「わたしに近づかないで、破滅するから」——それ、こっちのセリフなんですけど 〜破滅回避に必死な悪役令嬢の素顔を、婚約者の王子だけは見ていた〜
◆一 避け合うふたり
ヴァルハイン王立魔法学園の中庭を、公爵令嬢コーデリア・アルテンベルクは、完璧な微笑みで歩いていた。
背すじはまっすぐ、あごは水平、歩幅は淑女の教本のとおり。すれ違う下級生には、非の打ちどころのない会釈を返す。誰の目にも、この令嬢は氷のように高潔で、花のようにたおやかだった。——その微笑みの内側で、中身がひたすら頭を抱えていることなど、誰も知らない。
(あと十一か月。十一か月、生き延びればいいのよ)
コーデリアには、前の世の記憶があった。彼女は日本という国で、『銀月の誓い』という乙女ゲームを、それこそ寝食を忘れてやり込んだ女子学生だった。そして、この世界は——建物の造りも、行事の名も、登場する人の顔ぶれも——その『銀月の誓い』と、そっくりだった。
問題は、その物語の中で「コーデリア・アルテンベルク」が、どういう役どころか、である。
悪役令嬢。それも、最悪の。ヒロインをいじめ抜いたあげく、学年末の「双月夜会」で、婚約者の第二王子から婚約破棄を突きつけられ、身分を剥がされて修道院へ送られる。断罪される女。それが「コーデリア」の運命だった。
だから彼女は、入学以来ずっと、「いい人」を演じ続けている。誰もいじめない。角を立てない。ヒロインに近づかない。破滅の脚本を、一行たりともなぞらないために。おかげで学園中から「氷の公爵令嬢」「完璧なアルテンベルク様」と呼ばれ、慕われもし、遠巻きにされもしていた。
(ほんとうは、こんな肩の凝る令嬢語、一日でやめたいんだけどね)
完璧に微笑んだまま、コーデリアは心の中で盛大にため息をついた。前の世では、休みの日にお菓子を食べながらゲームの画面を眺めているだけの、ごく普通の学生だったのだ。淑女の作法など、転生してから死ぬ思いで詰め込んだ、付け焼き刃にすぎない。
その、破滅の脚本の鍵を握る人物が——ヒロイン、エマ・リンド男爵令嬢が、回廊の向こうから歩いてくるのが見えた。
コーデリアの背が、こおりついた。
(来た。ヒロイン。近づいたら、破滅イベントが始動する。回避、回避——)
コーデリアは、氷の令嬢の仮面をかなぐり捨てる寸前の速さで、回れ右をした。淑女にあるまじき急旋回。そのまま、来た道を早足で引き返す。
「——アルテンベルク公爵令嬢」
行く手に、堅い声が立ちふさがった。眼鏡の奥から、鋭い目がこちらを見ている。風紀委員長のヘルミーナだった。腕に規律の帯を巻き、いつも姿勢を正して校内を見回っている、生真面目を絵に描いたような上級生だ。
「回廊を走るのは、校則違反です。それに、あなた、この一週間で三度、リンド男爵令嬢を見かけるたびに進路を変えている。わたくしの目は、ごまかせません。……何か、諍いでも?」
「まあ、ヘルミーナさま。ごきげんよう」コーデリアは一瞬で完璧な微笑みに戻った。「諍いだなんて、とんでもない。わたくし、少し、考えごとをしていて。急に、忘れ物を思い出しましたの」
(この人、鋭すぎる。厄介なのに目をつけられた)
「……であればいいのですが」ヘルミーナは眼鏡を押し上げた。「規律は、学園の平穏を守るためにあります。妙な波風は、わたくしが許しません。よろしいですね」
ヘルミーナが去っても、コーデリアの胃は痛いままだった。回廊の壁際に、転入生の姿がちらりと見えた。クラウスとかいう、帝国から来た物静かな少年だ。彼はどの行事でも、いつもこうして壁ぎわに立ち、学園の柱や天井を、まるで図面でも引くような目でじっと眺めている。変わった子。——けれど今のコーデリアには、そんなことを気にする余裕はなかった。頭の中は、破滅の日付でいっぱいだったから。
婚約者の第二王子レオンハルトが、中庭の噴水のそばに立っていた。長身で、寡黙で、恋の機微には絶望的に疎いと評判の朴念仁。けれど、人を見る目だけは確かだと、なぜか誰もが認める青年だ。コーデリアが会釈すると、レオンハルトはこちらをじっと見て、ぽつりと言った。
「君は、時々、別人のような顔をする。……さっきの、走っていた顔のほうが、俺は好きだが」
「……何のことでしょう。わたくし、いつもこのとおりですわ」
完璧な微笑みで受け流しながら、コーデリアは冷や汗をかいた。この人だけは、油断ならない。
——さて。ここで、視点を変えねばなるまい。
なぜなら、回廊の向こうで回れ右をされた側、ヒロインのエマ・リンドもまた、まったく同じ理由で、青ざめていたのだから。
エマ・リンドは、男爵令嬢である。地味な栗色の髪を、いつも目立たないように編んでいる、控えめな少女だ。そして彼女もまた——前の世の記憶を持つ、転生者だった。
ただし、エマがやり込んだ乙女ゲームは、『銀月の誓い』ではない。『紅月の恋歌』という、別の作品だった。
そして『紅月の恋歌』の中で、「エマ・リンド」が演じる役どころは——ヒロインでは、断じてない。
悪女。男爵家の分際で王子や貴公子を次々にたぶらかし、のし上がり、最後には欲に溺れて破滅する、成り上がりの毒婦。それが『紅月の恋歌』の「エマ」だった。
(わたしは、破滅する側なの。ヒロインなんかじゃ、絶対にない)
だからエマは、入学以来ずっと、息をひそめて生きている。目立たない。男子に近づかない。そして何より——悪女ルートの引き金になる、あの人にだけは、絶対に近づかない。
その、引き金の人物こそ。回廊の向こうで、たったいま、猛烈な速さで回れ右をした、あの人だった。
「……コーデリア様」
エマは、柱の陰でへたりこみそうになった。『紅月の恋歌』では、コーデリア・アルテンベルクは「攻略対象の姉のような、心優しい味方キャラ」として登場する。悪女エマがその優しいコーデリアに近づいて、その信頼を裏切ることが、破滅への第一歩なのだ。
(近づいたら、だめ。あの完璧な笑顔に気に入られたら、破滅ルート一直線だもん。避けなきゃ、避けなきゃ)
こうして、二人の令嬢は。
破滅を回避するというまったく同じ目的のために、互いを死神のように恐れ、来る日も来る日も、必死で避け合っていた。片方は「悪役令嬢」として、片方は「悪女」として。——自分こそが破滅する側だと、固く信じ込んで。
中庭で、二人の視線が、一瞬だけ交わった。
次の瞬間、二人は、寸分たがわず同時に、勢いよく回れ右をした。
運命が、二人を同じ場所へ追い込んだのは、その夜のことだった。
夜半、コーデリアは、忘れ物をした温室へ、こっそり戻った。ちょうど同じころ、エマもまた、押し花の道具を取りに、同じ温室へ忍んでいた。薄暗い硝子張りの温室の中、鉢植えの陰で——二人は、真正面から、鉢合わせた。
「「あっ」」
声が、重なった。逃げようとした二人が、同時に扉へ走る。だが、扉は開かなかった。かちり、と、外から錠のかかる音。誰かが、この温室に、鍵をかけたのだ。閉じ込められた。二人きりで。よりにもよって、いちばん避けたい相手と。
真っ暗な温室に、二つの悲鳴じみた声が、ぴたりと重なって響いた。
「原作と、違う……!」
◆二 攻略本の突き合わせ
沈黙が落ちた。
月あかりの差し込む温室で、コーデリアとエマは、硬直したまま見つめ合っていた。いま、確かに聞こえた。この娘、たったいま「原作」と言わなかったか。
「……いま」コーデリアは、令嬢語も忘れて、思わず素の声を出した。「あなた、原作って、言った?」
「え」エマの肩が跳ねた。「い、言ってな……いや、言った、けど、それは、その、」
崩れると早口になる。エマの敬語が、みるみる剥がれていく。
「あなたこそ、いま原作って言いましたよね!? 原作って何の原作ですか、公爵令嬢が原作なんて言葉、知ってるわけ、っていうか、まさか、」
「まさか、あなたも」
「まさか、あなたも」
二人の声が、また重なった。
そこからは、堰を切ったようだった。月光の下、鉢植えを挟んで、二人の転生者は、猛烈な勢いで種明かしを始めた。前の世の記憶。日本という国。やり込んだ、乙女ゲーム。——ここまでは、ぴたりと一致した。互いに、相手も同じ世界から来たのだと知って、目に涙すら浮かべた。こんな心細い秘密を分かち合える相手が、この世にいたなんて。
ところが。
「わたくしがやったのは、『銀月の誓い』。わたくしコーデリアは、そこでヒロインのあなたをいじめ抜いて、双月夜会で断罪される悪役令嬢よ。だからずっと、ヒロインのあなたを避けて——」
「待って、待ってください」エマが両手を突き出した。「ヒロイン? わたしが? ちがう、ちがいます。わたしがやったのは『紅月の恋歌』。わたしエマは、そこで男を次々たぶらかして破滅する悪女で、コーデリア様は——あなたは、優しい味方キャラで。だから、あなたに気に入られたら破滅すると思って、ずっと避けて——」
二人は、口をぽかんと開けて、固まった。
「……ちょっと待って」コーデリアが、こめかみを押さえた。「わたくしが悪役令嬢で、あなたがヒロイン?」
「わたしが悪女で、コーデリア様が味方キャラ?」
「食い違ってる……!」
温室に、間の抜けた沈黙が満ちた。同じ学園。同じ顔ぶれ。同じ双月夜会。それなのに、二人の知る「物語」は、根っこから食い違っていた。片方の攻略本では、コーデリアが悪でエマが善。もう片方の攻略本では、エマが悪でコーデリアが善。二冊の攻略本は、まるで、同じ景色を別々の窓からのぞいたように、まったく違う絵を描いていた。
その食い違いが、コーデリアの中で、ゆっくりと、一つの答えに結晶していった。
「……そうか。そういうことなの」コーデリアは、月を見上げた。「どっちも、正しくないのよ。『銀月の誓い』も、『紅月の恋歌』も。どっちの物語も、この学園の、ほんの一面を切り取って、都合よく並べ替えた、よそのお話にすぎなかった。わたくしたちは、その、よそのお話の脚本におびえて、一年間も、本当の自分を隠して、避け合っていたのよ」
「よその、お話……」エマが、ぽつりと繰り返した。「じゃあ、わたし、悪女に、ならなくても」
「ならないわ。だってあなた、悪女どころか、押し花の道具を取りに夜中の温室に来て、閉じ込められて泣きそうになってる、ただの気の弱い子じゃない」
「う……そ、それを言うなら、コーデリア様だって、氷の令嬢のふりして、中身は令嬢語を面倒くさがってる、その辺の女の子じゃないですか」
「バレてた!?」
二人は、顔を見合わせて——それから、どちらからともなく、噴き出した。月あかりの温室で、こらえきれずに、腹を抱えて笑った。一年間、はりつめていた糸が、ぷつりと切れる音がした。悪役令嬢でも、悪女でもない。ただの、前の世を同じくする、二人の女の子が、そこにいた。
「ねえ、エマ」笑いの発作が収まると、コーデリアは手を差し出した。令嬢語ではない、素の声で。「同盟を組まない? 破滅回避同盟。あなたの破滅も、わたしの破滅も、二人で全部、空振りにしてやるの。——ついでに、友達に、なってくれない? わたし、この世界で、本当の友達っていうの、一人もいないのよ」
「……わたしも」エマは、おずおずと、その手を握った。目のふちが、赤くなっていた。「わたしも、ずっと、友達、ほしかった」
施錠は、明け方、見回りに来た用務員が解いてくれた。二人は並んで温室を出た。もう、避け合わなかった。
破滅回避同盟の初仕事は、互いの「破滅イベント」の検証だった。放課後、空き教室に額を寄せ合い、二人は自分の知る攻略本のイベントを、片端から確かめていった。エマが書き留めに使う羽根ペンには、小さな札が結んである。学園の購買で見つけた品で、遠い運河の国の古物店から流れてきたのだという。札には、そのペンが歩んできた物語が短く記してあった。値札の裏に物語を添えて売る、変わった店があるらしい。コーデリアは、その札の文字を、ふしぎと嫌いではなかった。
「『銀月の誓い』だと、今ごろ中庭の噴水で、レオンハルト様がヒロインを助ける『運命の出会い』が起きるはずなの。でも、レオンハルト様ったら、噴水になんか一度も来てなくて、いつも図書室で兵法書を読んでるのよ」
「『紅月の恋歌』だと、わたしが今ごろ、剣術大会で優勝する先輩に見初められてるはずなんですけど……その先輩、実在すらしてなくて」
「攻略対象が、イベントに来ない。いるはずの脇役が、いない。……ほら。やっぱり、どっちの攻略本も、この世界とは、ちょっとずつズレてるのよ」
ズレを一つ確かめるたびに、二人は、ほっと胸をなでおろした。破滅は、脚本どおりには来ない。避けなくていい。演じなくていい。——けれど、そのズレの一覧を眺めているうちに、コーデリアの胸に、別の、小さな違和感が芽生えていた。
自分の攻略本にも、エマの攻略本にも、載っていた人物は、たくさんいる。レオンハルト。ヘルミーナ。級友たち。みんな、どちらかの物語には、必ず顔を出す。それなのに——
「ねえ、エマ」コーデリアは、ふと顔を上げた。「クラウス様って、あなたのゲームに、出てくる?」
エマは、しばらく記憶をたどって、首を横に振った。
「……出てこない。あなたのには?」
「出てこない」
◆三 原作にいない男
原作に、いない男。
その一点が、コーデリアの背を、冷たくなででた。二つの攻略本は食い違う。けれど、二つの攻略本を重ね合わせれば、この学園の人物は、たいてい、どちらかには載っている。それなのに、あの帝国から来た転入生クラウスだけは、どちらの物語にも、影も形もない。
攻略本の載っていない相手。それはつまり、二人の「未来を知る力」が、まったく通じない相手だということだった。
「……知らない相手が、いちばん怖い」コーデリアはつぶやいた。「わたくしたち、探ってみましょう。あの人が、何者なのか」
二人は、クラウスの尾行を始めた。悪役令嬢と悪女が手を組んだ諜報である。とはいえ、やることは柱の陰からのぞき見と、聞き耳と、持ち前の令嬢の観察眼だ。そして、じきに気づいた。クラウスは、行事のたびに壁ぎわに立ち、いつも学園の同じ場所を、図面を引くような目で眺めている。中央棟の、地下へ続く扉のあたりを。
その扉の奥にあるものを、コーデリアは知っていた。『銀月の誓い』の背景設定に、一行だけ書いてあった。——学園の中央棟の地下には、建国のころに敷かれた、古い防護の魔法陣がある。ヴァルハインの守りの要だ、と。
ある夜、二人は、地下扉の前で、それを見た。クラウスが、周囲をうかがいながら、扉の錠を、慣れた手つきで外している。手には、うすい写し取りの紙。彼は、地下の魔法陣を、そっくり写し取ろうとしていた。
クラウスが、ふと動きを止め、暗がりのこちらへ、静かに顔を向けた。
「……見られていたか」
その声は、少年のものにしては、あまりに乾いていた。
「帝国が、この学園の防護の要を欲しがっている。休戦とはいえ、外の壁のことは、いつ役に立つか分からんからな。俺は、それを写しに来た。ただの、使いだ」クラウスは、うっすらと笑った。その笑みには、温度がなかった。「驚かないんだな。……いいさ。俺は、そういうふうに育てられた。帝国では、子どもは名前でなく、使い道で呼ばれる。俺は『使える駒』だった。それ以上でも、以下でもない。誰かの物語の、主役になったことなど、一度もない」
その一言だけ、クラウスの乾いた声が、わずかに湿った。コーデリアは、その湿りを、聞き逃さなかった。この子も、脚本を押しつけられて生きてきた側だ。自分たちと、同じように。
だが、感傷に浸っている場合ではなかった。写しが帝国へ渡れば、それは「小競り合い」では済まないかもしれない。二人は、その場を辛くも逃げのびると、対策を練った。
「相手の未来が読めない以上、こっちの手は、二つのゲーム知識の『確かなところ』だけよ」空き教室で、コーデリアは学園の見取り図を広げた。「攻略本は食い違う。でも、不思議なことに、学園の造りだけは、二つの物語で、寸分たがわず一致してるの。廊下の長さも、扉の位置も、夜会の会場の動線も。物語の筋書きは食い違っても、舞台の図面は、同じなのよ」
「じゃあ、それを地図にすれば」エマの目が輝いた。「クラウス様が、次にどこを通るか、先回りできる」
「そういうこと。彼が地下から写しを持ち出すなら、通り道は限られる。——問題は、わたくしたちだけじゃ、あの人を止められないってことね」
二人は、意を決して、第二王子レオンハルトに相談を持ちかけた。ただし、転生のことも、攻略本のことも、口にはできない。コーデリアは言葉を選んだ。
「レオンハルト様。信じていただけないかもしれませんが……わたくしには、この先の出来事が、ぼんやりと視えることがあるのです。加護の、ようなもので。クラウス様が、学園の防護魔法陣を、帝国へ写し出そうとしています。双月夜会の、前夜に」
レオンハルトは、長いあいだ、コーデリアの顔を見つめた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「未来視の加護、か。……なるほど。道理で、君は時々、別人のような顔をするわけだ。先の見える者は、いつも今と未来の二つを生きている。孤独だったろう」
(ぜんぜん違うけど! でも、そういうことにしといたほうが、話が早い!)
「え、ええ。まあ、そんなところですわ」コーデリアは完璧な微笑みで押し切った。
「あの転入生は、俺も気になっていた」レオンハルトは腕を組んだ。「悪い男だとは言わん。だが、あいつの目は、いつも人ではなく、建物を見ている。人の輪の中にいて、一度も、その輪に入ろうとしない目だ。……ああいう目をした者を、俺は放っておけない。剣は、俺が持とう」
人を見る目だけは確か、という評判は、本当だった。婚約者のこういうところは、悪くない。コーデリアは、少しだけ、そう思った。
双月夜会の、前夜。
二つの月が、空に並びかけていた。大きな銀月と、小さな紅月。明日の夜、その二つが最も近づくとき、学園は一年でいちばん華やかな夜会を迎える。——そして今夜、その裏で、静かな攻防が始まろうとしていた。
地図のとおりだった。写しを懐に、クラウスは、中央棟の裏手の回廊を、音もなく抜けようとしていた。その先の角で、コーデリアとエマが待ち構えている。だが。
「——そこで、止まりなさい」
二人の行く手を、先にふさいだのは、別の人物だった。風紀委員長のヘルミーナ。眼鏡の奥の目が、鋭く二人を射ていた。
「アルテンベルク公爵令嬢。リンド男爵令嬢。夜間の校舎侵入は、重大な校則違反です。近ごろのあなたたちの奇行、ずっと見ていました。尾行、密談、深夜の徘徊。……わたくしは、規律を預かる者として、あなたたちを、ここで止めなければならない」
「ヘルミーナさま、違うのです、いまは——」
「言い訳は、聞きません」
正しいのは、ヘルミーナのほうだった。証拠は、何もない。あるのは、二人の「未来が視える」という、荒唐無稽な言い分だけ。この生真面目な委員長を説き伏せる言葉を、コーデリアは持っていなかった。その一分の足踏みのあいだに、クラウスの影が、回廊の闇へ溶けていく。
ここでコーデリアは、気づいてしまった。——いま、大声を上げればいい。「侵入者よ、帝国の間者よ」と叫べば、学園は大騒ぎになる。夜会は中止だ。そして夜会が中止になれば、『銀月の誓い』の断罪の舞台そのものが、消える。彼女は、完全に、安全になる。破滅の日付は、来なくなる。
それは、いちばん楽な道だった。自分の破滅だけを、こっそり回避する道。
でも、と、コーデリアは思った。夜会がなくなれば、みんなの一年が、消える。エマが初めて着るドレスも。級友たちが半年前から楽しみにしている、あの華やかな夜も。——脚本を気にせず、みんなと一緒に、笑いたかった。その願いを、自分の安全のために、握りつぶすのか。
握りつぶさない。コーデリアは、決めた。夜会は、守る。危険でも、この場で、未遂のまま、止める。
「ヘルミーナさま」コーデリアは、氷の令嬢の仮面を、脱いだ。素の、まっすぐな目で、委員長を見た。「あなたが正しい。証拠は、ありません。わたくしたちは、規律を破りました。あとで、どんな罰でも受けます。——でも、いまだけ、信じてほしいの。あの角を曲がった転入生は、学園の守りを、盗み出そうとしている。あなたが守りたい『学園の平穏』を、いちばん壊そうとしているのは、わたくしたちじゃない。あの子よ」
「彼女の言うとおりだ、ヘルミーナ嬢」
回廊の柱の陰から、レオンハルトが進み出た。抜き身の剣を提げている。
「俺が保証する。あの転入生の目を、俺はずっと見てきた。あれは、盗む者の目だ。——君の規律は正しい。だが、いまだけ、俺に賭けてくれ」
第二王子の言葉と、その目の確かさが、ヘルミーナの生真面目を、内側から破った。委員長は、唇をかみ、一瞬だけ迷い——それから、鋭くうなずいた。
「……三分だけ、待ちます。三分で証拠が出なければ、全員、わたくしが連行します。行きなさい!」
三人が、闇を駆けた。学園の図面が、頭の中にある。クラウスがどこを抜けるかは、分かっていた。裏門へ続く最後の回廊で、レオンハルトの剣が、月あかりに閃いた。クラウスの足が、止まる。
だが、追い詰められたはずの工作員は、慌てなかった。帝国で駒として育てられた少年は、逃げ道を、はじめから懐に用意していたのだ。剣の切っ先が届くよりも早く、クラウスは、たもとから一握りの粉をつかみ、足もとへ叩きつけた。ぼっ、と白い煙が噴き上がり、狭い回廊を、たちまち塗りつぶす。
「——しまった」
レオンハルトの剣が、煙を裂いて、むなしく空を切った。その白い幕の奥で、クラウスは、すでに身をひるがえしている。裏門の脇に、崩れかけた古い塀があった。彼は、あらかじめ見当をつけていたのだろう、猫のように壁を駆け上がり、塀の上へ、ひらりと立った。
その拍子に、彼の懐から、写しの紙が、はらりとこぼれ落ちた。煙の中を舞い、月あかりの床に、白く落ちる。クラウスは、一瞬、それを目で追った。——拾いに戻れば、捕まる。捨てて逃げれば、身は助かるが、任務はしくじる。
塀の上の少年は、迷わなかった。写しを、あっさりと、捨てた。
「クラウス様!」
気づけば、コーデリアは、呼びかけていた。塀の上のクラウスが、こちらを振り返る。追い詰めた側と、追い詰められた側。憎まれ口の一つも飛んでくる場面だ。けれど、コーデリアの口をついて出たのは、まるで違う言葉だった。
「あなた、駒じゃなくて、主役をやれる顔をしてるもの。誰かの脚本で使われる駒のままで、終わらせるのは、もったいないわ。——次は、自分の脚本でいらっしゃい。あなたが主役の物語を、一度くらい、生きてごらんなさいよ」
クラウスは、目を見開いた。追われている最中だというのに、塀の上で、しばし立ち尽くした。使い道でなく、名前で呼ばれたことのなかった少年が、その夜はじめて、誰かに「主役」と呼ばれた。
それから、彼は、初めて、温度のある顔で、ふっと笑った。塀の上から、こちらへ、ほんの浅く、礼のように頭を下げる。次の瞬間には、その姿は、塀の向こうの闇へ、音もなく吸い込まれて、消えていた。
レオンハルトが塀へ駆け寄ったときには、もう、追うべき影もなかった。第二王子は、剣を鞘に収め、低く息を吐いた。
「……逃げ足だけは、一流だな。この闇だ。追っても、無駄だろう」
ヘルミーナが、床に落ちた写しの紙を、そっと拾い上げた。描かれた魔法陣を見て、顔色を変える。
「……防護魔法陣の、写し。本物です」
証拠は、出た。学園の守りを写し取ろうとした者がいたこと。そして、それを、体を張って食い止めた娘たちがいたこと。荒唐無稽に聞こえた二人の言い分を、この一枚の紙が、まるごと裏づけていた。ヘルミーナは、長いあいだ写しを見つめ、それから、二人に向かって、深々と頭を下げた。
「……疑って、申し訳ありませんでした。学園の平穏を守ったのは、わたくしではなく、あなたがたでした」
写しは、取り戻した。防護の要は、帝国の手には、渡らずにすんだ。——けれど、肝心のクラウスその人は、夜の向こうへ、消えてしまった。
あとに残ったのは、一枚の写しと、正体の知れぬ転入生が一人、双月夜会を前に忽然と姿を消した、という事実だけだった。あの少年が、どこの国の、誰の命で動いていたのか。それを名指しで裏づけるものは、もう、どこにも残っていない。帝国の仕業だと、うわさに口をのぼせることはできても、証拠がなければ、王家とて、表立って帝国を問い詰めることはできなかった。
結局、この一夜の攻防は、学園と王家の手で、そっと伏せられた。守りの魔法陣は、ひそかに引き直された。開戦の火種は、生まれずにすんだ。ただ、名も知れぬ転入生が一人、学園から静かに消えた。——ことの顛末は、それだけの話に、おさまった。
◆四 双月夜会
そして、双月夜会の夜が来た。
断罪の、日付である。『銀月の誓い』で、コーデリア・アルテンベルクが、すべてを失うはずの夜。
大広間は、まばゆい光に満ちていた。金の燭台、絹のドレス、楽団の調べ。窓の外には、大きな銀月と、小さな紅月が、寄り添うように並んで昇っている。コーデリアは、深く息を吸った。破滅の脚本の、いちばんの見せ場。——さあ、何が起きる。
何も、起きなかった。
婚約破棄の口上も、投げつけられる断罪の言葉も、ヒロインをかばう攻略対象も、どこにもない。あるのは、ただ、笑いさざめく級友たちと、あたたかな灯りと、踊りの輪だけだった。
一度だけ、コーデリアの心臓が、跳ねた。広間の中央で、一人の男子生徒が、すっと立ち上がり、グラスを高く掲げたのだ。——来た。断罪。婚約破棄の宣言。コーデリアの息が、止まる。
「みなさま! 一年間の、労をねぎらって——乾杯!」
ただの、乾杯の音頭だった。広間じゅうが、グラスを掲げて笑う。コーデリアは、詰めていた息を、ふうっと吐き出した。止まっていた心臓が、また動きだす。なんだ。ただの、乾杯じゃないの。
断罪は、来ない。もう、来ない。よそのお話の脚本は、この華やかな夜の、どこにも書き込まれてはいなかった。
肩の力が抜けたとき、コーデリアは、初めて、心の底から笑った。作り物ではない、氷でもない、素の笑顔。一年間、誰にも見せなかった、ただの女の子の笑顔だった。
その笑顔に、まわりの級友たちが、はっと目を奪われた。陰で「氷の令嬢」「完璧すぎて近寄りがたい」と噂していた者たちが、いま、その完璧な仮面の下から現れた、あたたかく、ほころんだ顔に、思わず見とれていた。ああ、この人は、こんなふうに笑う人だったのか、と。
人ごみを抜けて、レオンハルトが、コーデリアの前に立った。いつもの朴念仁が、少しだけ、耳を赤くしている。彼は、不器用に、片手を差し出した。
「……その顔だ」レオンハルトは言った。「俺が、いちばん見たかった顔は。作り物でない、君の顔だ。——一曲、頼めるか」
コーデリアは、その手を取った。少し離れた壁ぎわで、エマが、慣れないドレスの裾を気にしながら、こちらを見て、くすくす笑っている。目が合うと、二人は、そっと目配せを交わした。破滅回避同盟の、秘密の合図だ。
踊りの輪に加わりながら、コーデリアは、窓の外を見上げた。大きな銀月と、小さな紅月。前の世で、二つの乙女ゲームの名の由来になった、二つの月。『銀月の誓い』と、『紅月の恋歌』。どちらの物語も、この空の、片方の月しか、映してはいなかった。けれど、ほんとうの空には、二つの月が、こうして並んで浮かんでいる。どちらの脚本にも、書かれていない夜が。
脚本のない夜を、友達と、迎えている。それだけのことが、こんなにも、あたたかい。
わたしは、悪役令嬢に生まれた。エマは、悪女に生まれた。そう、よそのお話には、書いてあった。でも、わたしたちは、その脚本を破り捨てて、避け合うのをやめて、手を取り合うことを選んだ。断罪の夜を、笑い合う夜に、選び直した。
物語の外側で選んだものだけが、ほんとうの自分。
銀月と紅月が、寄り添って夜空に光っている。どちらの月にも属さない一人の女の子が、脚本にない笑顔で、脚本にないステップを踏んでいた。その夜のことは、どの攻略本にも、載っていない。




