その13
結局、トレスはその夜、書類と共に離宮に宿泊することになった。
夕食のあとに、ガレウスとサーレスも呼ばれ、結局三人で積み上がった書類を片付けるべく、机に向かっていた。
「どうしてこんなに貯まったんですか。私とガレウスがこちらに来る前は、これほどじゃなかったでしょう」
「父上が、急な用件で城を空けることになった。あちらに積み上がっていた物が、私に来たんだ」
「父上は、どちらに行かれたんですか?」
「ドミゼア国境の、レボルス領の夜会だ。そこに、ドミゼアの外相が来る予定になっているらしい。今回、たとえお前が話を断っても、ホーセルとの諍いは避けられない。話が公になる前に、ドミゼアと街道の通行料に関する話をしてくるらしい」
「……父上」
「最も、真相は、父上があまりに鬱陶しいからと、母上が追い出したんだが」
サーレスとガレウスは、同時に手を止めた。
「どうしたんですか、陛下は」
「母上は、今回の話に乗り気だ。逆に、父上は、あまり乗り気じゃない。今回のレボルスも、本来母上が出席予定だったのを、母上はお前達の経過が気になるからと城に残ることにして、心配のあまりほとんど仕事が手つかずになっていた父上を、無理矢理出席させたんだ」
「……父上が乗り気じゃないのは、あの人が、元暗殺者だからですか?」
「いや。それは、父上はもうご存じだった」
「……え?」
「父上は、ご存じの上で、お前に判断を任せたんだ。父上は、クラウスが国境を越えてきた時点で、情報収集をしていたらしい。本人が到着する時には、ほぼ全て調査は終わっていたようだ。ただまあ、父上は、お前を溺愛しているからな。相手がどんな名のある相手だろうと、複雑な心の内は変わらないだけだ」
サーレスは、いつも穏やかな父に、甘やかされて育てられた自覚がある。
男に触れない、ドレスを着たくない、結婚したくない。散々そんな事を言い張っても、普通の国の王女なら、認められるはずがない。
だが、父は、あっさりそれらを認め、重病の噂を流し、サーラを守ってくれていた。
その優しさに甘えたツケが、今一気に押し寄せている。
サーレスは、そこに思い至り、表情を曇らせた。
「兄上……私は、行ってもいいんでしょうか?」
「お前が鍛えはじめる前までは、母上はたとえどんなことがあっても、どこかには嫁に出すつもりだったんだ。少し遅くなったが、今から行っても問題はないだろう」
「……あの頃と今では、大きく違いますよ。私の頭の中には、この国の軍事情報が詰まっています。兵数、拠点の設備、兵器の在庫から糧食の備蓄量まで。詳細な地図もです」
「まあ、記憶を消すのは、容易ではないからな」
そう言って、トレスは、手を止め、ふっと息を吐くと、柔らかく微笑んだ。
「なんだ……行きたくなったか?」
「……そうかもしれません」
そうつぶやいたサーレスを、兄と、兄同然に育った二人が驚いて見つめていた。
「クラウスは、私を同じだと言ってくれました。確かに、側にいると、落ち着くんです」
「……同じか。確かにな」
苦笑した兄に、戸惑いの視線を向けたサーレスは、兄の言葉を待った。
「お前はルサリスだ。カセルアの豊穣を約束する王女。お前は産まれたその時から、その名前で縛られた。だが、生き方まで、縛られることはないだろう」
「兄上……」
「お前の記憶は消せない。だから、クラウスには、あえてそれを告げた。だが、あれの返事は、至極単純だったぞ」
「え……」
「サーラをブレストアの駒にはしない。黒騎士、ノエル=ラーゲルハイドとして、サーラ=ルサリスを娶るのであって、王弟として娶るわけではない」
「そんなこと……」
できるはずがない。王女の身分は消えないのだ。
たとえどこに行こうが、自分にはカセルアがついて回る。兄が即位し、さらにその子が王太子として立つまでは、サーラが兄に次ぐ、王位継承者であることに変わりはない。
そして、それは、クラウスも同じはずだった。
「迎えに来るのに、王弟の名は必要だった。だが、娶るのにそれは必要はない。お前が、カセルアの王女であるのなら、自分はただ、サーラ=ルサリスの騎士となる。お前の隣に立つのなら、ただ、騎士としての腕で立つと。よくもまあ、こんな台詞を、私の前で堂々と吐いたものだ」
トレスは、複雑な胸の内が、そのまま表れたような表情をしていた。
サーレスは、そんな兄を見ながら、自分がどんな表情をしていいのか、わからなくなった。
影武者として、ただ、同じになるように。もう一人の王太子となるように。いつか、戦が起きた時、表に出られない兄に変わる身となるように。
その表情仕草、何一つ見逃さないようにと言われていた。
だけど、今のこの表情は、自分にはできない。
できない代わりに、サーレスは、混乱を表したように、ただ、沈黙した。
「私では、お前を騎士にすることはできない。どれだけ騎士としての才能があろうと、私の側にいれば、お前は一生、私の影でしかないだろう。だが……クラウスなら、隣に立つお前が黒騎士となろうが、そうでなくサーラのままであっても、己の腕だけで、お前の隣に立つだろう。……たしかに、ある意味、同じ生き物だ。お前も、あれも、己の腕を誇る騎士だ。だからこそ、自分の隣に、自分の命を預けられる相手として、同じだけの技量を持つ騎士を求める。その域に達するまで、常人なら一生を費やすその腕を、ただ求める。贅沢な二人だ」
「……あに、うえ」
「サーラ=ルサリス。カセルアの豊穣を約束する王女。だが、お前がいないと国が成り立たないわけじゃない。……私の言葉、信じるか? サーラ」
「……はい」
「好きに生きろ、サーラ。それが、両親の望みだ。そして、お前がどんな結論を出しても、私達は生涯兄妹だ。信じろ、サーラ」
「……―――はい」
兄の、毅然とした言葉に、サーレスは、ただ頷いた。
仕事が半分も終わらないうちに、トレスはサーレスを部屋から追いだした。
あとは悩めとばかりに、今日はいつも渡してくるパズルすら渡してこなかった。
ため息をつきながら、サーレスは寝室に入り、服を着たまま、ベッドに横になった。
もう、深夜と言っていい時間だ。
それなのに、頭の中は、考えることが多すぎて、整理がつかなかった。そのせいか、妙に頭が冴えて、眠れそうになかった。
サーレスは、自分の名前の、ルサリスを思った。
白のルサリスは、カセルアの象徴。
カセルアに豊かな実りを与える花。
幼い頃から言い聞かされた話が、思い浮かぶ。
白く咲くルサリスが赤に染まるのは、カセルアでは不吉とされていた。
ルサリスは白に近いほどいいとされていたが、何十年かに一度、国内のほぼ全ての花が赤に染まる事がある。
それは、国内の混乱を予見すると言われていたのだ。
実際、赤い花が咲いた数年後、サーレスの祖父である、父の二代前に当たる国王は亡くなり、父の一番上の兄が国を継いだ。
父は第三王子で、本来一番王位からは遠かったのに、その兄も、二番目の兄も、結局子を残さぬまま暗殺され、好き勝手に放浪の旅に出ていた父だけが残り、王となった。
カセルアでは、不吉な赤の花が咲いたあと、はじめに産まれた王女に、ルサリスと名付けることが決められている。
建国の時、初代国王の后がその名を持ち、民衆をまとめ、国を救った事からの故事に由来するものだが、歴代のルサリスは、皆その名に相応しい活躍をしていた。
あるものは、隣国との戦を、身を挺して停戦させ、相手国と交渉し、和平に導いた。
あるものは、大凶作で飢えた民を、新たな作物を見つけ出し、救った。
だが、自分は、そんな事をする必要がなかったのだ。
育った頃には、父は国内を掌握し、反乱の目は全て潰えていた。
母は、弱った国の民を、新たな産業を興し、他国との流通を通じ、救っていた。
自分は、ただ産まれただけのルサリスだった。
重い名でしかないルサリスは、それでも、国の民達の希望だった。
赤の花を、白に変える、幸運の娘。
重いけど、捨てられない名前だった。
出番なんか、なくてもいい名前だ。混乱など、ない方がいい。
小さな頃からそう思っていた。
だから、ずっと影でいいんだと思っていた。
兄を守る影でいいと、それだけが自分の役目なのだと、思っていた。
だけど。
今になって、新しい道が示された。
クラウスの瞳に、髪に、声に、匂いに、強く魅せられる。
頭で考えるより先に、体はもう、隣にいるのはあれだと示していたのかもしれない。
どんなに混乱していても、サーレスがすでに選択していることに、兄は気付いていた。
だから兄は、その背中を、押したのだ。
ルサリスを捨ててもいいと、背中を押すことで、選択をさせてくれるのだ。
サーレスの瞳から、静かに、ひとしずくの涙がこぼれていた。
明朝、まだ夜が明ける前、サーレスは一人馬を走らせていた。
月明かりだけでも、迷わず進めるその道は、王宮の裏にある、王妃管理のルサリス園に向かう唯一のものだ。
昨日の今日で、一人出かけることになるが、一睡もできなかったサーレスは、そのまま人のいる離宮にいられなかったのだ。
少しの間でいいから、誰もいない場所に行きたかった。
その思いで馬を走らせた先に、夜になり、花を閉じたルサリスが見えた。
今、その場所のルサリスは、月明かりを受け、白銀に輝いて見える。
国内で、最も白く咲くこの場所のルサリスも、自分が産まれる前に、赤く染まったのだ。
静かな木立に、昼とは対照的なほど、体を冷やす風が吹き抜けている。
その肌寒さが、静寂に似合っていた。
一番大きな樹にフューリーをつなぎ、その近くの木の根元に腰掛けた。
そこで、大人しく、夜明けまで、花を見ていようと思った。
少しずつ、空が明るくなっていくその様子を見ていた。
だが、明るくなる前に、サーレスの耳に、馬の嘶きが聞こえた。
遠くから聞こえたそれは、瞬く間に近づいてくる。
夜明けの、微かな明かりで見えるそれは、黒い風のようだった。