プロローグ
ここ新香港にある混沌区は首都九龍に程近い街だ。リニアのステーション前には近代的
なビルが立ち並び、お洒落な店が多数入っているショッピングモールもある。ビジネスマ
ンも奥様ふうの女性も学生らしき若者も、一年を通して若干蒸し暑い気候の中、色々な人
が行き来しているのだった。
そのショッピングモールの中にあるHS屋(※)の新作コーナーにディーはいた。
「お、これホログラムになったんだ」
背が高く、褐色の肌に短めの銀髪という傍から見ればかなり目立つビジュアルの男がつ
ぶやいた。まだ20代前半の青年だ。無駄な肉のない引き締まった体格をしていて、褐色の
肌をさらに黒いハイネックのノースリーブと革パン、ゴツイブーツで包んでいる。そのい
でたちはパンクロッカーのようでもあるが、彼のこの服装はファッションで着ているので
はなく(彼自身はファッションに無頓着)、職業柄の実用品として身に着けていて、常にこ
の格好だった。
彼が醸し出す雰囲気は若者にありがちなどこか浮ついたものではなく、他の一般人とは
違う世界の人間のような近寄りがたいもので、そのため、店内の他の客(特に女性客)が新
作コーナーに行きたいのに行きづらい、という現象が起きていたが当の本人はそれを解っ
ていない。
紫の瞳の切れ長の目、彫りの深い端正な顔立ちは充分に美形だったが、表情はあまり変
わることなく、いつもクールだった(ゆえに誤解されることが多々ある)。それでも、今の
彼は顔にこそ出ていないが喜んでいる方だった。
昨今、旧世紀に流行った海外のTVドラマが人気で、業界は次々にホログラム化して売
り出しているのだ。ディーは別に流行を追うタイプではなかったが、以前からそういった
旧世紀のTVドラマが好きだったので、この時流は嬉しいことだった。
そして今目の前にあるのは前から欲しかったシリーズのCT、全巻そろったコンプリ
ートBOXだ。話数が多いのでそれなりの値段が付けられている。
ディーはしばしそれを見つめながら考えていたが、カードの残高を見るために店内の隅
にあるATMに行った。
「…ん?なんだ?」
自分の口座の残高を見てディーは疑問の声を出した。覚えのない金額が振り込まれてい
るのだ。
この一週間は仕事をしていないので報酬というのはあり得ない。相棒のソナタがやった
のだろうか?報酬にしては(ソナタの基準で変動するとしても)金額が大きいのも気になる。
そこで振込み人氏名を見てみると、
『顔のない死神』
と記されていた。
駅前の活気ある繁華街もほんの2本ほど裏道に入ると、途端にうらぶれた雰囲気に
変わる。そこには一見しただけでは何の店か分からないようなちょっと怪しげな店があっ
たり、目付きのあまりよろしくない怪しげな人間がたむろしていたりするのだ。
ディーがHS屋の新作コーナーを見つめているちょうどその頃、裏通りの一つに店を構
えている電脳ソフトを扱っている店『陰陽門』に、ソナタはいた。
歳はディーと同じくらいの青年で、ディーより細身だ。常に彼のイメージカラーとも言
えるワインレッドのブランド物のスーツをすっきりと着こなしている。
彼の一番の特徴は、その女性とも見紛うほどの美麗な顔だった。細いあごに通った鼻
筋、形のいい眉に長いまつ毛に縁取られた緑の瞳。赤く染めた髪が肩まであり、前髪が彼
の右半分の顔を隠してしまっているのが残念だが、それでも彼の美しさを損なうことはな
い。
女性の扱いにも慣れていて、顔だけではなく言葉使いも丁寧で仕草も優雅、しかしなよ
なよしている訳ではなく、頼れる時はちゃんと男らしさも併せ持っている、女性にとって
はまさに理想の男性なのだ。
道を歩いていれば男にナンパされることなど日常茶飯事で、振り向かないのは人の美醜
に関心のないオートマタンくらいである。ソナタ自身は自分の外見を充分に承知してお
り、最大限にそれを利用し、女友達との付き合いが途切れることはなかった。
「どうですか、ゴッセン?」
ソナタは目の前に座っている痩せぎすの男に声をかけた。
ゴッセンと呼ばれた男は電脳を前に操作していた。画面にはプログラムの羅列が表示さ
れている。ゴッセンはゴーグルのような物を付けているが、これは義身躯だった。口元には
常に皮肉っぽい笑みを浮かべ薄汚れた迷彩柄のつなぎを着ていて、薄い茶色の髪はボサボ
サの年齢不詳男だ。
「ああ…、もう少しで終わる。もうちょっと待っててくれ」
狭い部屋には電脳やドライブがいくつもケーブルで繋がっており、モニターには様々な
情報が映し出されていた。反対側のデスクには誰かもう一人いて、ずっとキーボードを叩
いている。照明は薄暗いが電脳のため冷房が効き過ぎなくらい効いていた。
ここ『陰陽門』は表向きは電脳のプログラムソフトを取り扱っている店だったが、今ソ
ナタがいるのは知る人が知っている裏、違法のオートマタンやハッキング、情報を売って
いる店なのだ。特に情報網はハンパなく、そのハッキングの腕をフルに活用してあらゆる
情報や噂の類まで、集められないものはない。ネットのサイトでは主にオートマタンやサ
イバーズ関連の情報が網羅され、載っているのだった。
ソナタは職業柄この裏の方の店を頻繁に利用しており、彼の持つ特殊なシステムの電脳
もこの店なくしては成り立たない。そして今、彼の電脳と感覚変換システムの調整をして
もらっているところだった。
「よし、できた!」
ゴッセンはドライブからCTを取り出し、ソナタに渡す。
「プログラムをちょっと修正しといたぜ。これで特定のウィルスに当たった時の微妙なタ
イムラグは感じなくなるハズだ」
「ありがとう」
にっこりとソナタは笑った。ソナタ自身が使用している電脳は特殊な物なので、定期的
にここへプログラムの更新に来たり、メンテをしてもらったりしているのだ。
「ウィルスは日々進化してるからなあ~。クラッカーを気取ってる奴らなんかにゃこのプ
ロテクトが突破されるなんてことはまずありえねぇが、ハイクラスのウィザードに接触す
る時は、デコイももうちょっと厚くしといた方がいいかもな」
「そうですね…。分かりました、考えておきます」
「ま、アンタならいつでも歓迎するよ」
彼らの関係は友好なようだ。
「それじゃ、」
ソナタは立ち上がり去ろうとして、
「そうだ、ついでですけど、何か目新しい情報はありますか?」
と聞いた。ここの情報は早いし、彼の仕事にも少なからず関係がある場合が多いので重
宝している。聞かれたゴッセンはすぐに芸能人のゴシップでも暴いたかのような口調で言
った。
「おお、そういえばビッグニュースがあるぜ!」
「何です?」
「なんと、あの『顔のない死神』が引退するんだってよ!」
「『顔のない死神』が?」
まさか、と言おうとしたソナタのナビが震えた。ナビとは、カードサイズの携帯電脳端
末である。胸ポケットから取り出すと、ディーからの電話だった。
「どうしたんです?」
『お前、《顔のない死神》と最近何かしたのか?』
「え?」
まさに神懸かり的な偶然で、死神の話が舞い降りてきた。
(※)HS〈ホログラムソフト〉…この時代のデータ記録メディア。製品名称がCT〈ク
リスタルタブレット〉という。