ユーカリでしか救われないコアラもいる
「あかり、先日のテスト結果を見せなさい」
既に22時を回ったリビングで、父は背中越しに私を呼び止める。いつもそうだ。父は滅多に私と目を合わそうとはしない。
「67点……なんだこの体たらくは!!」
「すみません……」
俯く私の頭に、容赦の無い怒りの視線が降り注ぐ。
「分かっているとは思うが、Y大合格以外にお前が生きていく道は無いからな?」
「……はい」
「アイツの様には絶対になるなよ?」
「……はい」
国際的ヴァイオリニストの母と、総合病院総院長の父。二人が私達に期待する物は、計り知れなかった。
そして、七つ離れた姉は重圧に耐えきれず、家を飛び出した。星のよく見える寒い夜のことだった。
家を出る前に父と大喧嘩をした姉は、何も持たず、別れの挨拶すら出来ぬまま去って行った。今では行方も分からない。生きているのかすらも……。
「あかり、この後マッグでもどう?」
「ごめん、この後予備校」
「Y大学だっけ?」
「うん」
「……ぶっちゃけどうなの? 大丈夫? 顔色悪いよ?」
「大丈夫、大丈夫……うん」
「私に出来る事があったら何でも言ってね」
「うん、ありがと……」
友人達の背中を見送り、気持ちを切り換えて予備校へと向かう。
予備校に通う人達は、皆がピリピリとしていて緊張感に満ちていた。そこでの私は、針のむしろの様な気分だった。
「──先日の結果をお渡しします。赤西さん。池田さん……」
「…………」
平均62点。容赦無い死刑宣告。現実とはこうも上手くいかないのかと頭が真っ白に染まってゆく。
特に英語が酷い。日本語ですから危ういのに、外国語なんかとてもカバー出来る範疇を超えている。
「…………」
予備校が終わるも、私はしばらくその場から動けなかった。何とか重い脚を動かしたが、家の方向へ向かう事が出来なかった。
夜の街中。自動販売機の影で嘔吐。最悪が幕を開ける。
ふらふらと当てもなく、ただ風に流されアスファルトに身を擦り続けるビニール袋の様に、彷徨い漂い引きずられてゆく。
工事現場の三角コーンに躓き、盛大に鉄板に顔を打ち付け悶絶。痛みよりも情けなさで涙が止まらなかった。
「どうしたの?」
惨めな私に、チャラそうな女の人が声をかけてきた。頭の悪そうで、まるで男にだらしない服をした女だった。
「いえ」
警戒態勢から逃げるように立ち上がり鼻を押さえながら歩き出す。
「まるで人生の分岐路に立った顔をしているね。行き先は決まっているの?」
「……」
チラリと振り返るも、何も言えずに歩き続けた。
「ウチに来る? ちとむさ苦しいかもしれないけどさ」
「……」
タン、と足が止まった。枝にかかったビニール袋の様に、私は軽い女の人から離れることが出来なかった。
「大丈夫、今日は私一人だから」
腰に手を当て、女の人は私に向かって手を差し伸べた。姿形に似合わず、綺麗な手だった。
その女の人の家は歩いてすぐで、しばし無言で後ろをついて行った。
もう家には帰りたくない。きっと父も、私みたいな出来損ないには帰ってきて欲しくはないだろう。
「どうぞ」
「おじゃまします……」
女の人の部屋はとても清潔感に満ちていた。イメージとは違う、清んだ心の持ち主が住む部屋だ。
「お腹は空いてる? あ、それともシャワーにする? 」
「どうして……」
「えっ、いまごろ?」
女の人は笑った。
「別に他意はないけれど。強いて挙げるなら、あなたがとても困っている様に見えたから、かな?」
「……」
そんなに辛そうに見えたのかな……。
辛いのかな……。
「悩み? ま、とりあえずシャワーをどうぞ。着替えはそれっぽいのを出しておくから好きな物を着て」
「……すみません」
シャワーを借り、用意された服を広げると、どれも露出が多く、袖丈共に短過ぎて着れる気がしなかった。
「サイズは大丈夫?」
扉の向こうから声を掛けられた。
「サイズと言いますか……その……」
「一番下に長袖長ズボンがあるから」
それは男物の服だった。
ブカブカで、裾と袖を三回くらい捲くらないとはけないくらいに。自分を家に呼ぶくらいだから、てっきり一人暮らしかと思っていたけれど……。
「安心して。それね、元カレの。今は一緒に住んでないから」
髪を乾かしていると、その答えを聞くことが出来た。キッチンから流れてくる良い匂いに、ついお腹の虫が鳴いた。
「やたら背が高いクセに小さい部品とか組み立てる仕事してるんだけど、猫背が凄くてね」
「そ、そうなんですか……」
「ズボンは前の前の彼氏の」
「……」
「まあ、彼氏と言うか、友達以上恋人未満……的な?」
「……」
やはりこの人は男にだらしない人らしい。
露出の多い服だから、誘蛾灯みたいに男が寄ってくるけど、離れるのも早い。
「おまたせ。熱いうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
これでもかと言うくらいエビフライが乗っかった、カップうどん。
「近所のスーパーの店員さんに貰ったの。食べ切れないと思っていたから丁度良かったわ」
そう言ってクローゼットを開けると、段ボールが三段積み重なっていた。全て【カップうどん】と書かれている。
「海老フライは近所の釣り好きのオジサンから」
「……」
この人の友好関係はどうなっているんだろうか。
まさか全ての人と淫らな関係にあるのだろうか?
だとしたら、なんと言うか……よく分からないけれど、あまり関わらない方が良さそうな気がしてならない。
「英語は苦手?」
「み、見たんですか!?」
サッと鞄を手元に寄せる。予備校で返された答案用紙が見当たらなかった。
「ごめんごめん、服を洗濯しようと思って。上着のポケットに入れっぱなしだったわよ? こんなにクシャクシャになっちゃって。余程ショックだった?」
シワを伸ばされた答案用紙。たまらずその手から引ったくり、丸めて勢い良く鞄へ投げ込んだ。
「Y大狙ってるの?」
「……あなたに何がわかるんです」
カチンと来てしまい、声を上げてしまった。
「親から期待されて、でもその期待に何一つ応えられなくて、もう逃げたいのに逃げ場なんか無くて……!!」
「ほほぅ」
「な、何がおかしいんです!!!!」
まるで馬鹿にしたかの様な雑な笑いに、今まで堪えてきた怒りが爆発した。親ならまだしも、何も知らない、会ったばかりのだらしない女に、自分の何が分かるのかと。ふざけるのも大概にして欲しい。
「わたし、Y大出身」
「──え?」
「ほら」
指さされた先に、Y大のキャンバスで撮られた記念写真が。今と変わらず酷い服を着た女の人と、金髪の男の人が五人。
「全員元カレ」
「──!?」
「英語ペラペーラ。本場の英国人にも彼氏が居たから。ネイティブからネガティブまでなんでもござれよ
?」
「……う、うそ」
「因みに主席卒」
「……こ、こんな男にだらしない人が……!?」
「あ、そんな風に見えてたの? ちょっとショック」
「す、すみません……」
「ま、仕方ないわ。当時から『ビッチ姉さん』呼ばわりだったもの」
「その通りだと思います」
「な、なにー!?」
ビッチなお姉さんの反応に、思わず笑いが飛び出した。先程までの怒りは何処へやら。
私はすぐにビッチなお姉さんに頭を下げた。
「すみませんでした。帰って両親に謝ります」
「あら。だったら私も行くわ」
「え?」
「ささ、冷めないうちに食べちゃいましょ」
「……は、はぁ」
ビッチなお姉さんと二人。恐る恐る扉を開けた先、怒り心頭な両親が慌ただしくやって来ては二人同時に話し始めた。
「こんな時間まで何をやっていたんだ!!」
「心配したのよ!? 帰ってこないって言うから!! 次のコンサートの打ち合わせキャンセルしてまで待ってたのよ!?」
「そ、その……あの……」
「まあまあ、二人ともそのくらいで」
私の肩に手を当てながら、ビッチなお姉さんが話に割ってくれた。
「あ、あなたは?」
「ただのお節介なビッチです」
「「?」」
「私は御両親と大人の話し合いをするから、あなたは荷物を置いてしばらく部屋でリラックスして音楽を聴いていて? 絶対に聞き耳を立てちゃダメよ?」
「……?」
よく分からなかったけれど、とりあえず大人しく言う通りにした。
部屋に戻り、お気に入りの新曲をスマホから流した。
勉強も、将来も、よく分からない何かも、全てからそっぽを向く様に、ベッドの中に閉じこもって音楽を流し続けた。
──コンコンコン。
「まだ起きているかしら?」
「……」
どれくらい経ったのか、気が付いたら寝てしまっていた私は、すぐに部屋の扉を開けた。
「おまたせ♪」
「……え?」
ビッチなお姉さんは何故か胸元が開いていて、ブラを指に引っ掛けクルクルを回していた。
「あなたの御両親、素敵な音色で鳴くじゃない? ストラディバリウスより素敵だったわよ?」
「えっ? えっ?」
「ああ、まだ行っちゃダメよ? しばらく動けないと思うから」
「両親にな、何を──!?」
「ちょーっと、ね? ま、でも解決したわ。明日から私があなたに勉強を教えるわ。家庭教師ってやつ?」
「え゛っ?」
「何その顔は。ひっどーい。主席卒に向かってそんな顔したー」
「いや、これは、その……」
「だって効果あんまり無かったんでしょ? 予備校」
「…………」
それから、私はビッチ姉さんに勉強を教えて貰う事になった。
あれだけうるさかった両親が何故か大人しくなり、ビッチ姉さんが来ると歓迎して遅くまで家に居てくれる様になった。
「うん、いい感じ」
「ありがとうございます」
成績はすぐに上がった。
ビッチ姉さんの教え方が上手いからだろう。流石は主席卒だ。
本当の天才とは、こういう人の事を言うのかもしれない。
「大丈夫。自分を信じて行ってらっしゃい♪」
「あかり、ファイト」
「お前は良くやったよ。落ちても父さんは怒らないぞ」
受験当日、私は三人に見送られ、家を出た。
親から行けと言われたY大だし、何かやりたい事があるわけでもないけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「さて、受かったら彼氏五人くらい作って遊び倒しますかねぇ」
会場へ向かう私の脚はとても軽かった。




