55 優等生の焦燥
音がしたほうへ進むと、小さな足が大きな小麦粉の袋の陰に隠れるように縮められた。
「アドリアンくん…!?」
大人が入り込めないような袋と袋の隙間で縮こまっていたのは、アドリアンくんだった。青い目で怯えたようにこっちを見ている。私は安堵でへなへなっと腰が抜けそうになり、震える声で呼びかける。
「大丈夫、サティだよ」
「サティ様…」
「来て。ぎゅっとさせて」
アドリアンくんはずりずりっと三角座りのまま進んでくる。いつもきれいに整えられている茶色の髪は乱れ、小麦粉を被っていた。私はぎゅうっとアドリアンくんを抱きしめて、彼の体温に安心する。
「無事で良かった…」
「叱らないのですか、サティ様。僕は勝手に家を出てきて…いっぱい迷惑をかけて、きっと公爵家は大騒ぎで…」
わかってるなら、今私が叱る必要はない。叱るだけ自己満足ってもんだ。だから私は彼を抱きしめたままで聞く。
「理由があったんでしょ?」
アドリアンくんは何も言わない。彼の目を覗き込むと、彼はちょっと唇を噛んだ。
「…怖くて」
「何が怖いの?」
「僕に価値がないこと。それにみんなが気づくこと」
価値がないだなんて。こんな小さな子が、可能性に満ち溢れた子が、自分に価値がないと思うだなんて。一体どうなってるの。
でも今、否定はできない。「王太子の養育係」である私が否定したら、この子はきっと思いを吐き出せなくなってしまうから。
「どうして自分に価値がないと思うの?」
「だって…」
アドリアンくんはぽつりぽつりと話し始める。
彼はレオくんが王城に帰ってきて以降、自分がレオくんの最側近になるのだと、信じて疑わなかった。両親にも常々そう言われていたし、家柄にも、自分が身につけてきたマナーにも勉強にも絶対の自信があったから。
初めてママ友会に参加した日も、ユリウスくんは滑り台を頭から滑って注意され、リオネルくんはおどおどしていて、ルカスくんは問題児。レオくんの側近ムーブができているのは自分だけだった。
「それを見て母上が嬉しそうにしているのが、僕は何より嬉しかったんです」
強くて立派な父。いつも正しく美しい母。彼は両親の期待に、完璧に応えていた。
けれど風向きが変わり始めた。
ルカスくんが問題児ではなく恐ろしい記憶力と知識量を備えた天才だとわかり、ユリウスくんは人懐こい性格と大きな声で場の雰囲気を明るくし、リオネルくんはその繊細さでみんなを救い国王陛下の前で褒められた。
「それに王太子殿下も…」
アドリアンくんから見たレオくんは、「砂場で夢中になって遊ぶ、王太子にしては精神年齢の幼い男の子」だった。なのに社会見学では小麦ひとつで国民の生活を思い、魔法師団の団長には威厳を示した。そしてレオくんをそばで支えたのは、自分が「守るべきもの」と認識していた自分の妹だった。
「なのに僕だけが何にもできないって…何も得意なものがないってわかって…」
怖くなって家を抜け出し、だけどどこにも行くところがなくて、思いついたのがみんなで来た風車小屋だった。隠れながら一生小麦を食べて暮らそうと思ったらしい。
「ロゼマリアは王太子妃の候補の中でもすば抜けて可愛くて賢いのに、兄の僕がこんなことではだめです。お父様にもお母様にも、家のみんなにも幻滅されてしまいます」
兄バカがすごいのは気になるけど、そんなことを言ってる場合ではない。私は彼を抱きしめながら、茶色の髪をそっと撫でる。ふわふわして柔らかい、子どもの髪の毛。彼がまだ幼い証。
「ねえアドリアンくん、どうやったって他の人にはなれないよ」
「でもそれじゃ、僕は…」
「他の人じゃなくて、もっといいアドリアンくんになればいいの。だって他の誰とも違う、アドリアンくんの良さがあるんだもの」
「僕の良さ?」
「こんなに思い悩むってことは、それだけ頑張ってきたってことだよね。真剣に考えないと、悩まないもん。いっぱい悩んで考えて頑張れるって、すごい才能だと思う」
「僕の、才能…」
「そう。それにみんなのことをすごいなって思うってことは、みんなのいいところに気づいたってこと。それだって、気づけない人は気づけないんだよ」
アドリアンくんの目からは、あとからあとから涙が溢れてくる。
「アドリアンくんにも、得意なことがたくさんあるよ」
私は彼が落ち着くまで背中をさすりながら待って、風車守さんご夫婦にご挨拶して、アドリアンくんとクロに乗った。
クロは行きと違って、背中のアドリアンくんを気遣ってゆっくりと空に舞い上がる。SNSでバズる、子どもに優しい大型犬みたい。
「そう言えばアドリアンくん、昨日の夜から何も食べてないんじゃない?」
「はい」
「じゃあお腹空いてるね!何か食べてから帰ろ!」
「え、でも…早く帰らないと…」
大丈夫。ときにはちょっと寄り道して休んだっていいの。
「何も食べないで倒れちゃったら、それこそ大変だもん!私もお腹空いたし、クロの速さなら寄り道したってすぐ帰れるし」
「でも…」
「もし遅いって怒られたら、私のせいだから!ね?」
「はい…」
クロはUターンして王都に背を向け、風車小屋があるエリアを通り過ぎ、「田舎カフェ」みたいな、テラス席もある雰囲気のいいお店の前に着地してくれた。グルメガイドもできるドラゴン、最高かよ。
座れば全自動で料理が出てくる生活をしているお坊ちゃまが、メニューを見てドキドキしながら「今日のパンとハムサラダのセット」を注文して、ワンプレートのランチやワンセットしかないスプーン&フォークに戸惑っている。
子どもの「初めて」に立ち会える瞬間って、キラキラ輝いてて、震えるくらいに温かくて、嬉しい。
「どうだった?」
「…何だか、今までで一番美味しく感じました」
「そっか、よかった」
そろそろ帰らなくちゃ。待っている人がいるから。
「帰れる?」
「…はい」
クロの背に乗ろうとすると、アドリアンくんはすっと手を差し出してくれた。
「サティ様、お手を」
「ふふ…ありがとう、小さな騎士さん」




