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その8

 食堂に入った二人に給仕をしたのは、ティナだった。

 ティナ以外は、クラウスの姿を見て、まともに動けなくなったらしい。


「あまりに見事に化けるものだから、うちの侍女達が恐れ入りすぎて動けなくなったようだな」


 遠巻きにしていた侍女達が、サーレスの言葉に一斉に体を竦ませた。


「申し訳ございません」


 ティナの苦笑と共に出た詫び言に、サーレスは笑った。


「説明してなかったものな。最初から、この方は王弟殿下であり子爵令嬢であるとでも言っておけばよかったか」

「それをお伝えすると、より混乱を招きますよ」


 れっきとした姫であるサーレスより数万倍は姫らしいクラウスが、花を振りまくように微笑む。その仕草も完璧で、たおやかに口元を隠して笑うのだ。


「王弟という言葉と、令嬢という言葉は、普通同一になる事はありませんから」

「あなたという例がある限りは、そうでもないと思うが」


 その言葉に、クラウスは首を横に振った。


「この姿になれるのも、今のうちです。私も、こう見えて背が伸びていますし、もうしばらくしたら、さすがにこの姿になる事はできなくなると思います」

「もったいないな……よく似合ってるのに」


 上から下まで、どこをとってもかわいらしい姫君の姿に、ため息がでる。


「もったいないと言われましても……育ってしまうものは抑えようがありません」

「それこそ、絵姿とかは残してないのか?」

「残していますよ。母のところには他の者が呆れるほどに残っています」

「姫としての姿が?」

「騎士としての姿もです。母が離宮に赴いたときに、護衛するのも私の仕事でした。騎士として母の元へ行っても、あちらにはドレスがいくらでも用意されていましたので、どちらの絵を残すかは、母次第でした」

「母君の望むままに衣装を変えて差し上げていたのだな。親孝行なご子息で、母君もお喜びのことだろうな」

「そうですね。兄がそういった親孝行は一切なさらない方ですから、私にばかり母が構うのも困るのですが」


 苦笑するその表情すらかわいいというのは、もう一種の才能だと思う。やはり、サーレスは、目の前のこれが男だとは思えない。

 食後のお茶を飲みながら、サーレスはため息をついた。


「……やはり何度見ても、クラリス嬢は女性にしか見えない。私は自分の観察眼に自信が持てなくなってきた」

「そうですか?」

「仕草もそうだが、体も完全に女性だ。あなたの正体を知らないまま、男と疑える度胸のある人間はいないだろうな」

「触れられれば、違うと思いますよ」


 その言葉に、サーレスが不思議そうな視線を向けた。


「……どこに?」

「体に触れられると、違和感があると思います。胸はもちろん詰め物ですし、腰回りにも詰め物をしています。ダンスの時に触れられる場所はコルセットですから、他の女性とそれほど変わることはないですが、もっと下になると、やはり分かるのではないでしょうか。それに、私は騎士です。当然、戦えるように体は作っています。あまり見えないかもしれないですが、意外と筋肉質なのですよ。ですから、触れればわかります」


 そこまで言われても、サーレスの視線は疑わしげだった。明らかに疑惑の視線を受けても、クラウスの花のような微笑みは揺らがなかった。


「……触ってみますか?」


 にっこりとこんなことを言う令嬢がいれば、それははっきり言って令嬢ではないだろう。慎みがないと一言で断じられる。

 当然、それに返事をする紳士など、居はしない。


「いいのか?」


 残念ながら、外側が紳士に見えても、中身が姫の場合、同性の体を触るような気楽さで返事がなされてしまった。

 好奇心にきらめく瞳がクラウスに向けられた。


「サーレス様!!」


 当然のように轟いたティナの雷に、サーレスと共に、さすがのクラウスも首をすくめた。



「やれやれ。さすがティナ。叱るときは容赦がない」


 クラウスをエスコートしたまま、庭のテラスに出たサーレスは、ぼやきながらクラウスに椅子を勧めた。当然のように、椅子のゴミをまず払い、その上に自分のマントを敷いている。その様子を見て、クラウスはそっと微笑んだ。


「ありがとうございます」


 そっと腰掛け、隣にサーレスが座るのを待つ。

 外から見れば、明らかに、王子と姫のデートである。そのお似合いの様子に、長年この離宮に詰めてきた者達は、そっと目を拭った。

 その完璧な王子が、自分達の自慢の姫君だと思えばこその涙だ。

 ついでに、その相手の姫君が、求婚に来た王子だと思えば、頭まで痛くなってきそうだった。

 そんな使用人達の苦悩も知らずに、二人は和やかに会話をしていた。


「では、いつも子爵令嬢として、ブレストアの夜会には参加してるのか」

「はい。ですけど、国の中枢にいる方々の大半は、その子爵令嬢が実は男だったことを、ご存じでしょうね」

「王弟として出たからか」

「ええ。一応、双子だったということで誤魔化していたのですが、母は、私がお腹にいる間、産み月間近になるまでは、王宮に留め置かれていましたので、その身体付きを見ていた者は、気が付いてもおかしくありません」

「じゃあ……将来、令嬢の姿になれなくなったら、その籍はどうなるんだ?」

「修道院かどこかに入ったことにして、そのまま抹消する予定でした。ですから、サーレスが花嫁をお求めなら、子爵令嬢を花嫁にいかがですか?」


 にこにこと笑顔であるが、本気であることは目を見ればわかった。


「ええと……その場合、サーレスの方には明確な身分がないから、無理だろう。他国とはいえ、貴族の花嫁をもらえるような身分じゃない」

「そうですか? サーレスなら、すぐにそれなりの身分が作れるでしょう? サーラが重病で出られなくなったら、サーレスに貴族としての席を用意して、国王になったトレス殿下の側近となるのだと思っていました」

「……よくご存じだ」

「今でこそ、ただの側仕えでしょうが、もともとあなたはトレス王太子の一番の理解者であり、一番の側近でしょう。ただの影武者で終わらせるはずがないと思っていたんです。まあ、ですから、急いで求婚に来たのですけど」


 思わず沈黙したサーレスに、クラウスが微笑みかけた。


「貴族の籍を持たれてしまったら、この国から連れ出せません。それは私も困りますし」

「……自分が嫁に来てもいいとか言ってたのにか」

「私としては、来るのはまったく構わないのですが、その場合、私が黒騎士をやめない限り、黒騎士が全員ついてきてしまいます」

「はぁ!?」


 驚きで、思わずクラウスの顔を凝視した。


「黒騎士は、団長である私に従う一団なので、やめない限りは、団長がいる場所が黒騎士の基地になってしまうんです。そして、団長は、一旦その位になると、退団以外でやめる手段はありません」


 驚きで呆然としているサーレスに、かわいらしい笑みを見せながら、本気の目をしたクラウスはとどめを刺した。


「だから、黒騎士の総勢二百三十名、嫁入り道具代わりに連れてきてもいいなら、喜んで貴族となったサーレスに嫁入りしますよ」


 頭が痛くなってきたサーレスは、横目でクラウスを見ながら、ため息とともにつぶやいた。


「それだと確実に、ブレストアとカセルアで戦が起こるだろう。平和慣れしたカセルアは、そう簡単に軍を動かせないんだぞ」

「それはどうでしょう?」


 意外な言葉を聞き、その表情を見つめたが、相変わらずきらきら輝く瞳に惑わされて真意が読めない。


「カセルアは、確かにここしばらく戦からは遠のいていました。だからこそ、その分、蓄えが十分にあります。さらに、常勝将軍と言われたゴディック将軍はまだご存命ですよね。たとえこの数十年、戦の経験がなかったからと言って、侮れない相手なのですよ。羊飼いのいない羊は狼に食べられるだけですが、その羊すら戦士に変えると言われた将軍がご存命である限り、カセルアには簡単に攻め込めません」

「……」


 クラウスの姿でいる時より、昔無表情だったはずのクラリスの方が、表情が読みやすい気がする。

 小さな少年が、憧れの人を語る表情をしている。

 むしろ、そんな年相応の表情をしたのが、このクラリスなのに驚いた。


「カセルアにこの人ありと言われ、その戦術は敵を翻弄し、近隣諸国に戦神として勇名の轟いた方です。ブレストアでも、とても人気が高いのですよ。黒騎士の前団長はカセルア出身で、あの方の指揮で最後に行われた、フェーリア平原の戦乱が初陣だったのを自慢にしていました」

「……元団長が、カセルア出身?」

「そのときは十二歳で、騎士の従士として参加したそうです。お酒の席では、いつも将軍の戦いぶりを側で見た事を自慢していました。ですから、黒騎士団は、カセルアとはあまり戦いたくなかったのですよ。団長ももちろんですけど、全員がその団長の自慢話を聞いてましたからね」


 サーレスは、とても微妙な表情をしていた。

 困惑と苦笑と苦悩が全部混ざりあったようなその表情に、逆にクラウスが首をかしげた。


「どうかなさいましたか?」

「……クラウスでも、将軍にひと目会いたいとか思っているのか?」

「それはもちろんです。私は前団長の従者で、側で一番話を聞いていましたから」

「すぐ会えるぞ。将軍は、この離宮の警備責任者だし、私と兄上の戦術および剣術の師だ。ついでに、幼い頃は、私たちの一番の遊び相手だった。住まいはこのすぐ側だし、私が来ていることはもう知っているだろうから、何も言わなくてもたぶん近々ここに来る」

「……」


 サーレスは、初めて、クラウスが呆気にとられて言葉も出ない姿に遭遇した。


「遊び、相手?」

「そうだ。私たちにチェスを教えてくれたのも爺だったし、乗馬を教えたのも爺だ。母上は、私がこれ以上男らしく成長したらどうするのかと、散々文句を言ったそうだが、本人が興味を示すことをやらせるのが、一番本人のためになるのだと言って、なんだかんだで騎乗戦の指南までしてくれた。他の者は、やはり私を姫として見るから、どうしても遠慮がちになるんだが、爺だけはそんな事はなかったし、今も剣の相手になると一番打ち据えてくれる」


 クラウスは、そこまで聞いて、ようやく絞り出すような声を発した。


「じゃあ、トレス殿下とあなたは、ゴディック将軍の、直弟子ということですか?」

「そうなるな。兄上は主に戦術面の。そして私は武術を仕込まれた」


 クラウスは、頭を抱えている。


「……ということは、カセルアの戦力に関しては、別の読み方が必要だな。実戦経験がなくとも、あの将軍の直弟子が出てくるんだから」

「今はただの好々爺だぞ」

「もう、将軍は引退されたと思っていました。現在の国王陛下がご即位なさった時点で、将軍位も返上なさっておられたし、他の役職に就いたとも聞きませんでしたから」

「それは、爺が、王太子の側付きとなりたいと申し出たからだ。兄上や私が産まれた時、まだ、カセルアは国内も安定していなかった。おまけに、私が育つにつれて、姫に向かない事が分かったので、私を王太子の影武者として仕立てるために、ますます爺は奥に引っ込んだ」

「なるほど……。あの、ひとつお聞きしてもいいでしょうか?」

「なんだ?」

「将軍がこちらにいらっしゃる前に、ご挨拶に赴いたりはしないんですか? 師匠というなら、弟子の方からご挨拶に行くものでは?」

「あいにくだが……爺をうっかり年寄り扱いすると、ものすごく怒るんだ。足腰が丈夫なうちから、家に閉じこもれとばかりに尋ねてこられるのは迷惑だと兄上が叱られたと聞いた」

「……王太子が、叱られ?」

「自分が臣下なのだから、動けるうちは爺の方が尋ねて行くのが正道だと、譲らないらしい」

「……しまったな」

「どうかしたか?」

「将軍が近くにおられるなら、声を変えるんじゃなかった」

「ん?」

「声を変えたら、半日は戻りませんから。今から騎士服に着替えても、声が戻らないと、ご挨拶に伺えません」

「……挨拶に行きたいのか?」

「できる事なら」


 しっかり頷いたクラウスを見て、サーレスも頷いた。


「……ガレウス!」


 近くの窓に向って、ガレウスを呼ぶ。ガレウスかユリアは、絶対に側にいるはずだからだ。案の定、ガレウスはすぐに窓から顔を出した。


「なにかご用ですか」

「今から、爺のところに走ってくれ。とある国の子爵令嬢が、ぜひお逢いしたいと尋ねてきてますと伝えれば、すぐに出てくるだろ」

「了解です」

「サーレス殿?」


 今まで、可憐な笑みしか見せなかったクラウスの表情に、若干の苦悩が表れた。


「嘘は言ってない」

「いえ、あの、子爵令嬢としてではなく、できるなら騎士としてお会いしたいのですが」

「大丈夫だ。爺は、些細な事は気にしないから。子爵令嬢で騎士だと言えば、そうかそうかと納得する」

「いえ、あの、せめて、明日とか」

「会ってみれば、悩んでいたのがばからしくなるぞ、たぶん」


 遠くから、ガレウスの馬が嘶くのが聞こえた。

 ガレウスの馬が掛けだしていく姿を、クラウスは、こちらに来てから見せたこともないような愕然とした表情で、それを見送っていた。



 それから、小一時間ほどたった頃、二騎が並んで離宮に駆け込んでくるのが見えた。

 サーレスとクラウスは、あのあと並んで庭を散策し、庭に設えられた東屋で、お茶の時間を楽しんでいた。

 クラウスは結局、ドレスを着替える事はしなかった。


「……せっかく綺麗なのに」


 ぼそっと呟くと、そのままでいる覚悟を決めたらしい。


「……ガレウス殿の馬ですね」

「隣が爺だ。相変らずだな。ガレウスの馬に普通についてきたな」


 ガレウスの栗毛の隣に、見事な白馬が並んでいる。馬上にいるのは、馬に負けないほどの白髪をきっちりと後ろに流し整えた、とても八十を越えているとは思えないような偉丈夫だった。

 二騎は、そのまま庭に駆け込んできた。

 芝生を見て、あとから城に響き渡るだろう庭師の悲鳴が聞こえた気がした。


「おお、サーレス。ここにおったか」

「相変らずだな、爺。わざわざめかし込んできたのか……」

「で、わしに遭いたいというのは、そちらのお嬢さんかの」


 唖然としたクラウスは、ずっとその騎乗の人を見上げていたのだ。


「そうだ。クラリス嬢だ」


 それを聞くと、ひらりと馬上から降りてくる。その身軽さに、クラウスは目を見張った。


「こんなかわいらしい人が、わしに会いに来るとは、男冥利に尽きますな」


 朗らかに笑いつつ、今まで乗ってきた白馬を、無造作にガレウスに突きつけた。

 ガレウスは、自分の馬と共に、その白馬を連れて庭をあとにした。それを見送った老人は、改めて向き直った。


「で、なんのご用かな。クラウス殿」


 にやりと笑いながら、サーレスの隣に座る老人に、声もなく見入っていたクラウスは、はっと気が付いたように改めて立ち上がった。ドレスであるために、騎士の礼は取れない。そのまま、ドレスで膝を軽く折った。


「リジェット=ダーヴィン=ゴディック閣下には初めてお目もじ仕ります。黒騎士団長、クラウス=ノルド=ブレスディンと申します。このような姿と声で、失礼致します」

「ずいぶんかわいらしい姿だな。見目よくて結構結構」


 豪放に笑う老人を前に、クラウスは、先程のサーレスの言葉に改めて頷いた。


「確かにこれは、悩んでいたのがばからしくなりますね、サーレス」

「そう言っただろう。私を育てたのは、この爺なんだぞ? 少々の事に、こだわるわけがない」


 平然とそう言うサーレスに、クラウスは苦笑した。


「で、サーレス。いったいなにを見せたかったのかの?」

「クラリス嬢のドレス姿がかわいらしかったので、爺にも見せてやろうと思っただけだ。明日呼んでしまうと、普通に騎士の服で出てくるだろうと思って」

「当然です……」


 クラウスの苦笑に、老人はふむ、と押し黙った。


「確かに、よう似合っておるな。ブレストアの王太后陛下も無茶をなさるものだ」


 その一言で、この老人が、隠居などをしておらず、ちゃんと近隣諸国の情報を集めているのが分かる。少なくとも、先程サーレスは、クラリスの名前を出しているが、それで混乱することなく、クラウスと呼んだのだ。


「それで、カセルアにはいったい何の用があったのかの。わしに会いに来ただけにしては、ずいぶんサーレスと打ち解けているように思うが」

「なんだ。それはガレウスは説明してなかったのか」

「あれは、サーレスが客を連れて来ているとしか言わなんだ」

「……面倒な説明はすべて省いたな、ガレウスめ」

「面倒ごとかな?」

「結婚の申し込みに参りました」


 にっこりクラウスは微笑みながら、そう報告した。その笑顔を見て、老人は、サーレスに目を向けた。


「……お前が嫁を取るのか? サーレス」

「取れるわけないだろう……」

「では、誰の嫁に来るんじゃ?」

「嫁に来るわけじゃない、爺……」

「もらいに来たんです。閣下」


 その言葉に、老人の視線がクラウスに向けられる。


「……誰を?」

「恐れながら、サーラ姫をです」


 老人の視線が、隣に座るサーレスに向けられる。

 そしてまた、クラウスに向けられる。


「……ある意味、似合いだと言ってやりたいところなんじゃが」


 首をかしげた老人が、クラウスに苦笑を向ける。


「これを、嫁にやるわけにはいかん」

「……なぜですか」

「これは、王太子の影ではない。もう一人の王太子として育てた。一人の王太子を、二つに割るわけにはいかんという事だ」


 クラウスの想定した通りの言葉だ。


「ついでに言うと、こっちを持って行かれると、軍事面で非常に困る。実質、わしの技を受け継がせたのはこっちなんじゃよ」

「……サーラに求婚者が現われるのは、全く想定してなかったんだよな、爺」

「幼い頃から、重病で治る見込みもないと言ってきたからのぅ。こんな事なら、明確な病名もつけておくべきじゃったか」


 難しい顔をして黙ってしまった老人に、クラウスはにこやかに微笑んだ。


「王太子殿下は、とても有能な人物だとお伺いしております。王太子殿下が、姫の婚姻を認めてくださったなら、それは、ご自身でなんとかできると明言なさったのと同じことですよね」

「確かに。王太子の言いそうな事をよう分かっておるな」

「それならば、まずは私は、サーラ姫の半身であられる王太子殿下にお許し願おうと思います」


 クラウスはにっこり微笑んだ。その有無を言わせぬ笑顔に、サーレスもなにも言えなかった。

 老人は、ため息を思い切りはき出すと、すっと立ち上がった。


「それはそれとして。我が孫と思いかわいがってきた娘を、嫁によこせと言ってくる男には、我が全力でお相手したいと思うがいかがかな。もともと、簡単に嫁にできるとは思うておらんじゃろう?」


 一瞬で、老人の気が膨れあがるのを感じたクラウスは、とっさに相手の獲物を確認した。


「せっかくだしのう。お噂の死神殿の腕前、とくと見せていただこう。そのドレスでは、全力も出せまいて。着替えてこられよ」

「……いいえ。そんなお手間は取らせません。子爵令嬢を名乗り他国に赴くからには、この姿でも戦えるよう鍛錬しております」

「戦場でも、その姿で出てくるわけではあるまい? わしの技は、戦場にあるものだ。ならば、戦場でも通用するものを着て参られよ」


 その言葉に、気配少なく立ち上がり、クラウスは膝を折った。


「……しばしお待ちください」


 それだけ言うと、慌てることなく建物に足を向ける。

 それを見送り、師匠と弟子は、お互い顔を見合わせた。


「……爺。なんのつもりだ?」

「なんのつもりとはなんじゃ?」

「……わざわざ着替えさせてまで、仕合うのはなんでだ?」

「お前さんは見たかないか? 噂の死神の腕前」

「腕前を見たいがために、言いがかりつけたのか?」

「言いがかりとはなんじゃ。孫のようにかわいいのは変わらん」

「爺が私の事を女と思っていたとは初耳だぞ?」

「一応女じゃろ。おかげでいらん手間がかかる事よ。体を間違えて産まれてこなければ、わしも何の憂いなく、お前を騎士にできたにのう」


 いつも、心から残念だと思っていそうなこの表情も、見慣れた爺の顔である。


「それでも女だ。たぶん子供も産めるんだろうな。だが、私は、自分が母親になる姿など、想像もできないんだ。どうしようか爺……」

「それはそれとして。もう一つ、重要な事があるじゃろう?」

「なんだ?」

「お前が、あのかわいらしい死神殿の事をどう思うかじゃ。そもそも、お前は男に触れんじゃろ。わしですら触れんのに、どうやって子を作るんじゃ」

「……触れたんだ。だから、困ってる……」


 その一言で、爺の表情に驚愕が広がるのが見えた。当然だろう。事情を知る人間なら、こうなるのが当然だった。


「触って、お前さんの拳を受けて、普通に動いておるのか?」

「……いや、手が出なかった」

「意味が分からん」

「……普通に手を取って、ワルツを踊ったんだ。ちゃんと、一通りのステップを踊ったぞ」

「なんと……」


 呆然としている爺に、サーレスは顔を向けた。頼りなく笑うその姿は、おそらく産まれたときから見守っているこの老人をして、はじめて見た表情だろう。


「おかげで、自分の心も分からない。爺。人間の心というのは難しいな。まだ、戦術論を朝から晩まで聞いている方が、心が穏やかでいられる気がするよ」

「サーレス……」


 自分が姫なのだと、女なのだと、あのどこまでも底深い青の双眸が語ってる。あの眼を見ると、心が乱される。


「クラウスと、一緒にいるのは苦痛じゃないんだ。だけど、見つめられると、自分が分からなくて戸惑うんだ。……どうすればいいのかな」

「……ま、もうしばらく期間があるのだし、しばし考えるのもまたよかろう」


 師弟は、肩を並べて、馬の蹄に乱された芝生の上を歩く。

 二人は、昔、自分の存在に戸惑ったサーレスが、剣を学び、乗馬を学んだ練兵場に、足を向けた。



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