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ただ君を、待つ。

作者: 紫子


そういえば、何日か前にちょっとした諍いがあったような気がする。

めずらしくエリが、不機嫌な表情を見せたから、

少しばかりひるんだことを憶えている。


でも確か、全然たいしたことじゃなかったはずなんだ。


だから今朝エリが、突然旅支度を始めたときも、

最初僕はたいして気にもとめなかった。


「ゲンのこと、お願いね」

「うん」

新聞のスポーツ面から顔をあげないまま、僕は返事をした。


広げた新聞の前に立って、エリは腰をかがめた。

僕の顔を覗くようにして

「花に水もあげてね。」と、子供に言うように言った。


「いつかえって来るの」

僕も顔をあげてエリに尋ねた。

そんなめんどうなことを、僕は何日やらされるのかな。


エリは困ったような表情を見せた。

まるでそんなこと全く考えていなかったようだった。


「すぐ帰ってくるんでしょ。」

また新聞に視線を戻して僕は言った。


「うん・・・。そんなに仕事休めないし。」

仕事がなけりゃ帰ってこないつもり?とは訊かなかった。

いや、訊けなかったのかな。小さな不安が胸に芽生えていた。

(もしかして何か怒ってる?)

思わず口にしそうになった質問はかろうじて飲み込んだ。

ちょっと面とむかって訊くにははずかしいでしょ。


まるで捨てられそうになってる仔犬みたいだ。


「たまにはいいんじゃない、ゆっくりしてくれば」

読みかけの新聞をばさっとたたんで、僕は立ち上がった。

キッチンの流しに伏せてあるグラスをとって、冷蔵庫をあける。

ポケットにミネラルウォーターがいつもより多めに入っていた。

「ゲンは水道水、飲まないから。」

「うん」

「じゃ、お願いします。」


「うん」

エリが玄関から出ていくのを、僕は目だけで見送った。

玄関を出てエレベーターに乗って、1階の小さなエントランスを抜けて・・・。

トランクを転がしながら大通りに出たエリの姿を思い浮かべながら、

僕は携帯のボタンを押した。

やっぱりさ、面と向かってじゃ照れくさいし。

(行き先は決まってるの? なんなら帰りは迎えにいこうか?

 あー、俺も一泊くらいしようかな・・・・)


あれ?


クローゼットの中で、聞き慣れた着メロが鳴っている。

携帯をもったまま、僕はクローゼットをあわてて開けた。

エリの携帯が光を発しながら歌っている。


僕は部屋着のまま、一番手近にあった通勤用の革靴をつっかけて表に出た。

表通りのバス停まで、ここ最近ないくらい、全速で走った。

バスは、四角い後ろ姿をはるか信号2つ分くらい先に見せて、

角をまがってくところだった。

息がきれて体がふたつ折れになった。

膝に手をおいて肩で息をしている僕の横を、高校生くらいの女の子が2人、

横目でみながら通り過ぎて行った。背後でしのぶような笑い声が聞こえた。

自分のスウェットと素足に革靴が見えた。

しかも左はかかとを踏んでる。


最悪だ。


僕がいったい何をしたっていうんだ。




部屋に戻ると僕は暗い気持ちで中を見回した。

とりあえず、今日は今から仕事だ。

いろいろ考えるのはあとまわしだ。


軽く現実逃避しながら、脱いだ靴に手をいれて、踏んだかかとを戻す。

深い皺がきざまれた牛革がそこだけえらくくたびれた様子になっている。

くそっ。


ゲンがキッチンのほうからのっそりと歩いてきた。

僕を値踏みするような目でみたあと、少しひかえめに

「にゃあ」と鳴いた。

メシか。


わざとしらんふりをした。ちょっとあたりたかったのかもしれない。

ゲンはキッチンの戸棚のほうを向いてもう一度「にゃあ」と鳴いた。

僕はクローゼットを開けて着替えを取り出した。

エリの携帯が目に入る。

ここなら遅かれ早かれ気付いたってことか。

わざと・・・? いや、あいつ意外にうっかりさんなとこも。

もしかしたら取りに戻ってくるかにゃー。


にゃー。

ゲンの鳴き声が真剣味をおびてきている。


ふん、いい気なもんだな。朝飯が空から降ってくるとでも思ってんのか。

服を着替えてネクタイを結びかけたとき、急に猫の鳴き声がやんだ。

おお、こいつあきらめたのか。

別に食べさせないつもりじゃないから心配するな。

ちょっとじらしてるだけ・・・!!


「いてえっ!!」

ゲンが僕の後足首にかぶりついている。

足を振ろうとするとさっと離れてキッチンに走って行き、

「にゃあ」と鳴いた。

今度はあきらかに抗議の口調だった。


猫相手に本気でけんかするほどの子供じゃない。

僕は声に出して大きなため息をつくと、キッチンの戸棚からキャットフードを取り出した。

ゲンはいつもの場所にさっと走り、空の皿の前で待っている。

フードの箱をあけて中身を皿に出してやり、

冷蔵庫からミネラルウォーターをだして水入れに入れた。


猫が食べはじめたのを眺めていると急に腹が減ってきた。

そういえば僕の朝ご飯は誰が作るんだろう。

はたと気が付いてキッチンのほうを見る。


火の気のないキッチンは実際以上に寒々しく見えた。



朝飯が空から降ってくると思っていたのは、僕のほうかもしれない。





エリが旅に出てから(出ていった、なんて表現は死んでもごめんだ。)

1週間が過ぎた。連絡はない。

僕は極力、何も考えないようにして、日々の家事を淡々とこなすことにした。

ゴミの日は週2回。


最初の日はうっかりしてて出しそびれた。

おかげで玄関が臭くなった。ペットシーツ溜めると強烈。

満を持して次回、袋を下げて集積所に行ったら、

缶が混じってると管理人にしかられた。

せっかくしばった袋の口をまたほどいて缶をよりわける羽目になった。


そういえば僕がゴミ箱に放り込んだビールの空き缶を、

エリがよく拾い上げてたっけ。


食事はほとんど出来合いを買ってきて済ませた。

朝はシリアルと牛乳。

これは便利だったが食べた後をほったらかしで仕事に行ったら、

皿ががびがびになってて洗うのに苦労した。


さすがに猫の世話は忘れなかったが

(足首攻撃のせいもある。)

ベランダの花の水やりはちょっと忘れた。

なんだか知らない赤いひらひらの花がえんじいろのちりちりになった。

あわてて水をかけたら花は戻らなかったが、茎と葉は持ち直した。

枯れた部分はやっぱりちぎるのかな。


ベランダの一番陽のあたる場所に葉っぱばかりの鉢植えがあって、

その先端がふくらんで来ているのにだいぶたってから気付いた。

これも水を忘れてたら首をたれて死にそうな風情だったが

水をやったらものすごい根性を見せて復活した。

どことなく野趣のある、でもひかえめで、なんだかエリに似てると思った。


洗濯ものは休日にまとめて洗った。

ちょうどいい天気だったのでちょっと張り切った。

気合いが入っただけに洗濯機が止まったときのショックは大きかった。

ポケットに、ティッシュかなにかを入れたまま洗ったらしかった。

脱水の終わった洗濯物にぼろぼろの紙みたいなものがいっぱい

まとわりついて、広げて振ったらフローリングの床にばらばらと落ちた。

洗濯機のなかもたいへんなことになっていて、全部きれいにするのに

ずいぶん時間がかかった。

床に落ちた紙くずを掃除機で吸い取ってきれいにしても、

なんだか心は晴れなかった。


洗い終わった洗濯物が汚れてたってだけで、なんでこんなにヘコむのかな。


突然、記憶がよみがえった。

そうだ、この前の諍い。

あのときも僕のポケットに紙くずが入ってたんだ。

え?家出の原因って、これ?


ちがうな、きっと。


そうじゃないんだ。


きっかけにはなったかもしれないけど。

なんだかもっと、少しずつ降り積もっていた、何か。


ほんとにちょっとだけど、わかるよ、エリ。




8日目の朝、ベランダに出てみると例のふくらみがぽっと開いていた。

紫いろのはなびら。まんなかは黄色。

菊みたいな花。

開いてるのはひとつだったけど、ほかの蕾ももう開きそうだ。

子供のようにしゃがんで花を眺めていると、部屋の中で電話が鳴った。


ソファに脱ぎっぱなしの上着のポケットから携帯を取り出した。

ブザー音。公衆電話?まだあったんだ。


少し遠いところから聞こえるような、懐かしい声。


「トシ?」


今、体の血が一旦停止のあと逆流したような気がした。

たぶん、気のせいだと思うけど。


「おまえ、携帯・・・・。」

「あ、ごめん・・・。かけた?」

「かけた・・・忘れた?」

「うん、すぐに気が付いたんだけど、いいかなって」


「いいかなって・・・」

「ごめん」

「いいけど」

「・・・ゲン、元気にしてる?」

「うん」

「なにもかわりない?」

「うん・・・、あ。」

「何?」


「花・・・花が咲いた」

「花?ベランダの?」

「うん、紫のやつ」


こんな世間話してる場合だろうか。

今どこ?とかいつ帰るんだ、とか、聞きたいことはたくさんあるのに。


でも今僕は、花が咲いたことを一番に君に言いたいと、思ったんだ。


「あ、都わすれ」

「え?」

「都わすれだよ。そっか、咲いたんだ、今年も。」

「・・・・・。」

「トシは忘れちゃってると思うけど、う〜ん、5年前かな、

花屋さんの前で見つけて、私がほしいって言って、トシが買ってくれたんだよ。」

「え?」

「こんなの、そこらの道ばたに咲いてるのみたいって言ってたね」


ああ。


そしたらエリが


「いいの。わたしはこんなのが好きなんだからって」

「そう、そう。憶えてた?」

「今おもいだした。」

「ふふ。」

エリの笑い声。

胸の奥がきゅっと湿った音をたてた。

「エリ、おれ・・・」

「ごめん、トシ・・・」

「ごめんってなんだよ。な・な・」

「コインがもうない」

「えぇ?」

チッチッチッ、カウントダウン。時間がない。


一番大事なことを今、言わないと。

「おれ、いっぱい忘れてたことあって。毎日、えっと。

あたりまえみたいっつーか、その。」何いってんだ。

「うん」

「思い出すから。その、エリの・・」

「都わすれ、思い出してくれてありがと」

「え」

「わたしね、そんなたいそうなこと考えてるわけじゃないの。

 何か変えよう、とかじゃないの。

 う〜ん、ちょっと、煮詰まった?みたいな。」

「うん」


「だからね、もうすぐか・・」


静寂。



そして、ツーーーー。





ベランダに出ると、爽やかな風が髪をなでていった。

風にゆれる都わすれを一輪、切り取って部屋に入る。

グラスに水を入れてテーブルに置き、そっと花を挿した。

顔を近付けるとかすかに野の花の香りがした。


「ほんとに道ばたに咲いてる花みたいだな。」

ゲンが鳴きながら足下に来た。

僕は椅子の上にあぐらをかいて座った。

これで足首は安全だ。


テーブルにひじをついて花を見つめた。


何も言えなかった。

大切なこと。伝えたいと思ったこと。

いつも、いつでも言えたのに、今まで忘れていたこと。


ため息で目の前の花が揺れた。

紫の花の色に打ちのめされた気分だった。


5年前に買った花を今年また咲かせるために、

いやきっと、毎年咲かせるために、君がしてきたこと。


毎日水やりをして。

虫がついたら退治して。

たぶん肥料なんかもやって。

綺麗に咲いたら今日みたいにテーブルにも飾って。


僕はきっと、スポーツ面をみながら朝食をとって、

花になんか気付かずにいたかもしれない。



君を愛してることすら、




忘れてた僕。



あたたかな気配を感じて横をみると、目の前にゲンのひげ面があった。

いつのまにテーブルまで上がってきたのか。

「こら・・・」

あわてて伸ばした僕の腕をすりぬけて、ゲンが僕の顔に顔を寄せてきた。


ざらりとした舌で頬をなめられて、反射的に顔をぬぐった。


そのとき初めて僕は



自分が泣いていることに気付いたんだ。






休日の朝。

僕は少し早起きをした。


まず窓をいっぱいに開けて外の空気を入れた。

ゲンは少し冷たくなってきた秋風をいやがって、

クローゼットのかげに入ってしまった。


「よし、布団も干すぞ!」

掃除機をかける前に、汚れ物を全部集めて洗濯機にほうりこんだ。

もちろん、ポケットの中は全部確認した。


今日は昼飯くらい自分で作ろう。

チャーハンがいいかな。

ご飯ってどうやって炊くんだっけ。


掃除機はこの前ゴミの捨て方を習得したので、モーター音も快調だ。

あっ、エアコンのフィルターもついでに吸っちゃえ。


ソファーの下にがしがし掃除機をかけていると、ゲンがさっと前を横切って行った。

ゲンはあけっぱなしのガラス戸からベランダに出ていく。

めったに外には出ないヤツなのに。


「どーした?」

気になって一緒にベランダに出てみた。


ゲンは布団のかかったてすりの隙間から、じっと外を見てる。


「もしかして・・・・?」



こんな時は、動物の不思議な力を無条件に信じることにしよう。


僕は布団の上にひじをついて、ゲンと同じ方向をずっと見ていた。




おわり。




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