その10
「こんばんは。いい月夜ですね」
声が、クラリスの少し高めの声から、クラウスの声に戻っていた。
「声、戻ったんだな」
「ええ、先程。ですから、着替えてきてしまいました。もう少し時間があれば、クラリスのまま参上したのですが」
「……というか、どうして屋根から?」
「部屋は、もう鍵がかけられているかと思いまして。窓なら、起きてらしたら、すぐにわかるかと」
「確かに分かるけど……窓というのは、入り口というわけじゃないぞ?」
そう言いながら、入れるようにサーレスは窓から体を少し離した。
「お邪魔します」
躊躇うことなく部屋に足を踏み入れたクラウスは、テーブルの上を見て、微笑んだ。
「また、チェスですか?」
「兄上から預かってきてた戦術パズルだ。兄上は、自分が考え事をしたい時、私を近寄らせないために、これを作る。渡されるのは、いつもとびきり難しい。他に何か考える隙間もないほど、悩む羽目になる」
クラウスは、並べられた駒をしげしげと眺め、肩をすくめて首を振った。
「私がこれを解くのは、空恐ろしいほどの時間がかかりそうです」
そのおどけた言い方に、サーレスは微笑んだ。
椅子を勧めながら、自分も先程まで座っていた椅子に腰掛けた。
「昼、かなり無茶な動きもしてたが、大丈夫なのか?」
弾かれた勢いを利用した方向転換など、かなり体に負担になっているのかと思ったが、やった本人は平気な顔をして、腕を振って見せた。
「むしろ、久しぶりに動けたので、すっきりしました。私は、訓練でも、相手をしてくれる者はあまりいませんので、本気で仕合える相手は貴重なんです」
「そうか。それはきっと、爺も喜んでる。あの人は、才能がある相手と仕合するのが楽しくて仕方がないと言う人だからな」
自然と笑顔になったサーレスの顔を、クラウスは困惑した表情で見つめていた。
そんな顔をされる覚えなどないサーレスは、首を傾げる。
「……どうかしたのか?」
「……私は何か、あなたのお気に障ることをしましたか?」
問われた事の意外さに、驚きが顔に出た。
「なぜ?」
「晩餐の途中、あなたの表情が曇っていたので……」
ずっと、爺に向かって話していたはずなのに、いつ、顔を見ていたのだろうと思った。そもそも、それを悟られるほど表情に出していたのかと、ますます情けないような気持ちになった。
「あなたのせいじゃない。自分の不甲斐なさを感じて、ちょっと気落ちしただけだ」
「……不甲斐なさ、ですか?」
「あなたは、立派な騎士だな」
「ありがとうございます」
「それに、子爵令嬢としても、立派だ」
クラウスは、首を傾げながらも、静かに先を促している。
サーレスは、自嘲するように、微かに微笑んだ。
「私は、姫でもなければ、騎士でもない。そんな自分が、不甲斐なかっただけだよ」
「……姫というのは、なろうと思ってなるわけではないでしょう?」
「確かに、血筋が重要だが、血だけでなるわけでもない。王族として、姫として、求められる役割ができないならば、血だけの王女など役立たずでしかない」
サーレスは、自分の体に視線を落とした。
「間違いなく、体は女性として成長したのにな。心は、成長できなかったようだ」
「……そうでしょうか?」
意外な反応をもらい、サーレスはクラウスの表情を伺う。
いつもの通りの穏やかな顔が、そこにあった。
「私の目には、あなたの中に、サーラが見えます。そのサーラは、姫にしか見えません」
唖然とした。
「あなたの中のサーラは、ずっと私に怯えてます。あなたは、影武者として優秀です。普通にしていれば、それだけであなたは王太子と変わらない姿と声、そして思考をしています。上手に纏ったその影の中に、間違いなくサーラは居ます。気高く、誇り高い、一国の王女としてのサーラが」
「……どういう、意味……」
「こう、考えられませんか。あなたと私は、同じものなのですよ。私に、クラウスとクラリスがあるように、あなたの中に、サーレスとサーラは居るのです。私とあなたは同じものだから、私にはそれがわかるんです。あなたは、どうして私があなたとトレス殿下を見分けられるのかと問われました。その答えも同じです。私は私と同じものを探している。だから、あなたを間違う事など、ありえない」
強い瞳に見つめられたまま、サーレスはその場に縫い止められたように、動きを止めた。
その時を待っていたように、クラウスは立ち上がると、まだ座ったままだったサーレスの頭にそっと手を添え、抱き寄せた。
「あなたから見て、私が立派に見えるというのは嬉しい事ですが、これでもずっと、緊張しているんですよ?」
とっさに体を離そうとしたサーレスは、先に動いたクラウスにその行動を止められた。びくともしない腕の力に、初めて、この目の前にいる、綺麗な顔の、お人形のようだったクラウスが、男性である事を思い知った。
宥めるように頭を撫でられ、そのまま固定され、その身体に寄せられる。
聞こえる鼓動が早い。でも、この鼓動が、自分のものなのかクラウスのものなのか、わからない。
サーレスの体を、クラウスの香りが包む。先程までのクラリスのつけていた、華やかな香りではなく、少しは馴染んだクラウスの香りでもない。服に染みこんだ、武器や防具の手入れ用の油の匂い。そして、ディモンの手入れをする時についたと思われる、厩舎と藁の匂い。
カセルアは、香油の国だ。
母である王妃が率先して産業として起こしたため、その看板代わりとばかりに、王家の人間には皆、独自の香りが作られた。
だが、サーレスの香りはない。サーレスは、影武者として過ごすために、日頃から王太子と同じものを使う。
サーレスにとって、それは兄の香りだ。自分の香りではない。
だから、サーレスにとって、自分の香りは、今、クラウスから香るものと同じ、武器と馬の香りだった。
嗅ぎ慣れた自分の匂いが、目の前のクラウスの体で暖められ、サーレスを包む。
腕の中は暖かく、涙が出そうなほど居心地がよかった。
「……好きになった人に、無様な姿は見せたくありませんからね。これでも、見栄はあるんですよ」
頭を撫でる手が、優しかった。髪を梳く指が、綺麗だった。
何度も、頭に、髪に、そっと口付けられた。
漫然と、その手を受け入れていたが、そのぼんやりとした視界に、光が差し込んだ。
窓の外の、月が見えた瞬間に、まるで今までのもやを洗い流すように、頭の中がすっきりと晴れた。
晴れたとたん、自分の取っている姿を自覚し、慌てて体を離すためにクラウスの胸板を押し返した。
「……残念。サーレスに戻ってしまったみたいですね」
クラウスは、今度は腕に力を入る事はせずに、サーレスにされるがままに体を離した。
あまりにも恥ずかしい、今の自分の姿に、サーレスはごまかすように、手に当たっているクラウスの胸板を撫でた。
「……ほんとに硬いな。クラリス嬢の時は、あんなに見事な胸なのに」
「詰め物ですから、自由自在です」
あっさりそう返事を返すクラウスは、先程の行動にも照れることなく、普通だった。
あまりに普通なので、自分だけ恥ずかしい思いをしたようで、サーレスは気まずく沈黙した。
「……それで、お願いの事なんですけど」
「何か、決めたのか?」
顔を上げたサーレスは、今までにないほど、満面の笑みを浮かべているクラウスの顔を目にした。
あまりにも晴れ晴れとした笑顔なので、思わず腰が引けたのだが、そんなクラウスが告げたのは、ちょっと拍子抜けするほど簡単なお願いだった。
「明日、母にお土産を買いに行きたいんです。街を案内してもらえませんか?」
「案内……?」
「ドレス用のレースと、飾りボタンを頼まれました。よろしければ、一緒に見立てていただけませんか」
「……レースと、ボタン……申し訳ないが、私には、一番縁のない店だぞ?」
「かまいません。ただ、私に似合う物を選んでほしいだけです。……だめですか?」
「……母君への土産なのに、あなたに似合う物を選ぶのか?」
「母は、私に瓜二つですよ。今も、あまり変わりません。身長が、若干私の方が高い程度の違いです。それに、渡せば、母が好きなように使いますので、私のドレスを飾る可能性もありますから、問題ありませんよ」
若干、疑問に思いながらも、それ以上問うこともできず、サーレスは了承した。
翌朝、夜の明ける少し前に、サーレスは身支度をしていた。
髪は濃茶に染めたが、服はお忍び用の物を持ってきていなかったために、手持ちの中で一番地味な物を選択した。
支度が終わった後、ふと気付いて、昨夜使っていたチェス盤の上に、メモを置く。
そこまでして、ようやく部屋を抜け出した。
静かに客間の前に来てノックをすると、すぐに黒騎士のグレイが顔を出した。
グレイは、サーレスの姿を見て目を見張った。
「……何かご用でしょうか?」
「クラウスはもう起きてるかな」
「……しばらくお待ちを」
グレイが中に戻り、それからすぐに、再び扉が開いた。
「中へどうぞ」
促され、足を踏み入れた。
中では、起きたばかりらしいホーフェンと、しっかり外出用のドレスを身につけたクラウスがいた。
「……朝一から、ドレスを着るなんて言うから何かと思ったら」
「悪かったな、ホーフェン。また寝ていいぞ」
「馬鹿たれ。警護対象二人だけで、そのまま表に出せるか」
「……寝ないと、無理矢理落として出かけるぞ?」
可愛らしく小首を傾げた笑顔のクラウスと対照的に、苦渋に満ちた表情のホーフェンは、窓を指差した。
「見つからないように出ろよ。一応、ここの使用人らに聞かれたら、正直に答えるからな?」
「わかった」
頷き、クラウスはサーレスに手をさしのべた。
二人で窓を飛び出した後は、そのまま厩舎まで全力疾走する。
飛び込んだ、サーレス専用の厩舎には、まだ厩舎番も来ていなかった。
「この時間、ここの厩舎番は、もう一つの厩舎にいます。そこで放牧したら、こちらに来ますから、早く出ましょう」
「あなたは、離宮の使用人の勤務時間まで、調べてたのか?」
「ここの厩舎番の勤務時間は、ついさっき教えてもらったんです。朝の散歩がてらね」
「すぐに来るなら、私達が居ないこともすぐに知られるな」
二人の騎馬が居ないのなら、すぐにわかるだろうと思ったが、クラウスは首を振った。
「大変申し訳ないことに、昨日もディモンが先にあなたの馬を連れ出して、勝手に散歩していたんだそうです。昨日の今日ですから、先に散歩に出たことを疑うと思います。どちらにせよ、時間はないですけど」
「……悪い子だな、フューリー。勝手に外に出ちゃダメだろう」
苦笑しながら撫でてやると、そのフューリーはきょとんとした幼い表情で、こちらを見ていた。すぐ横にはさも当然のように、ディモンが寄り添っている。
「すっかり、フューリーも懐いたな……」
苦笑して、サーレスは自分の馬具をフューリーに取り付けた。
「ディモン。あなたも主人に馬具を付けてもらってくれ。急いで出かけないといけないんだ」
声をかけると、ディモンはひとつ鼻息を出すと、そのままあっさりとフューリーの側を離れ、クラウスの元へ向かった。
「……気持ち悪いくらい、ディモンが素直です」
怪訝そうな表情で自分の馬を見つめるクラウスに、サーレスは思わず吹き出した。
二人は、ひとまず馬に飛び乗り、離宮を離れた。
止められる前にと急いだサーレスに、クラウスは淑女のごとく脚を揃えて乗る方法で、普通についてきた。
その、優雅な騎乗姿に、サーレスは笑いがこみあげる。
「すごいな。私はその乗り方はできないから、走り始めたらすぐに落ちる自信があるぞ」
「私は、これで黒騎士の里ノルドから、母のいるレイティス子爵領まで走ります。半日乗り続けるよりは、ここから町に降りるくらい、なんでもありませんから」
あっさり告げられたその言葉に、唖然とした。
「里帰りは、馬でやるのか。馬車は?」
「馬車よりこれの方が速いです。荷物は必要ありませんしね」
そう告げると、クラウスはあっさりとサーレスを追い抜いていく。
「おいおい……」
ディモンの健脚にも呆れるが、それに平然と乗っているあの人もただ者ではない。
それを改めて見せつけられた。