その12
道の先にある、朝と同じ佇まいの離宮に、暗雲が見える気がした。
あきらかに重苦しいその空気を感じ、サーレスは手で顔を覆った。
「……ずいぶんお怒りのようだ。メモを残したのにな」
「あんな、暢気なメモ一枚で、外出が許されると思う方が間違いです」
ガレウスの、苦々しい口調に、クラウスが首を傾げた。
「サーレス、いったいどんなメモを残したんです?」
「……ちょっと街に買い物に行ってくるって」
なにかが、ぷつんと切れる音がした気がした。恐る恐る、その音の方を見ると、ガレウスの表情があきらかに引き攣っていた。
「メモを残すなら残すで、もうちょっと書きようがあるでしょうが……」
「だが、この調子だと、たとえどんなメモを残しても怒られそうなんだが……」
「そう思うなら、せめて一言誰かに伝えていけばいいんですよ! どんだけ探したと思ってんですか!」
ついに我慢できなかったのか、声を荒げたガレウスを落ち着かせるように、笑って見せた。
だが、この場合、その笑顔はただ、火に油を注ぐだけのものだった。
離宮に一歩足を踏み入れようとして、正面の重々しい雰囲気に気付く。
なんと、王太子は、わざわざ入り口の扉の真正面に、長椅子を引っ張り出し、そこで書類を見ていた。
さらに異様なことに、そんな兄の側には人がおらず、なぜか使用人まで、それを遠巻きに見つめていた。
あきらかに、それは、気軽に話しかけていいものではなかった。日頃の温厚な表情の仮面を脱ぎ捨て、不機嫌を隠そうともしない兄の表情に、この部屋だけ冬に逆戻りしたかのような冷気を感じた。
ゆっくりと、踏み出していた足を引き、そっと気配を殺して扉の影に隠れようとした。
「……お帰りサーレス」
先に声をかけられてしまい、隠れるに隠れられなくなった。
扉から、半分だけ姿を現した状態で、そっと兄の様子をうかがう。
「た、ただいま……」
「出てきなさい」
「はい……」
覚悟を決めて、ようやく一歩、離宮に足を踏み入れる。だが、それ以上は一歩も足が出なかった。
兄は、その表情に、凄みのある笑みを浮かべた。
「私が書類に埋もれているというのに、ずいぶんと楽しそうだな」
「……すみません」
「お前達の邪魔はするなと母上に言われているが、さすがに刺客が入りこんでいる街に出かけてもいいとは、母上も言ってないぞ?」
「あ、その刺客なら、捕まえました」
あっさりと言い放ったサーレスに、トレスはそのまま沈黙した。
「街にいた見回りの兵士に、ガレウスを通じて預けました。城壁の獅子の塔に移送するよう、指示を出しています」
獅子の塔は、近衛騎士が管理する塔で、政治的に重要度の高い罪人を収容する。ブレストアとの間で問題になるだろう刺客を入れるのなら、ここしかない。
そう思っての指示だったが、兄はなぜかそのまま、深々とため息を吐いた。
「……一人とは限らんだろう」
「ですから獅子の塔です。それから、その刺客についての情報提供を、クラウスがしてくれますので、それは兄上におまかせします」
報告を終えたサーレスは、兄の方を見て、再び体が下がりそうになった。
「……その刺客に関しては、まあいい」
「はぁ……」
「だが、お前は、ちゃんとお前と一緒に居る相手のことを知った上で出かけたか?」
「……はい?」
「お前と一緒に出かけたそれは……黒狼の元暗殺者だぞ?」
思わず目を見張ったサーレスは、とっさに振り返る。
そこにいるのは、ここ最近で見知ったクラウスだった。可愛らしく小首を傾げているし、笑顔はまったく変わらない。
黒狼というのは、黒騎士団の前身である、傭兵団の名前である事は、サーレスも知っていた。
紋章の黒狼は、羊やヤギを宝とするブレストアでは、忌むべきものだが、彼らにとっては、礎と言える存在だという理由で、今もその紋章は変わらないという。
黒狼とは、つまり、黒騎士団の一員を指す。
驚いた表情のサーレスに、それでも常と変わらない表情を向けているクラウスは、動揺している風ではなかった。
「元ですよ。さすがに団長になってからは、そちら方面の仕事はしてません」
あっさりと、可愛らしい声で言ってのけたその人は、サーレスの脇をすり抜け、扉の内側に入った。
可愛らしい女性の姿で現われたクラウスに、トレスは目を見張ったが、すぐに再び、険しい表情に変わる。
「ご機嫌は麗しくないようですが、お変わりないようでなによりです、殿下」
優雅に女性のように膝を折るクラウスに、トレスは険しいままの視線を向けていた。
「ご機嫌も麗しくないが、体調もよくないよ。頭が痛くなるような事態が起っているからな」
ため息を吐いたトレスは、ゆっくり立ち上がった。
「ノエル=ラーゲルハイド。少し話がある」
「奇遇ですね。私も殿下にお話しがあるんですよ」
トレスとクラウスの間にある緊張に、だれも踏み込めなかった。
サーレスは、呆然と成り行きを見ていたが、ふと、気付いた。
「……ノエル?」
「私の名前です。ノエル=ラーゲルハイド。それが、黒騎士としての私の名です」
「……あなたは名前が三つもあるのか」
「仕方がありません。入団した時点で、私には、女の名前しかなかったんです。男として入団の届けをした時に、それに気が付いたので、名前はないと言ったら、黒髭に勝手につけられてしまったんです」
肩をすくめたクラウスに、サーレスはさらに疑問をぶつけた。
「クラウスという名前は?」
「兄が、私に王弟の身分を戻す時につけたようです。戦から帰ったら、私はクラウスでしたよ」
なるほどと思った。王弟のクラウス、令嬢のクラリス。そして、もう一人、騎士としての名前が、ノエル。それぞれの顔に、名前がついていたらしい。
「……もしかして、あなたにとって、一番なじみのない名前が、クラウスか?」
「そうなりますね。逆に一番付き合いの長い名前は、クラリスです」
サーレスは、しばし唖然としたが、気を取り直し、改めて問い直した。
「あなたは、なんと呼ばれたい?」
その問いに、今度はクラウスが唖然とした。
「……あなたのお望みのままに。どれも私の名前であることは変わりありません」
きょとんとしたまま、そう答えたクラウスは、その後吹き出した。
「……なじみのない名前を聞いて、まず考えるのは、相手の呼び方なんですか?」
「重要だろう。大きな声で名前を呼ばれて、それが呼ばれたくない名前だったら困るだろう。私だってそうだからな」
「なるほど」
確かに、サーレスが、表でサーラなどと呼ばれたら、困るどころの話ではない。
クラウスは、クスクス笑いながら、再びトレスに向き直った。
「お話しは、別室でよろしいでしょうか。あまり、大きな声で言えないこともありますから」
「望むところだが、私はあなたほど剣技に自信がない。二人きりになるのはお断りする」
「では、ガレウスさんもご一緒で」
三人は、そのまま、奥にある客間へと向かった。
残されたのは、その場の成り行きを見守っていた使用人達とサーレス、そして、黒騎士の二人だった。
サーレスに、ティナがゆっくりと近寄ってくる。
「ティナ。心配かけてごめん」
「……お帰りなさいませ。次からは、私でも娘でもよろしいですから、ぜひ一言、告げてからお出かけください」
「うん、ごめん。ティナも兄上に叱られたかな」
「私より、そちらの黒騎士のお二方が……」
ティナの言葉に、二人がいる場所に目を向ける。二人とも、苦笑していた。
「申し訳ありませんでした。確かに配慮が足りませんでした」
頭を下げたホーフェンに、首を振って答える。
「こちらこそ、すまなかったな。兄上のあの調子だと、たっぷり絞られたんだろう?」
「いえいえ。むしろ、団長の機嫌が悪くなることと秤をかけた結果ですから、お気になさらず」
「……は?」
「団長の機嫌が悪くなると、一気に物騒になるもので。それくらいなら、ここで絞られる方が、穏やかでいられるというものです」
「それを考えれば、少なくとも団長の機嫌はいい。こちらとしては、その方が都合がいい。常に側にいなければならないのは、殿下ではなく団長だしな」
苦笑する二人をまじまじと見つめ、サーレスは破顔した。
面白い二人だ。
「お二人とも、兄上とクラウスの話が終わるまで、暇かな。よかったら、お茶でもご一緒にいかがかな」
突然の誘いに、黒騎士二人は驚いたようにサーレスを見つめたが、すぐに了承した。
「ぜひ、黒騎士団のことについて聞かせてくれ。私には、どうやらいろいろ、知らなければならないことがあったらしい」
そう告げたサーレスに、二人は笑顔で頷いた。
クラウスと黒騎士たちにあてがわれた部屋で、お茶と軽食がのせられたテーブルを囲む。
この二人は、黒騎士としては、クラウスと同期だと聞いて、驚いた。
年齢こそ違うが、入団した年度は同じで、今回クラウスに同行したのも、護衛というより、友人を心配してのことだったらしい。
ただ、この二人は、黒騎士団の実質第二位の地位にいる参謀長と、騎士たちのまとめ役である騎士長だというので、再び驚いた。
そんな地位にある者が、国を空けていいのかと問うと、二人は苦笑して、無難に守るだけなら問題ないと告げた。
戦に赴くなら、団長は絶対必要だが、守る戦なら、団長も参謀も必要ないし、先頭に立つ騎士長もいらないらしい。
グレイは寡黙だが、ホーフェンは話し上手で、途切れることなく、黒騎士の里である、クラウスの領地ノルドについて話して聞かせてくれた。
山に囲まれ、冬の長いノルドは、その間街にほぼ閉じこもることになるということ。
そして、その厳しい環境を、黒狼達はあえて選んだのだという。
クラウスがその地を公爵として拝領することになったのは、どうやら黒騎士団からの意向らしい。
厳しい土地は、作物を育てたり、家をたくさん作ることには向いていないが、いろんな鉱石が取れる鉱脈があり、現在、クラウスはその開発を進めているそうだ。
黒騎士団は、現在、騎士や傭兵などの、戦争屋としての側面より、職能集団としての顔の方が、大きくなっているという。
ノルドの地には、黒騎士となった者が、身内を呼び寄せ、そうやって異国から訪れた者達が、それぞれの集団を形成し、大変異国情緒に溢れた土地なのだという。
当然、各地からの文化の流入も積極的に受け入れており、ある意味、ブレストアの中において、特異な文化を持つ土地らしい。
サーレスが心惹かれたのは、酒の種類の豊富さだった。
各地方の出身者が、自分達の文化の酒を、それぞれに醸造しているため、ノルドでは数百にわたる国の酒があるらしい。
「すごいな……種類も多いのか」
「ええ。材料もいろいろ違いますから。果物で作るもの、穀物で作るもの、樹木から作られるものもありますよ」
「グレイ殿は、見たところ、この大陸の出身ではないようだが、やはり変わった酒を仕込むのか?」
「私は、南の大陸の中央部にある国の出身です。私達は、馬の乳で、酒を造ります」
「へぇ」
目を輝かせるサーレスを前にして、黒騎士二人はにっこり微笑んだ。
「姫が嫁いでこられたら、いくらでも飲めますよ」
その言葉に、サーレスは固まった。
「料理も、各地の物が揃ってる。つまみも、酒ごとに作られるくらいだ。ノルドは、どこからも田舎だと侮られるほど奥地にあるが、仕入れをする者が優秀だから、世界各地の物が味わえる。不思議な土地だ」
二人は、にこにこと、サーレスを追い詰める。
「……なんだか、お二人とも、妙に熱心だな」
「あなたがいると、団長が大人しいんです。来ていただければ助かると踏んだ次第です」
「……大人しい?」
「日頃なら、野生の狼をなんとかその気にさせるように、細心の注意を払うが、あれはあなたの前だと、大人しい上にずいぶん穏やかだ。もう長い付き合いだが、初めて、年相応の表情を見た」
その二人の表情に、穏やかなものが見え、この二人が真実、クラウスの友であることがわかる。
二人は、年上の友として、あの人を心配しながら、見守っていたのだろう。
サーレスは、その二人を信じ、あえて聞きにくかったことを尋ねた。
「……あの人の、瞳云々の呪いというのは、いったいどういう物なんだ?」
「詳しいことは、わかっていません。ただ、その話は、爵位持ちの貴族達の間では、絶対なものとして伝わっているというだけです。先代の国王が、王太后陛下を迎える前に、貴族議会で告げたと聞いています。それを聞いた貴族達は、こぞって結婚を反対したけれど、結局強行したと」
ホーフェンが、困惑しながら答えを慎重に述べた。
「王家には、代々伝わる宝石がありまして、瞳と同じ色の、大粒のサファイアなんです。ですから、王家にとっては、幸福をもたらす色だと言われていました。ただ、同時期に、同じ色を持った王子が、二人産まれたことはないのも確かなんです。ですから、一人は不吉な者だと言われて、納得したのかもしれませんね」
「だが……黒騎士にとっては、どうでもいいことだ。人種も年齢も性別も、そして出身も問わない。ただ、戦う意思があればいい集団だ」
「ですから、私達は、団長の呪いというのを、特別に考えたことがありません。詳しいことは、本人に尋ねていただくのが一番ですよ」
苦笑したホーフェンを見て、サーレスは思わず笑顔になる。
なるほど、あの人にとっては、この集団は居心地がよかったのだと、なんとなく理解した。サーレスが、この離宮で感じることを、あの人はきっと、黒騎士たちの中で、自分より年上の集団に囲まれて感じていたに違いない。
笑顔になったサーレスに、不思議そうな表情を向けていた二人は、はっと何かに気付いたように顔を上げた。
釣られてサーレスは、自分の斜め後ろに向けられた視線を追う。
視線が扉にたどり着いたその時に、突然その扉が、音高く勢いよく開かれる。
そこに立っていたのは、笑顔を消し、憮然としたクラウスと、先程とは打って変わって晴れやかな笑顔のトレスだった。
「……話は終わったのか?」
先程とはずいぶん違う様子に、首を傾げながら尋ねると、突然強い視線を向けられた。
クラウスは、サーレスを認めると、足早に近寄り、突然その膝の上に腰掛けると、ギュッと抱きついてきた。
「いったいどうしたんだ?」
「……あなたの兄上に虐められました」
クラリスらしからぬ、地を這うような声に、思わず兄に視線を向ける。
トレスは、面白そうにその様子を眺め、笑っていた。
「それは許したかな?」
「ただ抱きつくだけならかまわないはずです」
「……兄上、いったいなにをしたんだ?」
「なに、少々首輪をつけただけだ」
首輪と言うが、実際首に何かが嵌っているわけではない。おそらく、結婚に際し、何らかの条件を押しつけたのだろう。
とても楽しそうな兄の様子に、サーレスは諦めたようにため息を吐くと、テーブルの上にある果物から、ブドウを一粒手に取り、それをクラウスの口元に差し出した。
「ほら、あーん」
笑顔で差し出されたブドウと、サーレスの顔を交互に見たクラウスは、そのまま、そのブドウを口に含んだ。
モグモグ口を動かす様を、正面の黒騎士たちは驚いたような表情で見つめ、トレスは呆れたように肩をすくめた。
「お前、狼を餌付けしてどうするつもりだ?」
「それは違う、兄上。餌付けというのは、懐かせるためにする行為だろう。これはもう、全力で尻尾を振りながらやってきた狼だ。もう、腹を見せるほど懐いている。今更、餌付けする必要はないよ」
穏やかな表情でそう言い切るサーレスを、クラウスは驚いたように見つめていた。
「……あなたは、私の前歴を聞いて、変わらないんですか?」
「兄上も、人を見る目は相当だが、私は私の目も信じてる。あなたは、私に嘘を吐かないのだろう? 知りたい時に、あなた自身にちゃんと尋ねるよ」
そう伝えると、サーレスはクラウスの柔らかな金茶の髪を撫でた。
その髪は柔らかで暖かく、サーレスの心を穏やかにしてくれる。
クラウスは、穏やかな表情で、その行為を受け入れていた。