猫を選んだ日
まえがき
「犬派? 猫派?」
きっと、これまでに一度くらいは聞かれたことがあると思います。
深く考えることもなく、好きなほうを答える。
そんな何気ない質問から、この物語は始まります。
もし、その答えによって何かが消えてしまうとしたら。
あなたは、同じように答えられるでしょうか。
それでは、少しだけ僕の話に付き合ってください。
もし、犬か猫か。
どちらか一方しか残せないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。
選ばなかったほうは、消える。
朝はご飯派かパン派か。コーヒー派か紅茶派か。 ありふれた質問は、世の中にいくらでもある。
初めてのデート。 クラス替えの初日。 飲み会で、あまり親しくない人と二人きりになったとき。 仕事場で、気まずい沈黙をどうにかしたいとき。
そんな場面で、「犬派? 猫派?」という質問は、あまりにも使い古されている。
犬が好きなら犬派。 猫が好きなら猫派。
質問された人間は、そのどちらかを選んで答える。 そして、選ばれなかったほうが消えてしまうなんて、誰も考えない。
けれど僕は、今、その選択を迫られている。
犬か、猫か。
どちらを残して、どちらを消すのか。
これは、そんな選択を迫られた僕からのお願いである。
「犬と猫、どっちが好き?」
そう聞かれたら、僕はいつも少しだけ考えてから答える。 「猫かな」 別に、猫が特別好きなわけじゃない。 犬も嫌いじゃない。むしろ子どもの頃は、近所の家で飼われていた犬に会うのが楽しみだった。猫だって、大学へ向かう途中の公園で見かければ、少しくらい足を止める。 だから、本当のところはどちらでもよかった。
ただ、「犬派か猫派か」と聞かれれば、なんとなく猫と答えていた。 その日もそうだった。
四限終わりの教室で、隣の席に座っていた友人がスマホを眺めながら、何の前触れもなく聞いてきた。 「そういや、お前って犬派? 猫派?」 「猫」 「即答じゃん」 「まあ、どっちかって言われたら」 「へえ。意外」 「なんで?」 「なんとなく。お前、犬っぽいし」 「それどういう意味?」 「知らん」 友人は笑った。 僕も笑った。 それだけの会話だった。
そのときの僕は、まさか数週間後に、同じ質問を何度も何度もされることになるなんて知らなかった。
そして最後には、その質問に答えることが、誰かを消すことになるなんて。 もちろん、そのときの僕には知る由もなかった。
昨日は、特に何もなかった。 十八時まで授業を受け、その足で古本屋のバイトへ向かった。二十二時まで働いて、帰り道に気になっている女の子へLINEを送った。 返信は、なかなか来なかった。
たったそれだけのことで少し凹みながら、スーパーに寄る。売れ残りの唐揚げ弁当とビールを一本買った。 家に着いたら、一番に風呂に入る。 風呂から上がると、いつものように推しているYouTuberの動画を流しながら、ビールを片手に弁当を食べた。
特別なことは何もない。 授業を受けて、バイトをして、好きなものを食べて、好きな動画を見る。 そんな、ありふれた一日の繰り返しだった。
そして次の日。 僕はいつも通り大学へ向かった。 ただ、今日は少しだけ気分が浮ついていた。 四限の教育心理学。 特別、この授業が楽しみなわけではない。 教授が一方的に話し、学生はそれを黙々と板書する。少しでも気を抜けば、そのまま夢の中へ落ちてしまいそうな、退屈な授業だ。
それでも今日は楽しみだった。 気になっている女の子が、隣の席に座るからだ。 昨日、LINEの返信が遅かったことで勝手に落ち込んだ、その相手。 別に、何か特別なことがあるわけじゃない。 ただ、近くにいられる。 それだけでよかった。
授業が始まってしばらくすると、彼女が僕のほうを少しだけ向いた。 そして、周りには聞こえないくらいの小さな声で言った。 「犬派? 猫派?」 一瞬、意味が分からなかった。 けれど、昨日も誰かに同じことを聞かれた気がした。 「……猫」
本当は、話しかけてもらえたことが嬉しかった。 けれど、それを悟られるのがなんとなく恥ずかしくて、できるだけ素っ気なく答えた。 「そっか……」 彼女は小さく呟いた。 その声を聞いて、僕は少しだけ後悔した。 もう少し何か言えばよかった。 「そっちは?」 そう聞き返そうとした、そのときだった。 「そこの二人、私語やめなさい」 突然、教授の声が教室に響いた。 「す、すみません……」 彼女が小さな声で謝る。 僕も慌てて前を向いた。 教授は何事もなかったかのように黒板へ向き直り、授業を続ける。 結局、それ以上話すことはできなかった。 少し残念だった。
でも、授業が終わったあと。 「このあと暇?」 彼女がそう聞いてきた。 「暇だけど」 「じゃあ、カフェ行かない?」 「……うん」
カフェに入って僕と彼女は特別な話をしたわけじゃない。 昨日のLINEのこと。 大学のこと。 バイトのこと。 最近見た動画のこと。 そんな、どうでもいい話をしていた。 そのときの僕は、この恋心が、ありきたりで当たり前の毎日がいつまでも続くものだと思っていた。
二日後、僕は眠れずに布団の中でくねくねしていた。 もちろん、「くねくね」というのは比喩表現である。 ついさっきまで、彼女と二人きりで水族館にいた。 そして、最後に告白した。 返事は、 「もう少し考えたいから、待ってほしい」 だった。 それから家に帰ってきて、何時間経ったのかは分からない。 布団に入ってからも、ずっとその言葉が頭の中をぐるぐる回っている。 この話を読んでいるあなたたちが知らないだけで、僕は彼女のことを一年間ずっと好きだった。
何度も電話をした。 二人で買い物にも行った。 遊園地にも行った。 植物園にも行った。 そして今日、水族館にも行った。 これだけ一緒に出かけているんだから、きっと大丈夫だ。
僕は何度もそう自分に言い聞かせる。 でも、心のどこかには、ずっと小さな不安があった。 もしかしたら、断られるんじゃないか。 そんな考えが頭の隅にへばりついて離れない。 だから眠れない。 心だけが、さっきからずっとくねくねしている。
仕方がないので、僕は布団からゆっくり這い出した。 台所へ行き、お湯を沸かす。 コップにココアの粉を入れて、沸いたお湯で溶かす。 そこへ牛乳を入れて、最後に電子レンジへ。 チン。 温かくなったココアを持って、僕はソファに座った。 もちろん現代っ子らしく、右手にはスマートフォン。 Twitterを開く。
……いや、Xだった。 いつの間にか名前が変わったんだった。 そんなことを考えながらタイムラインを眺めていると、一つの投稿が目に入った。
『犬派? 猫派?』
またか。 最近、この質問をよく見る気がする。 やっぱり、人類にとって犬派か猫派かというのは、永遠の議題なのかもしれない。
僕は少しだけ考えてから、猫を選んだ。 もともと、どちらかといえば猫派だ。 それに、今日は彼女のことで頭がいっぱいだった。 せめて、これくらいは自分の好きなほうを選んでもいいだろう。 そう思いながらスマートフォンを伏せる。 温くなったココアを一口飲んで、僕はようやく目を閉じた。
次の日がやってきた。今日は金曜日である。今日が終われば、明日と明後日はバイトも休みだ。二日間、思う存分羽を伸ばせる。そんなことを考えながら、僕は大学へ向かっていた。ただ、いつもと少しだけ違うことがあった。
いつもの空き地に、ボス猫がいない。いつもなら、空き地に置かれたベンチの上を我が物顔で占領している。少し黒っぽい茶色の毛色をしているから、僕は勝手に「ごぼう」と呼んでいる。もちろん本人に許可を取ったことはない。そのごぼうが、今日はどこにもいなかった。昨日もいたはずなのに。少しだけ違和感を覚えたものの、猫は猫だ。どこか別の場所で日向ぼっこでもしているのだろう。そう考えて、僕はそのまま大学へ向かった。
今日はイヤホンを忘れてしまった。そのせいか、いつもなら気にも留めない住宅街の音が妙に大きく聞こえる。車の音、遠くから聞こえる話し声。そして、どこかの家から聞こえてくる犬の鳴き声。「わん、わん」。そういえば、こんなに犬の声を近くで聞いたのは久しぶりな気がした。
そんなことを考えながら授業を受けていると、授業終わりに彼女から呼び出された。昨日の告白の返事だった。
「付き合おう」
その一言を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。嬉しい。それ以外の言葉が出てこなかった。
昨日まで「彼女」と呼んでいた人が、この瞬間から僕の恋人になった。いや、正確には、呼び方なんて何も変わっていない。ただ、僕の中で彼女という言葉の意味が変わったのだ。
その日の帰りは、彼女と駅まで一緒に歩いた。駅に着いて、彼女が電車に乗るのを見届ける。
「また明日ね」
「うん。また明日」
電車が見えなくなるまで見送ってから、僕は一人で家へ向かった。足取りは軽かった。柄にもなくスキップでもしてしまいそうだったが、誰かに見られたら恥ずかしいのでやめておいた。ただ、歩いているだけなのに、世界が少しだけ明るく見えた。
そして、昨日までなら何とも思わなかった帰り道の空き地が目に入った。ベンチの上には、ごぼうがいた。いつものように、何事もなかったかのように丸くなって、ゆったりとくつろいでいる。
「なんだ、いるじゃん」
僕は小さく笑った。ごぼうは僕のほうを一度だけ見た。それから、何事もなかったように目を閉じた。
彼女と付き合ってからは、日々がいつも以上に一瞬で過ぎていった。
自分の周りのことにまで気が回らなくなるくらいには、毎日が忙しくなっていた。とはいっても、テストや授業が忙しいわけではない。彼女と毎日話して、家に着いてからも、帰り道もずっと電話をして、一緒にゲームなんかもしちゃったりして、つまり彼女が中心の生活になっていったのだ。
一緒にマクドナルドへ行ったりもした。ポテトを頼みすぎて二人ともお腹いっぱいになったあとも、ポテトが残っている限りは店を出ずに、どうでもいい話をずっとしていた。彼女の愚痴を聞くことも多かったけれど、それすら愛おしくて、いつまでも聞いていたいと思えるほど幸せだった。 そんな幸せが態度に出ていたのか、バイト先でも「彼女できた?」なんて先輩からからかわれたりした。
そんな日々の裏側で、猫を見かける回数は少しずつ減っていた。 野良猫自体、ほとんど見なくなった。ごぼう以外の猫に関しては、もう一ヶ月ほど見ていない。ごぼうについても、ここ最近では四日に一度見かければラッキーと言えるくらいまで、その姿を見ることが減っていた。 それでも僕は、特に気にしていなかった。 猫なんて、どこか別の場所へ移動することもある。そういうものだと思っていた。
そんなある日、彼女と一緒に散歩をしていると、いつもの空き地の前を通りかかった。 すると彼女が突然、僕の手を引いた。
その先にいたのは、ごぼうだった。 「この猫、いつもここにいるんだよ」 「へえ、かわいい」 「ごぼうって呼んでる」 「なんで?」 「色がごぼうっぽいから」
彼女が笑う。 それにつられて、僕も笑った。 こんなふうに笑っている彼女の顔を見せてくれたごぼうには、感謝しなきゃね。
そんな僕が、彼女に、そしてこの社会に本格的な違和感を覚えたのは、彼女とのデートでのことだった。映画デートで、観た映画は感動ものだった。恋人同士がお互いに好きなまま家庭の事情で別れることになり、10年後に約束の場所で再会するという話だった。彼女が観たいと言い出したから着いてきた映画だったはずなのだが、気がつけば彼女よりもずっとずっと泣いている僕がいて、恥ずかしいことこの上なかった。そんな僕を見かねてなのか、昼ご飯を食べる前にペットショップに寄ろうと彼女が言い出した。その提案の合理性については置いておくとして、彼女なりに僕を元気づけようとしてくれているのが分かって、その優しさに心が触れ、僕の胸は少しだけ暖かくなっていた。けれど、ペットショップに入った瞬間、僕は明らかな違和感に気がついた。
そう、猫がいないのである。
「猫が一匹も見当たらないね」
僕がそう言うと、彼女は少しも不思議そうな顔をせずに、
「猫、見なくなったよね」
と返してきた。そして続けざまに、
「まあ、犬がいるからいいんじゃない?」
なんて口にした。
その言葉に、僕は少しだけ引っかかった。
「どういう意味?」
「え?」
「いや、なんでもない」
彼女の顔を見ながら、僕はそれ以上何も聞けなかった。さっきの言葉がどういう意味だったのか。なぜ彼女は、猫がいなくなったことを知っているのか。そして、なぜ「犬がいるからいい」と言ったのか。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
それでも僕は、その疑問を彼女にぶつけることができなかった。せっかく付き合えたばかりなのだ。こんなことで変に思われたくない。嫌われたくない。
だから僕は、できる限り何も気にしていないふりをして、いつも通り彼女と話した。
頭の中では、彼女の言葉の意味をずっと考え続けながら。
そしてそのまま、僕は何事もなかったかのようにデートを終えた。
そんな幸せを、そして違和感を抱えて生活を送る中で、違和感はゆっくりと、しかし確実に確信へと変わっていった。大学へ向かう中で野良猫はおろか、ごぼうですら見かけなくなって一ヶ月以上が過ぎていった。彼女とのLINEも電話も慣れが出てきたのか、相手から送られてくること、話題が提供されることは無くなっていった。しかし、そんな中でもやはり彼女を愛していた僕は、ひたすらにLINEを送り、話題を提供し続けた。
そんな日常の中でも、友人にずっと見てきたボス猫のごぼうが居なくなったとふと愚痴をこぼすと、
「やっぱり猫見かけないよね」
と友人は答えた。そして彼女と同様に、
「まぁ犬がいるんだし別によくね?」
と続けざまに飛んでくる。
何がいいのか、全く分からないままである。
Xでの投稿からも猫派は居なくなり、以前は「犬派? 猫派?」だった投稿が、今度は、
「犬好きな人集合!」
「犬を飼っていてよかったこと」
「やっぱり犬って最高」
みたいな投稿ばかりになっている。
そしてある日、大学の授業で教授が何気なく、
「皆さんは犬と猫、どちらが好きですか?」
と聞いた。
その瞬間、僕の背筋に少し寒気が走った。
また、この質問だ。
周囲を見渡す。
「犬」 「犬かな」 「俺も犬」 「やっぱ犬でしょ」
次々とそんな声が聞こえてくる。
以前なら、何人かは「猫」と答えていたはずだ。
でも、今日は違った。
教室のほとんど全員が、当然のように犬を選んでいる。
僕だけが、猫と答えた。
教授も、友人も、周りの学生も全員が猫派のぼくを不思議そうな目で見てきた。
まるで最初から、猫派なんて存在しなかったかのように。
僕にとって、ただの野良猫ではなく、大学生活が始まってからずっと見てきたごぼう。彼女と一緒に笑ったきっかけを作ってくれたごぼう。見かけない日が続くと、寂しさを感じるごぼう。
だから、僕はごぼうを探す。
空き地。道路沿い。近くの住宅街。
でも、どこにもいない。
そこで僕は彼女に、
「ごぼう、最近見ないんだよね」
と言う。
彼女は少し考えて、
「……ごぼう?」
「ほら、空き地にいた猫」
「ああ……」
そして、
「猫って、もうあんまりいないしね」
そんな彼女の一言を聞き、それでも尚、彼女との関係を壊すのが怖い僕は、
「そうだね」
としか言い返せなかった。
けれども、もしも僕が犬派になってしまったら。猫がいないからと割り切ってしまったら。本当に猫がいなくなるような気がした。
そして「結婚したら犬飼いたいね。大きい犬がいい。ハスキーくらいの」
彼女は笑いながら、そんなことを言った。
僕もいつものように笑って、「いいね」と返そうとした。
けれど、言えなかった。
「犬飼おう」
その一言が、どうしても出てこなかった。
彼女に犬を飼いたくないと言いたいわけではない。ハスキーが嫌いなわけでもない。
ただ、今の僕には、その言葉がただの将来の約束には思えなかった。
「どうしたの?」
彼女は、言葉に詰まった僕を不思議そうに見つめながら聞いてきた。
「いや……猫って、どうなるんだろうって」
「……猫?」
「猫って、まだいるの?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
その反応を見て、僕はスマホを取り出した。
写真を開く。
彼女と撮った写真。一緒に行った水族館。遊園地。植物園。マクドナルドで撮った何気ない写真。
どれも、確かに僕たちの思い出だった。
そして、その中に一枚の写真があった。
僕と彼女と、ごぼう。
彼女が僕の手を引いて、ごぼうのところまで連れていってくれた日。二人でしゃがんで、ごぼうを真ん中にして撮った写真。
僕は、その写真を見た。
そして、息を止めた。
ごぼうがいない。
僕と彼女だけが写っている。
「……え?」
何度見ても同じだった。
ごぼうがいたはずの場所には、空き地とベンチしかない。
そんなはずがない。
確かにいた。
彼女が笑っていた。僕も笑っていた。ごぼうは僕たちの間にいた。
なのに、その記録だけが綺麗に消えている。
僕は他の写真も確認した。
猫の置物が写っていたはずの写真には、何もない。
猫の看板があったはずの場所からは、看板そのものが消えている。
猫のイラストが描かれていた店の壁も、何の変哲もない壁になっている。
僕の手が震え始めた。
猫がいなくなっているんじゃない。
僕は、ようやく気がついた。
猫そのものだけじゃない。
猫に関する記憶も、記録も、痕跡も。
世界から、猫という存在に関係するものが消されている。
それでも、僕だけは覚えていた。
ごぼうを。
猫を。
僕たちが一緒に笑った時間を。
それから三日三晩、僕はごぼうを探した。
大学にも行かなかった。
バイトも無断で休んだ。
何度も空き地へ行き、道路沿いを歩き、近所の住宅街を探し回った。
名前を呼んでも返事はない。
「ごぼう」
「ごぼう、どこにいるんだよ」
何度呼んでも、返ってくるのは自分の声だけだった。
そして、三日目の夜。
僕はようやく、空き地のベンチを見つけた。
昔と何も変わらない。
あのベンチ。
そして、その上に。
いた。
「……ごぼう?」
黒っぽい茶色の毛。
見慣れた顔。
間違えるはずがない。
ごぼうは、そこにいた。
僕が近づくと、ごぼうはこちらを見た。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
その首元に、何かが見えた。
首輪。
僕は足を止めた。
野良猫だったごぼうに、首輪なんて付いているはずがない。
恐る恐る近づき、首輪を見る。
そこには、文字が書かれていた。
消えかけていて、今にも読めなくなりそうな文字。
それでも、僕には読めた。
僕の名前だった。
「……なんで」
僕は、ごぼうを抱き上げた。
ごぼうは抵抗しなかった。
温かかった。
ちゃんと生きていた。
僕はそのまま、ごぼうを抱えて家へ帰った。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はなかった。
「母さん?」
返事はない。
家の中は、妙に静かだった。
誰もいない。
僕はごぼうを抱いたまま、家中を探した。
父もいない。
母もいない。
誰もいない。
窓から外を見る。
近所の家にも明かりがついていなかった。
いつもなら見えるはずの明かりが、どこにもない。
町全体が、眠っているというより。
消えていた。
それでも僕は、ごぼうを抱きしめた。
猫だけは覚えている。
僕だけは、猫を覚えている。
僕はスマホを取り出した。
Xを開く。
何を書けばいいのか分からなかった。
けれど、今の僕にできることは、それくらいしかなかった。
僕は文字を打った。
『猫派』
それだけを投稿した。
誰かに届くのかも分からない。
そもそも、誰かがこの投稿を見るのかすら分からない。
それでも、僕は猫を覚えていたかった。
猫を大切にしたかった。
ごぼうを、忘れたくなかった。
その夜、僕はごぼうを抱いたまま眠った。
そして翌朝。
「マーオ」
猫の鳴き声で目が覚めた。
僕は飛び起きた。
「ごぼう?」
隣を見る。
いない。
布団の中にもいない。
ベッドの下にもいない。
部屋中を探した。
「ごぼう?」
返事はない。
僕は家中を走り回った。
どこにもいない。
昨日、確かに連れて帰った。
確かにここで一緒に寝た。
なのに、どこにもいない。
僕は玄関を飛び出した。
そこで、足が止まった。
「……え?」
空き地に、猫がいた。
一匹じゃない。
二匹。
三匹。
十匹。
数え切れないほどの猫が、そこら中にいる。
道路にも。
屋根の上にも。
ベンチの上にも。
昨日まで存在しなかったはずの猫が、当たり前のように街中にいた。
そして、その中に。
ごぼうがいた。
いつものベンチの上で、こちらを見ている。
僕は安心した。
けれど、その瞬間。
何かがおかしいことに気がついた。
人がいない。
誰もいない。
近所にも。
道路にも。
大学にも。
僕の家にも。
彼女もいない。
友人もいない。
家族もいない。
世界中から人間だけが、消えている。
僕は、ごぼうを見つめた。
ごぼうは何も知らないように、ただ僕を見ていた。
そして僕は、ようやく理解した。
猫が消えたんじゃない。
猫を選んだ僕が消えたんだと。
そこからはひたすら人を探した。しかしどれだけ探そうとも、人っ子一人もおらず日に日に一人で生きていく恐怖にかられた。その中でずっと猫派か犬派かのどちらかを考え続け、次第に最初に誰がこの質問をしたのかへと変わっていった。
しかし自分がこの質問を初めて聞いた日の記憶が存在しない。
友人に聞かれた。
彼女に聞かれた。
SNSで見た。
教授にも聞かれた。
なのに、
最初に誰がこの質問をしたのかだけが、分からない。
そして主人公のスマホを調べると、一番古い「犬派?猫派?」の検索履歴を見つけた。
日付は、大学に入学するより前。
しかも、その検索履歴には自分で入力した覚えのない文章が残っている。
「犬か猫か、どちらか一方しか残せないとしたら?」
犬派を選べば、ごぼうも、猫も、それから猫を選んだ僕も、みんなの記憶から消えてしまう。けれども、もし猫を選べば。僕はみんなの前から消えてしまう。
根拠なんてない。証拠だってない。それでも僕には、確かにそうなるのだという確信があった。
だから僕は選んだ。
大切な彼女、家族、友人。その全てを失ってでも、僕だけが覚えている猫を守ることを。
少なくとも、猫は残る。
僕が忘れなかったから。
だから、お願いがある。
どうか、犬と猫を忘れないでほしい。
どちらか一方を選んだとしても。
選ばなかったほうが、最初から存在しなかったことにならないように。
そして。
もし、あなたの隣にいる誰かが、いつの間にかいなくなっていたとしても。
その人が本当に、最初から存在しなかったのか。
ほんの少しだけ、考えてほしい。
僕は、もう誰にも思い出してもらえない。
それでもごぼうがいる。
猫がいる。
だから僕は、それでいい。
ただ一つだけ。
僕のことも、忘れないでほしい。
あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この作品を書こうと思ったきっかけは、川村元気さんの『世界から猫が消えたなら』でした。
「もし世界から何か一つが消えたら」という発想から着想を得て、そこから「もし犬か猫、どちらか一方しか残せないとしたら?」という問いを考え、この物語を作りました。
ただ、本作ではそこから設定や登場人物、物語の展開を自分なりに考え、「選ぶ」という行為そのものが持つ残酷さや、大切なものを守るために何を犠牲にするのか、というテーマを描こうとしました。
もしこの物語を読んで、犬と猫のどちらが好きかを聞かれたときに、ほんの少しだけ考える時間が増えたなら、作者として嬉しく思います。
改めて、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
【着想を得た作品】
川村元気『世界から猫が消えたなら』
実際にはそんなことは起こらないでしょうし気軽に他の人に聞いたり答えたりしてくださいね
ちなみに作者は断然犬派です
でかければでかいほどいいです




