1章:回転
きーきーきー。
軋むような摩擦音がマンションに囲まれた道路で反響する。
おそらく平均より歳をとった僕の自転車はなんとか前進しながら、冷たい世界に自身の存在を訴える。
鼻先から放たれる黄ばんだ光は自信なく前方を照らす。
「ふあぁ。」
顎が外れてしまいそうなぐらい口を開いた。
こればっかりは生理現象なので仕方がない。
欠伸でズレた分厚いマフラーを鼻の位置まで引き上げる。
目が乾燥していることに気が付いた。
瞼を意図的に閉じては眼球に潤いを与えようと試みる。
しかし、仕事を放棄した涙腺はそっぽを向いている。
深夜、この道を利用する人はあまりいない。
マンションの点々とした光も消えて行き、現在進行形で人の気配が希薄になっていくのがわかる。
この感覚はなんとも形容しがたい心地良さがある。
「ふふ。」
首を左右に振りながら、誰にも聞こえないように小さく口笛を吹く。
「・・・?」
良い気になっていた僕の目に予想外の情景が入り込んできた。
ちょうどマンションの4階くらいの高さのベランダ。
《裸の女性が手摺に両腕をあずけ、タバコをプカプカふかしている》
現在、冬様がそこそこらしさを見せはじめキンと冷える時期となったはずである。
ちょっとシンキングタイム。
脳内を整理する時間が必要だ。
「よしっ。」
人並みの正義感を持つ彼は、一時停車し勇気を出して声を掛けた。
「すいません。こんなに寒いのに大丈夫ですか。」
こちらの声が聞こえたのか定かではないが、彼女はこちらにすっと目を向けた。
部屋の光が背後から彼女を照らすので、表情ははっきりとは分からない。
微かに笑ったように見えた。
「ありがとう、お兄さん。別にヤケになったわけでも、彼氏に虐待されてる悲しい女でもないわ。ただ気持ちよくて。それにしてもなかなか素敵な自転車をお持ちのようね。」
「そうでしたか。」
僕は裸の彼女に気恥ずかしさを感じて目を背けた。
そして、正常な危機管理能力を持ち合わせている僕は、その場を直ぐに立ち去ることにした。
この人はおそらく変な人である。
後ろ髪引かれないわけではないが、本人が大丈夫と言うのなら、きっと問題ないのだろう。
「そうでしたか。お寛ぎの所すいませんでした。良い夜をお過ごしください。」
自転車のストッパーを蹴り上げ、再び帰路に着いた。
タイヤとアスファルトの摩擦熱がエネルギーに還元され、再び頼りない光が闇夜を刺す。
「お兄さんこそ、良い1日を。」
これから寝るまでに残された時間を思えば、少し変な言い方だ。
彼女の澄んだ声は暫く留まり、本日の公演の終了を観客に告げているMCのようだった。
そして、あんなにキーキー騒いでいた僕の自転車は良い子のように沈黙していた。




