その2
噂の黒騎士公が、首都に到着したらしい。
らしい、というのは、とりあえず黒騎士が首都の門を潜ったという話が伝わったのだ。
当然、入り口で彼らは身分証明書を出したのだが、なぜか公本人はそこにいなかったという。
少しだけ、寄り道をしてくると言って、別れたというのだ。
「……寄り道?」
目に見えて機嫌の悪そうな妹の表情に、兄はできるだけ刺激しないように応対した。
「なにか、買い物があるとかで、別れたそうだ。黒騎士を先に来させたのは、彼らはこちらにすでに顔が知られているからだろう。何かの理由で王子が遅れて入城しても、彼らが身分証明できる」
「なにを買うんです、うちの国で」
「それはわからない。黒騎士たちと別れたのは朝らしいので、明日の朝には到着するという話だ」
むっつりと黙り込んだ妹に、ワインを一杯渡しながら、兄は微笑んだ。
「とりあえず、父上は、すぐに結婚を了承する気はない。黒騎士公がお見えになっても、ひとまず結婚に関しては保留にしてもらうことになった。だから、そう心配するな」
「心配はしてませんよ」
兄から渡されたワインを一気に煽り、口元を拭う。いちいち、大変男らしいその様に、兄王子は密かにため息がこぼれる。
「そういえば、顔はわかりましたか?」
「国境警備の兵からの申し送りでは、金茶の髪に青の瞳、小柄で年より若く見えるということだった。絵心のある者はいなかったみたいでな、絵姿はない」
「……まだ十六で、さらに年若くって、どういうことです?」
「少なくとも、騎士見習いの十六より若く見えるということじゃないか。兵達が見ている十六となると、そのあたりだろうしな」
「実戦経験のある騎士が、見習いより若く見える? それはあり得るんですか」
「……よっぽど周囲の者が強いとか、そんなことじゃないか」
「……私が知る限りでは、黒騎士団は、お飾りを団長に据えておけるほど、余裕のある場所とは思えません」
「私が知っている情報でもそうだ。とりあえず、本人が来ないことには、判断がつかないな。おまけに、なにを思って、病気の姫を迎えようなんて思ったんだか……」
兄のため息を聞かないふりをして、サーレスは立ち上がった。
このままここにいたら、気が滅入って寝込みそうだった。
「兄上。少し出かけてきていいですか」
「……目立つことは、できるなら避けてくれよ。せめて髪は染めていってくれ」
目立つなとは言うが、行くなとは言わない。妹は、兄のその優しさに感謝しつつ、いつものお忍び服を身につけて、髪を手慣れた様子で茶色から黒に染めると、いつも付き合わせる乳兄弟を伴い、夕方の賑やかな町に足を向けた。
「ほんとによかったんですか。いくら今日は騎士達しか到着してないとはいえ、相手がいつ来るかはわからないんですよ?」
いつも供をしてくれる乳兄弟ガレウスが、周囲に気を配りながら小声で愚痴る。そんな様子を横目に見ながら、見せつけるようにため息をついた。
「だから城にいたくなかったんだよ。気が滅入るから」
「別に、行く必要はないんでしょ? だったら、いつものようにふてぶてしく堂々と、王の横で見学でもしてりゃいいじゃないですか」
「……おまえね、私は一応、おまえの主君じゃなかったか。ふてぶてしいとは何だ」
「口が滑りました」
堂々とこんなことを言うのは、気心が知れているからだ。外に出るときは、こうしてガレウスがいつもいてくれる。そして城では、ガレウスの妹であるユリアがそばにいてくれる。ガレウスは、サーレスにとっては、もう一人の兄であり、ともに同じ師についた兄弟弟子でもあった。
だからこその気安さで、ともに並んで酒場に足を向けると、ふと、サーレスの耳に、聞き慣れない音が飛び込んだ。
「……なんか、聞こえないか?」
「え?」
それは、酒の瓶が割れる音のようだった。
ここは飲み屋が集まっている区域で、夕方になると、いつもどこかで小競り合いは起こっている。
だが、今、女性の悲鳴と剣戟が聞こえた気がしたのだ。
「……戦ってる音ですね」
どうやら、ガレウスの耳にも、その音は拾えたらしい。
「あっちだ」
駆け出そうとするサーレスの服の裾を、ガレウスはとっさにつかんだ。
「ちょ、お待ちを。兄君に騒ぎを起こすなと言われているでしょう。俺が見てきますから」
「見た後で報告をしに帰るのも面倒だろう。一緒に行くぞ」
「いや、あなたが顔を出す方がまずいですから……って、ああ!」
あっという間に手を振り払い、掛けだしていくサーレスを、頭を抱えながらガレウスは追いかけた。
現場は、意外と近かった。路地裏のところで、兵士とごろつきが互いに剣を取り合っており、側で、顔にベールをつけたドレス姿の少女がそれを見ていた。周囲には、飲み屋から出てきた客と店員が、人垣を作っていた。
「何をしている!」
サーレスが声を掛けると、双方一瞬そちらに注意が向き、その後ごろつきが、慌てたように逃げ出した。
「あ、貴様、まて!」
兵士が追いかけるのを見送り、ガレウスが周囲の人々に状況を聞いて回る。
ガレウスは、一番身近にいた酒場から顔を出していた主人を捕まえて話を聞き始めた。
「いったい何があったんだ。こんなところで剣まで抜くようなことがあったのか?」
「あの男が、この女性を剣で脅しておりまして……」
酒場の主人の手は、側で成り行きを見ていたらしい、一人の少女を指し示した。その少女は、花の入れられた籠と、日傘を抱えて、逃げていくごろつきの背中を見ているようだった。
「大丈夫ですか?」
サーレスが声を掛けると、その少女は何かに気がついたように、はっと顔を上げ、サーレスの方に視線を向けた。
顔の半ばまで厚いベールで隠されている上に、すでに日がかげってきているために、その表情はよくわからないが、その姿は、少なくともこんな時間に、裏通りの飲み屋街を歩いているような姿ではない。その身なりから、貴族の年頃の少女だとサーレスは当たりをつけた。
「お怪我は?」
少女は、しばらくサーレスを見つめていたが、そのうちに簡単に身繕いをし、そっと頭を下げた。
「兵士様のおかげで、助かりました。怪我もございません。ありがとうございました」
ほほえむ口元は、きれいに口紅が塗られていた。その艶めかしさから、大変美しい人に思えた。
その姿が、あまりにこの場にそぐわないように見え、サーレスは心の中で首をかしげた。
「……あなたのような女性がこのような場所に何のご用でしょうか? また絡まれてはいけませんし、目的地がおありなら、お送りします」
サーレスが申し出ると、女性は口元を手でそっと隠し、少し思い悩むような仕草をしていた。そんな姿もまた、匂やかな美しさを感じる。
「……この近くの店で、知人と待ち合わせをしておりました。もうすぐそこの場所ですので、どうぞお気遣いなく」
そっと頭を下げて、女性は道の先へ向かった。その姿を見送っている間に、兵士とガレウスも話が終わったらしい。側にきて、女性の背中を見つめた。
「美しい方でしたね」
「そうだな」
「どちらの奥様でしょうかね。城では見たことありませんが」
ガレウスが、少女を既婚者と感じたのは、ベールで顔を隠していたからだろう。
未婚の女性は、あそこまで厚いベールで顔を隠すことはしないのだ。
だが、サーレスは、別の印象を持っていた。
「……おそらく、他の国からの旅行者だろう」
「……え?」
「あのドレスは、この辺のものではなかった。もっと、気温が低い地方……おそらくブレストアだ」
「……ブレストア?」
「あちらは山岳地帯が多い。室内でも、上に防寒の上着を羽織るから、襟元を詰め、体に沿うような形のドレスを作ることが多い。今の季節なら、もう少し襟元にゆとりを持たせるものだが、ブレストアは例外で、まだまだ気温が低い。彼女のドレスも、それに近い形だった。こちらの流行は、今は襟元を少しあけて、袖とスカートを少しふくらませて、体をふっくらと見せる形が多い」
ガレウスは、自国の姫である目の前の人を見て、その後、先ほどの女性が消えた道を見た。
「……そんなことまで、よく見てましたね。ドレスの形なんか、俺にはよくわかりませんよ」
「舞踏会で褒めるためには、見てなきゃだめなんだよ。それも社交術の一つだ」
「……」
一瞬でも、この人が、ドレスに対して女性的な興味があるのかと期待した自分が馬鹿だった。
ガレウスは、幼いころから見てきた妹のような相手の、今更ながらの様子に、肩を落とした。
「それにしてもだ。今この時期に、ブレストアのドレスってのも珍しい。今は初夏で、どちらかと言えば暖かい時期だ。気候にあわないから目立つのにな」
「……王子がいらっしゃるときに、ちょうどあわせたようにブレストア風のドレスを着た女性というのも不思議ですね。あまりあちらからの旅行者はいらっしゃらないんですけどね」
「……王子がここに来るってのは、あっちでは知られた話だったのかもな」
「さっきの女性は、王子を追いかけてきたとでも?」
「王子か黒騎士を追いかけてきたのかもな。……身のこなしは、見てたか?」
「普通の女性に見えましたよ」
「私にもそう見えた。一瞬、刺客かもしれないと思ったんだが、それにしては、普通の貴族の女性にしか見えないのもおかしいなと……」
「それに、刺客だったら、ごろつきに絡まれた程度で、人手を必要としますかね」
「目立つのを避けたかったにしても、悲鳴を上げた時点で目立つしな。まあ、無関係の女性だと思うことにするか……」
引っかかることは引っかかるが、それ以上の追求もできない。あの女性は、ただの旅行者という可能性の方が高いのだ。
首をかしげつつも、乳兄弟を促し、いつものなじみの酒場に足を向ける。
ただでさえ気鬱なときに、難しいことを考えたくはなかった。そんなのは、考えるのが趣味としか思えない兄に任せておけばいいのだ。
そう結論づけたサーレスは、改めて、気持ちを切り替えた。
翌日、朝の謁見の時間寸前に、黒騎士公到着の知らせが届いた。
兄の計らいで、影武者として父の隣に立ち、謁見の間でそれを出迎えたサーレスは、そこに立っている人物に、思わず目を奪われた。
聞いた話では、十六歳だと言うが、そこに立っていたのは、まだ十三か十四くらいの少年に見えた。
穏やかさと華やかさを併せ持つ容貌に細身の体は、噂に聞く武勇など、影も形もないように思える。
ただ、その双眸だけは、なるほど紺碧の死神という名に相応しい、今まで見たこともないような鮮やかな蒼だった。
しかし……。
(……見た事……ない?)
何かが、心に引っかかる。自分は、この色をどこかで見たことがあるような気がする。
思い出せないもどかしさに、ここがどこかも忘れて思わず唸りそうになった。
隣の玉座で、父が歓迎の言葉を述べると、その優しげな容貌の少年は、その姿に似合いの、性別を感じさせない笑顔になった。
「格別の計らいにより、入国をお許し頂き、感謝いたします」
その声は、姿と同じように柔らかい。男性としては高めだが、この容貌からすればよく似合う。
「クラウス殿のご用件は、また後ほど、話をさせてもらおう。ひとまず、長旅の疲れを我が城でいやしていただきたい。今晩は、晩餐の用意もさせるゆえ、その時間までゆっくりと休まれるがよい」
「ありがとうございます」
明らかに、噂と本人がかけ離れている。物腰も柔らかで、貴族の子弟にしか見えない。死神だとか、武勇だとか、そういったところからはかけ離れた、理想的な王子様だった。
しかし、背後には、影のようにひっそりと、黒ずくめの騎士服を着て、王城内だというのに目深に帽子をかぶった二人が控えている。これが、おそらく黒騎士と呼ばれる者達だ。
背後の二人が、優雅な王子の影を濃く見せているようで、その対比は心を騒がせた。
王子は、優雅な仕草で頭を垂れると、なぜかその視線がサーレスに向けられた。そしてまた、花がほころぶように、にっこりと微笑んだ。
黒騎士公が城の女官に案内され、部屋を後にすると、サーレスは父王に改めて問いかけた。
「……父上」
「なんだ?」
「……あれは、間違いなくご本人ですか」
「……噂とは違うが、そもそも噂というのは、尾ひれがつくものだ。だから、あれが本人だとしても、おかしくはないだろう」
「……しかし、あまりに違いすぎませんか。それに、歳も合わない」
「だが、背後に控えていた黒騎士は、本物だ。しかも、隊長クラスの、絵姿も広く出回っている人物達だ。だからこそ、あれが黒騎士の、彼らより上の団長本人だというなによりの身分証明にもなる」
その父の言葉に、再び頭を抱える。
少なくとも、さっきこの場にいた本人に会った覚えはない。
兄の友人だという、王にも会ったことはない。
兄は、あの瞳を、ブレストアの王族によくある色だと言ったが、そのブレストア王族の直系に会った記憶もない。
では、自分は、いったいどこであの瞳を見たのか。
サーレスが悩む間にも、つつがなく今日の朝の謁見は終った。
朝の仕事から解放されたサーレスは、一人で解決できそうにない頭の混乱を治すべく、兄の部屋に向った。
ノックをして部屋に入ると、兄はいつものように、机に向って仕事をしていた。
「サーレス。婚約者殿は、どうだった?」
兄のその言葉に、眉間に皺を寄せながら、肩をすくめる。
「婚約などした覚えはありませんよ。それより……一つお聞きしたいんですけど」
「なんだ?」
手を止めて、兄が椅子ごとサーレスに向き合った。
「私が、ブレストアの王族に会う機会はあったでしょうか」
その言葉に、王子は首をひねる。
「……覚えがないな。ブレストアの王族が来るときは、できるだけ私が出るようにしていたからな」
その解答に、ため息をついて、手近にあった椅子に腰を下ろす。
「あの瞳は、確かに印象深い。……見覚えがある気がするんです」
「確かに、あの瞳の色はブレストアの王族に出るが、それ以外で出ないと言うことはないだろう。よく似た色の瞳だったんじゃないか」
「しかし、それならそれで、その相手のことを覚えていそうなものですが」
「そうだな。本当に、覚えがないのか?」
そう尋ねられ、首をかしげる。
「見たというのは、間違いない気がするんです。それがどこの誰だったのか、それがわからない」
「ふむ」
自分と同じように、兄も首をかしげるのを見て、妙に不安を感じる。
「兄上。とりあえず、今日から兄上の影武者はやめておきます。できるだけ、黒騎士公とは顔を合わせないようにします」
片手を上げて宣言した妹に、兄は目をむいた。
「おいおい」
父と母からは、公の接待は、できるだけサーレスがと言われていたが、このもやもやを抱えたままで、うっかり失敗したときが恐ろしい。
「どうせ、王女は離宮にいることになってるんです。顔なんか、出す必要もないでしょう?」
「まあ、そうだが」
「今日の晩餐から、兄上よろしくお願いします」
「それは良いが、じゃあお前はどこにいるつもりだ?」
「それこそ、離宮にでも行きますよ。まさか、ずっと部屋に閉じこもっておくわけにもいきませんから」
「今日はだめだぞ。離宮の警護も、最低限を残してこっちに来てる。せめて、明日からにしてくれ」
「……なぜそんな事に?」
離宮には、一応姫がいるということになっているため、必ず一定数の兵がいるはずだった。
今日に限ってなぜ、という焦りが顔に出ていたのか、兄はサーレスに一枚の紙を見せながら、説明した。
「今日の、黒騎士公入城のためだ。ホーセルが、黒騎士公に刺客を送っているという話でな。ブレストアからその旨の警告が、結婚の申込書のあと、急使として送られてきたんだ。黒騎士公も、わかってたのかもしれないな。かなり用心したらしくて、どうやって移動してきたのか、こちらは全く探れなかったのに、指定した当日にちゃんと入城してきたんだから」
「……は?」
「いや、だから、本当は移動中も、関所から警護をつけようとしたんだ。だけど、黒騎士公は、そのほうが目立つからと断ったそうだ。一応、数人の兵に、警護としてあとを追わせたらしいんだが、撒かれたそうでな。途中で足取りが全くわからなくなった。それなのに、ちゃんと王からの書状通りの日付けに、こちらに到着したんだ」
サーレスは、頭を抱えた。
「そうじゃなく。刺客って、なんですか。そんな危ないものが入りこんでるんですか?」
「そのようだ。もっとも、我が国の警護よりも、黒騎士公についてきた黒騎士二人のほうが、よっぽど役に立ちそうだが」
「あの方は、いつまでこちらにいるんですか?」
「わからん」
「はぁ?」
顔をしかめる妹に、兄はまあまあと宥めた。
「予定では、二週間となってたんだが、公次第らしい。とりあえず、明日になったら、ハルヴァー伯爵家の騎士団がこちらに到着する予定になってる。兵達が引き継ぎをして離宮に帰るまでは行くのは禁止だ」
妹の、苦虫を噛み潰したような表情に、兄は慰めるために、頭をぐいぐいなでてやった。いつも通りのぐっと何かをこらえるような表情に、兄は吹き出した。