後編
翌朝、レオノーラの呼びかけで起こされた。
外で寝ていたことに若干の混乱はあったが、頭の再起動が必要なくらいには寝入ることはできたようだった。
何だか体が痛い訴えるちとせに、まったく変調のなかった蓮は、そのせいでちとせに絡まれたうえ、レオノーラにほほえましく笑われ、朝からやたらと疲れてしまう。
レオノーラがてきぱきと朝食の準備を進め、蓮たちは邪魔にならないよう、軽い手伝いをこなした。
少し甘いおかゆのような朝食に、微妙な気持ちになりながらも完食はする。
食後は、早々にこれから先のことを話し合った。
宿場町の先にある関所を越えなければならないが、町には気がかりがあるという。
昨日、蓮たちの役に立ってくれたランドセルだが、例のブザー音のせいで、町民たちがかなり浮き足立っているかもしれないと、レオノーラは懸念していた。
無用な騒ぎを避けるため、蓮とちとせは外套のフードを被っているよう念を押された。
ただ、ちとせの赤いランドセルはやはり目立つため、置いていかなくてはならなくなる。
5年もの付き合いがあるランドセルとの別れに、ちとせが名残惜しそうにするので、レオノーラが後で必ず回収することを約束してくれた。
できれば蓮も、ランドセルを取り戻したいところだが、そんな勝手は言ってられない。
身支度と心の支度を整え、関所の開かれる時刻を待ってから出発することになった。
レオノーラを先頭に、ちとせと蓮が並んであとに続く。
側を離れてはいけないと言われたとおりに、手をつないで歩いた。
昨日、痛い目に遭わされた宿場町は、どこにも見向きせず、ただ通り過ぎるだけになる。
一直線に目指された関所の門前に、すぐさま辿り着くが、朝も早いはずなのに、けっこうな人で混み合っていた。
ただ、来る人来る人の顔色が、あまり良くない。
悄然とうなだれていて、くたびれている人ばかりのうえ、よく見れば蓮たちよりも幼い子供たちまでちらほらと見て取れた。
おそらく、神領地グランリーゼから逃げだそうとしているのだろう。
昨晩、レオノーラから聞いた話から、蓮がそれを推し量ることは難しくなかった。
「国境線には呪がかかっています。あらかじめ決められた透き目からでないと、絶対に入れないようになっています。関所は、その場所を守るためのものにすぎません。私たちには、アルトルベーヌより発行された通行証がありますから、順番が来ればすぐに通りに抜けられますよ」
レオノーラが小さく蓮に伝え、蓮はちとせに伝えた。
どうやら何事もなく関所を越えられそうな雰囲気に、少しだけ複雑な思いがあったが、蓮とちとせはフードの下で小さく笑い合う。
このまま関所を越えられたら、アルトルベーヌ領に入る。そうしたら、アルトルベーヌ様とやらに会うんだろうか。きっと本物の神さまだ。ちとせとは知り合いなんだろうか。
本物の神さまと話しているちとせを想像して、蓮は笑みを含んだ。
そして―――
「…………」
蓮はその先のことを考えようとして、思考が急停止した。
そもそも、何のためにアルトルベーヌ領へ行くのだったか。
ちとせは、アルトルベーヌ領で別の神さまに保護してもらうためで、そして蓮は―――
「……ちとせ」
「なに?」
「……オレを、元の世界に帰すって言ってたよな」
「うん。だって……レンくんは帰らないと」
「…………」
―――なら、ちとせは?
答えの分かりきっている質問をするようで、蓮はその先を聞けなかった。
する必要なんて無いのに、ちとせの手がちゃんと自分の中にあるのか確認していた。
そうして何も言えないまま、時間だけが経つ。
列に並ぶ人たちの進みは遅かったが、順番は確実に回ってきていた。
少し気になることがあるとすれば、関所に入った人の数と同じくらいだけ、出てくる人が多いことだろうか。
関所を通過できなかった人たちは、一様に打ち拉がれ、足取りもひどく重かった。
やがて門番の顔や、関所の門扉が木材と鉄枠で出来ていることが、目視で確かめられるくらいまで近づいた時、突然、蓮のフードが外れた。
風が吹いたわけではない。見れば、ちとせのフードも外れている。
「こいつだっ! このガキが、グランリーゼだっ!」
男の怒声が、蓮の横手から飛んだ。
驚きに固まる蓮をよそに、レオノーラが素早く動き、その前に立った。
「俺は見たんだ! そいつがあの呪詛の箱をこの町に運び込んで来たんだっ!」
周囲からどよめきが上がった。
がなり立てる男の正体に蓮は気付く。昨日、蓮とちとせを襲ったごろつきの一人だ。
いきなり蓮の腕が引っ張られた。
ちとせとは逆方向の力にたたらを踏んだが、どうにか踏みとどまり、腕を引き返す。
いち早く察したレオノーラが、蓮を引っ張った男の腕を捻りあげて引きはがし、片手で押し出すようにすれば、男は豪快に地面へと転がった。
「我々に触れようとすれば、ただでは済ましません」
レオノーラの叱声に人混みが割れていく。蓮たちを取り囲むように離れていく。
蓮の腕を掴んだ男を、ごろつきの男が助け起こしていた。
起こされた男は、恨みがましい目つきでレオノーラを睨む。
げっそりとやせこけた頬に、落ちくぼんだ目。けれど、その目が異様にぎらぎらと光ってっていた。
「私は、グランリーゼを祀っていた神殿の元神官だ」
がらがらとした聞き取りづらい声で男は言った。
「その少年が、グランリーゼかどうか確かめさせてもらいたい」
蓮はようやく、自分がグランリーゼと間違えられているのだと知った。
ちとせに手を引かれる。状況が分からず、戸惑い気味に蓮を見ていた。
だが、今の事態を説明しようにも、下手に何かを言えば周りの人間に聞かれてしまいそうだった。今ここで、本物のグランリーゼが誰なのかを悟られるのは避けるべきだった。
「……大丈夫。レオノーラさんがきっと助けてくれる」
それだけを囁いて、ちとせの手をなだめるように握り返す。
「昨日の騒ぎは知っているだろう、あれはグランリーゼが復活する前兆だ。そして、その箱を持っていたのが、その少年だ。ここに証人がいる!」
指し示されたごろつきの男は、したり顔で笑っていた。
「変わった格好でうろうろとしているから、おかしいと思ったんだ。そうしたら、あの恐ろしい箱で脅されたんだ」
男は、信じがたい大嘘を吐いた。
周囲が益々ざわついていく中で、レオノーラの冷静な声がきっぱりとはねつける。
「彼は、加護持ちの神子に過ぎません。昨日は、そこの男たちに襲撃されたため、神々が神罰を下されたのです」
「――お前、神殿騎士だな」
元神官だという男が、突如口走った。
「――なにを」
「さてはグランリーゼを別の神領地へ送り届ける途中だろう。そうだ、手の甲を見せてみろ。そこに証しがあるはずだ」
レオノーラの言葉など、まるで取り合う様子のない男は声高に言い立てる。
「どうした? 何故見せられない? 分かっているぞ。お前が、本物の神殿騎士だからだろう。気位の高い神殿騎士様が、かばい立てしていることが何よりの証拠じゃないか。その子供はグランリーゼだっ!!」
元神官は、引きつった声で笑い出す。
正気じゃない。そう判断するのに充分なほど、要領を得ていないように見えた。
「言え、どこの神に渡すつもりだっ。いや、待て。アルトルベーヌだな。この先の神領地はアルトルベーヌだからな。私たちも連れて行け、アルトルベーヌへっ!」
その時、前方の人垣が、にわかに騒がしくなった。
警戒して目をやれば、眼前に入ってきたのは、二人の門番によって関所の門扉が閉められいく光景だった。
「レオノーラさんっ」
思わず呼べば、レオノーラは視線だけをくれ、閉じていく門扉を視界に入れた。
焦燥を目元ににじませながら、彼女は男たちに向き直った。
「おいっ、神殿騎士っ! 止めさせろ!」
「……私に、そんな権限はありません」
「ふざけんなっ! 止めさせろっ! 止めさせろっ! 止めさせろっ!!」
「…………」
元神官の男が散々とわめくが、レオノーラは抜け目なく対峙するだけだった。しかし、そんな悶着の合間にも門扉は閉められていき、ついに完全に閉じられてしまう。
「くそっ、腰抜けの役人どもめ。自分たちに火の粉が降りかかる前に閉じやがったな。どいつもこいつも保身に走りやがってっ」
ぐぎり、と音が鳴るほど歯ぎしりをしながら、元神官が吐き捨てる。
この男が言っていることが正しいのかは分からないが、門扉が閉じられてしまった事実は変わらない。これからどうするのか、蓮はレオノーラの背を見上げた。
閉め出されことで騒然とする周囲の中、彼らを見渡していた元神官が不気味に笑う。
「聞けっ、お前たちっ! グランリーゼを連れて行けば、必ずアルトルベーヌに迎え入れてもらえる。他領の神々はグランリーゼの帰還を心待ちにしているからな。引き渡せば、必ずや領民権を得られるだろうっ!」
高らかに謳いながら、何の根拠もない妄言をのたまう。
けれど、元神官の言葉に、遠巻きにしながらも耳を貸す人は多かった。
「彼は、加護持ちの神子です。神の寵愛を受けられている。彼に手を出せば、神罰が下ると思いなさい」
「はははっ。何を言っている、我々はとうに神から見放されているじゃないかっ。それも、とばっちりもいい咎でな。一部のやつらが犯した罪のせいで、私たち全員が今こうして割を食っている」
その言葉が、何かしらの琴線に触れたのか、ざわざわと落ち着きのなかった取り巻きの声が、小さく嫌な囁き声に変わっていく。
「この際、神子だろうと、グランリーゼだろうと、どっちでもいい。本物の神殿騎士を従えているんだ。それなりの地位にあるはずだ。本当に神罰を下せるなら尚更なっ!」
差され指の先に立つレオノーラは、打つ手がないのか、黙ってしまっている。
「いいか、早い者勝ちだぞ。まず子供を人質取れ。そうすれば、そこにおられる神殿騎士様は我々と交渉せざる終えなくなる。なに、恐れることはない。晴れてアルトルベーヌの領民になれれば、グランリーゼを恐れる必要もなくなるんだっ!」
少し考えれば、そんな道理が通るはずがないと分かるはずだ。それなのに、どこか他人事にしていた何人かの人たちが、剣呑な光を宿すのを蓮は見た。
ここにいるのは皆、追い詰められた人たちだ。わずかにでも可能性があるのなら、それに取り縋ってしまっても可笑しくなかった。
「さあ、どうする。このチャンスを逃せば、死ぬまでグランリーゼの土地に閉じこめられるぞっ!!」
狂ったように高笑いをしながら、周囲をあおり立てていく。
蓮は焦り感じていた。元神官たちが、ぶつけてくる悪意のせいではない。
さっきから、ちとせが表情を失っている。それが蓮には恐ろしかった。
言葉が分からないちとせのストレスが、限界に達しようとしている。
狙われているのはちとせではないが、蓮が捕まってしまったら、それこそちとせが何をするか分からない気がした。
早くどうにかしなければと、状況の打開を求めた時、場違いな鳥の一声が響き渡る。
やけに近い鳴き声に見上げれば、大きな鳥がすぐ上空を旋回していた。
「死にたくなくば、お下がりなさい」
レオノーラが淡々と発した。
彼女の前に立ちはだかる元神官の男は、高笑に顔を歪めたままレオノーラに目をやる。
「―――下がれっ!!!」
空気を震わせた一喝に、男は気圧されたように数歩退いた。
もう一度鳥が鳴く。
ゆるやかにに身を翻し、急降下したと思った一瞬後には、わずかな地響きを立てて衝突していた。
たった一人を除いた、その場の全員が口をつぐみ硬直する中、鳥が目標とした場所には一本の剣が大地に突き刺さっていた。
なめらかに艶めく白銀の刃に、精緻な装飾の施された柄。
どこか現実感のない、神聖な威容を見せつける、一振りの剣。
レオノーラが外套の下から手を伸ばす。
手袋に隠されていたはずの右手が露出しており、ちらりと見えた彼女の手の甲には、赤石を中心にして蔓のような入れ墨が手首にまで広がっていた。
レオノーラは、その手でごく自然に剣を引き抜くと、振り返った。
「レン様、チトセ様、こちらに」
言って彼女は、蓮とちとせを伴って関所の門扉の方へ歩き出す。
人集りがすぐさま、道を空けるように左右に開いていった。
「こうなっては、関所の人間も信用なりません。いつ、この者たちと同じ考えに囚われるか、知れたものではない」
「……じゃあ?」
「関所を破ります。お二人は、どうぞ私の後ろに」
関所を破るとはどういう意味かと尋ねる前に、門扉の真っ正面に着いてしまい、レオノーラから下がるよう指示された。
蓮はちとせへ簡潔に説明して、レオノーラの背から出ないよう、ちとせを抱き寄せながら、後方で成り行きを眺めている一団たちに注意を払った。
剣を体の前に構え、レオノーラが静止する。
凛とした背中から、金属と金属が触れ合う、きいんとした音波が皮膚をざわつかせた瞬間、木材と鉄枠でできた門扉へと突き刺すような一撃が繰り出された。
背中に隠れていた蓮に分かったのは、強烈な爆砕音と、荒れ狂った暴風圧。
砂塵が舞い、視界を妨げるが、レオノーラの後ろにいる蓮たちには不思議と砂煙を被ることは無かった。
辺りが見えるようになり、脇からそっとのぞいて見れば、破ると言ったレオノーラの言葉通り、関所の門扉は大破していた。
建物から門番らしき兵士たちが顔を出したが、レオノーラの姿と携えた剣を見るなり逃げ出していく。
「――参ります。できるだけ側を離れないでください」
レオノーラに従い、ただのアーチとなった門を通り抜け建物の中に入るが、門扉だったものは本当にばらばらで、下敷きになった人などは見受けられない。
建物の中は、二つに別れた通路になっていた。
左に曲がり、小走りに歩いていく途中で何人かの兵士に出くわすが、全てレオノーラがなぎ倒していく。さらに二つの角を曲がれば、階段のある場所に出た。
するとレオノーラは、階段下にある窪んだアルコーブに入るよう指示し、人差し指を立てながら三人で物陰に潜むことを促してきた。
しばらくすると、大勢の人間が駆け込んでくる足音が聞こえくる。階段下の物陰から見ていれば、門前で関所の取り調べを待っていた人たちが流れ込んできていた。
「……あの、大丈夫なんですか? アレ」
「いいえ全く。あとで、もの凄く怒られると思います」
次から次へ不法侵入を果たしていく人を見ながら、レオノーラは苦笑を浮かべる。
「ですが、この混乱に乗じましょう。上へ」
「上ですか?」
「はい。すぐそこにもう一つの門があり、それを通り抜ければアルトルベーヌとの国境ですが、さすがにその門を壊すわけにはいきません。ですので、上から越えます」
「え、どういうことですか?」
「大丈夫ですよ。お二人を抱えて飛び降りるくらいはできますから」
「えっ」
あまり押し問答をしてられないのだろう、人の流れが途切れた頃合いを見計らい、レオノーラはやや強引に蓮たちを階段へと急き立てた。
蓮は階段をのぼりながら、この先に待ち受けていることをちとせに伝える。
驚きを声と顔で表したちとせに、蓮は気付いた。きちんと表情が戻っている。
けれど、やはり今はそんな場合ではない。ちとせの腕を引きつつ階段を上った。
レオノーラはどんどん上を目指していく。
他の人が跡を追ってこれないような高さが必要なのだと、彼女は話してくれた。
しまいには階段をのぼりつめ、城壁の上に出た。そこは吹きさらし渡り廊下のようになっていて、広がった青空からは体を押されるような強風が吹き込んでくる。
レオノーラは背の高い石壁から顔を出し、国境線の場所を見定めた。
「俺も連れて行け」
完全に虚を衝かれた。
声に見向けば、元神官の男が立っていた。
一人ではない。男の腕には、小さな女の子が抱えられていた。
恐怖に顔を強ばらせ、浅い呼吸を繰り返している少女の喉元には、鈍い光を放つ刃物があてられていた。
「俺を、他の馬鹿な奴らと一緒にするなよ。神殿騎士様が考えることくらい、お見通しなんだよ」
何の関係もない少女を人質に取った元神官は、勝ち誇ったように言い放った。
間の悪いことに、男と反対側からも人影が飛び出してくる。
武装した数人の兵士が、階段を上ってここまで追跡してきていた。
「おいっ、止まれっ!! そいつらは俺のエモノだっ、手を出すなっ!!」
元神官のわめきに、兵士たちは途中で止まった。刃物を向けられている少女を見付けたようだった。
それでも、元神官と兵士の間に挟まれてしった状況に違いはなかった。
レオノーラなら少女を助けるのは、それほど難しくないように思えた。
しかし、少女を助ければ、蓮とちとせが兵士たちに捕らえてしまう可能性がある。
レオノーラはグランリーゼの護衛するためにいるのだから、みすみす危険にさらすことは出来ない。武装した兵士に、ちとせか蓮のどちらかを傷付けさせてまで少女を助ける義理はきっとない。強行突破のカケに出るには、レオノーラの方に利がなさすぎた。
ある種の膠着状態におちいったように、その場の誰もが動かなくなる。
だが、他に道はあることを、蓮は気付いていた。
レオノーラの外套をこっそりと引いて、できうる限り声を落とす。
「――先に、行きます」
ぴくりと、レオノーラの肩が反応する。かなりの長考を置いたあと、首を縦にゆらした。
「……かまいません」
「おい、何を喋ってやがるっ。勝手に動くなよ、このガキが死ぬぞっ」
蓮はかまわず動いた。
石壁に足をかけるようにして駆け上ると、幅の狭い壁の上に難なく直立する。
元神官の注意が蓮に逸れ、それを見逃さないレオノーラが走った。
「ちとせっ、こっちに来いっ!!」
「―――レンくん? え、レンくんっ?!」
何をするつもりなのか、察したのだろう。ちとせの声が裏返っていた。
ひと拍ばかり遅れて、兵士たちも動く。
「早くっ!!」
ちとせは伸ばされた蓮の手を掴み、同じように壁をのぼろうとしたが、その体は軽々と引き上げられる。
蓮の首と頭に抱きつけるようにすれば、ちとせの腕がしっかりと回された。
まともな神経ではとてもじゃないが出来ない。絶対に普通の精神状態ではない。だから何にも邪魔されず、やるべき事に蓮は突き進む。
レオノーラが元神官を殴り倒すのを垣間見てから、ほとんど躊躇いなく、石壁から飛び降りた。
どこにも拠り所のない中空へと投げ出され、真っ直ぐに落ちていく。
体中の血液が行き場を失い、呼吸の仕方すら分からなくなるような極限状態。
激しく風を切る轟音が耳を攻め立ててきたが、それでもちとせの名を叫んだ。
抱きしめ返す腕に、力がこもった気がした。
とたん、指先から、足先から、肌が粟立ち背中へと抜けてく。
痛くないのに破れるような感覚に囚われたあと、くんっと体が空に引っ張られた。
浮き上がったと錯覚するほど、いっきに落下速度が遅くなり、それを知覚した蓮の体は、肺から大きな空気を吐きだした。
「はあぁぁ、良かった。ちとせは―――」
首を巡らせると、背後に何かあった。
白くて、大きな、二枚の、何かが、蓮の後ろで羽ばたいている。
「――え、何…これ」
羽根だ。翼だ。一対の両翼だ。
白い翼が大きく動くたび、羽根の細片が舞い、祝福のように降り注いでいく。
「……わぁ、キレイ」
ちとせが呑気につぶやいた。
蓮は、あ然と自分の背中から生えているものを見上げる。翼の動かし方なんて分からなかったが、翼は勝手に羽ばたきながら地上へと滑空していった。
「…………」
確かに、ちとせが与えてくれる加護を切り札にして、蓮は飛び降りた。
けれど、ここまでやれとは言ってない。
レオノーラの鳥から着想を得たのか。蓮は違うと思った。どちらかといえば、“あっち”の少女趣味的なものに影響されているに違いなかった。
そうこうしている内に、足が地面に着いたので、ちとせを降ろす。
もう落下しなくなったからか、背中の翼は空気に溶けるようにして散っていった。
無事に地上へ降りられたことよりも、翼が無くなったことに蓮は安堵しながら、残していったレオノーラを案じて城壁を見上げた。
すると、彼女は手持ちの剣をフックのようにして、城壁を徐々に降りている最中だった。
かなり高い位置から城壁を蹴って離れると、自然落下に身を任せるまま降下し、華麗に着地する。
「こちらに」
何事もなかったように、レオノーラはちとせと蓮の誘導をはじめた。
穏やかそうに見えて、実はすごく猛々しい人だったことに蓮は驚嘆していたのに、歩き出してしばらくすると、彼女はぽつりと爆弾を落としていく。
「美しい、天使様でしたね」
危うくコケそうになった。
「――――……こっちにも、いるんですか、天使」
「ええ、おります。天主様の御使いですが、実際のお姿を拝したことはありませんので絵姿のみですが、本物は素晴らしいですね」
「本物じゃないですよっ!」
あらぬ誤解を全力で否定し、それからちとせを睨んだ。
「……ちとせ、お前のせいだぞ」
「え、なに?」
「……だから、何で羽根なんか生やしたんだよ」
「えー、かっこ良かったよ。レンくんにぴったり」
「やめろっ、はずいっ」
蓮は厳しく叱ったが、ちとせはまるで意に介していないようだった。
****
城壁を越えれば、国境線はすぐそこだった。
人質にされていた少女は無傷で助けることができたと、国境を無事に越え、手にしていた剣を鳥に戻しながらレオノーラが教えてくれた。
アルトルベーヌ側の関所にいた門番に通行証を見せれば、あっさりと通してくれた。
関所にはいると、レオノーラは向こうの関所で起こした一騒動を上級役人に報告するため、自らの身分を明かした。それなりの時間を関所で取られることになったが、その間、蓮とちとせは別室でもてなされ、昼食までごちそうになった。
ただ、人が近くを行き来するたび、ひそひそと天使だとか何だとか聞こえてきて、蓮は今すぐこの世界の言葉が分からなくなりたいと切実に願った。
羞恥の筵を頭から被るような時間を蓮はどうにか遣り過ごし、昼もかなりすぎた頃、やっとの思いで関所の門扉をくぐることができた。
関所の外には、グランリーゼ領と同じように宿場町があった。
向こうよりは町の景観が整備されている気がしたが、あまり人気はない。今のグランリーゼ領に好きこのんで近寄る人が居ないのなら、当然のなのかもしれない。
閑散とはしていたが、時々見かける人たちは、のんびり安穏とした生活を送っているようだった。
「今日は、どこかの宿に泊まるんですか?」
「いえ、町の外に専用の馬車が用意されているので、そちらにお乗り下さい」
レオノーラに案内され、木材の囲いがされた町の外まで黙々と歩く。
囲いの入り口に立つ見張りの側には、レオノーラの述べたものらしい馬車があった。
簡素な黒塗りだが、要所にはきちんと金装飾が施された上品な箱形の馬車で、二頭の栗毛の馬がくびきにつながれていた。
「アルトルベーヌ様より、特別に加護をたまわった箱馬車です。このまま一昼夜を走り抜けて、最寄りの神殿へと向かいたいと思います」
馬車にはじめて乗る蓮は、馬車そのものには興味があったが、三人が一昼夜を過ごすには、やや手狭な気がした。
レオノーラが扉を開け、ちとせと蓮に乗車を促す。
興味本位にのぞき込めば、車内には座席がなく、代わりに下へと続く階段と手摺りがあった。
「……階段が、あるんですけど?」
「ええ、その階段をお降り下さい。お部屋のご説明をさせていただきます」
―――馬車に部屋?
疑問符が頭の上に浮かぶが、ちとせと蓮はひとまず階段を降りることにした。
馬車の質量を考えれば、常識的にあり得ない地下へとおそるおそる足を運ばせていく。
すでに光の灯されていたランプよって、二人の眼前に照らし出されたのは、テーブルとソファが備え付けられたリビングルームだった。
下手なキャンピングカーより広うえ、見るからに高級そうな家具が揃えられていた。
「寝室がちょうど二つありますので、チトセ様とレン様でお使い下さい。それと、キッチンと浴室と洗面所もありますのでご安心ください」
レオノーラの言葉通り、二つの寝室と簡易キッチン、風呂トイレまであった。
「……加護って、生き物じゃなくてもいいんですね」
「そうですね。けれど、全てがアルトルベーヌ様の大地より生まれ出たものから作られていますから、ことごとく我が主神の庇護下にありますよ」
へー、と半ば感心したあと、レオノーラから部屋を使用するにあって説明を受ける。
まず簡易キッチンで火の入れ方の手解きを受け、食べ物や飲み物、着替えなどのありかを教えてもらう。二人はレオノーラについて回るのが、はじめて来た他人様の家を探検するのに似ていて、妙な楽しさがあった。
ひと通りの説明をし終えると、レオノーラは馬を走らせる御者をするために、階段を上がって行ってしまう。
ちとせと蓮は何はともあれ、まずお風呂に入ることにした。もちろん、それぞれ順番に。
一日入っていなかったから、さっぱりしてようやく人心地ついた気になる。
寝るにはまだ早いが二人とも寝間着に着替え、リビングで果実ジュースをいただいた。
車内には馬車の駆ける振動が伝わっていたが、それほど気になるものではない。
ただ、地下にいるはずなのに、リビングには窓があった。
馬車の振動に合わせて風景が流れていくからには、正真正銘、外の景色が映し出されているようだった。
二つあるソファにそれぞれ座り、ジュースを飲みながら、二人ともぼんやりと窓の外を見ていた。
数時間前には、あんなに慌ただしく駆け回っていたのに、今はゆったりと馬車の旅をしているなんて、蓮はなんだか信じられなかった。
地平線まで見渡せる雄大な広野を眺めていると、よりいっそう頭が空っぽになってくる。
ちとせがはっとしたように蓮の方を見向いた。驚いたように目を丸くしているが、その視線はずれていて蓮の隣りを見ていた。
ちとせの視線を追い、隣を見た。見知らぬ少女が座っていた。
「――うわっ!」
声を上げて距離を取る。得体の知れない少女を探るように見た。
年の頃は蓮たちと変わらない。ハイウエストのドレスを着ていて、翡翠色の髪をソファに垂れるほど長く伸ばし、化粧の栄える美しい顔の作りをしていたが、長い睫毛のに縁取られた目蓋を固く閉じており、まるで等身大のお人形のようだった。
「……アルトルベーヌ?」
「うふふ。お久しぶりですねリーゼ」
アルトルベーヌと名指しされた少女は、ころころと鈴を転がすような声で笑った。
「え、ほ、本当に、本物の神さま、ですか?」
「ええ、そうですよ。はじめまして、キノシタ・レン」
目を閉じたまま挨拶をされた。しかも、名前を知られている。神さまなのだから、どこから見ていたのかもしれない。
「アルトルベーヌ、どうしてここに?」
「まあ、ご挨拶。わたくし待ちきれなくて、会いに来てしまいましたのに」
「それは嘘。アルトルベーヌは、そんな人間みたいなことはしない」
「リーゼは相変わらず、お茶目が通じないなのね。昔は手の付けられない真面目ちゃんだったから、もっと柔らかくなっていると思ったのに」
「アルトルベーヌは、分かりにくい冗談を言うから、付き合うのが疲れるだけ」
「ひどいわ。こうして無力な貴女に手を差し伸べてあげているのに」
「そうしないと自分も困るからでしょ。それで、何しに来たの?」
ちとせと直接言葉を交わしている。神さま同志なのだから当然なのかもしれないが、それだと蓮は、蚊帳の外にされた気分になってしまう。
「神殿では何かと格式張らないとなりませんから、気楽にお喋りできなくなる前に、確かめたいことがあったのです」
言って、彼女は蓮を見た。目蓋は閉じられているのに、強い視線を感じた。
アルトルベーヌは、おもむろに両手を伸ばしてくる。
爪を華やかに飾り立てた手が蓮の頬をそっと包んだ。
ひんやりと冷たくて、触れられている感覚すらなかった。
「まあ、本当に加護をかけられているのですね。こんなにも理が違うのに、不思議ですわね」
「アルトルベーヌ、レンくんに変なこととしたら怒るからね」
やたら撫でまわされた後、気が済んだのかアルトルベーヌは蓮を放し、ご満悦といった声でほがらかに続けた。
「加護を与えられるならば、その体のままでも大地の循環をさせられる可能性も高いでしょう。グランリーゼが神領地に戻るなら、“あの馬鹿”の処遇も見直すことができます。実に楽しみですわ」
何やら黒い笑顔で、ふふふと笑い出す。
あの馬鹿というのが誰なのか、察するものはあったが蓮は何も言わないことにした。
「それよりも、リーゼ。本当にその体から出なくてもよいのですか? 異なる世界のものとはいえ、人間の体ですよ」
その言葉には、人間、という部分がやけに強調されていた。
ちとせはアルトルベーヌを見つめ、しばらくしてから口を開く。
「……違う理を組み込まれてしまっているから、簡単に出ることはできないと思う。もしかしたら、器を破壊することになるかもしれない」
蓮はちとせを振り返っていた。
「でもね、この体はとても大切なもらい物だから、それはしたくなくて」
「…そう。リーゼがそれを望むなら、わたくしに異論はありません」
目蓋は開かれないままだったが、アルトルベーヌは艶やかに微笑んだ。
「では、そろそろ。もう少しお話ししていたいところですが、お暇することにします」
優雅な仕草で立ち上がれば、彼女はちとせと蓮を交互に見下ろした。
「明日、子午線を越える前に、この馬車はわたくしの神殿へと到着するでしょう。そこでキノシタ・レンを元の世界に帰します。それまでに済ませておくことを、きちんと済ましておきなさい」
アルトルベーヌはそう言い残すと、瞬く間に光の粒子となって消えていった。
もしかしたら、そこに実体は無かったのではないか。
それくらい綺麗に、アルトルベーヌは跡形もなく去っていった。
ちとせは、そのあとすぐに夕食の準備をしよう、と蓮を誘った。
蓮は、思うところがなかったわけではないが、彼女の提案にうなずいた。
簡易キッチンの保冷庫には、色々の食材と調味料が置いてあったので、レオノーラへ今日のお礼も兼ねて、何か美味しいものを作れないかを二人で話し合った。
夕食もいいけれど、女性なのだから甘いデザートの方が喜ばれるのではと、ちとせが提案し、紅茶用の生クリームがあったので、それと他の材料と照らし合わせた結果、ホットケーキなら作れそうだった。
しかし、作ったことのあるホットケーキは市販のミックスを使ったもので、生地そのものの作り方は分からなかった
どうしたものかと悩んでいると、蓮は突然とひらめく。
「あ。生地は、薄力粉200g砂糖40g片栗粉10g塩をひとつまみを一度全部混ぜてミックスを作ってから、卵1個と牛乳100gをしっかり混ぜたものにミックスを加えてさっくり混ぜる。ふくらし粉のベーキングパウダーがいるけど、卵白をメレンゲにして代用すればフワフワになるはずだよ」
「すごい。よく知っているね」
「え、あ、うん。……あれ、何で知ってるだろ。作ったことないのに」
「…………」
「…………」
生地を作ったことはないが、漫画かテレビで作り方を見たことがあった気がした。
とうてい思い出せない些細な記憶のはずだが、何故か急に思い出した。思い当たる原因はひとつしかなかった。
「…ごめん」
「いや、いいよ。わざとじゃないんだし」
謝るちとせに、蓮は話題をさっさと切り替えて、料理の取りかかれるようにする。
夕食のメインは、お肉の塊があったので、ステーキかハンバーグのどちらがいいかを考えて、手作り感のあるハンバーグにした。
それと、ポテトサラダに野菜スープも添えることにする。
ジャガイモをゆでながら、肉をミンチにする作業は、蓮が担当した。どうにも普段より腕力があるようなので、さくさくと刻んで挽肉にしていった。
ちとせは、作り方を知っている蓮のレシピを聞きながら、十進法の計りを使ってメレンゲ入りのホットケーキとホイップクリームを作り、フルーツなどを小さく切っていった。
料理を完成させるのに3時間以上をかけてしまったが、時間をかけた分だけ、出来映えも上々に仕上がった。
窓の外を見れば日はとっぷりと暮れており、ちとせはかなり疲れていたけれど、蓮はそれほどでもなかったので、蓮がレオノーラを呼びに行く。
馬車が止められて、二人で準備した夕食の席にレオノーラを招待した。
彼女は二人の力作を絶賛してくれた。夕食を自分たちで作っていたことには気付いていたようで、ちとせと蓮が交互にメニューの解説するのを嬉しそうに聞いていた。
ポテトサラダに近い料理はあるようだったが、ハンバーグという調理法ははじめて見たようで、もの珍しそうにしなが食べる様子が面白かった。
そしてやはり、一番喜ばれたのはホットケーキだった。フワフワした甘い食べ物というのが彼女の女心を掴んだらしい。うっとりとした様子で完食してくれた。
「これが異世界の知識ですか、危険な甘露ですね」
食後のお茶を飲みながら、そう漏らしたレオノーラに笑ってしまう。
「ホットケーキもいいけど、お菓子の王様といったらやっぱりチョコレートだよね……」
「チョコか……作り方は分かっても、簡単には作れないよね」
ちとせのぼやきに返事を返してしまうと、ちとせが強く反応した。
「……作り方、わかるの?」
「え? うん、たぶん」
きらきらとした瞳で迫り寄ってくると、蓮の手を取った。
「レンくんレンくん、とりあえず、チョコの作り方はぜんぶ書き起こしておこうか。あとケーキとか、カレーとか、マヨネーズとかも」
目が本気だった。
ただの料理とはいえ、異世界の知識を広めてしまってもいいのか迷って、レオノーラに相談してみれば、危険な甘露だとか言っていたはずなのに、彼女からも力強く懇願されてしまった。
二人から迫られては断り切れず、蓮は作り方が分かっている料理やお菓子の書き起こしを1時間くらいやらされた。
レオノーラは、浴室で汚れを洗い流しすと、ちとせと蓮に就寝のあいさつを述べてから、馬車の御者に戻っていった。
蓮たちは、使った食器や調理器具をそれぞれ片付け、すべてを元の場所に返し終わるとリビングに戻る。先に片付け終わっていたちとせは、窓の外を見ていた。
蓮はなんとなくその隣りに並び、彼女に倣って星々が空一面の散りばめられた、夜の風景に目をやった。
レオノーラは、今夜も徹夜して馬車を走らせてくれている。
だから、この地下で一晩過ごすのは蓮とちとせの二人だけになる。
蓮は、アルトルベーヌが最後に言った言葉を思い出していた。
―――済ませておくことを、きちんと済ましておきなさい。
あれはきっと、自分に対して言った言葉なのだと蓮は思っていた。
ちとせに言いたいことがある。言わずにこの先を迎えてしまえば、きっと後悔すると思うから、アルトルベーヌの言葉はなおさら身につまされる。
けれど、どうやって切り出せばいいか、その仕方が分からなくて、蓮はきっかけとなるような会話を探した。
「えっと、そういえば……こっちに来るためにあっちの土地神さまに力を借りたって聞いたけど、それってあの神社の?」
「うん、そうだよ。本当はすごい神さまなんだから、ちゃんと敬ってお祀りしないと駄目なんだよ」
「うっ……、それに関してだけど、オレ昔、あそこのお社にのぼったことあるんだけど、罰が当たったりするのか?」
「ああ、それなら大丈夫。あそこの神さまは、子供が大好きだから。あ、でも。大人になってもやったら怒られるよ」
「やらないよっ」
蓮は声を大きくしていたが、言いいたいことは、もちろんそんなことではない。
こんな遠回しの言い方では、きっと駄目なのだと思い知る。
それでも顔を見ては言えなくて、窓の外を見つめながら心を決めた。
「――ちとせの言っていたこと、信じなくてごめん」
ん? と聞き返してくるから、蓮は少しだけテンパった。
「だから、ちとせが昔から言ってた、違う世界のこととか、神さまのこととか、たくさん話してくれたけど、オレ全然信じなかったから」
ふふ、と彼女は小さく笑った。
「信じなくては当たり前だよ。子供の言ってたことだもん」
「……怒ってたり、しないか?」
「怒ってないよ。私も分かってて言ってたんだから、怒るわけないよ」
「――なら…ならさ、明日はちとせも一緒に帰ろう」
脈絡がめちゃくちゃなのは分かっていたが、そういう風にしか話せなかったから、蓮は懸命に続けた。
「だって、なんか怖いよ、神さまなんて。レオノーラさんから聞いた。グランリーゼに起こったこと。人間に裏切られてたって、酷い目に遭わされたんだって」
「…………」
「だったら、助けてやることないじゃん。自業自得だろ。なんか、グランリーゼを逆恨みして悪く言っている奴らもいるみたいだし。そもそも――そもそもさ、ちとせがやらなきゃいけない事なのか?」
「やらなきゃいけない事だよ」
間髪入れず即答されて、蓮はぐっと言葉を飲み込む。
「私がこっちに居なきゃ、たくさんの命が何の意味もなく死んじゃうの。私から生まれた私の子供たちがみんな腐って死んでしまう。今この時だって、きっと苦しみながら死んでいる。それがものすごく辛いって、私の人間じゃない部分が訴えてくるの。だから―――」
「―――じゃあ、おじさんとおばさんは、どうするんだよ」
ちとせの表情がはじめて崩れた。
泣きそうなくらい顔を歪ませたが、すぐさま顔を伏せてしまい、ゆっくりと上げた時には、もうそこに泣き顔はなかった。
「あのね、私ね、本当は人間に生まれたことがすごく嫌だった。またムリヤリ閉じこめられたみたいで、すごく不快だった」
きっと誰にもしたことのない、その告白をするちとせは、知らない人の顔だった。
けれど、次の瞬間には、満面の笑みをたたえる。
「でもね、私、お父さんとお母さんが大好き。レンくんがね、大好きなの」
見慣れたいつもの笑顔を向けてくる彼女に、蓮は唇を噛んでいた。
そんなこと言われたって、ちっとも嬉しくなかった。
「私、きっとまだ人間を許すことは出来ないと思う。でも、仕返ししたりなんかしないよ。だって、レンくんみたいな可愛い子供たちがきっといるから。そんな子たちから恨まれたくないもの」
蓮の脳裏をよぎるのは、関所で見た自分よりも幼かった子供たちの姿。
自分たちだけ通れるとレオノーラに言われて、複雑な気持ちがあったことを思い出す。
ちとせの並べ立てる正論にはいちいち意味がありすぎて、蓮にはもう言うべき事が見付からない。
彼女の答えなんて最初から分かっていた。分かりきっていた。
でも、言わずにはいられなかった。一緒に帰りたいと。帰って欲しいと。
そして、結果はやはり、少しも変えられなかった。
「―――わかった。オレ、もう寝る。おやすみ」
「レンくん……」
自分を呼ぶ声が聞こえていたけれど、蓮は応えられずに寝室へと急いだ。
耳を閉ざすように扉を閉めて、整えられたベットの中へと潜り込んだ。
朝起きると、いつの間に洗濯されたのか、昨日脱いだ服が綺麗になっていた。
のそのそとそれに着替えてから、寝室を出る。
リビングに向かうと、すでにちとせがソファに座っていた。
蓮に気付いて、様子をうかがうように見てくるから、蓮は笑顔を浮かべて言った。
「……おはよう」
「……うん、おはよう」
少しだけぎこちなく笑っていたから、朝食の準備をしようと蓮から誘った。
昨日好評だったホットケーキをもう一度二人で焼いて、他にも目玉焼きや燻製肉なども用意した。
けれど、レオノーラは馬車の手綱を放せないようで、御者席で朝食を摂るため、作りたてを上まで運んだ。
二人きりになった朝食では、たわいのないことを話した。
「ちとせ、お前こっちの言葉も分からないくせに、大丈夫なのかよ」
「お、覚えるよ。まだ子供だから、きっとすぐに覚えられるよ」
「でも、国語の成績っていうか、漢字の書き取りものすごく苦手じゃん」
「あれは……あれだよ。あれはあれで、それはこれだよ」
「言ってる意味わかんないよ」
そうやって、どうでもいいことを話題にあげながら、ひたすら場をつないでいれば、絶え間なく続いていた馬車の振動が止まった。
レオノーラが降りてきて、アルトルベーヌの神殿に到着したことを知らせてくれる。
階段を上って馬車の扉から出れば、そこにはギリシャ神話にでも出てきそうな、白亜の神殿がそびえ立っていた。
白を基調にした装束の女性が何人もいて、ちとせと蓮を迎えに出ていた。
彼女たちに付き添われ、神殿の支柱を越えたところまでいくと、レオノーラとはそこでお別れとなった。
「わずか3日ばかりの随行でしたが、いたらぬ点も多々あったことと思います。チトセ様、レン様、不相応の身分ではありますが、これからの日々を、つつがなく息災に過ごせるよう、心よりお祈り申し上げます」
「はい、3日間ありがとうございました。レオノーラさんもどうかお元気で」
彼女はにこりと笑うと、二人に一礼して別の入り口から神殿の中へと去っていった。
それをしっかりと見届ければ、ちとせと蓮は、白装束の女性たちから神殿の奥へ踏み入れるよう促される。
蓮は、ちとせに向かって手を差し出した。
ちとせは、きょとりとした顔を浮かべたが、すぐに笑って応えてくれた。
手をつないで二人は歩き出す。
付添人たちに伴われ、ひっそりと静まりかえった廊下を進んていった。
話は事前に通されているのか、誰に呼び止められることもなく神殿の奥まった場所へと、どんどん入り込んでいく。
やがて、とてつもなく大きな両扉に出くわすが、両脇に立っていた甲冑装束の人によって重々しい扉はおごそかに開かれた。
眼前いっぱいに広がったのは、ステンドグラスの光と銀装飾に彩られた壮大な大祭壇。
そして祭壇の大上段には、翡翠色の髪をした少女が御席に鎮座していた。
昨日、馬車に現れた彼女よりも数段、豪奢に飾り立てられ、まさしく浮世離れした存在へと高められていたが、やはりその目蓋は閉じられていた。
ちとせと蓮は横に並んだまま、祭壇の前まで進み出る。
傍らに佇んでいた位の高そうな男性が、よく通る落ち着いた声で発言した。
「これより、我が主神の格別な計らいにより、アルトルベーヌ様のお言葉を賜ることが許されます。どうぞ心して聞かれますよう」
うやうやしく一礼し、数歩だけ後ろにさがる。
人間の立てる雑音がすべて消えたあと、上から言葉が降らされた。
「異界よりの迷い人、キノシタ・レン。地母神グランリーゼをよく助け、護り通した此度の働き、誠に大儀でありました」
馬車の中でころころ笑っていた彼女とはまるで違う、威厳に満ちた声だった。
「支払われた善行は、報いられなければなりません。しかし、その身は未だいとけなく二親の庇護と導きを必要とする雛児です。よって、キノシタ・レンを生まれた大地に還すのが、最大限の労いであると考えます。神より下される恩情を、つつしんでお受けなさい」
どう答えれば礼儀に則れるのか、分からなかった蓮は簡潔に答えた。
「……ありがとう、ございます」
「では、円の中へ」
アルトルベーヌの言葉と同時に、二人の背後に光の帯で描かれたリングが出現する。
蓮は黙ってそれを見つめた。
そこまで行くには、つながれた手を放さなくてはならない。
自分の手が握っている先をたどるように視線を巡らせて、蓮はちとせを見た。
ちとせも蓮を見ていた。
彼女から何かを言う様子はなかったので、その耳元に顔を寄せる。
「昨日は、言い忘れたけど……オレも、ちとせのことが好きだから」
蓮の耳元で、ちとせが息を漏らすのが聞こえた。
「―――だから、さようなら」
言うと同時にちとせの手を手放した。
彼女のに背を向けて歩き、円の中へと入る。
どうすべきか迷ったが、蓮はちとせを振り返った。
何とも言いがたいちとせの表情に、蓮も言葉にしがたい感情を抱く。
それでも、しっかり微笑めば、ちとせも笑み返してくれた。
蓮の足下から光が溢れた。光の帯が伸び、ゆるやかな螺旋を描く。
どこかで見たその現象に呑み込まれて、見る間にも視界が狭まっていった。
ひときわ強い閃光がほとばしって、目がくらんだ。
じんじんとした目の痛みが治まって目を開ければ、やわらかな木漏れ日であふれる木々の中に蓮はいた。
そよぐ風に木の葉がゆられ、遠くで小鳥の声がする。
少し足を動かせば、足下に敷き詰められていた玉砂利が鳴った。
目をやらなくても、視界に入っていたお社を見つめて、神社の境内に帰ってきことを蓮は嫌でも理解した。
半ば考えることを拒絶するように放心していたが、かたり、という音を耳が拾う。
反射で見向けば、お社の柱に立てかけるようにしてランドセルが落ちていた。
「…………」
ものすごく見覚えのあるそれに、蓮は足早に近寄っていた。どうやって探してきたのか、間違いなく蓮のランドセルだった。
その場に膝をついて、ランドセルの中身を確かめてみる。
教科書と筆記用具が、きちんと何一つ欠けることなく入っていた。
ただその中で、見覚えのないノートの切れ端を見付けた。
手にとって取り出してみれば、文字が書かれている事に気付いて、どきりとする。
『レンくんへ。
忘れものです』
「――――……それだけかよ」
あまりに淡泊な文面に、笑ってしまう。
だが、すぐに笑っていられなくなった。
これではまるで、ちとせはもう完全に割り切ってしまっているようで、胸の内側に空いていた穴を、大きく広げられるようだった。
蓮はぜんぜん納得などしていない。
ちとせが別の世界で神さまをやるなんて馬鹿な話しに、納得など出来るはずがない。
ただの強がりと、うわべの見せかけで、別れの挨拶をこなしただけだ。
子供みたいに拗ねていたら、ちとせに嫌な思い出を残すだけだから、笑っていることにしただけだ。
力が抜けて、体が勝手にうずくまっていた。
ぽたぽたと地面に零れていくものに気付いていたけれど、止められなかった。
ちとせが側にいないから、蓮は心の制御を失った。




