逃げだす心
楢崎とはああ約束したものの、美織に全てを話す決心がつかぬまま数日が経っていた。その間も私は片倉と登下校を共にし、小早川さんから「あんた一体どういうつもりな訳!?」という怒りメールを数時間置きに頂いていたが頭の中は美織に対する説明の順序でいっぱいで、片倉と小早川さんに対してまともなリアクションを返せていなかった。
「新澤、最近顔色悪いよな。なんか、コケた?クマもすげーし、女子ってそんなに顔変わるのな」
この多嶋の失礼千万な物言いにすら、今の私は「あー…」という超適当な返事を返すのみだ。
しかし、そんな私の反応に本気で心配し始めた多嶋が少し焦りながら手を伸ばし、私の額にあてようとした時はさすがにぎょっと目を剥いて防御の姿勢をとった。
「絶対熱があるんだって!お前昔からすぐ熱とか出してたろ!?」
「いつの話してんの!?ってかそれ私じゃないし!」
「遺伝してるかもしんねーだろ!」
「遺伝って言葉を今すぐその全然使いこなせてない電子辞書で引いて下さい!」
「おーおー、朝からオアツイこって」
休み時間、廊下で騒いでいた私たちの横にはいつものニヤリ笑いを浮かべた菅先生が立っていた。
私はなんだかこうして騒いでいるのを見られた事が後ろめたくて、すぐに多嶋の手を本気で振り払うと一礼をして廊下をひた走る。残された二人の事など、気に留める余裕もないままに。
「なんだあ?新澤のヤツ」
「…ずいぶん嫌われたこったなあ」
「そういえば、アイツの様子がおかしくなったのって、スガセンと話してからだよな。
…アンタ、誰だ?」
「………担任に誰だとは失礼なやつだな。俺は、菅正仁だって、入学式の時に言ったろ?」
だから、残された二人が静かに睨みあってる事など、私は知る由もなかったのだ。
「…はあ、なに逃げてんだろ、最悪」
廊下を走り抜け、とりあえず階段を駆け下りた私は少し時間を置いてから教室に戻ろうと反対側の階段に向かって一階の通り慣れない廊下を歩いた。
一階に教室は無く、その代わり事務室や進路指導室、過去のトロフィーや賞状などが飾られた展示室などがある。定期券を使う必要のある生徒は事務室に行く事もあるのだろうが、私は徒歩通学だし奨学生でもない為ほとんど一階を歩くことは無かったので、なんとなく興味本位で展示室を覗いてみることにした。
そんなに広くない部屋にはガラスケースに輝くトロフィーや盾が並べられ、それと一緒にその当時の生徒たちの写真が飾られている。
ガラスケースから視線を横にずらすと、壁の高い位置にはびっしりと賞状がかけられていて、その下に寄贈された絵画や彫刻、常人には理解が難しいオブジェが置かれていた。
「あ、でもこの絵、綺麗…」
奥の壁に一枚の絵がひっそりと飾られていて、その淡い色彩に惹かれた私は近づいてその前に立った。
それはどこかの庭園を描いた風景画で、なんだか懐かしいように感じるその優しい色づかいから描き手の繊細さが見て取れる。
「あら、珍しい。ええと貴女は、新澤さんかしら?」
掛けられた声に振り返るとそこには家庭科の近藤先生が立っていた。手に雑巾とバケツを持っている所から掃除にやってきたのかもしれない。
「あ、あの」
「ああ、これね。どうもここは人気が少ないせいか掃除の生徒たちがサボりやすくて。折角寄贈してくれた子たちにも忍びなくて、ときどきこうして掃除してるのよ」
「そうだったんですか…」
「それにしてもどうしてここへ?ああ、別に入ってはいけないという意味じゃないの。ただここは展示室とはいえ生徒の出入りが全くと言っていいほどなくて、たまに来るOBや生徒の親御さんたちが少し覗く程度だから嬉しくって」
「…あの、ただ興味本位で。あまり一階を歩く機会が無かったので」
「それでも嬉しいわ。ゆっくり見て行ってね」
なんとなしの気恥かしさから部屋を出て行きたくなったがここですぐに出て行くのも失礼かな、と思い私はもう一度あの絵に向き直る。すると近藤先生もバケツを置いて私の横に立つと懐かしそうにその絵を見て微笑んだ。
「その絵、素敵でしょう?県から表彰もされたのよ。ふふ、下の寄贈者のところ、見てみて」
近藤先生に言われ、私は絵から視線を下にずらして寄贈者の名前を見、言葉を失った。
「…………『菅、博仁』…」
「そう、菅先生の弟さんなのよ。二人ともここの出身でね。菅先生は当時絵の才能は呆れちゃうほどだったけど、弟の博仁さんはとっても繊細な絵を描いていたのよ。家庭科の授業ももちろん、書も素晴らしかったのだけど」
「そう、ですか…」
逃げて来た先で先生の弟さんの存在を知った私は再び心がずん、と重たくなる。
私が巻き込んでしまった螺旋の中で、先生にも、片倉にも家族がいて、普通に、ごく普通に送るはずだった人生になんらかの影響を及ぼしてしまっていたのだとしたらと思うとその優しい色を見つめる事が辛かった。
片倉にも、兄弟はいるのだろうか。先生は、弟さんに何か話していたりするのか。
じわりじわりと額に汗が浮かび、私はいたたまれなくなって足早に展示室を後にした。去り際に近藤先生がまた来てね、と言っていた気がするけど、私はもう、あの部屋には近づけない。
思い足を引き摺ってなんとか教室に戻ると、入口の所で腕組をし、難しい顔をしたらしくない多嶋が仁王立ちをしていた。門番ごっこでもしているのかとその姿を見ていると、目があった瞬間こちらに駆けだしてきた多嶋に手をとられ、私はあっという間に階段を降り、中庭まで連行されてしまった。
「ちょ、ちょっと!何!」
「いいから、行くぞ」
「行くってどこに!」
「…秘密基地だよ」
こちらを少しだけ振り返ってニカッ、といつも通りに多嶋が笑う。
だけど私はその笑顔に不安しか感じることが出来なかった。
次は彼の出番です(^◇^)




