その3
「サーレス様。さっきからため息ばっかりですね。退屈でしたら、本でも借りてきましょうか?」
乳兄弟のユリアが、紅茶色の長い髪を肩からさらさらとこぼしながら、サーレスの顔をのぞき込み、微笑んだ。
「それとも、お茶かワインでも、ご用意しましょうか?」
「どっちもいらない」
がっくりと椅子に沈み込むサーレスの顔を見て、ユリアが微笑んだ。
「朝からずっと、眉間に皺が寄ってますよ」
指先で、ぐにぐにとシワを伸ばすように眉間を押えるユリアの手を取り、とりあえず下に降ろす。
「ユリアは晩餐の手伝いに行かなくていいのか?」
「私は、サーレス様を見張るのが仕事だと、トレス殿下からのお言付けですわ」
にっこり微笑むユリアの表情を見ながら、再び重いため息をつく。
「心配しなくても、出かける気力もないよ。あ、ユリア。明日から遠出する。お前も一緒に行ってくれるか。離宮に行きたいんだ」
横にいるユリアは、愛嬌のある水色の瞳を、大きく見開いた。
「でも、今はお出かけしてはいけないと、王妃様がおっしゃってませんでした?」
「どうしても出かけなきゃいけないんだ」
「それも、離宮ですか。黒騎士公が離宮にでもお見えになるんですか?」
ユリアの言葉に、がくっと肩が落ちた。
「なんでそうなる……」
「いえ、あちらの方は姫が離宮にいると思っているなら、面会に行かれるのかと思って。それに先駆けてサーレス様が行くのかと思ったんです」
「たとえ私が行っても、面会するわけにいかないだろ……」
ドレスもない。髪も短く、まとめ髪にできない。そもそも、女性用の礼儀作法は、仕込まれはしたが覚えてない。ダンスも男性パートしか踊れない。
何をどう一夜漬けで特訓しようが、女性として求婚者の前に出られない。無い無い尽くしだ。
「とりあえず、晩餐会が終ったら、兄上が詳細を教えてくれるから、起きてなきゃな。ユリア、チェスでもしようか?」
「私では、サーレス様のお慰みになりません。兄さんならまだしも、今日はトレス殿下について、晩餐におりますし……」
「じゃあ、カードでいいよ」
「わかりました。でも、簡単なのにしてくださいね」
「わかったよ」
ユリアが、部屋を出て、カードを取りに行っている間に、窓の外から音がした。その窓を見ると、なぜか現在晩餐に出席中の兄がいた。
慌てて窓に飛びつき、もどかしい思いをしながら鍵のかかっていたガラス扉を開けた。
「兄上、どうしました?」
「サーレス。バストニアの海だ」
兄から突然告げられたその言葉に、首をかしげる。
「……なんですか、それは」
「お前、あの瞳を見た気がすると言っただろう。お前は以前、あの色の瞳を、バストニアの海にたとえた。違うか?」
そういわれて、はて、と首をかしげる。頭の中の記憶を必死でたぐり寄せる。
『……あなたの瞳は、バストニアの海のようですね。それも晴れているときの、水底まで透き通るような、青だ。あの地域は、年間でも晴れの日は少ないけれど、晴れたときの海の色は、とても綺麗なのですよ……』
かすかな記憶が、頭をよぎる。
言われてみれば、そんなことを言った気がする。言ったが……。
「……あれは、どこの……確か、アルバスタの舞踏会で」
必死で記憶を辿ると、少しずつ、相手の姿が思い浮かぶ。
白い服。布でできた花飾りがついている、スカートを思い切り膨らませたアルバスタ風のドレス。レースが綺麗だった。
年は、ずいぶん若かった。確か、あの晩餐会は、子供もたくさん招待されていて、ずいぶん賑やかだった気がする。
茶色い髪を、頭の上でまとめ、そこから小花を散らしていた。
自分には絶対に似合わないなと思いながら、小さなその少女が身につけている物を見ていると、その少女と目が合った。
はじめは、人形のようだと思っていたのだ。細い手足に、細い首。全く身動ぎせずに、ひっそりと隠れるように、だけど、真っ直ぐ前を向いて彼女は立っていた。
燃えるような、瞳の奥に揺らぐ光。それに、魅入られた。
『夏の陽が、水底にある真っ白な石に反射して、光が下から陽炎のようにのぼるんです。あなたの瞳にそっくりですよ』
「……そうだ、女の子だった。確か、名前は……ええと」
必死で思い出そうと、目を閉じた。記憶をたぐる。
想像の中の彼女は、その可憐な唇を開き、なめらかな発音で自ら名乗った。
「ブレストアのレイティス子爵令嬢、クラリス=エルディーナ=レイティス」
「そう、それ!」
記憶の中で、彼女が名乗る。目を開いて、兄の顔を見る。驚愕の表情で、横を見ている。
そういえば、今、自分の記憶を取り戻した声はどこから聞こえたのか。
兄の視線を辿り、そちらに顔を向けると、そこに、あの蒼い瞳が揺れている。
クスクス笑いながら、この場にいてはいけない人がいる。
今、一番、顔を合わせてはいけない人だ。
「……――――――!?」
兄の、白い皮手袋を填めた手が、悲鳴を上げる寸前だったサーレスの口をふさいだ。
「レイティス子爵家は、母の実家で、今の当主は私の伯父なんです。クラリスは、伯父の養女なんですよ」
どうしてここにいるのか。ここは王族しか入れない区域で、たとえ庭でも、許された者しか入れない場所だ。
「並んでいても、よく似ておいでですね。それに、声も似ている。どおりで、侍女の方に尋ねても、わからないはずです。奥の方しか、その方のことはご存じなかったのかな」
「……なんの、話ですか?」
兄王子が、妹の口をふさいだまま、固い声で問う。
「今日、謁見の間におられたのは、そちらの方ですよね」
ぎくっと、体が硬直したのがわかった。
「なんのことでしょう?」
「そして、私が会いに来たのも、その方ですね」
兄妹二人、呆然と、その人の顔を見た。今の言葉を総合するとつまり……。
「……あなたはもしかして……姫のことをご存じの上で、この国に、来たんですか」
「それは、姫が本当は離宮にはおらず、城にいることでしょうか? それとも、兄君の影武者を務めておられることでしょうか?」
「……その上で、求婚しにきたと?」
「……私が求婚しに来た相手は、あの日、あなたそっくりの顔で、あなたの名前を名乗って、私の瞳をバストニアの海に喩えてくれた方です。それがその方なら、間違いなく、私はその方に求婚に来ました」
それがなにか、と言わんばかりの表情で、黒騎士公は首をかしげている。
ぽかんとしたまま、なにも言えずに立ち尽くしていた二人を正気に戻したのは、部屋に帰ってきたユリアだった。
「あら、王太子殿下、どうかなさいました?」
「ユ、ユリア!?」
「……あら?」
サーレスが部屋に駆け込んでいく。乳兄弟の反応が、手に取るようにわかったからだ。
先程の兄よろしく、とっさに口を手でふさぐ。
「……――――――!?」
くぐもった悲鳴が聞こえた。間に合ったことにほっとしたが、問題は全く片付いていない。
背後で、青い瞳を揺らしながら、侵入者がクスクスと笑っていた。
そのまま外で会話をするのも都合が悪いので、とりあえず全員が部屋に入り、しっかり施錠する。
ユリアには、声を上げないように言い含め、そのままお茶の用意と、もう一人の乳兄弟、ガレウスに、誰にも知られずにここに来るように伝言を頼んだ。
部屋の中に、兄妹と客人の三人で、椅子に座って沈黙していた。
最初にその沈黙を破ったのは、その場で一番年長の、トレスだった。
「……黒騎士公……とお呼びすればいいのかな?」
「どうぞ、クラウスと呼んでください。トレス殿下のことは、兄上から聞いております」
「どんな話を?」
「留学時代のいろいろなことを」
にこにこ笑って答えるクラウスに、渋面で兄が問いかけた。
「一つ、聞いても良いだろうか?」
トレスが、改めて、身をただした。
「なんでしょうか?」
「私は、君の話を、一度も耳にしたことがないんだ。ランデルとも、一緒に二年学んだが、その間一度も、兄弟がいること自体、聞いたことがない。君はどうして、存在を秘されていたのか。そしてどうして、突然出てきたんだ?」
その質問を聞いて、クラウスは一度、沈黙した。そのあと、苦笑して、話し始めた。
「私の父である先代の国王は、とても信心深い人でした。父の治世で、最大の失敗は、国政に宗教を持ち込んだことだと言われてます。国の大事を決めるときに、父がもっとも重要視したのは、ラズー教の司祭による、占いでした。当然、父は自分の后選びにもその占いをしたそうなんです。その時、后として、母が指名されたのですが、それと同時に、二人目に青い眼の男児が産まれたら、父の治世を阻害する呪いを受けるという宣告も受けたそうなのです」
「……え?」
「青い眼は、我が国では王家に伝わる神聖な色とされてますし、滅多に出てこない色なのですが、青い眼をした兄が産まれた時点で、父は迷うことなく、母に言いつけたんです。もし、二人目の子供が男で、青い眼だった場合、すぐに殺せと」
淡々とした言葉だが、それを言っているのが、その殺されるはずだった子供だ。残酷な事実だった。
「しかし、大きな声で言えませんが、母は父をあまり好いてはいなかったんです。もともとかなり強引な婚姻だったので。だから、母は、父の言うことに逆らうことにしたそうです。実家で出産して、国には、性別だけ偽って、青い目の女の子だと届けたんです。父は、娘だったからか、殺せとまでは言いませんでしたけど、青い目をこれ以上王宮内に増やすなと言って、そのまま私の身柄は、子爵家預かりになったんです。世間には、その子供がどうなったのかは伝えられませんでしたけど、私の外見は、母に似すぎていましたので、社交界に出れば、自然と素性は知られてしまいました」
明るく笑いながら言う話ではない。それでも、本人は、そんな悲壮さは、かけらも感じさせなかった。
しかし、サーレスは、その姿に違和感を覚える。
昔、一度だけ見たあの時の令嬢は、まさに、今の話どおりの子供が育った姿に感じた気がする。生きることを抑え、存在を抑えた、人形のような姿だった。
しかし、今のクラウスからは、それを感じない。いっそ不思議な位、別人に感じる。
今は、父王が亡くなり、抑える必要がないからかも知れないが……。
「ですが母は、私をずっと娘として育てるつもりはなかったので、旧知だった黒騎士に預けることを思いついたそうです。黒騎士団なら、もともと国王の指示も監査も受けない集団ですから、男の姿でうろうろしていても、国王に見つからない」
「……つまり、占いを恐れた前の国王から君を隠していて、亡くなられたので出てきたと」
「そうですね。一応、父が亡くなる前から、黒騎士団の副団長ではあったので、城に出入りはしていましたし、兄とは会っていたんです。母は、兄にまで、私の存在を隠しませんでしたから、兄が外遊などに出るときは、子爵令嬢としても会っていました。ですから、父が亡くなったあと、兄が、隠さなければならない理由はなくなったのだし、お前だけ隠れていることは許さないと、公表してしまったのです」
「ほんとに変わってないな……先頭に立つよりも、影でこそこそ策略を巡らせる方が好きな方だったからな。弟がその立場にいるのが悔しかったんだろう」
兄の顔に、苦笑が広がる。どうやら、本当に知っているそのままらしい。
「じゃあ、今回の縁談は、ランデルの意向じゃなく、あなたから言い出したのか」
「そうです」
「……もう一つ尋ねたいんだが、ランデルも、うちの姫の事を知っているのか?」
「知っているか、というのは、姫が重病でもなく隠匿生活も送っておらず、どちらかと言えば丈夫な人だと言うことでしょうか?」
ぐうの音も出ない。まさにその通りだからだ。
「まあ、概ねそんな事だ」
「兄が知っていれば、間違いなく、求婚しに来たのは兄だったと思いますよ」
その言葉に、兄妹は揃って顔を上げた。
疑問が顔に表れていたのかも知れない。クラウスは、そのままその疑問に答えてくれた。
「兄は以前から、こちらの王家に縁のある女性を后に迎えることを考えておられました。兄は王ですから、后を迎えるなら、世継ぎをもうけることが一番の重要事項です。トレス殿下に妹姫がいることはご存じだったようなのですが、調べた者達の報告に重病らしいとあったので、世継ぎがもうけられるかどうかわからない。だから側近達も、いくらカセルアと縁戚関係を結びたくても、姫を迎えることはできないと判断したんです」
「じゃあ、なぜ、そう判断した姫に、あなたが求婚することを許した?」
「それは、私が、跡継ぎをもうける必要がない位に就いているからです」
「……え?」
「もともと、黒騎士団長は、血ではなく技で継ぐ位ですし、公爵位も、基本的に私一代です。子供は絶対に必要というわけではないので、それなら私がカセルアの姫を頂いてもいいですかとお聞きしたら、それで縁戚関係も結べるし、構わないとなったんです」
それを聞いて、呆然とサーレスは呟いた。
「……本当に、黒騎士団長なのか」
そのつぶやきが耳に入ったのか、クラウスはにっこり笑った。
「十四でその位を継ぎました。もともと、私の武術指南が、前黒騎士団長で、私も団員でしたから。一応、歴代で最年少記録だそうです。そもそも、十四で正騎士の位というのも、黒騎士以外ではあり得ませんが」
「……え?」
「黒騎士団は、性別、出身地、年齢を問いません。身分なんか、もっと関係ない。そういう集団だからこそ、身を潜めるには適していたんです。もっとも、国には、私はレイティス子爵令嬢として届けられていましたから、そちらの用があるときは、女装して行動していたのですけど」
つまり、その子爵令嬢として出かけていた時に、サーレスと出会ったのだ。
そこまで考えて、ふと、頭に思い浮かぶ。
「……あ!!」
「どうした、サーレス?」
「昨日の夕方の!!」
昨日の夕方、ごろつきに絡まれていた。ブレストアのドレスを着た、厚いベールで目元を隠していた女性。
ふと思い出したそれと、目の前にいた、どちらかと言えば女性的な顔の騎士が重なって見えた。
「正解です」
「ちょっと待て。だったらなんで、ごろつきに絡まれて悲鳴なんか……」
「あれは、私の悲鳴じゃないんです。たまたま、酒場から出てきた女性に見られてしまったんですよ。その声で、すぐに兵士が来てしまって、ああしてるしかなかったんです。たぶん、そのままにしていれば、近くにいたはずの部下が気が付いて、来てくれるだろうと思ってたんですけど、見られてなければ、こっそり路地に引っ張り込んでなんとかしましたよ」
「……相手は剣を持ってたけど」
「私も持ってましたから」
昨日のドレス姿を思い出しても、どこに剣を持っていたのかわからない。
首をかしげたサーレスに、クラウスは、ごく簡単に説明した。
「日傘です。あれが仕込み剣なんです。あと、小剣もブーツのところに仕込んでありますよ」
「日傘?」
話がわからないトレスが、首をかしげて妹に説明を求めた。だが、妹は、昨日見たクラウスの姿を思い出すのに夢中で、それに気が付かなかった。
「そうか。途中で連れと別れて、女装したままここに来たのか。だから、警護がまかれたんだな」
「その通りですよ。昨日は、あの近くの宿で、付き添いの黒騎士と合流する予定だったんです。こちらの国では、私の顔も履歴も伝わっていないのは知っていましたので、子爵令嬢として来れば、見つからないと思いまして。ただ、付き添いになる黒騎士に関しては、顔も身分もこちらに伝わっている者を連れてこないと、私の身分を証明できません。だから、目立つ二人には、そのまま先行してもらったんです」
「……昨日の、あのごろつきってじゃあ……」
「私を狙ってた刺客ですね。通りすがりにいきなり剣を抜いてましたから。一撃目は避けたんですけど、そこを見られてしまったんです」
がくっと肩を落とした。
「しまった。きちんと追っておくべきだったか」
「サーレス。どういう事だ?」
「……昨日、飲みに行ったときに、ごろつきに絡まれていた女性を助けたんです。その女性がこの人で、そのごろつきが、この人を狙う刺客だった、と言う話です」
「おい、そういうことはちゃんと報告しろ。……ガレウスも口止めしたのか」
ふいっと顔をそらした妹を、兄は同じ顔で睨み付けた。
「何事もありませんでしたし、あのあとちゃんとうちの部下が相手の居場所は突き止めました。大丈夫ですよ」
「一応訊ねるが、その刺客は、どうしたのかな?」
「まさか他国で自衛以外の理由で攻撃を加えるわけにはいきませんから、調べただけですよ。とりあえず、相手の顔を見に行っただけです」
「だから、そういうことは調べたら知らせてもらえないか。こちらの兵が捕らえに行くから」
「必要ありません」
きっぱりと、笑みを湛えたまま言い切ったクラウスを、兄妹がまじまじと見つめる。
「わざわざこの国で捕らえなくても、帰りには堂々とクラウスのままホーセルを通る予定です。そこで襲ってもらうほうが、こちらとしては都合がいいので、放置してください」
「……わざわざ、戦のきっかけを作らせるつもりか」
「帰りは、こちらとの友好条約が整った状態であちらに向って、反乱分子を全部引き連れて帰ってこいと、兄の指示が下ってますので」
「はぁ!?」
「前回の戦乱で、いくつか地下組織を討ち洩らしていまして。ついでにそれを片付けるために、派手に引っ掻きまわせと言われました。だけど、行きはそれをやって、こちらへの印象を悪くするのもいやだったので、帰りにすることにしたんです。だから、行きは、できるだけひっそりと、我が国とカセルアが直接繋がる、カフラ国境を通るコースを選んだんです」
「だが……カフラ国境は、越えるのは大変だろう。馬車どころか、馬も通らないと聞いているが」
「黒騎士は、馬のままでも越えられますよ。それだけの訓練をしますから」
その言葉に、サーレスは、背中に冷たい汗が流れた気がした。
つまり、黒騎士団単体なら、ブレストアはカフラ国境からカセルアに攻め込めるのだ。
改めて、黒騎士団の恐ろしさが理解できた気がした。
どこもかしこも切り立つ崖ばかりのカフラ山脈を馬で越えられる道があるということは、黒騎士団はどこからでも、他国に攻められることを意味している。
ブレストアの周囲半分ほど覆うように、カフラ山脈は取り巻いている。そこから、隣国に接している事も多いのだ。
アルバスタとホーセルは、平地から繋がる場所だから、昔からブレストアとは諍いが絶えなかった。だが、ブレストアからすれば、カフラ山脈を越えられれば、他のどの国へも直接行けることになる。
「今回も、私たちは自分の馬で越えてきました。私の馬も、黒騎士の一人が引いてきているはずですよ」
「ああ、確かに、そう聞いてる。あの馬は、国境を越えてから購入したわけじゃないのか……」
「山脈を越えるときに、買ったばかりの馬だと、さすがに危ないですよ。カフラも、けっこう山の上にあるでしょう。崖を降りたりしますしね。馬にも訓練が必要なんです」
「崖を降りる!?」
兄妹の声が重なる。そんな事は、馬でできるなどと想像したこともなかった。
「訓練すれば、できますよ。馬は、足腰が強く、忍耐力のある、ボード種がいいですね。あれが一番訓練しやすいと思います。軍馬としても優秀ですし」
その表情は、嘘偽りをいっているようには見えない。
「……私も馬は好きだが、さすがにそこまで鍛えたことはないな」
サーレスのつぶやきに、それはうれしそうに、クラウスは笑った。
「本当は、あなたへの贈り物として、馬を持ってこようと思っていたんです。遠乗りがご趣味だと聞いたので。でも、山越えになってしまい、連れてこれなくて」
「馬?」
思わず喜びが顔に出てしまったサーレスを、視線でたしなめながら、トレスが慌てたようにクラウスを止めに入った。
「それは、サーラ姫へか?」
「いいえ、サーレス殿へです。サーラ姫は、ご病気という事になってますし、そんな方に馬を贈るほど、愚かではありません」
「サーレスは、表向きでは、私の従者なんだが……従者に他国の公爵からプレゼントというのもどうかと……。そもそも、そんなにサーレスのことは、他国に話がいってるのか?」
「おそらく知られてないと思いますよ。私も、名前まで調べるのには苦労しましたし。私は、はじめから、トレス王太子の影武者を探していました。逆をいえば、まず王太子が影武者を使っていることを知っていなければ、探せないのではないですか。そのことは、本当に知られていませんでしたよ。兄にも一度尋ねましたが、その時は、そんな話は知らないと言われました。もし王子にそっくりな人物がいるなら見てみたいとも言いましたし、その言葉に嘘の気配はありませんでした」
朗らかな笑顔のまま、態度が変わることのないクラウスを、不思議な思いでサーレスは見つめていた。
その時、扉に入室の許可を求める声が聞こえた。
許可して入ってきたのは、ガレウスと、お茶のワゴンを押したユリアだった。
「殿下。サーレス。お呼びと聞きましたが……あ」
ガレウスが固まる。その視線の先には、にこやかに笑う、この部屋にいてはいけない人物。
「……黒騎士公? な、なぜ、こちらに? お部屋におられるとお聞きしておりましたが」
そのガレウスの言葉に、兄妹の視線が客人に集まる。
「部屋には私のかわりに、黒騎士がいますよ。窓から抜け出してきたんです」
その言葉に、ようやく兄妹は、重要なことを思い出した。
「そういえば、ここは奥の宮です。本来、王家の人間しか入れない場所で、壁で区切られているんですが……どうやって入ってきました? 警備兵も配置されているはずなのですが」
その言葉にも、クラウスは表情を崩さない。
「警備兵は、こちらの塀の内側にはいませんでした。私は、塀の上を通ってきたんです。会場にあるテラスから、トレス王太子がこちらに急ぎ足で移動して行くのが見えたので、すぐに部屋に引き上げるフリをして、こちらに来たんです」
にこやかにそんなことを言われても、そのルートをざっと考えても、普通、王子が通るような場所ではない気がした。
「……道が全く思い浮かびませんが、具体的には……?」
「二階各部屋のテラスの手すりを通って、屋根を越えて、壁の上に行って、あとは樹を伝って降りてきましたよ」
そのこともなげな話しぶりに、トレスが苦渋を浮かべた表情でクラウスを睨む。
「それができそうなのは、訓練された密偵かリス位しか思い浮かびませんが?」
「その例えで言うなら、密偵のほうです。訓練を受けてますから」
どこの世界に、密偵の訓練をされた王子がいるというのか。
思わず頭を抱えたトレスに、天使のような穏やかな笑みを浮かべたままのクラウスの対比は、まるでどこかのよくできた宗教画のようだった。
「なんでしたら、ご覧入れますよ? どうせ、帰りもそこを通るつもりでしたし」
にっこりと言われても、ハイお願いしますとは言えなかった。
「……どうして、そこまでして、ここに入ってきました?」
「こうして来なければ、サーレス殿には会えないでしょう?」
その場にいた、他の面々が、一瞬にして沈黙した。
「サーレス殿は、表に出るときは、トレス王子としてしか出てこない。事実、私が始めに謁見室でお見かけしたときも、トレス王子としてでした。サーレスの名前で表に出てくることもあるにはあるが、不定期で、しかもそれは夜会やパーティのときに限られる。町にお忍びで出るときもあるがこれも不定期。先ほどの晩餐会で、本物が出てきているとなると、私が来ている間は、きっとこちらに閉じこもるか、それこそ離宮に行かれると思いました。今日なら、謁見室におられたと言うことは、確実に城内におられると思いましたので、それならばと思って、こちらに伺いました」
サーレスの目に、その微笑みが、悪魔の微笑みに見えた。
「本当は、昨日、町でお見かけしたときに、酒場にでもお誘いして、そのままこちらの素性を明かすことも考えたんです。本当に偶然でしたけど、お会いできたわけですから。でも、あの時、そちらにおられる従者の方がくっついてましたし、いきなり、あなたに求婚しに来ましたと、子爵令嬢の姿で告げるのも躊躇いまして」
「……どうして、見分けることができるんだ?」
呆然としたサーレスのつぶやきは、そのままこの場にいる、カセルアの人間のつぶやきだった。実の母ですら、分からないと言わしめた。なのに、どうして、この目の前の、今日初めてまともに名前を知ったはずの人が、簡単に見分けるのか。
その問いに、初めて、クラウスは、悩むように首をかしげた。
「どうして、と言われても困りますね……。喩えはよくありませんが、それは、子犬と子猫を見比べて、どうしてこちらが犬だと分かったかと尋ねられているようなものなのですが。それは犬だからだとしか答えようがない」
「つまり、私と兄上では、犬と猫ほども違うと、そう言いたいのか?」
「それほど違うわけではないですし、むしろそっくりだとは思うのですが、明確に見分けられるという点では、そうでしょうね」
「私たちのことは、親でさえ見分けられないんだが、具体的に、どこがどう違う?」
そのトレスの問いにも、クラウスは首をかしげた。
「私は、お二人を見比べているわけではありませんから、どこが違うと言われてもそれも困るな……」
「……え?」
「私が分かっているのは、サーレスです」
きっぱりと、サーレスをみながら言い切る。トレスとサーレスが目を剥いて、クラウスの次の言葉を信じられない思いで聞いた。
「サーレスなら、分かるんです。だから、私は、あなたがサーレスかそうでないかで見ているんです。もし、トレス王子と同じ顔をした方がもう一人そこに並んで、どれが本物の王子なのかと問われたら、私には答えられないと思います。私は、トレス王子のことはよく分からないので」
ぽかんと口を開けた兄妹の様子を面白そうに見比べて、クラウスはまた、クスクスと笑った。
「おそらく、私の兄なら、私とは別の見分け方で、やはりあなた方をきちんと見分けると思いますよ。兄なら、トレス王子かそうでないかでお二人を見分けて、やはり間違わないと思います。あの方は、そういう勘を外すことはありませんからね」
サーレスは、目の前にいるこの人が、何をもって自分だけそんなに見分けているのか分からずに、呆然と首をかしげた。
しかし、クラウスは、そんなサーレスを見て微笑むと、手をさしのべた。
「私は、この国から知らされたサーラ姫という存在ではなく、あなたに会いに来ました。あなたに、求婚に来ました。すぐに受け入れろと言うつもりはない。私はあなたを見ていたけれど、あなたは私を知らない。だから、少しでも知っていただくために、時間を取り、私自身がこの国まで来たのです。お願いします。私を見てください」
そういうと、クラウスは、その手にはめられていた上質な手袋を外し、サーレスの手をそっと取り上げた。いつもなら、その場所から這い上がる不快感で、とっさに払いのけただろう異性の手を、呆然と受け入れる自分を信じられない思いで見つめた。口が縫い止められたように、なにも言うこができなかった。
その姿は、サーレス以外の、兄妹同然に育った乳兄弟達や、兄であるトレスも同様だった。
固まったままのその場の面々をものともせず、クラウスはひたとサーレスを見つめた。
「あなたがサーレスのままでいたいというのなら、私は子爵令嬢として、あなたに嫁入りしても構いませんよ?」
まるで、悪戯を思いついた子供のような表情だった。
「ただ、私の体も、そろそろ成人男性として成長します。ですから、嫁入りご希望なら、二年以内で日付けを決めていただけるとありがたく思います。でないと、せっかくの花嫁衣装が身につけられるかどうか、際どくなりますので」
では、二年以内なら、花嫁衣装を着てくるつもりかと、全員が心の中で突っ込んだ。
「では、そろそろお暇いたします。さすがに、長々と黒騎士に身代わりをさせていると、叱られてしまいますから」
クラウスは、手に取っていたサーレスの指先に、軽く口付けをし、立ち上がる。優雅に礼をして、またテラスから出て行く。サーレスが慌てて外に出ると、すでに木の下にたどり着いていたクラウスが、一度テラスを振り返り、手を振った。
その直後、するすると木の上に登っていき、あっという間に二階以上の高さのある壁に取り付いていた。その間何が起ったのか分からないほどの早業だった。姿勢も崩れないまま、おそらく指先の力だけで体を引き上げ、そっと壁の向こうを覗き、そして、壁の上にひょいっと気軽に立ち上がる。
こちらを振り返ったクラウスは、また手を振り、まるで平地を歩くような気軽さで、壁の上を掛けだし、屋根の上に飛び移り、そのまま屋根を越えていった。
テラスに出てきた四人は、その様子をぽかんと口を開けて見送った。
「……身軽とか、そういった事じゃないなあれは……なんで王子が、あそこまで密偵として訓練する必要があったんだ……」
トレスのつぶやきに答えたのは、意外なことにユリアだった。
「お体が、十六のお歳にしては小さいように感じました。さらに、身分を伏せてとなると、表だった騎士として活躍するよりも、密偵として訓練したほうがより活躍できると言うことではないでしょうか?」
「つまり、クラウス殿は、騎士としての技より、密偵としての技に長けていると?」
トレスの言葉に答えたのは、ガレウスだった。
「さらに、あの方には身分がもう一つある。正式に認められている子爵令嬢としての身分も利用してとなると、密偵としてそれだけ有利になります。少なくとも、情報は集めやすいでしょう」
その言葉に、トレスは頷く。
「黒騎士団は、国王の判断を仰がない、完全に独立した騎士団だ。あそこは、元が傭兵団だけに、一騎士団で、すべての業務がまかなえると聞いたことがある。その中には、いろんな技に長けたものが存在しているということだ。だからこそ、見極めを間違うと、単体だろうが団体だろうが、恐ろしい存在になる」
全員が、屋根を見上げたまま、立ち尽くす。
「……そんな方が、姫に求婚にいらしたわけですか?」
「それどころか、断る理由が無くなったぞ、サーレス」
呆然と屋根を見上げていたサーレスは、兄のその言葉に目を剥いた。
「相手は、お前の容姿は理解している。療養が必要な病人じゃないことも知られている。さらに、お前が男のままでいたいなら自分が嫁入りしてもいいとまで言い放った。ついでに……。サーレス、さっき、手を取られたとき、振り払わなかったが、どうしてだ?」
そう言われて、改めて、自分の手を繁々と見つめた。
「……いつもなら、こう、小さな虫が、触れられたところから一斉に這い上がるような感じがして、気持ち悪くて振り払うんだけど……そんな感じがなかったんだ」
「だったら……あの人は、お前が触っても大丈夫な異性である可能性があると言うことだ。母上に知られたら、なにかを決めたりする間もなく、そのまま、花嫁衣装を着付けされて城を追い出されるぞ」
ビクッと体を竦ませた妹を見守り、兄は肩をすくめた。
「とりあえず……明日、母上にお願いして、クラウスをお茶にでも招待するか。あの調子だと、あの方には、この城の中はどこでも通行可能だろう。招待しなければ、お前に会うという理由で、夜にこちらに来かねない。それよりは、昼の間に招待しておくべきだろうからな」
その言葉に、乳兄弟二人は重々しく頷き、サーレスは気絶しそうなほどに顔色を青くして唖然としていた。