答えるばかりで、手掛かり一つ掴めない。普段あまり人が寄り付かない所ばかりを探し歩いていると、廊下から見える中庭に、人影を見つけた。清才様はそこにいらっしゃった。


 雨足が早くなる中、真っ白い花を咲かせた橘の前にただ立ち尽くしている。表情はお見えにならないけれど、その背は酷く寂しそうに見えた。


なんとお声をお掛けしたら、あの方のお力添えになれるのだろう。それがわからなくて、あたくしは中庭に出て清才様の背をしばらく見つめた。冷たい雨が、髪や肌を伝い流れていく。


「……清才様」


 名を呼ぶと、清才様は反応を示してくださった。あたくしが後ろにいたことに気づいていらっしゃらなかったらしく、振り返った清才様は少し驚かれていらっしゃった。


妖退治の主人は、化け狸という妖であるあたくしの気配にすら気づかないくらい思い耽ていらっしゃったようだ。清才様はそんな失態を自覚なさったからか、あたくしから目を逸らすとふっと苦笑をお浮かべになった。


「随分と惚けてしまっていたようです」


まるで、独り言のようだった。


「……お風邪を引かれますから、どうか中へお入りください」


「そうですね」


 清才様は素直に頷き、まるで逃げるかのようにあたくしの横を通り過ぎて行った。その間、あたくしと目を合わせることは無かった。あたくしは、そんな清才様の避けるような態度で、貴族との仲違いの理由を察することとなった。


「やはり、あたくしはここにいるべきではないのかも知れませんね」


 雨に苛まれながら、あたくしは誰に言うでもなくこう呟く。橘は他人事のように、甘い香りを漂わせていた。



 濡れた女房装束から(むし)の垂れ衣姿に着替え、市女笠を持って清才様のお部屋へ向かう。


「清才様、少々宜しいでしょうか」


「構いませんよ」


 几帳の向こう側から清才様のお声が返ってくる。


「失礼致します」


 清才様も濡れたお召し物をお着替えになったのか、先程とは違う衣をお召しになっていた。書簡整理をしながら、あたくしの方に一瞬視線だけ向けると、また直ぐに目を逸らして作業を続けた。


「この雨の中、出掛けるのですか」


 どこか、冷めた口調だった。


「……ここを、出て行こうと思っております」


 遠慮がちにそう言うと、清才様の手が止まる。


「急にどうしたのです。……弟子にまたなにか言われたのですか」


「いえ、違います。あたくしのせいで、これ以上ご迷惑をお掛けしたくはないと思い、自分で判断致しました。……行く当てはございませんが、元は狸ですからいざとなれば山の中でも生きてゆけましょう」


 こう言っている間、清才様のお顔を見ることができなかった。化け狸という妖のあたくしが、清才様の女房として仕えていることに反感を抱いているお弟子様は、少なからず今でもいらっしゃる。


しかし、仕え初めよりかはかなり減っていた。女房としてあたくしが清才様に仕えると決まった時、多くのお弟子様が反対され、そのほとんどが清才様の元から離れて行かれてしまったのだ。中には、清才様のお部屋に怒鳴り込んで来た方もいらっしゃったし、あたくし自身も嫌がらせを受けたことがあった。


 今回の件はお弟子様ではなく貴族の方だけれど、貴族と通じているお弟子様はたくさんいるため、どなたかがあたくしのことを他言してしまったとしてもおかしくはない。それで屋敷にまで押し掛けて、清才様と仲違いをされたのであれば、もうあたくしはここにいてはならないと思った。


妖退治屋の主が、妖をそばに置いているなど多くの貴族に知られれば、清才様を気味悪がるに違いなかったからだ。もう、あたくしのせいで清才様にお辛い思いをさせたくはなかった。


「……琴音」


 清才様がそっとあたくしの名を呼ぶ。そのお声は優しい、いつもの清才様のお声だった。


「私はあなたことを、一度だって迷惑などと思ったことはありませんよ」


「……そのような嘘など聞きたくはありません」


 だんだんと、胸になにかが込み上げてきた。ぽたぽたと、雨漏りのように目から雫が落ちていく。


 清才様はいつだってあたくしの味方だった。その清才様のお言葉が嘘であるはずはないとわかっていた。しかし、たとえ嘘でなかったとしても、あたくしはそのお言葉に甘えることなどできない。身を裂かれるような痛みを心に感じながら、あたくしは必死に立っていた。


「琴音、あなたは気づいているでしょうが、私は一度だってあなたに嘘などついたことはありません。私は女房として尽くしてくれているあなたを、誇りに思っています。しかし、もし私に尽くすことが嫌になったのであれば、ここを去ることを止めはしません」


「嫌になることなど一つもございません!」


 清才様に尽くすことは、なにも苦ではない。むしろ光栄に思っているくらいだ。


「……不満はないのです。ただ、あたくしは妖ですから、そのせいで清才様に不快な思いをさせたくはないのです」


「……一体なんの話をしているのですか」


 清才様はついに困ったような顔をされた。


 どうしてあたくしはいつもこうなんだろう。いつだって、あたくしはこの方を困らせてしまう。まるで、貧乏神にでもなった心持ちがした。


 なにも答えないあたくしに、清才様はいよいよため息をついてこう仰った。


「琴音、顔をお上げなさい」


 戸惑いつつも素直に顔を上げると、清才様は肩を竦めて笑った。


「女が、そのような顔をするものではありませんね」


 そう言うと、清才様は袖口であたくしの涙を拭った。袖からは、清才様の優しい香りがした。どこか橘に似た、甘い香りであった。


 少しして幾分か落ち着くと、清才様は口を開いた。


「それで、どうしてここを出て行く気になったのですか」


 あたくしは戸惑いつつも、ゆっくり理由を述べた。


「……貴族様との仲違いに、あたくしが関わっているからだと思ったからです。避けていらっしゃったのは、あたくしのせいだからではないのですか」


 あたくしの言葉に、清才様は目を見開いて驚いてらっしゃった。しかしやがて、あたくしから目を逸らし、深く息をつかれる。


「あなたの言うとおり、私は無意識の内にあなたを遠ざけていたかも知れません」


 清才のお顔が曇った。やはり、遠ざけたくなるようなことをしてしまったのだろうか。


「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 意を決してこう問うと、清才様は観念したように軽く頷いた。それから、自嘲気味に笑う。


「全く、やっと話す気になりましたよ。――昨日いらした貴族の方は、わかりますね?」


「ええ、従者ではなく自ら赴かれる方は、とても珍しかったので」


「あの貴族は、妖退治の依頼をするためにいらしたわけではなかったのですよ。私にあなたへの恋文を渡しにいらしたのです。あの貴族は、あなたに求婚するつもりだったのでしょう」


「……え?」


「あなたをくれさえすれば、私の生活も一生面倒をみると仰いました。着る物も食べる物も、きっと苦労はさせない。だから、どうかお前の女房をくれないかと」


 みるみる顔が熱くなっていくのが、自分でもわかった。


「し、しかし、あたくしはあの貴族の方との面識は一切ございません」


「あなたは知らないでしょうが、私は存じていましたよ。私の付き添いであるあなたを、さも愛おしそうに眺めておりましたからね」


 全然気づかなかった。あたくしは恥ずかしさのあまり、顔を袖で隠した。このような顔を清才様に見られたくはなかったのだ。


「私は直ぐにあの方からの話を断ってしまいました。私より身分の高いお方であったとしても、あなたを手放したくは無かったのです」


 清才様から、そのようなお言葉が聞けるとは思っていなかったため、あたくしは目を見開いたままなにも言えずにいた。


「私が断ると、あの方は即座にこう問いました。『お前はあの女房と関係を持っているのか』と」


 ……ついに顔から火が出るかと思った。


 清才様とあたくしは、そんな関係ではない。あくまでも主人と女房であり、男と女の関係など、とても恐れ多い!


「私はもちろん否定しました。それならばと、その後もいくつか好条件を出されましたが、どれも拒否し続けました。その結果、どうなったかはわかりますね」


「……はい」


「定義からは、もし琴音を留めて置きたいのなら、その話はすべきではないと言われました。しかし、あの方とあなたが婚姻を結べば、あなたは今よりずっと裕福な暮らしができ、きっと幸せになるでしょう。そう考え出したら、拒否したことが本当に正しかったのかわからなくなってしまったのです」


 もしかして、それで清才様はずっと塞ぎ込んでらしたのだろうか。


「橘を見ながら貴族の妻として、笑顔を浮かべているあなたを想像していました。そして、私は私の独断で、あなたの幸せを奪ってしまったかも知れないと思いました。それがわかっていながらも、私は今まであなたに話すことを躊躇していました。本当に、我ながら浅ましいものです」


 清才様は尚も自嘲しながら首を横にお振りになった。


「信じては貰えないでしょうが、あなたが笑顔でいることが私の願いなのです。もし、あなたがあの方の妻になりたいと言うのなら、今からでも私が屋敷へ行って頼みましょう。あの方の屋敷は、他の貴族から聞けば直ぐに見つかるでしょうから」


 そう仰ると、清才様はあたくしの答えを促すように微笑みなさった。あたくしの心は、もう決まっている。


「清才様のお気持ち、とても嬉しゅうございます。しかし、あたくしの幸せは、贅沢をして気ままに暮らすことではございません。それに、何度も申しますがあたくしは妖です。もしあの方の妻になって、仔狸でも産んだらどうします」


 あたくしはたくさんの仔狸を抱えている自分の姿を想像して、ぞっとした。しかし、清才様は急におかしそうにお笑いになった。


「とても可愛らしいではありませんか」


「……冗談はさておき。できるならこの身が朽ちはてるまで、あなた様のおそばであなた様のことを見届けたいのです。どうかご迷惑でなければ、この化け狸をこれからもおそばに置いてくださいませ」


 あたくしは膝をつき、頭を垂れた。あたくしが顔を上げると、清才様は楽しそうに微笑んでこう仰る。


「それはつまり私の妻として、ということですか」


「……ちっ、違います! なにを仰るのですか!」


「おや、それは残念なことです」


 少しも残念ではなさそうだから、実に腹立たしい。でも、いつもの清才様に戻ったようで安心した。


 いつの間にか五月雨も上がり、部屋には日が差す。清才様のお部屋から見える庭にも橘が池の隅に植えられており、その白い小さな花は、雨の雫できらきらと輝いていた。


「香でも焚き染めましょうか」


「よいお考えですね。只今、ご用意致します」


 この日がきっかけで、五月になると決まってあたくしは、橘の香に似せた甘い香を焚き染めた。



――五月(さつき)待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする――

(五月を待ち、橘の花の香りをかぐと、昔の愛しかった人の袖の香りが薫ってくるものだ。)


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