その5
テラスから逃げ出したサーレスが猛然と駆け込んだのは、厩舎だった。
昔から、何かあったときは、ここに駆け込んでいたので、癖になっているのだろう。
自分の馬のところまで行ったサーレスは、その芦毛の牝馬に顔をつけた。
なんで逃げ出したのか分からない。いたたまれなかったのは間違いないが、踊った程度で狼狽するなんて自分らしくもない。
駆け込んでも平然と干草を食べている愛馬に、恨みがましい視線を送る。
「……少し、走ってくるかな」
そうすれば、頭がすっきりする気がした。
馬具を用意して、手慣れた様子で馬に装着する。
「じゃあ、行くか」
馬を厩舎から連れ出し、いつもこっそりと抜け出す東門へ行き、顔を見慣れた門番に一応断り、そこから掛けだした。
走るのは、離宮へ続く道。そこから、途中で別れて森の中に入る小道がある。
慣れていなければわかりにくいその分かれ道を、サーレスは迷わず進む。
しばらく行くと、視界が開け、小さな泉と、それを取り囲むような花畑が現れた。
季節の白い小花が一面に咲き誇り、甘い匂いに釣られた虫たちも、盛んに行き来している。
そこで馬から下りて、水をやり、しばらく自由にさせるつもりで、馬具を外してやる。
馬は心得たように、水辺で草を食べ始めた。
泉の側で座り込んで、何をするでもなく、水面に映る、流れる雲を見ていた。
穏やかな景色が、先ほど乱れに乱れたサーレスの心を少しずつ落ち着かせてくれる。
……結局、母親の前で、触れることをしっかりと証明してしまった。
母のことだから、いまごろ喜々として、嫁入りの準備でもしているだろうか。
それを考えると、落ち着いた心が、ずっしりと重くなった。
しばらくそうしていると、なぜかそこに、馬の蹄の音が近づいてきていた。
この場所は、家族と乳兄弟の他には、あまり知るもののない場所だった。警戒のために道の先に視線を延ばすと、真っ黒な馬影が見えた。
つい先程自分が逃げる原因になった、隣国の王子様だった。
乗っているのは、おそらく本人の持ち馬なのだろう。黒毛がつやつやとした、足腰のしっかりした大きな馬だった。平地を走るための、速さを求める種ではなく、耐久力を求めた種なのかもしれない。それでも、自分がここまで掛けてきた速さと、相手が追いかけてきた時間を考えると、ずいぶん追いつかれるのが早い気がした。
その馬影が近づいても、先ほどのように動揺を感じない。顔が熱くなることもなく、意外なほど平静に迎えていた。
「追いかけてきたのか」
「王妃陛下の許可をいただきましたので」
いったいなんの許可なのか不思議に思ったが、相手はさっさと馬から下りて、サーレスと同じように馬具を外し、軽く首を叩くと、そのまま馬は森に消えていった。
「……あれ、ちゃんと帰ってくるのか?」
「帰ってきますよ。あれにとっては知らない土地なので、周囲を見に行ったんでしょう」
「知らない土地は、自分で見に行くのか?」
「ええ。いつもです。呼べば帰ってくる範囲にはいますから、問題ありません」
「変わった馬だな」
「よく言われます」
「黒騎士の人たちが見ても、変わった馬なのか」
「そうですね。黒騎士たちだと、あれが露骨に嫌ってますから、扱える者も少ないです。おかげで、戦場でも、従者に任せられなくて、常に私が面倒を見る羽目になっています」
「……あなたは、戦場では、指揮官だろう?」
「もちろんです。黒騎士団は一番最初に切り込んで行かなくてはいけませんから、ブレストアの全軍を掌握するのも仕事ですよ」
「それなのに、馬の世話まで自分でやるのか?」
「任せると、いつまでたっても私が乗れません。それくらいなら自分で世話をした方が速いです」
「大変だな」
「それでも、私の気持ちを汲んで、どこまでも駆けてくれます。私にとっては、戦場での半身に等しい存在です。自分の半身を自分で手入れするだけです。苦にはなりません」
「……そうだな。自分の一部だと思えば、苦にはならないか」
クラウスの馬が消えた木立に視線をむける。時折見える長い尻尾に、おもわず笑みがこぼれた。
ふと視線を感じ、横を向くと、クラウスはじっとサーレスを見つめていた。
その表情を見て、口をついて出てきたのは、自分でも意外に思う言葉だった。
「……昔見たあなたは、ちっとも笑わなかったな」
「そうですね。感情は表に出すものではないと言われ続けてましたし、自分に感情があるのも忘れていたもので」
その言葉を不思議に思って、思わず顔を上げると、目の前に青い瞳があった。
柔らかそうな金茶の髪は、なめらかな頬に
「記憶にある限り、私の瞳は、呪いのサファイアだと言われていたんです。父の治世に楔を打ち込むために産まれた子供。国には女として届けを出していても、たとえ子爵家の預かりだとしても、私が母の子であることはブレストアでは知らない者はいませんでした。ですから、気味悪がられて、近寄る者はいませんでしたし、子爵家の子供達ですら、私のことは避けていました。私の周囲にあったのは、恐怖と不安、そして哀れみの感情だけでしたので、笑顔など、覚えようがなかったんです」
クラウスの表情から、笑みが消える。
その顔は、間違いなく、あの時人形のように、気配を消してひっそりと立っていた、その少女のものだった。
「おかげで、母に連れられ、黒騎士団の本拠地に着いたときは、不安より、安堵を覚えました。黒騎士たちは、私が誰であろうと、呪われていようとも、普通に接してくれました。表情がないからかわいげがないとは言われましたけどね。私は団長の従者をしながら、身につけられる技をひたすら修行してました。黒騎士団は、剣も格闘も密偵の技も、幸いというか、師匠に困らない組織ですから。団員に呆れられるほど、ずっと修行の毎日でした」
クスッと、クラウスが笑った気がした。しかし、すぐに、元の表情に戻る。
「あなたと会ったときは、母がどうしてもというので、連れ出されたんです。私としては、もう、女の姿でいるよりも、騎士団の仕事をしているほうが気楽だと思っていたので、あまり気乗りがしなくて。あとで知ったのですが、母は、私をカセルアの王妃陛下に紹介したかったのだそうです。でも、王妃様は、あいにくあの席におられなくて、代わりに来ていたのが、トレス王太子を名乗るあなたでした」
クラウスの瞳の色は、あの時と変わらない。だけど、表情には、天と地ほど違いがあった。なんの感情も浮かべていない顔と、わずかにでも感情が表れた顔は、雪の大地と花盛りの春ほども印象が違って見えた。
「踊りながら、あなたは私の瞳を、バストニアの海の色だといってくれました。今まで、呪いのサファイアだとしか言われた事がなかったので、とても驚いたんです。でも、その時私は残念ながら、バストニアの海を見た事がありませんでした。国に帰り、再び修行の日々に戻っても、はじめて言われた言葉は、消えることはありませんでした。そして、私は、バストニアで仕事がある騎士に無理を言って、一緒について行ったんです。ただ、海を見てみたくて」
クラウスの瞳が、ひたとサーレスに向けられた。
あの時の少女がこうなったのだと言われても、信じられない気持ちなのだが、顔だけは確かにそのままだ。
ただし、少女の間は、人形のように冷たかった表情に、今は血が通っていた。バラ色だった頬はそのままに、笑顔で穏やかさが追加され、花が開いたように変化したのだ。
「はじめて見たバストニアの海は、あいにく曇り空でどんよりと暗くて、こんなものかと、自分が思う以上に落胆したんです。でも、翌日、信じられないほど晴れた空の下、その海を見て、圧倒されました。あなたの言った通り、まるで燃え上がるような光が、水底から沸いていました。それを見て、私は泣いたんです。人前で、あんなに泣いたのは、初めてでした。一緒に行ってた騎士が狼狽して、仕事にならないからと私を抱えて宿に引き上げるくらいでした」
穏やかな笑みは、その時のことを思い出しているのがよく分かった。
「初めて、自分自身が思っていた以上に、呪われていると言われていることを、重く感じていたのに気が付きました。どれだけ自分を騙していたのかを知りました。初めて、心の底から、綺麗だと思えるものを見た気がしました。そして、それを教えてくれたあなたに、会いたくなったんです」
あの時も、確かに見えたそれが、今、瞳の奥で揺らめいていた。
柔らかな笑顔のそれとは違う、確かな炎だった。
「どうしても会いたくて。でも……次に会えたトレス王太子は、あなたじゃなかった。愕然としました。それからもう一度、王太子が出席する晩餐会に潜り込めたのですが、そこにいたのも、やはり違っていました。その時に、影武者のことを思いついたんです」
それはそれは、幸せそうに、こちらを見つめてくる瞳に嘘はない。会えたことがうれしいと、ただそれを訴えている。
どんなに鈍くても、分かるほどの表情だった。
「それで、最初に奥の宮に行ったときに、あなたを見つけたんです。見た瞬間に、あなただと気が付きました。その時の会話で、ようやくあなたがサーレスと呼ばれていて、トレス王太子ではないことが分かったんです」
「つまり……会話が聞こえるほど近くまで、奥の宮に忍び込んだ?」
「ええ」
にっこり笑って頷かれては、この相手に苦情も言えない。今度城に帰ったら、兄と共に、近衛と警護についてじっくり話そうと心に決めた。
忍び込んでいた本人は、ただニコニコと嬉しそうに話を続けていた。
「でも、忍び込んでいたのでは、いつまでたってもあなたに話しかけられませんから、それからずっと機会をうかがってたんです。自由になる時間を利用して、何回かこちらに来て、あなたについて調べていました」
つまりこの人は、何回も何回も、違う名前と姿でこの国に来ていたのだ。
言われてみれば、黒騎士団長の姿も、王弟の姿も伝わっていないのだ。忍び込み放題だし、国境から話も来るはずがない。
密偵対策は万全だと、父も兄も自信を持っていただけに、ため息も出ない。
警備に関して、少なくともこの人にとっては、穴だらけだったのだ。徹底的に見直すことを、心に決めた。
「大体、半年くらいは、そうやって、あなたのことを調べていました。どうしても話しかける機会が見つけられなかったし、なにより、男の姿をした自分が、どうやってあの時の令嬢だと証明すればいいのか、分からなかったんです。ものすごく悩んで、結局いい案は見つからなくて、それでもあなたの側に行きたくて、その頃にはもう、あなたに話しかけることよりも、あなたの側にいるための方法を考えるようになってました」
「……側に?」
「いつ来ても、ユリアさんがあなたの側にいた。外に出るときは、ガレウスさんが付き従っていた。あの二人に笑顔を見せるあなたの姿を、遠くから見ていて、それが羨ましくて、仕方がなかったんです……」
その時の、ほんの少し、憂いの浮かんだ瞳に、心が惹かれた。
柔らかそうな髪が、微かにそよぐ姿に、指が伸びる。しかし、触れる寸前で、突然クラウスの顔が上げられた。
「……ところで、どうして私が、あなたがここにいることをわかったと思います?」
突然なされた質問に、とっさに返事に窮した。
「……兄かガレウスに聞いたんじゃないのか?」
「いいえ。私がここに来たのは、二度目なんです。だから、こちら方面に走ったと聞いて、ここがすぐに思いついたんです。……この冬のことです。ここの泉には、薄氷が張ていて、霧もあってとても幻想的な景色でした」
初冬、薄氷、と言われ、たった一つ思い当たり、体が竦む。
「この泉は、森の動物たちの水飲み場でもあるんですよね。その日は鹿が居て、その鹿は、あなたが現われたことで驚き、森に逃げようとして、氷に滑って泉にはまってしまった。あなたはためらいなく泉に入りその鹿を助け上げた。鹿は、水の冷たさで体が硬直していて、身動きが取れなかった」
「……まさか、見て、たのか?」
「あなたは上着を脱ぎ、シャツを脱いで、硬直した鹿の体を暖めるように拭いていました。それで、あなたが女性だと分かったんです」
サーレスは、思わず襟元を握りしめた。
見られた。
よりによって、あの日あの時、人がいるなんて、思ってもみなかった。
いくらなんでも、人が居るのに気が付かないどころか、そのまま肌まで見せるとは、王女としてどころか、女性の体を持つものとしては失態どころの話ではない。
サーレスの顔は一気に青くなり、その動揺が見てわかるほど現れる。
「あなたが女性と分かれば、あとはもう、調べなくとも分かりました。あなたの本名、そして、今名乗っている名前……。サーレスというのは、あなたの本名であるサーラと、トレス王太子の名前を繋げたものですよね。サーラ姫は、もう、重病で表に出ることはないと公表されていました。あなたは、一生、トレス王太子の影で居るつもりだったんでしょう?」
何も答えられなかった。口が凍り付いたように、一言も出てこなかった。
「でも、私は、あなたが女性であったことを、目に見えぬ神に、産まれて初めて感謝しました。おかげで、私は、堂々と正面から、あなたに求婚に来ることができることが分かりましたから。兄にも、勝手に王弟の身分を返してくれたことを苦々しく思ってましたが、おかげで隣国の王女の相手にもなれると思えば、キスして感謝したいくらいでした」
俯いていたサーレスの頬に、手袋をした細い指が触れた。
思わず体が竦んだ。
しかし、それに躊躇うことなく、もう片方の手も頬にかかり、顔を上げさせられた。
正面の青い瞳が、恐ろしいほどに輝いている。底の見えない海の色。美しい、だけど厳しい、深い深い青だった。
表情は、あくまで甘く、優しい。だけど、その瞳の色だけが、その優しさと相反している。
「……やっと、ここまで来ました。……やっと……会えた」
そっと、触れるか触れないかのきわどさで、クラウスの腕が伸び、サーレスの頭を抱きしめる。
「やっと、言える……。ありがとう。あの日、私を見つけてくれて、出会ってくれて、手をさしのべてくれて……そして、大嫌いだった瞳の色を……綺麗な海の色に変えてくれて……ありがとう」
不思議だった。ここまで触れられ、間近に顔があっても、今まで他の男達に感じた気持ち悪さはない。
目の前に、先程より柔らかくなった瞳があった。微笑みもそのままだ。
それなのに、いたたまれない。
思わず俯いたサーレスに、クラウスは優しい声をかけた。
「そういえば、王妃陛下から、伝言をお預かりしました」
「……なにを?」
「今日から離宮に行くようにと」
「……つまり、離宮に籠もれと言うことか」
自分が望んでいたことだし、なんの問題もない。おまけにここは、離宮への通り道だ。城に帰る必要もなさそうだった。
一人になれば、もっといろいろ、冷静になれるだろう。
ほんの少しの安堵で、緊張がゆるんだ瞬間を狙ったように、さらりとクラウスは告げた。
「私も一緒ですが」
「……は?」
驚愕のあまり、目を剥いたサーレスに、平然としたクラウスが、さらに信じられないようなことを口にした。
「王妃陛下は、あなたが自ら結婚を了承する言葉を口にしたら、すぐにでも嫁に出すと仰せでした。離宮でがんばりなさいと激励の言葉もいただきました。王宮で人の目を気にするよりは、そのほうが双方心ゆくまで話ができるだろうと」
「どこに未婚の娘を求婚してきた男と閉じ込める母親がいるんだ!」
「王宮にお一人いらしたようです」
サーレスは、そのままいっそ意識を飛ばしたい気持ちになりながら、母への恨み言を口の中で噛み潰した。
「そろそろ、離宮に行きましょうか。ユリアさんたちが到着しているかもしれませんし」
サーレスは、声も出せずに、ただ頷いた。