いつも見てるよ
小雨が降ってひんやりと涼しい今日も、彼はいつものように「そこ」にいた。
昨日も、一昨日も、その前の日も。少なくとも、この二週間ずっと、彼は毎日同じ場所に立っている。
この一週間、優貴は彼を同じ駅のホームの同じ場所で目撃している。
階段から適度に近い、下りのホーム。彼は必ず最前列に並んでいる。優貴はいつも彼と同じ列の、もうちょっと後ろの方に並ぶ。ここが、優貴の降車駅の階段の位置にぴったりなのだ。
名前も、住んでいる場所も知らない。この駅は乗り換え駅だから、近所に住んでいるとも限らないのだ。いつもスーツ姿だから、おそらくサラリーマンなのだろう。推測できることはそのくらいだった。
人の名前はおろか、顔さえなかなか覚えられない優貴にとって、彼がどうしてそこまで記憶に残ったのか、不思議だった。ただ、彼について情報がほしい。
もっと深く知りたい。そう思うようになるまでに、たいして時間はかからなかった。
だいたいいつも、目的の電車が来る五分前くらいに、優貴はホームに到着する。この路線は、人身事故や信号トラブルなどで遅れることが滅多にない。ラッシュ時は混雑するが、朝が苦手で時間に余裕がない優貴にとって、それが何よりありがたかった。優貴はここから七駅目で電車を降りる。大学までは、降車駅から徒歩十二分くらいだ。
優貴は傘の先を地面にトントンと当てて傘が含んだ雨を地面に移しながら、電車を待った。時々、最前列に並ぶ彼を観察しながら。
彼が気になった最初の頃は彼をずっと見ていたのだが、ある時、同じ駅を利用している大学の友達の紗枝に、その様子を目撃されていたらしい。紗枝にそれをからかわれて以来、時々見るくらいに留めているのだ。
本音を言えば、ずっと眺めていたい。電車になんて乗らずに、ずっとその場所に立っていてほしい……
よく晴れた日の朝。今日の優貴は、目的の電車が来る十五分も前に駅のホームに到着した。いつもの後ろ姿だけでは満足できず、彼の横に並びたいと考えて、頑張って早起きしたのだ。優貴はあくびを我慢しながら、さすがに早すぎたと微かに後悔した。目的の電車のひとつ前の電車にだって間に合う時間だ。優貴は苦笑しながらも、いつも彼が立っているはずの場所をちらりと見た。
そこに、彼はいた。
いつもと同じ最前列に立っていた。
優貴は思わず驚いた。しかし、今日は早めの出勤なのかもしれないと思えば、別段驚くことではない。いつものように同じ列の後方に並んで、彼を観察していた。
そして、電車はホームに滑り込んできた。スピードを徐々に落とし、やがて停まる。ドアが開く。人々が狭い四角形の枠から飛び出してくる。そのあたりで、優貴は最前列の彼を見失ってしまった。優貴はひとつ前の電車の混雑具合を目の当たりにし、辟易して、いつもの電車に乗るつもりで、次の電車を待つ列の一番前を確保しようと少し駆け足になる。なんとか最前列を確保することができた。何の気なしに隣を見ると、いつもの彼が真横に立っていた。
優貴は思わず声が出そうになったが、なんとかそれを堪えた。吸い寄せられるように、彼を眺め続けた。
はじめて間近で見る、彼の横顔。すっきりとした切れ長の目。細い銀で縁取られた眼鏡。きゅっと自然に結ばれた唇。
優貴は自分の顔が赤らんでくるのを感じた。
思わずそっと目を閉じた。
この幸せな瞬間が長くは続かないことは分かっていた。宝物を大切に保管するように、そのひとときを心の奥にしまいこんだ。ふわふわと、宙を舞うような感覚。
なぜだろう。意識が遠くなるのをうっすらと感じる。
「優貴」
「いつも君を見ていたよ」
「君は違う人を見ていたから、僕のことには気付いていないと思うけれど……」
「これからはずっと一緒だよ」