その7
毎朝、この離宮で一番早起きをするのは、この離宮の管理を任されたティナだった。
今日はそれでも、子供達が二人揃って休みを取ったことで、昨夜遅くまで話し込んだため、数分遅れてしまったのだ。慌てて支度し、部屋を飛び出す。
いつものように、離宮の収納の鍵束を腰に下げ、その音を響かせながら、玄関ホールに来たとき、その場になぜか、人だかりがあった。
おそらく、警備の人間達と、昨日来た客人の黒騎士二人。
その人だかりの中央にはひとつのテーブルが置かれており、そこに、難しい表情のサーレスと、無表情のクラウスが向っていた。
「おはようございます。……皆さん、何事ですの?」
「……おはようございます」
気が付いたのは、黒騎士の一人、グレイだった。
「朝起きたら、主とこちらのサーレス殿が、チェスの勝負をしてまして。なかなか決着がつかないので、気が付いたらこの時間です。もう夜が明けてきましたね」
グレイは、窓の外に視線を送り、苦笑した。
「お二人とも、長考なさるので、勝負が長引くのは仕方ないですね」
「まあ……」
ティナは、驚いて、二人の手元に目を向ける。
「あの、いったいいつ頃から、お二人はこうしてチェスをしていらっしゃるの?」
「私が起きたのが午前三時頃なんですが……その頃には、すでにああして長考なさってましたよ。それから動いた手は三手です」
ティナは、とっさに懐中時計に目を走らせた。その時間からとなると、二時間で三手しか指されていないことになる。
ティナは、人垣をかき分け、自らの主であるサーレスの横に立つ。
「サーレス様。トレス殿下にも何度も申し上げましたが、チェスをなさるのはよろしいですが、お昼になさいませ。夜になさると、いつもいつも、お休みになるのを忘れるのですから!」
その言葉に、黒騎士の二人が驚愕した。
「え、ちょっと待ってください。もしかして、サーレス殿は寝てないんです?」
「そんな時間から指していたなら、お休みになっておられません!」
ティナは、自分が乳を与えた子供達の習性は把握しているとばかりに、きっぱりと言い切った。
サーレスは、チェス盤から目を離すことなく、そんなティナをたしなめた。
「ティナ。兄上も私も、昼は仕事があって、そんなのんきに考えてられないだろう。夜だからやるんだ」
「言い訳にもなってませんよ?」
「どうせ、離宮にいる間は、私には仕事がないんだ。眠くなったら昼でも寝るよ。心配ない」
「サーレス様!」
「心配ないです、ティナ殿」
そう呟いたのは、正面にいたクラウスだった。
「もう勝負はついてます。私の負けですね」
「え!?」
驚きの声が、黒騎士の二人から上がった。
「もういいのか?」
サーレスの声に、クラウスが顔を上げた。
「この状況だと、どの手をいっても、私の負けです。お見事でした」
「え、ほんとに負けてんのか、これ……」
ホーフェンが、呆然と呟く。
「では、私の勝ちということでいいのかな」
「はい……。参考までに、お聞かせ願えますか。今の状態から、白黒を逆転させたとして、あなたは勝てますか?」
サーレスは、そう問われて、改めて手元をのぞき込む。
一瞬の逡巡のあと、少しだけ首をかしげた。
「……五分かな」
その言葉に、クラウスが目を剥いた。
「……それなら、完全に私の負けですね。私には、五分に持っていく手も読めません」
それだけ言うと、クラウスは改めて、板に目を落とした。
「トレス王太子の腕前は存じ上げていましたが、あなたも相当ですね」
「あいにくだが、兄上は私よりさらに強いぞ」
その言葉に、黒騎士二人が息を飲むのが分かった。
「しかも、勝ち負け自由自在だ。そう誘導されているのに、そのことに途中まで気がつけない」
「……負け?」
「兄上は、勝負に興味がなくなったら、時間を短縮させるためにわざと負ける。だから、純粋な勝敗だけで言うと、私の方が勝ちは多い。半分以上、あちらが負けてくれた勝負だがな。ただし、勝つときは、どうして自分がこんな手を指したのか分からないほど、完璧に負ける」
「それだけお強いなら、あっという間に勝つということもできそうですが?」
「兄上は、考えること自体が楽しいんだ。勝ち負けはどちらでもいい。ただ、相手がどれくらい考えさせてくれるかが肝心なんだ。だから、自分が圧勝して終る、というのは、一番好まない勝負だ。そんな事をするくらいなら、初めから指しもしない。ただし、教えるのは好きだから、下手な相手に付き合うのはすごく好きだぞ。ユリアなんかは、いつもそのせいで付き合わされている」
「……それで、なんか分かった気がしました」
そのクラウスの言葉に、サーレスが首をかしげた。
「兄も、ものすごくチェスが好きなんですが、下手の横好きなんですよ。それが、トレス王太子殿下には、何度も一緒に指してもらえたんだと自慢するんです」
クラウスは、今まで指していた盤を見ながら、黒のキングを手に取った。
「あの人は、トレス殿下に、チェスの指南をしていただいていたわけですね?」
「きっと、面白かったんだろうな、反応が。兄上が言いそうな気がする」
サーレスは、兄が評したブレストア国王を思い出す。
「そうだな。確かに、楽しい人物だったと言ったな。そして、とても有能で、欲のない方だと。兄上の人物評というのは、かなり当たってるらしい。だから、皆が当てにしている。……ティナ」
「はい」
「兄上もここに来る予定があるんだろう? いつだ」
「明後日にお見えになります」
「せっかくだし、その時に、あなたもチェスの相手をしてもらえばどうかな。もっとも、私の勘だと、あなたは兄上があっという間に負けてくれる気がするんだが」
「なぜです?」
「あなたの指し口は、ほぼ教本どおりだから。次になにが来る、というのが読みやすい。だから、兄上にとっては、答えが見えている迷路を指で辿っているようなものだ」
「なるほど。それはなんだか、面白くなさそうです」
「あっという間に負けられたくなかったら、少しは教本に逆らってみることをお奨めする。兄上は、あっという間に勝つ勝負は嫌いだが、あっという間に負けて見せて、相手が慌てふためくのを見るのは好きだぞ?」
「……面白い方ですね」
「考えることと、相手の反応を見るのが好きなんだ。だから、ちょっと困らせて、その反応を見るのは、とても好きなんだ。困らせられた代表は、このティナだが」
サーレスから視線を送られティナは苦笑した。
「よく見てらっしゃること。でも、サーレス様だって、困らせてくださいましたよ」
「私のはただの我が儘だ。兄上のは、わざとだ。全く違うぞ」
「違っていても、困らせていることに変わりはありません。今もですよ。少しはお休みください。お体に触りますから」
「心配しなくても、ちゃんと休むよ。ただ……クラウス殿。なんでもしてくれるんだよな?」
「負けたら、そういうお約束でしたね。ただし、帰れというのは無しですよ?」
苦笑したクラウスに、サーレスは肩をすくめて見せた。
「それは言わないよ。言っても無駄だし、そんなことを言う権利もない」
「サーレス様。賭け事はいけませんと、何度も申し上げましたよ!」
「金品を賭けたわけじゃないんだから、かんべんしてくれ」
今度はサーレスが苦笑しながら、ふと考え込む。
「そうだな……ドレスを着てくれないか」
「ドレス、ですか?」
「クラリス嬢が見たい」
サーレスは、ちょっと困ったような表情で、微笑していた。
「頭では分かっているんだ。納得もしているんだが……私の記憶の中で、クラリス嬢は、完全に女性なんだ。だから、改めて、クラリス嬢を見せてくれないか」
その願に、ティナと警備の面々は目を剥いたが、黒騎士二人と言われた本人であるクラウスは、平然とその言葉を聞き入れていた。
「分かりました。それでよろしいのでしたら、お望みのままに」
にっこりと笑って、頷くクラウスを見て、苦笑したサーレスは立ち上がった。
「じゃあ、私はこれから一眠りするよ。ティナ。朝食は起きてからでいい。軽く、用意しておいてくれ」
「はい。お休みなさいませ」
サーレスは、軽く手を挙げ、自分の部屋に向った。
それを見送った面々は、サーレスの姿が消えたあと、改めてチェス盤を見つめていた。
「……ここから、勝てる確率五分」
「どこをどう動かすんだ」
黒騎士二人が、主と共に頭を付き合わせてああでもないこうでもないと言い始めた。それを聞きながら、ティナは心配そうにクラウスに話しかけた。
「あの、なにかお手伝いや、ご入り用な物はございますか?」
「え?」
「ドレスを着るとなると、お一人では……」
ティナにとって、目の前にいるのは立派な騎士である。ただでさえ、ドレスを着るのは、女性一人でもできる事ではないのだ。
控えめな申し出を、クラウスは首を横に振って答えた。
「必要ありません。部下も心得ておりますから」
「はぁ……」
クラウスの表情を観察しながら、ティナは頷いた。
警備員達は、すでにティナによって元の持ち場に戻され、客人である三人とティナが、その場に残された。
そこに、ガレウスとユリアの兄妹が顔を見せたのは、それからさらにしばらく立ってからだった。
「母上。おはようございます……おや、クラウス殿」
「ガレウスさん、ユリアさん、おはようございます」
「おはようございます。お三方お揃いで、どうなさったんですか?」
ユリアが疑問で首をかしげるのを見て、ティナが困り顔でため息と共に答えた。
「サーレス様が、また夜更かしをしたのよ」
その一言で、三人が集中している物に兄妹は気が付いた。
「チェスですか……これを指したのは、サーレス様とクラウス殿ですか」
「ええ。私が負けました」
ガレウスは、その盤をしばらく見たあと、おもむろにクラウスに問いかけた。
「……まだ、勝負はついてないように見えますが?」
その言葉で、クラウスはガレウスに顔を向けた。
「ここから、白が勝つ手もおわかりになりますか?」
「……分かります」
「サーレス殿は、五分だとおっしゃいましたが」
「そうですね。私だと、五分とは言えませんが……サーレス様なら仰るでしょうね。明らかに黒のほうが優勢の状態。さらに、黒は、いつまでもこちらに構わなければ、そこから簡単に上がれます。しかし、勝つ手があるかという問いになら、はいという答えになります。そこに持って行けるかは、心理戦になりますから、私ではどうなるかわかりません」
その言葉に、クラウスはひらめいた。
「なるほど。戦術パズルですか」
「はい」
苦笑したクラウスに、ガレウスも微笑んだ。
「もし、殿下の作成したパズルに関心がおありなら、サーレス様にお聞きしてみればよろしいですよ。サーレス様は、トレス殿下から、ほぼ毎週課題を出されています。それをこまめに本に書き写しておられますから、今までに解いた物を見せていただけますよ。今回も持ってきてるんだろう?」
最後の一言を妹に問いかけ、その妹は頷いて答えた。
「なるほど……。だから、こんなに強いんですね」
クラウスは、盤を見ながら呟いた。
「……さて。すみませんが、朝食はいつ頃でしょうか?」
クラウスの突然の言葉に、ティナが慌てて身を正した。
「お望みでしたら、すぐにでもお持ちできますが」
「では、いただけますか。身支度もあるので、早めに済ませます。あと、入浴の用意もしていただけますか」
「はい。おまかせください」
主の言葉を受け、黒騎士二人もテーブルから離れた。
「自分達の食事もお願いできますか」
「はい、すぐご用意します。ご一緒の席でもよろしいのでしょうか?」
ティナは、クラウスに問うた。
「ええ、大丈夫です。私の部屋に三人分、お願いします」
頷くと、三人は、まとめてクラウスの部屋へ引き上げていった。
離宮の使用人達は、日頃より落ち着かない態度で、客人の部屋を遠巻きに見つめながら、日常の仕事をこなしていた。
黒騎士たちは、クラウスの部屋に閉じこもり、どうやらクラウスの支度を手伝っているらしい。クラウスがドレスを着ることになったのは、すでにうわさ話で全員に行き渡っており、いったいどういうことになるのか、気になって仕方がないらしい。
「兄さんは、あの方の女装姿、見たのよね?」
「……見たと言えば見たんだが、あの時は顔がよく分からなかったし。それに、女性だとしか思わなかったから、確信も持てない」
兄妹は、銀食器を磨きながらひそひそと話をしていた。
「話もしたんじゃないの?」
「正直印象にない」
「もう。役に立たないんだから」
ふくれっ面になった妹の言葉に、ガレウスは苦笑した。
「お前、だったら、通りすがりに他の誰かと話をしている人間の声を覚えられるか?」
「どういうこと」
「俺が聞いたのは、サーレス様と会話しているその女性の声なんだ。しかもその時、俺は兵士から話を聞いていたし、自分が正面に立って聞いたわけじゃない。その状態で覚えてろって言うのは、無理だろ。ドレスの形すら、覚えてなかったぞ」
「ドレスの形ねぇ」
「サーレス様が、あれはブレストアのドレスだったと言ったんだ。だから、そっちの印象はあるんだが、声までは覚えてない」
兄のその言葉に、ユリアが手を止めた。
「ブレストア風かぁ。それって、すごく細身じゃないと似合わないのよね……」
「そうなのか?」
「そうよ。だって、ブレストアは、コルセットを入れないのよ。寒い場所だから、ドレスを広げたりもしないし、上に何枚も重ねる前提だから、コルセットを入れる必要がないんですって。芯になるドレスはシンプルで飾りも少ないの。でも……体の線をそのまま見せる形だから、男性だとすぐにわかりそうなんだけど……」
「俺は、あの時見たのは女性だったと疑いもしなかったぞ。たぶん、サーレス様もだ」
「でも、じゃあ、正面で会話したはずなのに、気がついてなかったってこと?」
「ああ。何かが変だとは思ってたようだが、少なくとも性別は疑ってなかったぞ」
ガレウスは、それだけは自信を持って言えた。サーレスは、あれを密偵と疑いはしたが、男だとは言ってなかった。
「昼には出てくるのか?」
誰がとは言わなかったが、妹にはそれでわかったらしい。
「サーレス様が起きてきたら教えてくれって言われたわ。だから、サーレス様が出てきたら、あちらも出てくるのではないかしら」
「なるほど。それなら昼だな」
兄弟は、二人そろって、天井を見つめた。この上は、ちょうどサーレスの部屋になる。
主が起きてくるのが、妙に不安に思えてしまう二人だった。
階段の上から、ゆっくりと一歩ずつ降りてくるドレス姿の人物を目にした人々は、残らず目をむいた。
ここに、いつの間に、こんな姫君が隠れていたのかと思ったのだ。
そしてその直後、その姫君の瞳の色に、心を射貫かれた。
サーレスは、その姿を見て、ため息とともにうなずいた。
「確かに、クラリス嬢だな……」
金茶の髪は、淡い茶色に染められていた。あの日と同じ、真っ白のアルバスタ風のドレスを身にまとい、たおやかな細腰には、ブレストアの貴族階級が身につける、青と黄色で刺繍された腰紐を飾っている。小花の飾りを髪にちりばめ、細い首筋を引き立てるのは、ガラス細工の首飾りと耳飾り。それらが光を反射して、白い肌に光を添えた。
あの日のままの、青い瞳が、強く人の心を引きつける。
ドレスの裾から見えるのは、先の細い、ドレス用に作られたヒールの靴だ。これにも、髪飾りと同じ小花が飾られている。
この姿を見て、これが男だとわかる人はいないだろう。
下まで降りてきたクラウスは、サーレスの前に立つと、ドレスの中程に指先を添え、膝を折り、優雅に礼をして見せた。
「あの日も、アルバスタ風のドレスだった。髪飾りも、あの日見たものだ。……驚いた。わざわざ、用意していたのか……」
「あなたが思い出してくださらなかった場合に備えて、持って参りました」
その言葉に答えたクラウスの声は、驚くことに少女のように澄んだ声だった。
「……声も変わるのか。そうか、外で絡まれていたときも、声は高かったものな」
「これは、薬を使っております。半日ほどで戻りますよ」
「……完璧だな。不思議だ」
「何がでしょうか?」
「騎士の姿でいるときは、性別が男性であることを疑わなかったが、こうしてクラリス嬢の姿を見ると……女性であることを疑えない」
「褒め言葉と受け取っておきます」
にっこり微笑むその姿も、美しいの一言に尽きる。可憐だった少女は、妖艶な女性として成長していた。
男性としては低めの身長は、この年頃の女性としてならば普通だったのだ。
これならば、どの夜会に行っても、完全に女性として溶け込める。
「これは確かに、母君が、娘がいなくなるようだとおっしゃるわけだな。この姿が、幻だとは思えない」
サーレスは、クラウスに手を差し出した。
「……エスコートしてくださるんですか?」
「この姿のあなたを、今ここでエスコートできるのは、私くらいだろう? ここまで綺麗な姫君が出てくるとは思わなかった。正式な晩餐でないのが、申し訳ないな」
「お望みでしたら、また着ます」
そう言うと、差し出された手に、クラウスの手が添えられた。
「……手も、女性のものとしか思えないな」
「手袋がいいものですから。実際の手のひらは、結構硬いんですよ」
「そうなのか?」
サーレスが、添えられていた手を軽く触る。
「……言われてみると、少し、皮膚が硬いか?」
「私も、剣を使います。手のひらの皮膚が硬くなるのは、どうしても防げませんでしたので。ここはさすがに、修行すればするほど、堅くなりますから」
「なるほど」
和やかに会話をしながら、食堂に向かう二人を、結局身動きもできずに、使用人達は見送るしかできなかった。