その14
ディモンの背から、軽やかに降りてくる小柄な体を見ながら、サーレスはため息をついた。
「……どうやってここがわかったんだ?」
「それが……目覚めて、厩舎を見に行ったところ、扉を開けたすぐの場所で、ディモンが立ち塞がっていまして」
クラウスは、ディモンの馬具を手早く外し、軽く体を叩く。すると、ディモンは、何も言わずとも、真っ直ぐにフューリーに向かっていった。
フューリーは、そんなディモンを、落ち着かない様子で蹄を鳴らしながら、待っていた。
「こちらを睨み付けているので、おかしいと思ったら、フューリーがおらず、さらにディモンが馬具を自分で私の方に持ってくるので、もしかしたらあなたがフューリーで出かけたのではないかと思って、追いかけてきました」
「場所は……まさか、ここも来たことがあったのか?」
「いいえ。ディモンに、ただ走らせました」
「ほんとに……優秀な馬だな」
思わずため息が出た。匂いを追う馬など聞いたこともないのだが、どんな魔法が働いたのかと思う。
「あなたがフューリーで出かけてくれたからですよ。別の馬だと、あれはたぶん追わなかったと思います」
視線の先に、フューリーとディモンがいる。ディモンは、フューリーの手綱を樹から外し、愛おしげに首筋に鼻を擦りつけていた。
フューリーも、ディモンを迎え、嬉しそうにディモンのたてがみを噛んだ。
「……なんだか、ディモンに先を越されている気がします」
「すっかり仲良くなったな。これは、たとえ私が行かなくても、フューリーだけはノルドにやらないと、ディモンに呪われそうだ」
「私としては、一番いいのは、フューリーにあなたが乗ってきてくれることですよ」
真っ直ぐにこちらを見るクラウスの瞳を、サーレスはぼんやりと見つめていた。
サーレスの様子に、クラウスは不思議そうに首を傾げ、座っていたその正面に、膝をついた。
しばらく、サーレスの顔を見つめていたクラウスは、少し驚いたように身を乗り出してきた。
「……目が赤いですが、どうかしましたか?」
「……この暗さで、よく分かるな」
「私は、これだけ月明かりがあれば、色の違いも見分けます」
ディモンも謎だが、この人も謎だった。自分には、正面に輝くはずの青は、あまり見えていなかった。
それが、残念なのかそれともホッとしたのか、訳のわからない気持ちで混乱する。
「聞いても良いかな」
突然そう呟いたサーレスに、クラウスは一瞬だけ息を止め、そして、頷いた。
「……どうして、暗殺術まで学ぶ必要があった?」
「どうして、と言われると……やられたらやり返せと思ったからでしょうか」
その、予想と違う返答に、サーレスは首を傾げた。
「……誰か、殺したい相手がいた、とかじゃないのか?」
「違います」
あきらかに、安堵した様子のサーレスに、クラウスは優しい笑みを向けた。
「もしかして、私の父の死に、私が関わっていると思われましたか」
「……うん」
「父は病死です。最も、その最後は、薬に殺されたとは言えるかもしれませんが……少なくとも、私は父の死には関わっていませんよ」
「薬……?」
「父は最後、薬と魔術で、無理矢理生かされていた状態でした。生来の病は、とうの昔に、父の命を奪っているはずでしたから。最後は、健常な人が飲めば、逆に毒になるような強い薬が処方されていた記録がありました」
「そうか……お気の毒だな」
「そうでもないと思います」
クラウスは、まるで確信でもあるように、頷いた。
「あの人は、自分の寿命に納得してました。自分が王でないと都合の悪い者が大勢いるから、こうなるのも仕方ないと笑っていました」
「……あなたは……父君に、会ったことがあるのか」
信じられない思いと、やはりという思いが、サーレスの中に沸き上がる。
驚きで震えた声は、頼りなく響いた。
「会って、殺されるとは、思わなかったのか?」
「相手は病人ですから。私が父に会うために王宮に忍び込んだのは、あなたに出会った後でした。もう、密偵としては三年以上働いた後でしたし、騎士としても刺客としても、修行はしていましたから」
「でも、なぜ」
「……あなたが、青い瞳を、綺麗だと言ってくれたので……自分の呪いについて、調べてみようと思ったんです。本当に呪われているのか、もしそうならそれは解けるものなのか。私はそれまで、呪われていることを、当たり前に受け止めていました。仕方ないんだと、諦めていました。でも、人によっては、この瞳は呪いでもなんでもないのだと、私はあなたに会って、初めて思えました。だから、知りたくなったんです」
クラウスは、苦笑していた。
「ほんとに、人伝に聞いただけでは、当てにならないんだなと思いました」
「呪いがどんなものなのか、わかったのか……?」
「わかりました。呪いじゃなかったんです」
「……え」
「呪いじゃない。ただ、ラズー教にとっての凶星が、私だったんです」
「凶星……なんなんだそれは」
「ラズー教は、星の神を信奉し、占星術を使用します。母は、暁の母性の星。兄は、青い覇王の星。私は、青い裏切りの星というものを持っていると。だから、その子の青い部分はすなわちその星であり、呪われている。そういう理屈だったんです」
「でも、それだと、青い目の女の子でも、ラズー教にとっては凶星になる。それなのに、どうして父君は、青い目の王子に限定していた?」
「男が産まれるのも、わかっていたからですよ。占いで」
「……なに」
「母が産むのは、男二人。だからこそ、父は、母を娶ったんです」
クラウスの、穏やかな表情が、仄かな明かりで浮かび上がる。笑顔もなく、ただ、静かだった。
「父は、産まれた時から、虚弱体質でした。自分の子供が作れるほど長生きできるかどうかすらわからないほどだったんです。でも、兄弟は他になく、直系が途絶えれば、血の薄い他の家から、王を迎えるしかない。その状態で、父は、他のなにより、血を繋ぐことを優先したんです。国中から、元気で、年頃の、確実に男の子供を複数産める女性を捜した結果、母を見つけたんです。母は、幸いにと言うか、本人にとっては残念なというか、幼い頃から野山を駆け回り、森で遊ぶ事の多い丈夫な人でした。おまけに、レイティス子爵家は子だくさんの家系で、比率も男性の方が多い。占いの結果とは言え、十分説得力のある家の娘だったわけです」
「でも、だったらなんで、二人目の王子を殺せなんて言うんだ。父上は、初めから、王子を複数が望みだったんだろう?」
「……父が死のうと、私は、ラズー教徒にとっては凶星です。女でもそうでした。だから、父は、私を王宮から遠ざける理由として、母にそう告げたんです。母が、自分に反抗して、私を実家で育てるのを見越した上で。父としては、殺したと告げた上で隠して育てるのが理想だったそうですが、母は、性別だけ偽って届けたんです。さすがに実家に帰っても、王宮の使いが子爵領に入る事もあったし、なにより、出産の確認のために、その時にすでに、王宮医師が子爵領にいたんです。自分の考えが至らなかったせいで、苦労をかけたと、父は私に詫びてくれました」
「……母君に、本当の理由を説明すればいいことだろう? なぜ」
「……父の側には、いつもラズー教徒がいました。医師も、薬師も、ラズー教の司祭でした。母と閨にいる間ですら、常にすぐ側に、医師はいました。夜の行為は、体に負担をかけますからね。この状況で、母と二人きりになる事はまず無理で、話はラズー教に筒抜けです。真実が、言えるはずがなかったんです」
最初のクラウスの説明が、表向きに流れている話。幼い時から、本人が聞いていた話だったのがわかる。
クラウスの顔を見てみると、それは穏やかなままだった。
「父は、私を守るために、王宮にラズー教徒を留めていたんです。逆に、レイティス子爵領は、周囲もすべて、ラズー教とは関わりのない貴族達が治めていました。それでも、数回、暗殺者に狙われたのですが」
「……だから、密偵の技だけじゃなく、暗殺術も学んだのか」
「暗殺者から身を守るつもりなら、敵の手の内を知る者が守るべき、というのが、密偵の師匠の持論だったんです。騎士の技で守るのもかまわないが、騎士の技は、ひっそりとか、目立たないとか、そういうのは考慮されてませんからね。悪戯に目立って、相手をわざわざ挑発するのも愚かなことだと、師匠は言ってました」
そう言うと、クラウスは押し黙った。
「今も、ラズー教は健在です。そして、私は相変らず、彼らにとっては凶星です。私の身には、常に危険がつきまとう。兄は、王宮からラズー教の聖職者達を追放しましたが、粛正はしませんでした。貴族の中に、ラズー教の信者も大勢いましたし、そこまでしてしまうと、目の届かない場所に隠れてしまい、危険だと判断したからです。今も、王宮のある首都ラグラティには、ラズー教の教会があります。兄は、常に教会を監視していますが、全てを抑止できているわけではないと言っています」
「……でも、あなたは王弟だろう? それで、王宮に行かないで済ませられるわけがない」
「兄の目の前で、足元である王都で、私に手を出せばどうなるか、彼らはすでにわかっています。ですから、王都の中でなら、私の身も、ある程度安全です。ですが、私に手を出さずとも、私に親しい者を人質にすることは考えられます。ですから、結婚しても、あなたを王都に連れていくことはしません。王弟としてあなたを娶るのではなく、黒騎士のノエル=ラーゲルハイドとして娶ります。そして、黒騎士の妻として、黒騎士全てがあなたを守ります」
笑顔の消えたクラウスの顔は、初めて見た時のクラリスとは、また違って見えた。
強い瞳は変わらないのに、泣きそうにゆがめられた顔が、心に刺さる。
「あなたには、危険を強いることになります。それがわかっていても、私はあなたの側にいたいんです。あなたは、私の世界を全て変えてくれた。だから……」
そっと、クラウスの腕が伸ばされてくる。その腕を、抵抗することなく受け入れたサーレスは、そのままクラウスの胸元に、額を預けた。
「私は、まだ、ブレストアを捨てられない。今はまだ、離れられない。兄の周囲には、もう、戦いの指揮を執れる者が残っていません。私が今離れれば、守る者の無くなった国は、あっと言う間に消えてしまう。昔の……人形のままのクラリスなら、そんな事は関係なかった。でも、今はもう、私には捨てられないものが増えてしまった……だから、あなたに来てもらいたいんです。……お願いします。私のものになってください」
クラウスの、温かい腕の中で、身を裂くような切なさの告白を聞きながら、サーレスはぼんやりと、頭上にあった白いルサリスの花を見ていた。
「……ルサリスは……ノルドで咲くかな」
サーレスの、ぽつんと呟かれた声に、クラウスは顔を上げた。
「赤いルサリスなら、見た事がありますが……」
「……白いルサリスは、王宮の奥の間にある、井戸の水がないと育たない」
「……え?」
「その井戸から、国中に、水が配られる。秋に、国にある全てのルサリスの木に、その水を与えると、春に咲く花が白くなる。その井戸の守りは、代々の王妃の役目なんだ。王妃が、国中の庭師に、水を配って、花の管理をさせている」
今度は、クラウスが、その告白を聞く番だった。ぼんやりと、サーレスは呟いた。
「でも、数十年に一度、その井戸の水が涸れることがある。その時に、赤いルサリスが咲いてしまうんだ」
「……サーレス?」
「水が涸れるのは、ルサリスの女神が怒るから。それを鎮めるために、王家は、その後産まれた最初の姫に、ルサリスの名を与えるようになった。だけど、その意味は、長い間に別のものになった。名付けられたら、国の民を守る盾にならないといけないと……小さな頃から、ずっと、ずっと……聞かされてた。国の民にとって、ルサリスと名付けられた姫は、希望なんだ……。だけど、私は、姿すら、見せられない姫だった……。男の人が怖くて、人の目が怖くて、逃げ回って、母上を困らせてばかりいる姫だった」
サーレスは、クラウスの腕の中で、クラウスに顔を擦りつけるようにして、その匂いを嗅いだ。軍服だったそこからは、やはり以前に嗅いだのと同じ、厩舎と武器油の匂いがした。
「自分は、何もできない姫だと思ってた……。だから、せめて、兄上の手伝いができるなら、それが国のためになるんだと、思ってた……」
「……サーレス」
「でも、兄上は、国に縛られるなと言ったんだ……。好きに生きろと……父上と母上はそう願ってると、そう言ったんだ」
サーレスの視界に写っていたルサリスが、輪郭を無くす。
自然と貯まった涙が、こぼれ落ちた。
「……ノルドに、私のいる場所は、あるのかな」
クラウスは、その瞬間、サーレスを掻き抱いた。
「あります。私の隣にいられるのは、あなたしかいませんから」
優しい声が、耳に響く。匂いと、暖かさと、声が、体に刻まれる。
「あなたがお望みなら、白いルサリスも咲かせます」
「……どうやって?」
「……水が白くするとわかっているなら、水を手に入れるまで。正面からお願いするか、それともこっそり忍び込むかは、その時にならないとわかりませんけど」
声が、笑っていた。暖かかった。
サーレスは、自分も、表情が緩むのを感じていた。
「……サーラ=ルサリス=エル=カセルア王女殿下。私の求婚、受けいれてくださいますか?」
「……お受け……します」
涙声のまま、笑いながら、サーラは頷いた。
その直後、感極まったクラウスは、そのままサーラに口付けていた。